第3話 やさしい眼差し
「も、やだ……」
ここ数日、ほとんど声を出さなかった喉は声の上手な発し方を忘れかけていた。
ただただ辛くて不幸をさめざめと嘆くわたし。またあの終わりたい願望が頭をもたげ始める。その時だった。突然、脳裏にパッと光景が飛び込んでくる。
(何?)
たくさんの人が慌ただしく駆けていた。兵士、侍女……これはお城だ。しかも多分、ここだ。深いブラウンの衣服にはとても見覚えがある。
景色は城内の廊下らしき場所からどこかの門に変わる。隊列を組んだ兵士達が鬼気迫る様子で門の外へ勇み出る。その上空を飛竜に乗った人達が飛んで行く。中心にいる人間が見えた。
あれは……あれは、ローダー皇子!
(なに、これ。何これ。勝手に頭に映像が流れ込んでくる! こわい!)
意識が映像に勝手に釘付けになって、他の事は何も分からなくなる。今自分が目を開いているのか閉じているのかさえ分からなかった。
一方的に流れていく映像はやがて、ただの廊下を映す。等間隔に並んだ窓から緋色の絨毯に差し込む柔い陽の光。窓の反対側には一つの豪奢な扉が在るだけ。誰もいない、静寂の空間。
でもそこに一つの人影が現れた。これも見覚えがある。あの日、わたしを囲んでいた人達。
皇帝でも皇子でも側近でも、兵士でもなかった人達。
その人は扉に何かを差し入れ、回した。そして急いだ様子で廊下の奥に去って行く。
それを最後に光景は潰えた。
我に返ったわたしの周囲を、青い煌めきが溶けるように消えていった。
「……」
これはただの感だ。根拠のない、外れたら折檻に繋がるかもしれない仮定。だけどずっと失意の底で沈んでいたわたしに急速に活力をみなぎらせた。
そろりと絨毯に足を下ろす。音を立てないように忍び足で扉に近付いて、耳をそばだてる。
『……だと!?』
くぐもった音ながら男の人の驚く声が聞こえた。二人いる。二人はしばらく何事かを言い合っていたけれど、声が止んだかと思えばやけに長い静寂が訪れた。
とても、静かだった。
それでもまだ外に意識を傾け続けるわたしの耳が、確かに払う。
<ガチャン>。
まるで、まるで……。
(鍵が、開いたような)
震える手でそっと扉を押す。緊張でもう口から何か飛び出しそうだった。
(動いた……)
音もなく扉が小さな隙間を生み出す。そこから外の匂いが流れ込んで来た。
緋色の絨毯が見える。どんどん見える範囲が広がっていく。でも、何にも邪魔されない。わたしを叱りつける人は、いない。
(開いた……)
呆然と廊下に足を踏み出す。どこを見ても誰もいなかった。
(誰も……いない! 逃げるなら、きっと今しかない! 頑張れ、頑張れわたし……!!)
もう深く考える余裕なんてなくて。赤い靴を室内に投げ入れて扉を閉める。咄嗟に向かったのはさっきの映像で扉を開けた人が去って行った方向。絨毯のおかげで足音が立つことはなくて、足早に、でも慎重に進んだ。
窓の下に駆けて行く兵隊が見えた。その上をたくさんの影が走り抜ける。翼を開いたような影。
今はどうでも良い。
わたしは一生懸命先気を配って、全く人気のない廊下を進む。螺旋階段を駆け降りて一番下の階にあった扉の隣、窓に張り付いて外をうかがった。
人影はない。
扉に飛び付いて外にまろび出た。でもそこで一声が聞こえて、慌てて造園の陰に隠れる。
「またなの…!? でも、今回のは規模が大きいって」
「ええ、殿下も出陣なされたそうよ。城下にたまたま<勇壮なる剣>が滞在してたらしくて、共同戦線を張って討伐ですって」
「あの野蛮な異国民と……? 我が国の誇る飛竜隊がいれば必要ないでしょう」
「民の安全の為には念を入れるんですって。殿下の案だそうよ」
「まぁ、流石は殿下ね。本当に素晴らしい方でいらっしゃるわ」
あの皇子が素晴らしい……?
意を唱えたくなったけど、わたしは黙って二人が去るのを待つ。その間に塀の外へ出られそうな場所を必死に探っていた。
やがて二人はいなくなって、でも未だ出口を見つけられないでいる。
(どうしよう、こんなこと、するべきじゃなかった? でも、今さら戻れないよ。もう逃げるしかないんだ)
焦りから後悔が顔を覗かせ始めた。それでも止まるべきじゃないと思ったから茂みの裏側を慎重に這いつくばって行く。ひらひらの裾が本当に邪魔だった。
部屋で脱いでくれば良かったと思うけど、そうしている間に誰か来てしまったかもしれないとも思う。
「こちらへ」
「!!」
また涙が滲みかけたわたしにひそやかな声が届く。弾かれるように見たら、わたしみたいに造園に隠れている、あの鍵を開けたのと同じ格好の女の子がいた。
「お早く! ついて来てください」
急かされて慌てて女の子のもとへ行く。すると彼女は迷いのない足取りで物陰を先導して、庭から水路の通る舗装された道に出た。
周りに誰もいないのを確認すると狭い建物と建物の間に滑り込み、フッと視界が暗くなる。
前方には荷が積み上がっていた。
「ここを上ったら城外へ出られます。そのドレスはここで脱いで、こちらを着てください」
「あ、あの」
「お急ぎください! 何としても<エステレア>へ……皇子に庇護していただくのです!」
慌てて彼女に従いながら頭のクエスチョンを一つでも解決しようと問い掛ける。だって、ここに来てようやく話が通じそうだったから。
「どうして助けてくれるの? あなたは逃げないの?」
「私が逃げれば他の者が責任を問われます。このような事になって本当に申し訳ございません。よろしいですか、エステレアの皇子殿下のもとを目指すのです」
「な、何で……」
「きっと貴女を探しておられる!」
装飾は全部外し、みすぼらしいワンピースに着替えたわたしの背を女の子はぐいぐい押してくる。その様子があまりに必死だったのでそれ以上訊く勇気は出なくて、積荷を上り塀に足を掛けた。
振り返ると、彼女がわたしに微笑んでいる。
「ありがとう…!!」
胸が熱くなって声が震えてしまった。でも女の子は優しい表情をいっそう深めて、わたしに城を出て行く勇気をくれた。
「貴女に星の煌めきが訪れますように」
そう言った彼女は、とても、とても澄んだ存在に見えた。その身の周りを青い煌めきが包んでいる。
塀は少し高くて、こわかった。でも彼女がきっと危険を冒して開いてくれた道だから、進みたい。
お城を出たって意味があるのか分からないけれど。それでもここにはいたくない。
気付いたら連れて来られていたお城。わたしの声なんて一つも聞いてくれなかった怖い場所から、ようやくわたしは抜け出した。