婚約破棄に失敗する伯爵令息というキャラを真面目に考えてみる話。
ほんの数時間前まで人生の絶頂期にいたはずの伯爵令息、ウィリアムは立ち竦み、呆然とただ、大粒の雨を運ぶ黒々とした空を見上げるばかりであった。
侯爵令嬢アンナマリーとの婚約を破棄し、侯爵家の近縁にあたる美しい男爵家の娘、ヨラナを妻に迎えて侯爵家をウィリアムが継ぐ、といった計画はそもそもの土台からして間違っていた。
ウィリアムは知らなかったのだ。
格上の侯爵家にはだが、爵位を継げる男子がいなかった。だから侯爵最愛の一粒種、アンナマリー嬢は夫迎えることで、入り婿となるウィリアムに侯爵家を継がせる算段なのだと聞かされていた。
なるほどそれならば、ようは侯爵家を存続出来ればよいのだから、優秀なウィリアムを迎え入れる方法が別にあってもいい。そう考えてウィリアムはアンナマリーではなくヨラナを選んだのだが、とんでもない悪手だった。
まさかアンナマリーが女侯爵として爵位を継ぎ、自分はただの配偶者として彼女を支えるだけの役回りだったなどとは、つゆにも考えなかった。この国の貴族は右も左も男性ばかりが爵位を持っていたから、必ず男が継ぐものだと信じ切っていたのだ。
意気揚々と『学園』の卒業パーティの大広間で婚約破棄などという盛大な茶番劇を披露した結果、泣き崩れるアンナマリーの傍らで、彼女の父親である侯爵閣下はカンカンに腹を立て、最後にはパーティを取り仕切る王家のものに力づくで会場を追い出され、王城裏の門扉の前で、ぽつぽつと降り出した大粒の雨に打たれるがままとなった。
ウィリアムは知らなかったのだ。
病弱なアンナマリーを侯爵は心の底から愛していた。幼いころから何度も倒れ、いつ死ぬとも分からない娘であるに関わらず、本気で彼女に家を継がせようとまで考えていたのだ。
なんだその気持ちの悪い愛情は!
ウィリアムはそんな深い情を持った父娘関係など想像もつかなかった。冷淡で残酷な血縁関係が多い貴族社会の中に於いて、侯爵がそこまで実の娘を溺愛しているなどとどうしてウィリアムに想像が出来ようか。
そもそも男爵令嬢のヨラナだって、侯爵家を継ぐには十分な血筋を持っている。彼女の父は現侯爵の兄なのだ。この兄があまり出来が良くなかったため、先代となる前侯爵は二人の息子のうちの弟に爵位を継がせ、兄は余っていた田舎の男爵位を押し付けられた経緯があったそうである。
ヨラナはそんな男爵の娘であったから、家格はともかく血筋としてはアンナマリーに伍するに十分である。
病弱なアンナマリーは子を残せぬ可能性も高かったから、例えばウィリアムを養子として迎え入れ、ヨラナと番わせる事で侯爵家の血を継いでゆく選択は大いにあり得るとウィリアムは考えていたのだ。
侯爵も当然その程度の計算は出来るものと考えていたのだが、そもそもこれが大いに間違っていたと気付かされたのがつい先ほどの事だった。
いや、正直今でも根っこの部分についてはウィリアムにはよく分からない。
齢18のウィリアムはこれまで、親子の情というものをまともに味わったことなど一度もないのだから。
ウィリアムの周りにはろくな大人がいなかった。狡く立ち回って小金を稼ぐことに熱心なしみったれた伯爵の父親。見た目だけは美しい格下の子爵令嬢が伯爵家に嫁いできて、劣等感を拗らせ、事あるごとに高圧的にふるまいたがる小心者の母親。
そんな両親にいいように操られ、逆らうことも出来ずに従うばかりの愚かな兄。
唯一信頼できたのは頭のよい乳母のマーサであったが、両親は何を思ったかこのマーサに理由をつけて暇に出してしまった。先代から仕えるマーサは少しばかり伯爵家に批判的なところはあったものの、追い出すほどの問題があったとは到底思えない。以来ウィリアムはそんな家族全員の事が大っ嫌いになった。
こんな家からはいつか逃げ出してやろうと幼いころから決心していたウィリアムは、10かそこらの幼少のみぎり、たまたまお茶会で出会った侯爵家の一人娘アンナマリーと知古を得て、取り入るように彼女との仲を深めてゆくうちに侯爵家から婚約の打診を受けた。
最愛の妻を亡くし一人娘しかいない侯爵が家を残すために探していた入婿の地位を、ウィリアムは勝ち取ったのだ。
人生に勝ったと確信した瞬間であった。
けれどもアンナマリーという女はつまらない人物だった。儚げといえば聞こえがいいが、病弱でいつも臥せっているような女であった。抜けるような白い肌などと褒めそやされているその実体は身体が弱いだけだった。
ウィリアムがどんな話をしても顔を真っ赤にして俯くだけで、ときおり見上げる上目遣いの目線はウィリアムが目を合わせるだけですぐに伏目となる。
そして終始無言。
懸命にこくこくと首を縦に振る動作をすることはあっても、それ以外の動きを見たことがない。
「僕の話はつまらなくはありませんか? 楽しんでいただけていますか?」
そんな質問に対し、彼女はこくこく。でもそれだけ。月に二度三度と何年も顔を合わせてきているのに、いつまでたってもそんな感じ。
だからウィリアムは、どうしてもこの弱々しい女を好きになることが出来なかった。
それでもウィリアムは彼女の前では紳士であることを徹底的に心掛けた。
アンナマリーが自分に特別な感情を持ってくれている事、それだけがウィリアムの将来を約束してくれる唯一の細い糸であるという強い危機感がウィリアムにはあった。
ウィリアムは自分の容姿が特別に端麗である事をよく自覚している。見てくれだけは立派な母親の血を色濃く継いだウィリアムは、幼いうちは自分がとても美しい少女と見まごうほどの美貌であることをよく理解していたし、大人になるにつれ素晴らしい美男子へと成長していく様子を鏡で確認するたびに笑いが止まらなかった。
というのも、アンナマリーがウィリアムのこの顔をいたく気に入っている様子であることがよく分かっていたからである。彼女はウィリアムの何たるかを知ろうとする素振りもなく、ただ美しいものをそばに侍らせているだけで幸せを享受している、ウィリアムにはそんなふうに思えてならなかった。
だが、ウィリアムが自らの容姿を駆使して彼女の気を引き続けている間は、自分の未来は安泰なのだ。それはとても腹立たしい行為ではあったが、ウィリアムが侯爵家に取り入るためには必要な作業でもあった。だからウィリアムはこれをゲームだと考えて楽しみを見いだすくらいしか出来ることがなかったのだ。
アンナマリーという侯爵令嬢を虜にするための恋愛ゲーム。馬鹿げた遊びではあるが、奇妙な達成感もあり、ウィリアムはこの後ろ向きで暗い遊びに、嫌々ながらも長く打ち込んだ。
そんなウィリアムを不審がるものも中にはいた。
アンナマリーの側にいつも控える専属侍女の若い娘は、利発そうなきりりとした眼差しの可愛らしい女で、これは密かにウィリアムの好みであったのだが、とにかく露骨にウィリアムを嫌がるようなそぶりを見せた。
いつもこちらを睨んできて、時には主人であるアンナマリーの耳元で何事かを囁き、そんな時は決まってアンナマリーは席を立ち、お茶会などは中断する。
大抵はウィリアムが調子に乗りアンナマリーをやきもきさせた場合などにこれは置きた。
こちらがアンナマリーをからかっている事を、この主に忠実な侍女は察してアンナマリーを引きはがそうとしていることは、ウィリアムの側からも手に取るように分かった。
憐れなアンナマリーを間に挟んでの侍女とウィリアムの不毛な綱引きはだが、数年程度で終わりを迎えた。
当時のウィリアムは館の主たる侯爵閣下にいたく気に入られていた。
これにも事情があって、数年ほど前、つまらぬ事業に投資をしたウィリアムの父がこれの失敗をし多額の借金を背負うことになった折、あろうことか侯爵閣下に金の無心をした事があった。
侯爵閣下としては別に肩代わりしてもよいと考えていたようだが、念のためという事でウィリアムに話を持ってきた。
当のウィリアムは全くの根耳に水だった。父が眉唾物の金山事業に出資していたことも初耳だったし、恐らく詐欺であろうそれに一杯食わされ多額の借金まで背負っていたなどとはまるで聞いていない話だった。当時の父は屋敷の中では相変わらず偉そうにふんぞり返っていたし、そんな父に母はぺこぺこと頭を下げてへりくだり、愚かな兄は尊敬のまなざしで見上げていた。
事業に失敗しているのに!
最初から実父に対する評価の低いウィリアムとしては腹が立つという事もなかったが、この一件にはほとほと呆れ果てた。
そこでウィリアムは即座に決断し、侯爵閣下へは決して融資などしないようまた、閣下の知人友人にも温情ある対応をせぬよう強く願い出た。
また、更には重ねて頭を下げ、父の窮状がそれとなく周囲に伝わるよう、社交界に働きかけ情報を流してもらうよう依頼した。
結果として、秘密裡に事をなかったようにしようとした実父の目論見は崩れ去り、伯爵家の評判はがた落ち、父はみなの嘲笑を背に受けながら表だって金策に走ることとなり、家の中でもむやみやたらと周囲に当たり散らしつつも、使用人どもから敬遠されるようになっていった。
おかげさまで実家におけるウィリアム自身の立場は弱くなったのだが、むしろ実父にヘンに気を使わなくてよくなった分、ウィリアムとしては万々歳であった。
侯爵閣下はこの一連の一件の中でのウィリアムの態度にいたく感激をしたようで、それからは特にウィリアムを高く評価して色々と任せてくださるようになった。
アンナマリーからまた聞きしたところによると、なんでも「実に清廉な子供だ! 我が娘と領地を任せるにふさわしい!」などとはしゃいでおられたそうだ。
いや、ウィリアムにしてみればただただ気持ち悪い父親を懲らしめてやりたいだけの私怨だったのだが。
まあ、棚から牡丹餅とでもいうべきか、そんな訳で侯爵閣下の信頼を得たウィリアムは、ある日それとなくあの侍女の事を話してみたのだ。
どうにも誤解があるようで、彼女はウィリアムの事をお嬢様に悪く言って引き離そうとしているようだ、と。
その後の侯爵の対応は素早く、数日ののちには彼女はアンナマリーの側付きの立場を追われ、いつの間にか屋敷からいなくなっていた。
アンナマリーは少しばかり悲しんでいたようだが、ウィリアムが甘い言葉でたっぷりと慰めてやるとすぐに笑顔を取り戻した。
それどころか、余計な入れ知恵を働く側付きが消えてくれたおかげで、アンナマリーはますますウィリアムに傾倒するようになり何でも言うことを聞くようになっていった。
病弱で、儚げで、侯爵家の権力を継ぐ立場にあり、どこまでもいう事を聞く美しい女。このような女は、ある種の女性が好みの男性たちから見ればとてもよいものに見えるのだろうか?
だがウィリアムにとっては煩わしいばかりであった。
それでも齢を重ねていくうちに、ウィリアムは我慢することを覚え、見かけの上は仲睦まじい婚約者が板についてくるようになった。全ては忌まわしい実の家族から逃れるため。その為の最上の駒がアンナマリーであると思えば、ウィリアムはどこまでも耐えることが出来た。
そんなウィリアムに転機が訪れたのは15歳の時であった。
王国はその制度の中に『学園』という仕組みがある。
もともとは異世界から持ち込まれた高等教育のための特殊な場であり、何でも年若い青少年にモラトリアムという不安定な期間を強制的に与えることで、多様な環境に自分を合わせられる適応力の高い人間を生み出すことが出来るのだそうだ。
むろん勉学も大切なのだが、それ以上に地位や能力、性格や技術など、多種多様な人間が一か所に集められ、さして明確な価値基準を用意されないまま、敵だ味方だとくっついたり争ったりする環境そのものが大切なのだそうだ。
特に年若いうちから不安定な人間関係に晒されることにより、人は『相対的価値観』というものを身に付けるチャンスを得ることが出来る。
モラトリアムというものがそもそもそういうもので、これを体験したものとそうでないものでは、多様化する社会の中で柔軟な対応が出来ずにうまく生きていけなくなるのだそうだ。
人と人との間に絶対的な優劣はなく、地位や能力、経験の差による人間の違いはあくまで相対的である、これを獲得するために必要なのが『学園』という組織なのだ。
人類の文明レベルを一段上げるための必須機構である『学園』という制度はだがしかし、王国の中では半ば形骸化し、殆ど顧みられなくなっていた。
貴族や平民、魔術師や戦士、男女の別もなく同年代の様々な人間が同じ学舎に通う。そして、校内では互いの立場を考えずに対等な関係をもって付き合う。このような先進的な仕組みは、充分に教育を受けた優れた人間を集めて初めてまともに効力を発揮する。
古臭い封建社会の制度が残る王国の中にあって、まともに機能するはずがない。
異世界からもたらされた先進的な制度は事実上崩壊し、『学園』の中では社会の縮図のような権力構造が持ち込まれ、貴族がのさばり平民を虐げるような運営が当り前のようになっていた。
それでも『学園』という仕組みが王国内に残り続けるのは、今でも異世界から多くの地球人が転生してくる受け皿としては優秀であったからだ。地球人は『学園』と聞くと当たり前のようにほいほい入学してくれるので、彼らを捕まえるのに丁度良い狩場となっているのだった。
さて、そんな形骸化した『学園』制度であるからして、侯爵閣下はあまり良い印象をお持ちでないらしく、アンナマリーは入学しなかった。
ただしこれは別段珍しい事ではなく、例えばウィリアムの兄も『学園』には入学していない。
侯爵に限らず、異世界仕込みの『学園』という制度そのものの危うさを危惧している貴族は大勢いるから、王都に居を構える貴族子弟の半数ほどは『学園』に通っていないのが現状だった。
まあ、元よりアンナマリーは病弱なため、入学しても殆ど出席が叶わなかったであろう。
対するウィリアムは、この『学園』に入学する事にした。
というのも、人脈作りにはとても有用な場所であったからである。
この後、侯爵家に婿入りしその権力基盤の全てを引き継ぐウィリアムではあったが、独自の伝手というものも持っておかないといざというときに危うい。そういう計算が出来るまでにウィリアムという少年は賢い人間だった。
このウィリアムの判断に、侯爵閣下は最初のうち難色を示したが、「自分の力で見聞き出来るもの、得られるものを増やしたい」というウィリアムの説得には感激を覚え、最後には快く送り出してくれた。
アンナマリーはとても悲しい顔をした。
「わたくしもウィリアム様と同じ学園に通いたい」そう彼女は切々と訴えかけてきた。
だがウィリアムはやんわりとこれを拒絶した。
病弱なアンナマリーが学園に通うとなると、恐らくウィリアムはこれにかかりきりにさせられる。それでは当初の目的の「人脈づくり」など到底叶わない。
侯爵閣下も嫌がった。病がちのアンナマリーが『学園』などに通ったせいで万が一があっては敵わない。
二人して思いとどまるよう説得する日々が続いた。
ぐずるアンナマリーに対し、ウィリアムが最後に放った一言が決め手となんた。
「姫の代わりにこのウィリアムめが色んなものを見てまいりましょう。面白おかしく語って差し上げますから、どうかそれでご容赦ください。」
アンナマリーはしぶしぶ納得し、代わりにウィリアムは毎週末に屋敷で報告をさせられる羽目となった。また面倒なことが増えたとウィリアムは内心嫌な気分でいっぱいになったが、すっかり板についた仮面の笑顔でにっこりと微笑んで表面上はこれを受け入れた。
こうして意気揚々と『学園』に通いだしたウィリアムだったが、思わぬ誤算があった。
それは、『学園』というところがウィリアムにとってあまりにも楽しいところだったのだ。
当初の目的であった王党派の貴族子女たちとの交流は思いのほかうまくいって、あっという間にたくさんの友人が出来た。『学園』は王家が推進して設立された機関であるから、王家に近いものが大勢在籍していて、これは侯爵家の中にあっては得られない貴重な財産となった。
だがそれだけではなく、例えば裕福な商家の子供であったりとか、有能な冒険者の娘であったりとか、とても賢い平民の少年であったりとか、ウィリアムが今まで出会ったこともないような種類の少年少女たちがたくさんいて、彼らとの交流が思いのほか楽しかったのだ。
ウィリアムはこの歳になるまで鍛えてきた持ち前の社交能力を持って彼らと打ち解け合い、沢山の友人と多くの気付きを得ることが出来た。
『学園』とは半ば形骸化した組織だと聞いていたが、実際にはモラトリアム機構として十分に機能している部分がまだ残っていて、それがウィリアムの足りないかけらにぴったりとあったのだった。
まあ、中にはウィリアムの事を毛嫌いする人種もいて、「見てくれだけはキレイだが軽薄な笑い顔をする気持ちの悪いヤツ」などと悪し様に言われることもあったが、そういう相手には「ふふふん」と鼻で笑ってやれば周りの誰かがうまく動いて排除してくれるようになっていった。
ウィリアムは出自は伯爵家の次男であったが、比較的高位の貴族が少なかったウィリアム達の代では自然と彼は頭角を現し、ちょっとした勢力の長と呼べる立場に収まりつつあった。
そんな中出会ってしまったのが、蠱惑的な笑みと妖艶な肢体を持つ美しい女、男爵令嬢のヨラナである。
ヨラナは15の若さにしてすでに男をよく知っており、見目も美しく頭も切れ集団の頂点に立つウィリアムは、彼女にとってのよい標的となった。そんな二人は出会ってすぐに男女の仲となった。
すでに婚約者のいる事を公言していたウィリアムだったが、ヨラナと関係を持つことには何の痛痒も覚えなかった。
というのも、もともとこの世界の貴族男性は結婚前に例えば適当な未亡人を宛がわれて女を覚えておくことは当り前のことだったが、実家である伯爵家と諍いのあるウィリアムにはこれが期待できなかったのだ。ウィリアムは格上の侯爵家に婿入りする、伯爵家にとって重要な人間であるはずが、父はこの息子を毛嫌いするようになっており、何一つ手助けを得られない立場だったのだ。
そこでウィリアムとしてはどこかで女性を覚える必要があったのだが、プライドのあるウィリアムとしては、そこらの商売女の力を借りることに抵抗があった。
そんな事を考えているタイミングで出会ったヨラナという女はウィリアムにとっては格好の相手だった。
とはいえその初めては少々恥ずかしい思いもした。すでにいっぱしの経験者であった彼女は、初めてのベッドの中で虚勢を張るウィリアムを鼻で笑った。
ウィリアムは傷つけられたと感じ、最初はとても嫌な気分になったのだが、ヨラナが態度を変え、ウィリアムを立てるようなそぶりを見せることによって大きく自信を取り戻し、あっという間に彼女にのめりこんでいった。
当時のウィリアムはヨラナと自分は最高の相性なのだと信じ切っていたが、後になって思い返してみれば彼女の掌の上で踊らされていただけ、という事だったのだろう。彼女にとってウィリアムはとても良いコレクションで、側にいるだけで他の女性の上に立てる素晴らしいステータスの一つだったのだろう。
もっとも、ウィリアム自身も蠱惑的なヨラナを男どもに見せびらかすためのトロフィーのように扱ったから、結局のところ似たもの同士、お互い様だったのだろう。
とはいえ結局のところ、馬があったという点に間違いはないだろうとウィリアムは思う。
ウィリアムとヨラナは共犯者だったのだ。学園生活を強い立場で味わうための、お互いに不可欠なパートナー。ウィリアムとヨラナが二人して並べばそれだけで何か特別な雰囲気が生まれ、二人の間には貴族・平民などの垣根を越えて面白い人材が次々と集まってきた。
この時のウィリアムは、自分がちょっとした国の王様にでもなった気分であった。やがて来る侯爵としての自分を先取りして演じている、そんな全能感があった。
そして、このような全能感を支えてくれる大きな原動力として、ヨラナの存在があった。彼女は見かけによらず頭の回転が速く気配りも利く女で、ウィリアムを求心力として急速に肥大化する集団をよくコントロールし、見事に補佐を務め上げてくれた。
ウィリアムはもともと女性に対する不信感があったが、ヨラナとの出会いで考えを大いに改めることになった。男女の別なく、素晴らしい知性と能力の持ち主はいるものだ、と。
ウィリアムは大いにヨラナを信頼し、ヨラナもまたウィリアムを高く買ってくれているようにウィリアムには思えた。
こんな風にして急速に仲を深めていったウィリアムとヨラナであったが、お互いの出自についてはよく分かっていなかった。
ウィリアム自身は、父が数年前に事業に失敗して社交界では笑いものになりつつあった貧乏伯爵の次男坊といった程度の紹介しかしなかったし、ヨラナもまた父が何かへまをして本来の地位が得られずに男爵家を継いだといった程度の話しか聞いていなかった。
お互い自分たちの実家を悪く言うのは、その方が平民や下級貴族の受けが良かったからである。「伯爵とは名ばかりの愚かな家のドラ息子さ」などとウィリアムがうそぶけば、ヨラナもまた「私の父は若いころのおいたが過ぎて爵位を継ぎ損ねた愚か者なのよ」などを皮肉を込めて返す。そんな二人の斜に構えた物言いに、平民や下級貴族の若者たちは大いに喜び、みなが自分達についてきてくれた。
だからすっかり恋仲となったヨラナとも、お互いにその程度の身の上話しかしてこなかったのだ。
それが何かの拍子に「ウィリアム自身にはさる高貴なる婚約者がいる」という話に至り、その婚約者が侯爵令嬢のアンナマリーであるという事を知った瞬間のヨラナの激昂は、ウィリアムにとって全くの想定外であった。
「アンナマリーの婚約者ですって!? あなたがあの侯爵家の入り婿だったなんて!」
すっかり当たり前になった週末の夜のベッドの中の甘いひと時が瞬時に凍り付いた。
顔を真っ赤にしたヨラナは辺りにあるものを手当たり次第に投げつけてきて、ウィリアムは彼女の突然の豹変ぶりにすっかりうろたえ、みっともなく言い訳をしたり無意味に謝ったり泣いて足元に縋ったりした。
それまでヨラナは一度として激しい感情をあらわにしたことがなかった。いつもどこか超然とした雰囲気で妖艶に微笑み、全てを見通し思い通りに若い人生を謳歌している、そんな印象であった。
それがこんなにも荒い気性の持ち主だったとは!
すっかり夜も更けあたりがじわじわと白んできたころ、ようやっと落ち着きを取り戻しつつあったヨラナから聞き出した話は、ウィリアムにとっても驚きの内容だった。
蠱惑的な魅力のあるヨラナと、清楚で陰のあるアンナマリー、性格や振る舞いが違うためにウィリアムはそれまで気付かなかったが、よく見れば二人はとてもよく似た顔つき、体つきをしていた。
彼女たちは従姉であったのだ。
そして彼女たちは数奇な運命を経て、それぞれの父親の違いから片方は侯爵令嬢となり、もう片方はうらぶれた男爵令嬢へと成り下がったのだ。
それぞれの娘の人間性や能力は関係がなく、ただ父親の問題だけでこうも道が分かたれてしまった現状に対しヨラナの怒りはすさまじく、ヨラナは年に一度も会わないアンナマリーの事を売女だのズベタだのおおよそ淑女が口にしてはいけない言葉で何度も罵った。
ヨラナが父親との間に確執がある事はウィリアムもそこはかとなく察してはいたが、それ以上に従姉に対する悪感情を貯めこんでいる事実に強く驚かされた。
そんなヨラナを懸命にウィリアムが宥めようとするうちに――
悪魔の計画は生み出された。
もともと病弱なアンナマリーを妻に迎えて子を為し侯爵家を継いでゆく未来には無理がある。
それならば、血筋的にも問題のないヨラナを妾に迎えて……。いや、第二夫人として……。いっそのことウィリアムが婿養子として侯爵家に入り、ヨラナを正妻に迎え入れて……。
『学園』の卒業までの3年のうちに、計画は二転三転し、次第に形を成して行き、まるで雲をつかむような話だったはずが、実現可能な確かな目標へと固まってゆき。
この計画はウィリアムだけが考えたものではない。むしろヨラナも大いに頭を使い、王国法なども調べ上げ、侯爵閣下にそれとなく意味深に話を切り出してみたり、アンナマリーの様子を伺ってみたり、二人で練り上げた計画だった。
難問にぶつかり計画が頓挫しそうなときは二人で知恵を出し合ったし、目論見がうまくいく算段が立つとヨラナは幼い少女のように無邪気にはしゃぎ、驚くほどの献身さで夜の睦み事の際にはウィリアムを大いに楽しませてくれた。
王国法による相続の決まり事や過去の判例などの調査、現時点では地盤を持たないウィリアムが侯爵家を継ぐにあたっての根回しやコネクションづくり、ヨラナの血統としての正当性の再確認、侯爵閣下へのそれとない相談etc,etc……。
調べるべき事、試すべき事、確認すべき事……、すべき事は無数にありウィリアムはその一つ一つを精力的にこなし、ヨラナはよく支えてくれ、『学園』で得た新たな友人、知人もみなが知恵や力を貸してくれた。
ウィリアムには、アンナマリーを排してヨラナとともに侯爵家を継ぐ未来がはっきりと見えていた。
そして卒業パーティの日を迎えた。
パーティ当日のあれこれを順序だてて説明することは、今のウィリアムにはとても難しい。
たった数時間前までの一連の出来事が、今ではものすごく昔の遠い記憶のようにかすれてぐちゃぐちゃになってしまっている。
アンナマリーを説き伏せるようにしてパーティに呼び寄せ、公衆の面前で彼女との婚約を破棄する。そして代わりにアンナマリーの従姉妹に当たるヨラナを取り立て、彼女を妻に迎えることで侯爵家を継いでゆくことを宣言してしまう。
もともと『学園』は王家肝いりの組織制度であるから、卒業パーティともなればみなが王城に招かれ、当然のことながら王族も大勢出席している。そんな彼らの前でちょっとした寸劇を披露し、既成事実としてこれらを認めさせてしまえばいかに侯爵閣下といえどもおいそれと取り下げは出来ぬ。
なに、そもそも侯爵が最初に言い出したのだ。病弱なアンナマリーに無理はさせられぬと。
なればその為に最善の方法を用意しただけだ。
王国法をつぶさに調べ上げ、手続きに必要な書類などはすべて揃っている。
こうして挑んだ卒業パーティでの一連の騒ぎを詳しく知りたければ、そこらの酒場で面白おかしく語られている断罪劇に耳を傾けてみればいい。 あるいは二束三文で売られる素人裸足の安っぽいゴシップ小説に目を通すのでもいい。おおむねそれは真実なのだから。
確かに婚約破棄はなされたが、それはウィリアムが一方的に拒絶されるものとなった。
途中までは傍らにいたはずのヨラナはいつの間にか被害者ぶって仰々しく震えて見せ、愚かなウィリアムが一方的に計画を先導したことになっていた。
頼りにしていた友人、知人たちも表だって侯爵家や王家に逆らおうと考えるものはなく、ウィリアムは孤立無援であった。
泣き崩れるアンナマリーの側には、数年前に卒業した第三王子が立っており、懸命に彼女を慰めている様子であった。
ウィリアムの実父は伯爵家に訪れた早馬の知らせにすっ飛んできて、その場でウィリアムを勘当し、ウィリアムは僅か数時間のうちに平民の立場に突き落とされた。
雨脚の強くなった荒天の中、一人棒立ちになるウィリアム自身が結果そのものだ。
屈強な兵士に取り立てられ、王城の裏の門の前で放り出されたウィリアムの身体を、いつの間にか雨粒が襲いかかり、我に返るころにはびしょ濡れになっていた。
辺りにはすっかり夜の帳が落ち、濡れた石畳に跳ねる魔導灯の煌めきが雨粒に乱されキラキラと輝いている。
その美しさに目がいくうちに、少しづつウィリアムの思考がゆっくりと回り始める。
ともかく自分は失敗したのだ。取り返しのつかない間違いを犯し、全てを失った。
だが不思議と違和感はなかった。もともとどこか、夢のような3年間であった。ヨラナと出会い、ガキの妄想をそのまま大きくしたような馬鹿げた計画に夢中になり、大勢の人を巻き込んで、頂きを目指して。
心のどこかで『本当にうまくゆくのだろうか?』『何か見落としていないだろうか?』『どこかに間違いがあるのではないだろうか?』そんな疑問は常にあった。
だが周りを不安にさせぬため、懸命に虚勢を張った3年間でもあった。
結局のところ、ウィリアムは自分に酔えるほどには信じ切れていなかったのだ。
どこかで破綻するかもしれない恐怖感はちゃんと心の奥底にあって、結果として予感が正しかったというだけの事なのだ。
だから不思議と、起きてしまった結果については納得することが出来た。
だがともかくとして、ウィリアムはすべてを失ってしまった。
自分はもう『学園』に戻ることはできないし、侯爵家の敷居をくぐることも叶わない。実家である伯爵家にも足を踏み入れることは出来なくなり、それどころか王都に居続けることも難しくなってしまった。
だがそれでも不思議と、死にたいとは思わなかった。
こんなところで死ぬのは嫌だ。
ともかくなんとしてでも生き延びてやる。
とはいえみっともなく泣いてすがるのも嫌だ。
盗みでも暴力でも何でも使って、誰の力も借りずに生き延びてやる。
振り返れば王城の裏門の前で、鋭い目つきのインペリアルガード達がこちらをじっと見ている。
奴らはウィリアムを追い出した後、ずっとあそこからこちらを見ていたのだ。
うろん気な表情でこちらに顔を向ける彼らの様子から、自分が疎まれている事を察したウィリアムは、なんだかおかしくなって笑いをかみ殺した。
人から疎まれるのには慣れている。長年過ごした実家では、実親や兄に疎まれている。
今さら王家からも疎まれたところで、不思議と何の痛痒も覚えない。
改めて前を向く。
もう二度と振り返らない。
ウィリアムは重い身体を引きずるようにして、とにかく足を一歩、前に踏み出した。
気が付けば雨は上がっていた。
全てを失ったウィリアムの第二の人生が今、ここから始まった。