第2話 こわい眼差し
「そろそろ心は決まったか」
天蓋付きの大きなベッドに伏せるわたしの上から、大嫌いな声が降って来た。
わたしは答えずに、クッションを抱き締めて顔を押し付け続ける。
「何をそうも不貞腐れておるのだ。流行りのドレス、希少な宝石、姫君と同等の部屋。他国から取り寄せたあらゆる嗜好品。全て女の欲しがる物であろう」
「……」
「何よりこの大エレヅの力となれる名誉を与えてやったのだぞ。これ以上の褒美があるか」
綺麗な監獄に三人だけの侍女と閉じ込められて、着替えを拒めば厳しい顔付きの人に頬を打たれて、服は取り上げられて。望みもしない装飾品や嗜好品を一方的に与えられて。
望みもしない役割を与えられて。
何に、感謝すれば良いのだろう。
柔らかなクッションをひっそりと濡らして嗚咽を飲み込むわたしに、男は、心底理解していない様子で好きな事を言っている。
「せっかく着飾ってやったのだ。顔くらい見せぬか」
無骨な手が腕を掴んでくる。嫌で嫌で仕方なかったけれど、振り払う勇気はなくて強引に身を持ち上げられた。
せめてもの抵抗として視線は落としたままにする。すると顎を掴まれて無理に男の顔の方を向かされた。そうしてわたしの尊厳はまた一つ、崩される。
「ほお、なかなか見違えたではないか。お前達、褒めて遣わすぞ」
「恐れ入ります」
侍女達に視線を流し、機嫌良さげに褒める男。侍女はかしこまった様子で微動だにせず控えていた。
わたしに目を戻した男が再び不躾な観察を続ける。どこか粘ついた眼差しが不快で、こっそり唇を噛んだ。
しばらく無言で人の顎を良いように扱っていた男だったけれど、ふと、何かに気付いたような表情で目を細める。
その反応にわたしはまた、胸が酷く騒めいた。
「そなた……ワーキュリーの面影が……」
ぽつりと呟かれた誰かの名前。侍女達が揺らいだ気配がする。冷えていた瞳の奥から、じわじわと熱が湧いてくるのを見た。
(え……)
熱に浮かされていく顔がわたしに寄る。
不味いって、咄嗟に思った。
「嫌ーー!!」
思わず男を突き飛ばす。無我夢中でシーツに潜り込み、捲られないよう握り締める。
心臓が破裂するんじゃないかってくらいに脈打って身体が震えた。
出て行って。お願いだから出て行って。
何度も何度もお祈りするわたしに掛けられたのは、初めて熱を持った声だった。
「もうしばらく待ってやろう。好きに過ごすが良い。だが私をどれ程拒もうと、そなたは私のものだ。その小さく頼りない胸に刻み付けておけ」
「………」
返事をしないまま耐えていると、扉の開閉音が聞こえた。
あいつが出て行ったんだ。
そう思った途端にまた涙が溢れて、頭がどんどん痛くなる。
窓には全て柵が掛かっている。扉の向こうには見張りの兵士がいる。文字通りここは、監獄だ。
泣いても叫んでも、誰も、助けてくれない。
助けは、来ない。
閉じ込められて何日が経ったのだろう。
皇帝はあの出来事以来、部屋を訪ねて来ることはなく。かといってわたしを取り巻く環境が変わるでもなく、わたしと三人の侍女だけの世界で毎日着せ替え人形のように扱われ、ただ息をして過ごしていた。
ここはどこで、どうしてここにいるのか。
する事のない身体をベッドに横たえ、ぼんやり考える日々。
皇帝はわたしを<異界の娘>と呼んでいた。異界は違う世界のこと。つまりこの言葉が真実なら、わたしは別の世界へ来たことになる。
でもそんなの信じられるはずもなくて、これがドッキリで、今にもあの固く閉じられた扉の向こうから<ドッキリ成功>なんて書かれた看板を持った人達が入って来るんじゃないかって、期待しては絶望して。
侍女達のどう見ても染色じゃなくて頭皮から生えている、あり得ない色の髪にまた混乱して絶望して。
(帰りたい……)
安心出来る家へ。わたしのベッドへ。
もう両親はいないけど。気配だけを遺していなくなってしまったけれど。
『エイコ』
記憶の中の優しい声がわたしを呼んでくれる。眠っても会えるけど、起きたら現実を思い出して息が出来なくなるから眠るのは嫌だった。
今日もクッションを抱き締めて声を抑える。極力眠らないよう気を張り続けた身体はしつこく睡魔を訴えていた。重い目蓋に思う。どうせ眠ってしまうなら、もう、目覚めなくて良い。
あの幸福の中に帰りたい。そこで永遠に夢を見続けていたい。
でも現実は非常で、閉じ掛けた目蓋は荒々しい怒声に一気に引き上げられる。
「いい加減にしないか! いつまで甘えているのだ! 私は父上のようには待てぬぞ。そなたは一刻も早く詠い、このエレヅを頂に導く使命を果たすべきだ!!」
(い、いつ入って来たの…!?)
あの日と変わらぬ厳しい面持ちで、男は急き立てる。腰に差した剣がわたしに差し向けられるんじゃないかって心臓が飛び跳ねた。
「立て!」
「きゃあ!」
男の腕がわたしの腰を抱いて無理矢理に床に立たされる。彼の髪と衣装。わたしを彩るお揃いの赤がすごく嫌だった。
「ローダー殿下!」
侍女の慌てた声が遠くなる。視界が暗くなって、前後が分からなくなって身体中の力が抜けた。そのまま倒れてしまいたいのに許されず、意識が戻って来た時には腰だけでなく肩も支えられていた。
「お、おい……どうした」
「殿下。恐れながら星詠みさまは伏せてばかりどころか、お食事さえほとんど召し上がっていないのです」
「何だと。何故だ……死んでしまうぞ。聞いているのか、エイコ」
皇子がゆっくりとわたしをベッドに座らせる。怒鳴ってばかりだった皇子の見せた気遣いに驚いて、つい無防備に彼を見上げてしまった。
通った視線から彼がわたしをあまりに真っ直ぐに見ていたんだって知る。緊張と急な動きでバクバク鳴る心臓を押さえたら、皇子は少しだけ狼狽えた。
「何だ。胸が痛むのか?」
「……」
「治療士を呼んで来い。それと毛布も。そなた、食事を摂らぬせいだ。随分と冷えている」
自分で起こした癖に、また寝かそうとするから腹立たしくて身を捩りささやかな拒絶を示す。それでも皇子は諦めずにわたしを横たわらせた。
侍女が一人部屋を出て行った。わたしはどうやってもあの扉を越えられないのに、みんなは自由に行き来していていっそうみじめになる。
皇子がわたしの顔を覗き込んできた。
「酷い顔色だな…」
(あんた達の所為でしょ)
心の中で悪態を吐いても実際に音には出来なくて。それが情けなくて目が潤む。そんなわたしの頬に掛かった髪を皇子は払った。逆光で暗くなった緑色の目がジッとこちらを見ている。
ふいにその眼差しがあの皇帝に似てきていると気付いてしまった。
また、熱が生まれ始めている。わたしは得体の知れない熱が怖くて、気持ち悪くて、でも皇子はお構いなしに凝視し続けた。
それから溢れた単語に一瞬だけ息が止まる。
「……母上ーー」
理解した。わたし、皇帝の奥さまに似ているんだ。
だからこんな目で見られるんだ。
伸びてきた手から必死に背を向けた。だって違うもの。こんなに大きな子供もいない。そもそも歳上に見えるし……。
幸いそれ以上は何もされず、治療士とやらの診察も終わった。治療士が手を翳すと魔法みたいな不思議な光がわたしを包んで、体調が良くなった。
でも気分は良くならない。やっぱり悲しいままでわたしは黙ってクッションに抱き付いた。
でも少しだけ良い事があった。そんなわたしを見てか、なんと皇子が侍女達を連れて引き上げて行った。初めて一人きりになれた静かな部屋で、ようやくわたしは、自分が深い息を吐いたことに気付いた。