婚約破棄を提案したご令嬢の妄想の暴走
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大好きな物語の世界は砂糖がまぶしてあるみたいに甘く、胸がキュンキュンとするのです。
宝石を散りばめた美しいドレスに、香り高い舶来物の紅茶、見目麗しくスマートな貴族の令息達。
どれもわたくしの現実世界に当たり前に存在し、また、物語の世界においては必要不可欠なもの。
現実世界のお砂糖成分を3割増し、ないしは4割増しくらいにした物語が今、貴族にも平民にも、世の女性達に広く支持され、大人気となっているのです。
わたくしもそんなキュンキュンする物語に憧れる女性の1人……。
「……あなた……は……?」
「倒れた時に頭でも打ったのか? 2年も前から君の婚約者だろう?」
わたくしは気を失っていたのでしょうか。
身体は重く、すぐには動きそうにありません。
ひとまず視線を動かし、周囲の様子をうかがってみます。
どうやら、そこそこ良いお家のご令嬢のようです。
繊細に編まれた透け感あるレースが、窓から差し込む日の光を優しく柔らかいものにしてくれています。
乙女チックな天涯付きベットに横たわっているわたくし。
力の抜けたわたくしの手を、見知らぬ殿方が大きな手で優しく包むように、時折やわやわ撫でるようにして握っておいでです。
わたくしというこのご令嬢には、婚約者の殿方が最初から備わっているようです。
ホッといたしました。
家格の釣り合う、条件の良い、見目の良いお相手を探すところからのスタートだと、慣れぬ世界での心配事はきっと多いことでしょう。
好物件の多くは既に売約済みでは?と不安に感じる必要は全く無いのです。
心配そうな表情を浮かべる目の前の殿方はわたくし好みのイケてる面ズ、喜ばしい限りです。
……あ。……ら?
気になることはさっさと訊いてしまった方がきっとスッキリするというもの。
わたくしは婚約者の殿方に、不思議に思ったことを早速尋ねることに。
「え、口紅? 俺の唇が紅い? えぇ……それは、あぁ……まぁ、なんだろな? うん……」
たらしでした。
歯切れの悪い、たらしでした。
みたらし団子並のたらしでした。
団子のタレがついたのかなぁ?とかなんとか、適当に上手いこと言って誤魔化せばよいものを。
そう言えば、平民街に美人女将が営むという旨いみたらし団子屋があったように思うのですが、これは一体いつの情報なのかしら。
わたくしは一体誰なのかしら。
それにしても、婚約者のわたくしを目の前にして、ほぼ浮気な状況を否定しないとは、神経の太い殿方、質が悪いですわね。さてはこの男、当家のメイドに手を出しやがりましたわね。メイドもメイド、紅子(仮名)め、人の男を寝とりやがって。
軽薄な、上半身にも下半身にも品の無い男性はこちらから願い下げです。
「え? 婚約破棄? ……そうだなぁ、じゃあ、今週末に一緒に行く予定の夜会があるだろう? その公爵家の夜会で婚約破棄をしよう。余興みたいで、皆笑ってくれてハッピー、みたいな?」
2年間も婚約状態だったにも関わらず、この適当っぷり。だったらさっきも適当に誤魔化せっちゅーねん、ですのねん。家同士の約束を一体何だと思っていらっしゃるのやら。彼の頭はちゃらんぽらんのすっからかんなのかしら。ふっくら且つ炊きたての美味しいご飯と揚げたての海老、もしくは、ちゃんぽんかモランボンのキムチでもぎっしり詰めて差し上げようかしら。
まぁ、婚約破棄の提案をしたのはわたくしからですけれども。
「じゃ、明明後日にまた迎えに来るよ、愛しい人」
握られた手をすくい上げられ、流し素麺のような淀みない動作で甲に唇を落とされました。
拭ってもよろしゅうございます?
壁に擦り付けてもよろしくて?
ぞわぞわと、鳥肌が立ちましたもので。
しかも「迎えに来る」って何故?
わたくしなら現地集合でよろしいですのに。
お決まりのケースでは、1人とぼとぼと肩身の狭い思いで入場したわたくしが、元平民成り上がり男爵令嬢に腕を絡ませた状態の婚約者から、嫌味たっぷりに婚約破棄を告げられる……。
わたくしはどうにか弱々しく微笑みながら婚約破棄を受け入れて、会場内にいる別の若いイケてるMENズに跪かれ告られる……。
自分の理想とする物語はいつ始まるのでしょうか?
土台となる基礎工事をきっちりせねば耐震強度不足で物語が崩壊しまうのだと理解は出来るのですが、道のりがあまりに遠いと心がポキリ折れてしまいそう。ヒールがポキッと折れそうで怖いのです。いえいえ、体重増加のせいではなく、イボと呼ばれる出来物が足の親指の関節すぐ下に。痛みで体重の乗せ方がいつもと違うのです。
ガラガラガラガラ。
何かが崩れた? いえいえ、心のヒールが折れたのです。ポキリ、とは折れず、ヒールは粉砕されてしまったようです。ガラガラガラガラ、パラパラパラパラ。
妄想世界への逃避が思いのほか長かったようで、いつの間にやら日数が経過し、いざ、決戦の時。
「キャロライン、迎えに来たよ」
「有り難うございます。では、行って参ります」
見送ってくれた邸の者達に挨拶し、わたくしは婚約者と共に、公爵家の夜会に出掛けたのでした。
今更ですが、わたくしの名前はキャロラインというのですね。
邸の者達はお嬢様と言うばかりで、両親はここ1ヶ月ほど領地に戻っていて不在でしたもので、初耳でした。
そして、今日でおさらばとなる婚約者の殿方はデシャル様とおっしゃるそうです。
麻呂はデシャルでおじゃる、とおっしゃる声を聞いたような聞かなかったような……ただのわたくしの妄想かしら。
キラキラしたステンドグラスにシャンデリア、初っ端から片仮名だらけの文字の羅列に目がチカチカしてしまいます。カチカチ山にでも逃げ込みたい気分です。
安定した領地収入と希少鉱物の産出及び加工で資金面ではかなり余裕があるとされる公爵家主催の夜会。
豪奢で眩しい空間へと案内されました。
きらびやかな衣装を身に纏まとった男女の視覚的攻撃力がえげつなく高いように思います。
特に、色とりどりのドレスに身を包んだご令嬢とご婦人方の、人3人分はありそうな衣装のボリューム、けばけば化粧で化けに化けたくっきりはっきり顔に、バシバシ睫毛により力が何倍にも増した目力、宝石を使ったアクセサリー、盛りに盛った高く聳える山々とその間の深い谷。
どの皆さまもお上品に微笑んでいらっしゃるけれど……その微笑みで細めた目の奥に忍ぶ、キラリと光る何かが怖い……。
「キャロライン、まずは公爵家のご夫妻に挨拶に行こう」
腕をすっと前に出され、流し素麺のような自然な動作でスマートにエスコートされます。
「この度は素敵な夜会にお招きくださり有り難うございます」
婚約者の側で半歩下がって、そっと静かにカーテシー。
さて、余興はいつから始めるのでしょうか?
ばっちり2人揃って主催者様にご挨拶してしまいましたけれど、本当にこれでよろしかったのかしら。
「え、婚約破棄? うぅーん、今日は雰囲気的に難しそうだよね」
え、しないんですの? 婚約破棄。
ヒロインはいずこ? 待たせているのでは?
「そりよりもさぁ、ほら、あそこのテーブル。キャロが好きそうなケーキが並んでいるよ」
名前が短縮されました。
ピ、ポ、パ、プルルルル、プルルルル……。
わたくしの愛称はきっとキャロというのでしょう。
婚約者は手に取ったプレート皿に、淡い橙色の人参ケーキを乗せました。
フォークでグサり。
「はい、あーん」
いえいえ、良家のお貴族様が「あーん」とかしては駄目でしょう。
丁重にお断りさせていただきますとも。
自分で食べられますもので。
「ふふ、可愛いお口にクリームが付いているよ」
婚約者の親指がわたくしの唇の端に触れました。
ピリリッ、
……これは、静電気?
「どうしたの、キャロ? 真ん丸の可愛い目がこぼれ落ちそうだよ?」
こぼれ落ちはしませんが、まぁそりゃあ、驚きますとも。睫毛が抜け落ちそうなくらいには。誠に残念ながらぽろりするほどのお胸はわたくしにはありませんけれど。
わたくしの唇の端に触れた婚約者の親指が、婚約者の唇に近付いていきます。
瞬きも忘れ、わたくしはその様子をただただ見詰めておりました。
閉じていた唇の間から唾液に濡れて光る舌をちろりと覗かせ、ご自分の親指を舌先でぺろっとなさったのでした。
「キャロは……とても甘いね」
親指、そして紅色の舌から目が離せずにいたわたくしは、婚約者の声にはっとして視線を上げました。
わたくしを愛でるように細められた優しい目。
「……少し、風にでもあたろうか。きっとお互い、顔が真っ赤だから」
そんなこんなで、北西からの強風が吹き荒ぶ2階バルコニーへと移動したわたくしと婚約者。
「婚約破棄は?」
ズバッとスパッと質問を。
「まだ……キスしたことを怒っているのかい? 怒った顔も可愛いけれど」
婚約者は苦笑いしつつも甘い表情を浮かべるという、かなり高難度な技を繰り出しました。
さすがは顔面偏差値の高いイケてる面ズ、そんな表情も様になります。
長い睫毛が近付いて来ますもので、わたくしは何本生えているか数えてみようかしらという考え事を始めました。
「あぁ、またキャロから紅が移ってしまうかな?」
触れ合う唇。
胸がきゅんっと音を立て、ドクドクドクドク、心臓の動きが強心剤を打ったかのように活性化しています。
しばらくして婚約者の顔が離れてしまい、胸がきゅんっと縮まるように震えました。
わたくしを見詰める優しい目の婚約者と、その瞳に映るのぼせ顔のわたくし。
睫毛はほんの三本を数えただけで、それ以降は心臓の音がうるさ過ぎて数えることも叶わず……。
良い雰囲気だというのに、北西からの強風が容赦無くわたくしと婚約者を襲います。
お蔭様でほんの少しだけ頭が冷えて、物落ち着いて物事を考えられるようになりました。風に感謝を。
……さて、紅とはなんぞや。
紅ほっぺ、紅いもタルト、紅子、紅ズワイガニ、口……紅……?
数日前の出来事を思い出します。
みたらし団子のタレでも何でもなく、あれは……わたくしの……。
ほっぺは真っ赤に染まり、足元から全身、ふわふわして夢心地となっております。
目が回る……くるくるくるくる、いつもより沢山回っております。くるくるくるくる。
「キャロ。君が恋愛に憧れを持っていることは知っているよ? でも、君にも俺にも、婚約破棄なんて必要ないんだ。こんなにも……俺が君を愛しているのだから。婚約破棄はしてあげられないけれど、物語の中の、こっ恥ずかしくて蕁麻疹が出そうな愛の言葉が欲しいなら、俺が君に囁くから」
婚約破棄の物語は、どうやらここでおしまいのようです。
「あの時……目が覚めた時、デシャル様がわたくしのメイドと浮気をなさったのだと思ったの。てっきり誰かとキスをしたのだと」
デシャル様はわたくしの頬に手を添え、わたくしの唇を親指でゆっくりとなぞるのです。
「俺とメイドが? まさか! 君の柔らかで甘い唇を堪能していたんだ。すまない、君を不安にさせてしまった……。駄目だとは思ったけれど、意識の無い君に吸い寄せられるように口付けて、あの時は……何だか後ろめたいことをした気分になってしまったから」
後ろめたいことをした気分……事実なさったのでしょうに、わたくしに……唇に……。
「デシャル様は殿方ですのにお美しいから、口紅も似合いますわね」
「それなら、今度はキャロがつけてくれるかい?」
恥ずかしいのを誤魔化すための、嫌味を込めたわたくしからの仕返しの言葉に、何故かデシャル様は嬉しそうなご様子です。
ご褒美を待つ忠犬のように、尻尾がふさふさ揺れている幻覚……。
これは、しなければ、なりませんの?
わたくしが? わたくしから??
は!! もうスタンバってる!!!
デシャル様は目を閉じて、顔の高さをわたくしに合わせてくださっておいでです。
しかも片手を壁について、これは壁ドン!?
キス待ち顔も……イケてる面ズ……。
婚約破棄の物語の実現は無理でしたけれど、お砂糖をふんだんに使った、甘い甘い恋物語を、わたくしとデシャル様の二人で綴っていきたいと存じます。