ジョッショの友達ナナ宗教編4-2
ジョッショの友達ナナ4-2
(ナナと狙撃兵のシンクロナイズ)
狙撃兵が気づいたときには、数人の敵兵が彼に狙いを定めて銃口を向けている。
「俺は死ぬのか・・。」自分の陥った生死のかかった状況に直面し、半ば放心状態に陥って、彼は自分の置かれた立場を漠然としか判断できない。
彼は数日前まで敵を狙ってライフルの引き金を引いていた。祖国のために人を殺すことに何のためらいもなかった。その状況が、ある瞬間に逆転した。知らない間に敵の兵に取り囲まれたのである。捕虜として数日間過ごした後、彼は砲弾で穴の空いた窪地の中に放り込まれた。その時初めて自分の死がはっきりと予感できたのである。ただ、自分に敵兵が銃口を向けるまでは、なんとか生き延びる手段もあるのではないかという楽観が生きる希望を支えていた。
「腕の腕章をとれ!」
銃口を向けた敵兵の一人が、彼に向かって大声で叫んだ。その声は彼の耳には、遠くかなたで判別できないほどのかすんだこだまのように鼓膜に振動していた。
数秒後、不思議なことに彼の口元に笑みがこぼれる。彼はとっさに、ポケットに残された一本の紙たばこ取り出すと、かすかに震える手で口元に持っていきマッチで火をつけた。
敵兵もつい最近まで平凡な日常生活を続けていた市民である。彼の恐怖を押し殺した大胆な行動に、銃の引き金を引くことを躊躇しているようだ。
煙草の白い煙が、冷気の中に立ち上っていく。彼はその煙を目で追いながら、初めて、恐怖で顔を上げることができなかった周りの状況をしっかりと確認した。真っ青な青空からは、かすかな日の光が、木の枝に乱反射している。
次の瞬間、
「ウクライナの腕章をとれ!」
再び敵兵の甲高い声が、緊張で張り詰めた空間に響き渡った。
彼の脳裏に、無惨に殺された同胞たちの記憶が、走馬燈のように蘇る。自分自身が次の瞬間に取るべき選択に、深い思慮などめぐらす余裕もなかった。それでも時間は連続的に、次の瞬間の行動を現実として選んでいく。
「ウクライナに栄光あれ!」
彼の叫びは自分自身さえ予想もできない一言だった。魂の叫びが、彼の体内から絞りだされ、慟哭となって口からついて出たのである。
その絶叫は、彼に銃口を向ける敵兵の引き金を引く決断を促すのには十分だった。
数発の銃声が響き渡る。
バーン バーン バーン!
くぼ地にうつ伏せに倒れた狙撃兵の体からは、真っ赤な血が吹き出て、地面を覆いつくしていった。虫の息になった狙撃兵の手が、近くにあった円筒形の木片に届いた。彼は力いっぱいその木片を握りしめた。
「俺は死ぬんだ・・。」そう思いながらも、最後に叫んだ自分の言葉に無上の満足感と誇りを感じていた。そして、再び笑みを漏らした彼は、握った木片をしっかりと握りしめたまま息絶えた。
時空の変換が、瞬時に第二の現場へ奈美の魂を誘う。
戦闘機の爆撃が、二人のいるベランダを直撃した瞬間、ベランダに出た弟を追ってきたナナが、彼のセーターの後ろををつかんだ。
「ナナ!バサム!神よお慈悲を・・・。」
二人の後を追いかけようとしたアリーが、二人を見て絶叫する。
ナナの片手は、爆風で吹き飛ばされようとしたバサムの衣服を掴んで離さない。やがて、力尽きたかのように、二人がベランダから崩れるように落下する。
次の瞬間、弟の命を救ったナナの運命に奇跡が起きた。命をささげて弟を救おうとした少女の崇高な行動は、この世の次元を超えた彼女の肉体組成を結びつける内的エネルギーを無限に解き放ったのだ。やがて、彼女の生命体としての秘められた能力は、歯止めを失い暴走し始る。その無限大の暴走は、生きる世界の時間と空間の連続性に非現実的亀裂を生み出し、時空の安定に不条理を生み出した。そして、ナナの存在はこの世の不可逆的法則を超越して、死から生への逆転を引き起こしたのである。
彼女の奇跡の体験は、時間と空間を乗り越えて、ウクライナの狙撃兵の木片を持つ右手とナナの弟の衣服を掴む右手のエネルギーのシンクロナイズ(時空の同相変換)を誘発したのだ。そして次の瞬間、ナナの身体にありえないパワーを与えたのだった。
二つの時空の融合変換。
奈美はフランス語を理解できた。毎朝7時に必ずTVアンテンヌ2のニュースを、コヒーを入れてゆっくり見るのが奈美の日課だった。この日のニュースで、ウクライナの狙撃兵が自分の置かれた状況に戸惑いながら、不安そうにタバコをくゆらし、それでも毅然と前を向いている姿がTVに映しだされた。
「撃て!」
敵兵の号令と同時に、映像が飛ばされ、弾丸を浴びたウクライナ兵の手が映し出される。彼の手はしっかりと小さな木片を握りしめていた。
奈美は、狙撃兵の手から目を離さない。すると、奈美の手が時空を超えて、狙撃兵の手のエネルギーと同化し始めたのである。奈美は、心の衝撃に耐えながら、コヒーカップを固く握りしめて放そうとしない・・。やがて、彼女の目から涙がこぼれ、頬をゆっくりと伝っていく。次の瞬間、奈美と狙撃兵の手を通して、完全にそれぞれのエネルギーを融合する。すると今度は、二人が発散する莫大なエネルギーの均衡が破れ始め、彼女の体内に途方もないエネルギーを一方的に集中し始めたのである。
「奈美!」
偶然寝室から出て奈美のいる部屋に入ってきた正治が、その場の異様な様子を目撃して思わず大きな声を出した。彼女のいる部屋は日常世界を飛び越えて、理解不能な様相を呈していたのである。
部屋の中では、クッションやぬいぐるみ、オーデコロンの容器までもが空中に浮かんでいた。奈美の瞳は青く光り、視線はTVの映像に映し出された兵士の手の一点に集中していたのである。
(奈美の悩み)
朝、中央線に乗り吉祥寺で降りると、私は公園に隣接するカフェに向かうのが習慣になった。窓際に座り、道路一つ隔てた公園を行きかう人々を眺めては、また持ってきた本に視線を落とす。店内には心地の良いクラッシックが途切れることなく流れていて、客に安らいだ時間を提供する。平日の朝でも、くつろぎを求めてこの店にやってくる若者や学生たちの客は、途絶えることはない。徳島でいたころは、みんなが働いている時間にカフェでゆったり椅子に座って読書をすることに、どこか後ろめたい気持ちもよぎったものだ。しかし、この居場所ではそんなくだらない配慮を払う必要もなかった。或る意味、都会の人口密集は、人の多様性を知らず知らずのうちに受け入れてくれるのかもしれない。
私の座っている向かいに女性が座る。柑橘系の匂いがするオーデコロンが、私の鼻をつんとさした。
「おじさん、お久しぶり・・。」
奈美である。彼女の顔を見た瞬間、私は欠けていたていたカードがすべてそろったような満足感を感じた。
「ようやく現れたな。それにしても、私がここにいることをどうして分かったの?」
私は知らず知らずに笑みを漏らしている。
「マー君から、おじさんがいつもこの店に朝通っていると聞いていたから。」
奈美が淡々と答える。
「そうか・・。徳島の病院を抜け出して、大都会へ逃げてきたよ。どうしても、こんな日常を送ってみたかったんでね。」
私がそう言うと、奈美が笑顔を見せた。相変わらず周りを圧倒する美しさが、彼女に注目を集めさせているような気がした。
「何になさいます。」
奈美に気付いた店の主人が、笑顔で彼女に注文を聞く。
「マスター、注文を取りに来たの初めてじゃない?」
私が主人に嫌味を言った。普段は、アルバイトのスタッフが注文を聞きに来てくれる。ところが今日に限って、店を経営する主人が奈美の注文を取りに来たのである。
「モデルの奈美さんでしょ。いつもサリュ見てますよ。あなたのファンですから・・。」
私の言葉を無視するかのように、主人は満面の笑顔で奈美に話しかける。
奈美が視線も合わせず、軽く頭を下げた。彼女との会話を望んでいた主人に少し落胆の表情が見える。
それでも、
「ごゆっくり。とびっきりおいしいコーヒ入れますから。」
奈美の注文を取ると、再びにこりと笑って奥へ引っ込んだ。
何故か、マスターが見えなくなると奈美がため息をついた。私はさっきから、時々奈美の顔に目をやる。彼女は以前よりやつれたように見えた。
「心配事でもあるのかい?」
私の言葉に、奈美がはっとしたように私の顔を見る。
「こんなに穏やかな社会で、何の不満もない生活を送っている人の日常があるのに、世界のどこかでは、人の殺し合いが絶え間なく続いているのよね・・。おじさん、こんなこと言う私っておかしいかな?」
そう言って、彼女は薄笑いを浮かべて、再び私の顔を見る。
「東京は平和な社会に見えるかもしれないけど、この街で暮らす人の心の内面はそれぞれだよ。人の狂気がそこら中に潜んでいるかもしれないよ・・。ただ、奈美ちゃんの言うように、東京では戦争による殺戮がないのだけは確かだけどね。」
私の言葉に、奈美が頷いた。奈美は先日TVで映し出されたウクライナ兵の銃撃を思い浮かべていた。
「私の魂が他の魂と共振する瞬間って、本当にあるのかな?その結果、幾つもの魂が寄り集まって一つに融合し、途方もないエネルギーを生み出すなんて・・。そのエネルギーを吸い取った時、この世界に異常現象を起こさせる・・。」
私は、いきなり彼女が語り始めた言葉に注意深く耳を傾けていた。
彼女の告白は、自分の意志でどうしようもできない宿命への心の吐露のように聞こえた。
「奈美ちゃんの言う魂って、永遠に消滅することのない自分の在りかを支える拠り所のようなものなのかな?」
今度は、奈美がはっとしたように私の顔を見る。
「おじさんの言うような魂があったら、それは宗教になっちゃうね。でも私の言う魂は、そんな神がかった神聖なものじゃないの。ただ、人の内面にある意識活動に潜む自分の本性を、魂って呼んでいるのかもしれないな・・。(にこりと笑い)自分でも何言っているのか分からなくなっちゃった。おじさんの言っているように、魂の意味も分からないで、魂という言葉を使うのは可笑しいよね・・。」
それでも奈美は、私の問いに真剣に答えようとしている。その表情に、情緒の不安定を普通に戻そうとする心の葛藤が読み取れた。
「何かあったね。」
奈美の激しく揺れ動く感情を感じ取った私は、単刀直入に彼女の隠そうとする事実を聞き出そうとした。
「おじさんは、私の秘密を知っている一人だよね・・。」
奈美が私を直視した瞳は、怪しい光を放ったような気がした。そして、彼女の視線に妖気を感じた私は、その視線から顔をそらすと、通りの向こうの公園の木々に目をやった。
「知っているつもりだよ。」
そう言った私の心臓の鼓動が、速くなるのを自覚する。
「おじさん、公園の駐車場に黒い車が止まっているの見える?」
確かに、黒いベンツがぽつんと一台確認できた。次の瞬間、その車がわずかに空に浮いたのである。驚いた私は、奈美の方に振り向いた。彼女の瞳は、まだ怪しく光っている。
「奈美ちゃんの仕業なのかい?」
心臓の鼓動が、更に高鳴っている。
奈美は私からの視線を避けるように少し俯きながら、わずかに頷いた。彼女は、周りの電場を動かすことに加えて、重力場までもかき乱すことができたのである。もし、二つの場を相当範囲で操作できることができるとしたら、彼女はこの世界に途方もない混乱を招く事だってできるはずである。
「魂の震えを味わった人の究極の瞬間に出すエネルギーと、私の魂がシンクロナイズするたびに、私の中に潜む核心的エネルギーがだんだん大きくなるような予感がするの・・。今の私・・、マー君がいなければ、自分の内に潜むエネルギーをコントロールできなくなるような気がする・・。」
奈美が両腕を交差して自分の体を抱え込み、恐ろしさで震えだした自分自身を抑えようとしている。
私は彼女にかける言葉を失って、ただ茫然とおびえる奈美を見つめるだけだった。
「おじさん、私は何のためにこの世に戻って来たんだろうね・・。」
奈美はそう言うと、再び私の顔をまっすぐ見た。
「人は生きるための理由など見つけられるわけないさ。だって、生きることを自ら選んだ人なんて誰もいないんだから・・。」
私は精一杯の虚勢をはると、肩をすくめて屈託なく笑った。
奈美も私のおどけた表情を見て、同じように微笑んだ。
「やっぱり、おじさんに打ち明けてよかった。」
奈美は私が悩みを共感してくれたような気がして、今までより穏やかな顔になっていた。
幸い、車が少しだけ宙に浮いた事実は、誰に見られることもなかったようである。ただ、私は内心、必死で動揺を抑え込もうとしていた。
(愛生とジョッショの恋)
二人並んで、大学のキャンパスに置かれたベンチに座って、空をじっと眺めている。ジョッショと愛生の顔に春の日の差しがまともに当たり、二人の満ち足りた表情が光に照らされているようだ。愛生は水曜日が定休日である。その日はジョッショの一般講義が大講堂であった。二人はそこで「宗教概論」の授業を二人並んで受講した後、よくこのベンチに座るのだった。
「宗教の始まりは、人が自然の脅威である雷や地震を恐れる畏怖の念から始まったんだって・・。」
愛生が講義で学んだ宗教の意味を再考していた。
「アニミズムか・・。」
ジョッショは、教授が何度か繰り返していた言葉を口に出した。
「そう言えば、母さんの信じている神の国でも先祖のたたりってよく言ってた。ジョッショが言ってるアニミズムにつながるのかな。」
「まあ、たたりも雷も怖いといえば同じだからね。」
ジョッショがぽつんとつぶやく。
「そりゃそうだね。」
愛生がそう言って、ジョッショに共感する。今の愛生はジョッショの言うことは何でも正しく思えた。
屈託のない二人の笑い声が、暖かくなり始めた春の空間に軽やかに響き渡った。
その時突然、近くで座っていた学生が二人に声をかけてきた。
「おまえら、平和でいいよな。」
ジョッショはこの男を講義でよく見かけた。恐らく、ジョッショと同じ学部の同級生だろう。二人はいきなり声をかけられ、驚いたようにその男の方を向く。
「君、何て名前だっけ?」
ジョッショが、不意を突かれて狼狽したのを愛生に悟られまいと、わざと標準語を使って丁寧にその男に名を聞いた。
「山井清太郎。田辺とは同級生だ。俺はお前の名前を知ってたぜ。横の女性がジョッショって言ってるけど、どうしてそう呼ばれるんだい?」
今度は山井がそう尋ねてきた。
「さあ、自分でもわからないんだ。気がついたらみんなにそう呼ばれていたから。兄ちゃんなら知ってると思うんだ。」
ジョッショは真剣にそう答えた。
「変なの。」
愛生には、そんなジョッショの言い訳が面白くて仕方がなかった。彼女の笑いにつられるように、ジョッショと山井が爆笑する。通りかかった何人かの生徒が、不思議そうに三人の爆笑を横目で見ながら、歩を止めずに遠ざかっていった。
山井とジョッショと愛生が、大学近くの食堂で定食を食べている。そこは早稲田の学生であふれかえっている。
「ここの肉じゃを食べるのが、一般講義に来る一番の楽しみなんだ。」
山井はそう言いながら、どんぶりのご飯を頬張った。
そんな彼の食欲を愛生が感心したように見ている。
「美味そうに食べるな。」
ジョッショも、にこにこしながら山井を見ている。
「金のない人間は、一食だっていやいや食べない。これ鉄則・・。」
今度はジャガイモを箸で半分に割ると、口の中に放り込む。
「山井さんはお金ないの?」
愛生の質問に、山井が頷いた。
「この大学に入学するのにも、いろんな人に助けてもらったんだ。おじさん、おばさん。
うちは母子家庭だからね。愛生ちゃん宗教二世だとか言ってるけど、俺みたいな境遇の人間なんか教団は近寄りもしないよ。なんせ寄付する金もないからな。」
山井はそう言うと、からからと笑った。
「やだ、私に下見て暮らせって言ってるみたい。」
愛生はそう言うと、山井につられて笑い出した。
「うまいこと言うな。」
ジョッショがそう言うと、三人でまた爆笑する。どうやらこの三人、周りをあまり気にしない性格らしい。
「俺は二人の会話を横で聞いてて、自分と同じ種類の人間だと感じたから声をかけたんだ。
もっとも、ジョッショに関してはとっくにそう思っていたけどな。(いきなり時計を見て)いけない、バイトの時間だ。これからもよろしくな。俺、バイトが忙しくて授業に出られない時があるんで・・。ジョッショ!そんな時は授業の内容を後で教えてくれよな。」
「それが一番の目的だったんしゃないか、我々に声かけてきたの・・。まあいいけど。」
ジョッショがそう言うと、山井は頭を書きながらにやりと笑った。
「お二人仲良くな!」
山井はそう言い残すと、一人会計を済ませ通りに飛び出すと、小走りで二人から立ち去っていった。
「何だか面白いね、東京って・・。わたし、東京に出てきてよかった。」
「僕もそう思ってる。第一、愛生に出会えたことが一番ラッキー。」
ジョッショが照れながらそう言うと、愛生の顔をちらっと見た。
「やだ・・。」
そう言って、愛生がジョッショのからだを突いた。その拍子に、ジョッショは腰掛から転げ落ちた。
「ごめんなさい!」
愛生の慌てた声が、食堂に響き渡った。
(愛生と奈美の対面)
吉祥寺のカフェで会って以来、奈美は時々、阿佐ヶ谷で途中下車して私のマンションを訪れるようになった。別段用があるというのではないが、私の妻(幸恵)と話したり一緒に料理を作り、時には私に悩みを打ち明けたりした。その効果もあったのか、自分の背負った不思議な力のこともあまり気にしなくなり、表情も明るくなった。
今日も妻と一緒に夕飯を作って、彼女のモデルになった洋服についてあれこれと評価をしあっている。
しばらくして、我が家のインターフォンが二回目の来客を告げる。ジョッショと愛生であった。
「この前はどうも。」
愛生が、私の買ってあげたワンピースの礼を言った。
ジョッショが愛生に合わせるように頭を下げる。
「ずいぶん仲がよさそうね、愛生ちゃんとジョッショ・・。」
妻の幸恵が、ダイニングからコーヒとお菓子を入れた透明の容器をもって、二人が座るテーブルに置いた。
「愛生がどうしてもじいちゃんにお礼が言いたいって言うから・・。」
ジョッショが、容器に入ったクッキーをつまんで一口かじりながらそう言った。
「だけど、二人はずいぶん気が合いそうね。」
幸恵が二人の顔を交互に見て、再びそう言った。
二人は目を合わせ、どちらともなく同時に微笑んだ。
「今の二人は、恋は盲目ってやつだ。余り先のことは考えずに今を楽しめばいい。生きる輝きに不安を抱くのは、つまらんおせっかいみたいなもんだ。」
私は過去の自分の;輝いていた時を記憶から引っ張り出し、フランスでいたころの懐かしい時間を回想していた。
「ところで、愛生ちゃんはこれから東京で何かするつもりなの。」
幸恵は初対面の愛生に何の違和感もなく、孫のジョッショやマー君と同じように、遠慮もしない質問をした。
愛生が、ジョッショと変わらない普通の家庭の環境で育った娘だと感じ取っていたのかもしれない。少なくとも、新興宗教が家庭を崩壊させる前までは・・。妻は、人の生まれ、育った環境を敏感に読み取る能力がある。
「私、来年受験してみるつもりです。だから、お金一生懸命貯めようかと思ってるんです。」
愛生の返答には迷いがなかった。
「ジョッショが大切にしてる女性だ。私も経済的な応援するよ。最も、来年までこの世にいられるか・・。(少し考え込んで、再び笑顔を見せて)その場合、妻がちゃんと面倒見てくれるさ。なあ・・。」
私はそう言って、幸恵の方を見る。応じるように、幸恵が頷いた。
「よろしくお願いします。」
真剣な顔をして、ジョッショが私と妻に頭を下げた。
「お金は無尽蔵にはないけど、じいちゃんの言ったことだから・・。愛生ちゃん、安心して受験勉強しなさい。」
幸恵がそう言った。
「有難うございます。」
愛生が神妙な顔をして、お礼を言う。
その時、台所から奈美の声がした。
「お二人もカレー作ったんだけど食べる?」
私と幸恵しかいないと思っていた愛生が、ビクッとしたように台所の方に目をやる。
「奈美さんいたのか。実を言うと、まだ夕飯食っていないです。」
ジョッショが、姿の見えない奈美に振り向かずに声をかけた。
奈美という名前を聞いた途端に、愛生の鼓動は高鳴理始めた。ジョッショが、容姿優劣について自分の肩を持たなかった女性がすぐ近くにいるのである。愛生はそのことにずっとこだわっていた。
「私より綺麗な女性だってジョッショが断言するくらいだから、余程美人でなかったら私のことを本当に好きだと思っていないのかもしれない・・。」何度かそんな不安が、愛生の心を遮ったのである。真剣な恋に陥った恋人同士は、ちょっとしたことで猜疑心と嫉妬を芽生えさせるものかもしれない。それは、一種の相手への独占欲の強さのバロメーターでもあった。
奈美が、プレートにカレーを入れた大皿と水の入ったコップを乗せて、台所から出て二人に近づいてくる。次の瞬間、落ちないように用心深くプレートに目線を落とし、俯いていた奈美が、愛生とジョッショの近くで顔を上げた。
「うそ!ありえない・・。」
愛生が初めて奈美を見た時に、思わず発した言葉である。
その言葉を始めに理解したのは幸恵であった。
「でしょ・・。正治の相手なんてありえないよね。」
幸恵はそう言うと、周りを気にせず声を出して笑った。奈美が妻の言葉にきょとんとしている。ジョッショと私は、何となく幸恵の言葉に同感したようににやにや笑っている。
「いいえ、そんな意味じゃないけど・・。(少し沈黙が続き)すいません。」
愛生は必死で言い訳をしようとしたが、諦めたように妻に頭を下げた。しかし、心の中では、ジョッショへの嫉妬心がスーッと晴れていくような気がして、少しほっとした。奈美は愛生にとって次元の違う存在に思えたのである。もちろん、ジョッショにとっても、奈美は遠くで見ている憧れのような存在だったのだろう。
「兄さんも大変ね。あんな自分と不釣り合いな美人と暮らすなんて・・。ジョッショは私でよかったでしょ。」
私の家を出た時、愛生がジョッショに言った一言だった。
ジョッショも素直に頷いた。しかし何故か、彼の心は傷ついていた。
(奈美の破滅的なパワー)
事件は、正治と奈美の自宅のマンションへ帰る途中で勃発した。
奈美と正治の結婚を雑誌サリュで発表して以来、奈美へのファンの関心は、一時下火になったように思えた。彼女が雑誌社を出るときも、奈美目当ての人だかりはまばらになり、正面玄関から小走りに出ていく奈美の跡を追う熱狂的なファンも影を潜めた。そのことが、奈美の警戒を解いて油断となったのかもしれない。
祐樹のマンションに立ち寄っていた正治と奈美が、自宅のある吉祥寺の駅に着いたころには0時を回っていた。その時事件は起きた。二人を執拗に待ち伏せていた数人の奈美の追っかけが、夜の暗闇に紛れて彼女をつけ狙っていたのである。マンションから駅までは少し距離があり、夜0時を回ると駅に通じる公園にも人影はほとんど見えなくなった。
正治は最近酒を飲む量が多くなり、祐樹のマンションでの談笑が続いた結果、かなりの量の酒を飲み、少し酩酊状態で奈美と二人で帰宅に向かったのである。
「あんまり好きじゃないな、マー君がお酒に酔っているのを見るの・・。」
奈美は正治が酒に酔うたびに、彼を咎めるようにそう言った。
「ごめん、明日からはやめます。」
正治がそう言って、奈美に両手を合わせて謝る。
「かっこうだけなんだから。マー君が謝るの・・。今度こそやめるよね。」
奈美は真剣な顔をして、正治を睨んだ。
「すいません。」
再度、正治がふらふらしながら奈美に謝って頭を下げた。ただ彼の足元はおぼつかなく、何度も奈美に寄りかかってきた。
公園の周りを一つの街灯が薄暗く照らし出している。
突然、三人の男が真っ暗な木陰から、二人を照らす街灯の光の中に飛び出してきた。
「お前か、奈美さんを独り占めにしている男は・・。」
一人の男が、正治にいんねんをつけてくる。
「結構ダサい男だな。」
もう一人の男が、吐き捨てるようにそう言った。
「こいつ、ふらふらに酔ってるんじゃないか。見てみろよ!奈美さんに寄りかかったりして・・。むかつくな。」
正治は男の声に脅威を感じ、酔いがいっぺんい覚めて三人の男たちを睨みつけようとしたが、恐怖が体の震えを引き起こし、まともに彼らの顔を確認できない。
「やっちゃえ!」
男たちの一人の声を合図に、正治は奈美から引き離されると、彼らの暴行の餌食になった。次第に正治の体は、彼らの殴打で地面沈み始め、口元から血が滲んでいる。しばらくすると、正治の体は地面にうつ伏せになり身動きをしなくなった。
「やばい。逃げよう!」
嫉妬で狂気となった暴漢の苛烈な殴打は、彼らの理性を失わせ、暴力の加減を忘れさせていたのかもしれない。
正治は横たわったまま意識がもうろうとしながらも、彼らから被った暴行より、奈美の極限に達した怒りで、異常なエネルギーが覚醒することを恐れていた。
「奈美、僕は大丈夫・・。理性を失うな!」
正治が彼女に訴えるようにそう叫んだ。そして、息絶え絶えになりながら、朦朧となった意識で彼女の方を見た。
奈美の目が青白く光り、ウクライナ射撃兵の映像をじっと見つめていた時と同じように、異様な光が瞳の奥で輝いていた。
「お前たち、報いを受けるまでは逃げられないよ!」
思わず身震いがするようなどすのきいた彼女の声が、夜の公園に響き渡った。
「やめてくれ!」
正治の哀願するような声。しかし、奈美の怒りから誘発さたとてつもないエネルギーは、この場から逃げ出した三人の暴漢のいる重力場を狂わし始めていたのである。
男たちの体は宙に浮き、公園の一角を照らし出す街灯の高さまで舞い上がった。
「助けてくれ!」
夜空に暴漢たちの絶叫が響き渡る。
「命は取らないから・・。」
奈美の凍えるような声が、暴漢たちの恐怖を助長させる。そして、彼らの緊張の度合いは、風船玉のように膨れ上がり限界まで達した時、彼女の内なるエネルギーで生じた電場から放射された電磁波が、暴漢たちの脳の海馬に照射されたのである。電磁波は彼らの記憶伝達能力を制御不能にし、この場で起こった事の記憶を大脳皮質に送る機能を不能にした。同時に、重力の反対向きのベクトル束によって生み出された反重力場が一瞬にして解消し、地球空間の重力場の中に戻された三人の体が、自然法則に従い数メートルの高さから叩き落されたのである。
奈美の言ったとおり、全員死ぬことはなかったが、骨折を伴う重傷を負ったのは、地球に重力場がある限り必然の結末だった。
数分後、
地面で気を失って重傷を負った三人の体は現場に残され、奈美と正治の姿はその場から消え失せていた。
(事件後)
「昨夜、不思議な事件が起きた。都内新宿近くで、深夜に三人の若者が手足を骨折をして、公園に倒れていたのである。幸い、三人には命に別状はなく、第一発見者の通報で都内の病院に収容された。ただ、医師によると、彼等全員、昨夜の事故現場での記憶はなく、能検査の結果、彼らの脳神経には一時的な極度の刺激が生じた可能性があり、それが原因で記憶をなくしたものらしいとのことです。ただ、彼らの体には、第三者から直接の外傷を与えた形跡はなく。警察は、集団自殺の可能性を含め、慎重に捜査を進めています。」
この記事を見た私は、すぐに正治に電話した。
「報道されている新宿での事件、マー君は知っているのか?」
私の問いに、正治はしばらく何も言わず、かなりの時間沈黙が続いた。そして、
「奈美と僕が・・。」
そこまで言って、正治はまた黙ってしまった。なぜか、私は二人が犯人と分かっても、それ程動揺しなかった。
「それで、奈美ちゃんはどうしてる?」
私は奈美のことが気になった。
「雑誌社は休んでる。体調不良を理由にね。でも、こんな状態がいつまで続くか・・。
どうしたらいいのかな。」
電話の向こうで困っている正治の気持ちが手に取るように分かった。
「二人で何か話し合った?」
そう尋ねることで、二人の心理状態を探ってみた。
「奈美は窓の外をぼーっと眺めて、時折、ため息をついているんだ。朝から何も食べてないし・・。」
事態は思ったより深刻かもしれない。私は初めて自分が何とか二人を助けなくてはいけないと感じた。
「とにかく、ばあちゃんに頼んで奈美ちゃんを迎えに行くから。外に出られる準備しときなさい。」
正治は、私のとっさに思い付いた提案に逆らうことなく素直に承諾した。恐らく奈美にとっても、今できる最良の判断だったのかもしれない。
奈美が私たちのマンションに滞在するようになって四日目に、思いがけない人が訪ねてきた。
「祐樹さんとお母さんが来たわよ。会わないわけにはいかないでしょ。」
ここに来て以来、部屋にこもりがちで外にも出ない奈美ではあったが、さすがに雨宮敏子の訪問を無視するわけにはいかなかった。
その日はあいにく土砂降りの雨で、応接間からベランダに通じるガラスの扉に激しい雨が叩きつけていた。
敏子は、さっきから妻の幸恵と原宿の彼女が経営するブティックのことを話をしている。彼女の横で、祐樹が会話には加わらず、窓の水滴をぼんやりと眺めている。
「雨宮さんはファッションに敏感なんでしょうね。」
「私は経営してるだけで、みんなスタッフに任せているんです。肝心なのは、優秀な人材を集めることです。祐樹のおかげで、なつみちゃんや愛生ちゃんを紹介してもらって助かってます。」
彼女の言葉に祐樹が反応する。
「でも一番ママが関心があるのは奈美ちゃんよね。奈美ちゃんを自分のところに取り込みたくてうずうずしてんだから。」
この言葉に敏子が戸惑った表情を見せ、
「さっきから黙っていたくせに!人の気に障ることを言う時だけは口を出すのね。」
そう言って、息子を睨みつけた。
その時、部屋から奈美が現れた。
「あら、奈美ちゃん。祐樹から聞いたわよ。かなりふさぎ込んでるみたいね。雑誌社にも行ってないみたいじゃないの。」
奈美を見て、急に表情が明るくなった敏子が早口で話しかける。
薄笑いを浮かべた奈美が、敏子の向かい側に椅子を取って座り込む。
「サリュ(雑誌)やめようかと思ってんです。でも、スタッフによくしてもらってるから言い出しづらくて・・。それに、生活のこともあるし。ほんと参ってます。」
奈美は敏子の前で正直に悩みを打ち明けた。過去にも何度か困ったときに敏子に頼ったことがあったので、祐樹の母には信頼をおいている。
「生活のことは私たちが助けてあげるから。孫の嫁さんだものね。ねえ、あなた・・。」
いきなり奈美の横にいた幸恵がそう言って、私の同意を求めてきた。
私は部屋の片隅で、パソコンを開いてネットを見ていた。何となく、祐樹の母のような派手な業界にいる女性には話しづらいのである。それでも、
「そうだよ。幸恵の言う通りだよ。」
と言って、笑顔を見せて妻に同意した。
「いいご家族をもててよかったわよね、奈美ちゃん・・。雑誌社の仕事のことは、私に任せて。サリュとの交渉は私がするから。編集長はよく知ってるしね。しばらくゆっくり休めばいいわ。(まっすぐ奈美の顔を見ると)もし、働く気になったらいつでも奈美ちゃんの応援するから。ルガルデ(敏子が実質オーナーの雑誌社)でも奈美ちゃんなら大歓迎。」
気のせいかもしれないが、後半に喋った言葉に力が入っていた。
「僕が奈美ちゃんの現況話したら、やたらと機嫌がよかったのは、そんな魂胆があったんだ。ねえ、ママ・・。」
祐樹が薄笑いを受けべながら、母親に嫌味を言う。こうやってからかうのが、祐樹の母への親しみを込めた接し方かもしれない。
「私はいつも奈美ちゃんの味方だから。」
敏子は息子の言葉を無視するかのようにきっぱりそう言うと、奈美の両手を握って微笑みかけた。
(吉祥寺のマンション)
奈美が、阿佐ヶ谷の私のマンション滞在するようになると、私は反対に、日曜にカフェに行ったついでに吉祥寺の正治が一人で暮らしているマンションを訪ねるようになった。
「じいちゃん知ってた?弱い力、強い力、電磁気力、重力は、ビックバンが起こる前、元々同じ素粒子から枝分かれしたこと・・。それも宇宙誕生の瞬間前に驚異的短時間で枝分かれしたんだ。だから、重力の公式も電磁気力の公式も距離の二乗の逆比例でよく似てるんだって。」
正治が夢中になって私に話しかける。
私は東京に来て以来、不思議と病気の症状が顕われない。そのせいで少し油断をしていたのかもしれない。日々の行動範囲が、無意識のうちに広がっていた。
「それで・・。」
私は正治がどうしてそんなに興奮しているのか理解できない。
「電磁場も重力場も根源的に同じメカニズムを持っている素粒子かもしれないな。そうすると、二つの場から発生する力に何らかの共通点があるのじゃないかな。例えば人が発する異常なエネルギーが空間の或る一点に集中したとき、素粒子のスピンがマイナスにそろってしまう相転移を起こして、それが重力場や電磁場に異常なエネルギーを与えるのかもしれないよ。」
どうやら、正治は奈美の持つ超能力を科学的に解明したいのかもしれない。
「お前の言うことには、無理があるんじゃないか。」
私は冷たく突き放すように言った。
すると、正治はいきなり絨毯に寝転がり、両手を枕に天井をじっと見つめている。
「それにしてもさ。奈美には完全犯罪だって不可能じゃないんだよな。」
正治が独り言を呟くようにそう言った。私がぎょっとして孫の顔を見る。
「いや、冗談・・。」
正治は私の真剣な顔を見て、ごまかすようにそう言った。
「今は奈美ちゃんのコントロールが完全に効いてる能力じゃないかもしれない。(少し沈黙が続き)ただ、だんだん意思通りに使えるようになったら・・。」
私が正治の言葉に合わせるように、そう呟いた。恐らく正治も同じようなことを考えているのかもしれない。
「それに、発生する反重力場の規模が大きくなったら、どうなるんだろう・・。」
正治の表情が不安で曇っている。そして、二人の間にしばらく沈黙が続く。
「やめとこう。何だか怖くなってきた。」
私は自分が想像していることを振り払うようにそう言った。
「この頃、奈美のことを考えると、普通に生活するってどういうことかわからなくなる。」
正治も先日の事件以来、奈美の超能力をどう受け止めればいいのか真剣に考え、精神的にも相当参っているようだった。
「正治、近々私は徳島へ帰ろうと思ってる。」
私は今日、このことを知らせるためにここへ来たのである。私の話を聞いた正治が、上半身を持ち上げて、私の方を向いた。
「どうして?」
「奈美ちゃんんと正治に、今住んでるマンション譲るよ。ここの家賃、奈美ちゃんの負担なんだろう。それに、私とばあちゃんもずっと東京で暮らすつもりはないしな。最後は生まれた土地で死んでいきたい・・。」
この言葉は、私の本心だった。私の言葉を聞いて、正治がめそめそ泣き始める。
「僕もそのことが不安だったんだ。僕にはこんなマンションの家賃支払う能力ないし。
大学はやめたくないしね。奈美のことを思うと、これ以上彼女を雑誌社で働かせられないし。」
正治はそう言うと、目からあふれる涙を手で拭った。正治は彼なりに今度の事件をどう乗り越えたらいいか真剣に悩んでいたのである。
(徳島へ)
羽田空港は、いつ来ても私を特別な気分にしてくれる。人の行きかうあわただしさとは別に、どこか遠くの世界に連れて行ってくれる期待が、他の場所では味わえないわくわく感を与えてくれるのである。もっとも、これは私のように数年に一度しかこの場所を訪れない人間に限った気持ちかもしれない。
嬉しいことに、私たち夫婦を見送りにみんなが集まってくれた。
「なつみちゃんは、学者になるのか?」
私が笑顔で声をかける。
「なれたらいいんですけど。」
なつみが答えてくれる。
「祐樹君は、ママの後を継いで実業家かな。それとも、やっぱり、なつみちゃんのように科学者かい?」
「学者というタイプじゃないみたい。なつみのように才能もないし。でも、何かにがんばります。」
彼なりに素直に答えてくれる。
「マー君は、奈美ちゃんを大切にな。もちろん自分の夢も大事にして・・。」
私はいつの間にか、田舎の校長先生が卒業する生徒たち一人一人に声をかける気分になっていた。
正治が、何も言わずに笑顔を見せて頷いた。
「それと、ジョッショと愛生ちゃん、(言うことがなかなか見つからず、間合いが空く。)
なんだ・・、適当にがんばれよ。」
思わずジョッショが、ガックっと肩を落とし、
「それだけ?」
二人が思わず同じような言葉を発する。
「二人にいろいろ言ってもな・・。今は愛と希望で一杯だろう。」
私がそう言うと、二人が同時に顔を合わせて照れたように微笑んだ。ジョッショの長所は人に対して素直に反応する性格かもしれない。
最後に、私は奈美の方を見て、
「奈美ちゃん、あまり真剣に考えすぎないようにね。C’est la vie.(セラビ)だ。」
そう言うと、彼女の顔がやっとほころんだ。
私はその後、鞄を両手に持って、妻がみんなと話し始めるのを尻目に、搭乗口にさっさと向かった。ただ、目からあふれる涙を拭う事ができないので、何度か鞄を下に置くとハンカチで頬を伝う涙をぬぐった。
「これでよかった?」
飛行機に乗って座席につくと、妻が小声で聞いてきた。
「お前に感謝しなくっちゃな・・。これで永遠に眠られそうだ。」
私はそう言って、彼女の顔を見てにやりと笑った。
「いやね、縁起でもない。そんなこと言うなら、二度と頼みは聞かないから。」
私は妻の言葉を聞かないふりをして、座席に沈み込むと、体の力を抜いてじっと目を閉じた。
(再スタート)
奈美は祐樹の母のブティックで事務職として働くことになった。なつみは大学が休みの日にレジで、愛生は客のアシスタントとして働いている。
ブティックの前のビルの十階にあるカフェで、三人が仕事の終わった土曜のくつろいだ時間を過ごすのが習慣になっている。愛生にとって奈美は憧れの存在であり、なつみは愛生のために、家庭教師をしてくれる頼れる姉のような存在だ。
奈美は髪を後ろに束ね、白いかったシャツに黒のパンタロン。何とか目立つのを避けるかのように、化粧もファンデーションだけである。外ではいつもキャップをかぶり、俯き加減に視線を落として歩いている。彼女のモデルとしての人気は根強いものがあったので、こんな恰好をしていても声をかけてくるファンがいた。
「昨日さ、奈美ちゃんが化粧しないで通勤してるのに気付いて、なんかカッコいいから、私も真似して大学へ行ったのよね。」
なつみがそう言っただけで、愛生が彼女が言おうとしていることを想像したのか、にやにや笑い始めた。
「そしたら、マー君と祐樹が私とすれちがったのに声もかけないの・・。仕方ないから私が二人を呼び止めたら、私が誰だか分からなっかたんだって。失礼しちゃうわ。」
なつみはそう言うと、ため息をついた。横にいた愛生がこらえきれずに噴き出した。奈美は無反応でケーキを食べている。
「でも、なつみは可愛いわよ。」
奈美は顔を上げると、淡々となつみを擁護した。
「ありがとう。でも奈美が言うと上から目線に聞こえるわね。ねえ、愛生ちゃん。」
なつみは奈美への嫉妬をにじませた。
「わかります。奈美さんは普通にしていても目立つんだから。私と一緒に歩いていても男の人の視線はいつも奈美さんに向くんです。女として嫉妬しても当たり前のように思うんですよ。でも、奈美さんと、一緒だと他人の注目を自分も浴びてるようで、誇らしい気持ちにもなるけど。」
「それ、ある。芸能人と友達になったような気分・・。」
なつみが愛生に同意する。
三人の他愛もない会話が沈黙を作ることなく続いていく。夕日がビルのガラスの窓に差し込んで、土曜の夜の解放感を演出しているようだった。
「なつみは重力場ってどうやって説明する?」
奈美がいきなり科学的な質問をなつみに投げかける。愛生にとって二人のこの種の会話は習慣になっているので、驚きも感じなくなってきた。
「電場なら光の交換が作用するし、磁場なら磁力線を確認できるでしょ。でも、重力場は分かりにくいよね。でも、重力場も伝わっていくものなの。光の速さでね。だから確かに存在してんの・・。マー君もこの頃しきりと重力のことに関心があるけど、なんか気になることでもあるの?」
なつみが奈美の顔をじっと見る。奈美が質問したにもかかわらず、なつみの視線を避けるように、窓の方に視線をやる。
その時三人のテーブルに近づいてくる二人の男女がいた。
「もしかして、愛生ちゃんじゃない?」
二人のうちの女の方が愛生に声をかけた。
愛生の表情がさっと変わる。二人は大学生風で、手には資料をファイルしたバインダーを持っている。
「私たち神の国のメンバーなの。わたしはあなたと同郷よ。まさかこんな所で会えるなんてね。」
女性は親し気な笑顔を見せている。男は側でじっと立っている。
愛生は何も言わずうつむいたまま、流れる時間をじっと我慢しているようだった。
「余り私と話したくないようね・・。失礼するわ。」
女はそう言うと、不敵な笑みを残して立ち去ろうとする。その行動を奈美となつみがじっと目で追っている。
すると、女は再び立ち止まり、愛生の方を向いて、
「あなたのかあさん・・、東京の教団施設にいるわよ。」
そう言うと、愛生の反応を確かめもせず、横に立っていた男と共に立ち去った。
その後見せた愛生の動揺した表情を見て、奈美となつみは、彼女に今の事情を聞く事もなく、
早々にカフェを立ち去ることになった。この時から、心の不安が愛生を覆い始めたのである。
(神の国の企み)
愛生には、カフェで声をかけられた女に記憶があった。岩手の実家にいるときに、母が信者の親子を連れてきたことがあったのだ。
「愛生とは同い年の椎名みどりちゃん・・。挨拶しなさい。」
みどりは愛生とは違い、自分の母の信じる宗教を熱心に信じていたようだった。愛生の母は父のいない間を狙って自宅に帰って、父が大切に保管していた宝飾や貴金属を物色すると、それらを持ってきた鞄に入れ、一緒に来た親子に手渡した。そして、再び逃げるように、その親子と家を出て行ってしまったのである。
恐らく、あの親子は愛生の母の見張り役も兼ねていたのだろう。その時の愛生は、そんな母の行動を黙って見守るしか仕方がなかった。
そしてまた、東京で彼女との偶然は重なった。
椎名みどりが、ジョッショの通う大学のキャンパスにまた現れたのである。
「愛生ちゃん、また会ったわね。」
ジョッショと山井(ジョッショ学友)と一緒に大学の校庭を歩いているときに声をかけてきたのである。
「知り合いなの?」
みどりの言葉に最初に反応したのはジョッショであった。
みどりは原宿のカフェでいた時と同じように背の高いがっしりとした男と一緒にいた。
愛生はジョッショの質問に答えることなく黙ってうつむいてしまう。
すると、今度はジョッショの横にいた山井がみどりに声をかける。
「あんあた、この前俺に声をかけてきただろう。国際平和研究会の勉強会に参加しないかって・・。」
山井の大きな声に、みどりと横にいた男が当惑の表情を浮かべる。彼らにとって、想定外の人物が割り込んできたのである。
「そうだったっけ。私たちは毎日何人もの学生に声をかているので、あなたのことは覚えてないわ。ねえ、覚えている。」
みどりはそう言うと横にいた自分の友達の男に確かめた。
男は首を振ると、
「俺たちもここの学生なんだ。新入生に声をかけるのは、部活に誘っているようなもんだしね。改めて、君も我々の活動に関心があればいつでも参加認めるよ。」
男は笑顔を見せているが、目だけは狡猾そうに辺りに視線を配っている。
「それって、キャンパスで信者を募る隠れた活動じゃないのかな。俺、ニュースでそんなこと言ってんの聞いたことがある。おたくら、神の国の信者じゃないの?」
ジョッショの単刀直入な言葉に少し動揺したのか、二人はそれ以上何も言うことなく、その場から逃げるように立ち去った。
「愛生ちゃんは、あの女性知ってるのかい?」
二人がいなくなるのを待って、山井が愛生に尋ねてきた。愛生はいつもの元気がなく、ただ黙って頷くだけだった。
「大丈夫。俺が守ってやるから!」
沈んだ顔をしている愛生に向かって、ジョッショが根拠のない言葉で励ました。
「しかし、どうして奴ら・・、愛生ちゃんに声をかけてきたんだろうな。彼女が声をかけてきたの、今度が最初じゃないんだろう?」
山井が不審そうな顔をしてそう言った。
「奈美さんとなつみさんと原宿にのカフェいた時にあの人たちが声をかけてきたの。私は何も言わなかったけど・・。」
愛生はジョッショの優しい言葉に勇気づけられたのか、いつもの明るい顔で山井にそう答えた。それでも、自分に忍び寄ってくる得体のしれない不安を一掃することはできなかった。
一方、愛生の周りにいた想定外の男二人に戸惑ってしまったみどりと今野(みどりと同じ神の国の信者)は、いったん愛生の身辺について幹部に報告するために教団に向かった。
(教団 神の国)
神の国には、階級があった。「神の主」は教祖である。彼は、信者が信じる象徴であり、彼らの神と直接対話ができる唯一の存在である。信者は主のお告げを神の御心として、絶対服従である。主の下に「主の使い」という教団NO2にあたる人物がいる。教団は実質的にこの男が運営に当たるのである。今、「主の使い」として実権を握っているのが名城耕平という正治やなつみ、祐樹が学ぶ大学(日本最高峰のの大学)の数学科を卒業した秀才と言われる男である。そんな男がどうしてこの教団に関わるようになったかは不明であるが、大変な自信家である名城にとって、信者が自分に恭順する姿は、彼の虚栄を満たしてくれる心地よい環境であることは間違いがない。
ちなみに、教祖と言われる「神の主」はと言うと、高校中退後、様々な職を遍歴して、ある日突然悟りを開いたそうである。ここまでの教団に成長するには、教祖と名城との出会いが必要不可欠だったことは言うまでもない。名城は、教祖の何ごとにも怯むことを知らない度胸の良さと、どんな見え透いた空想も素直に受け入れる蒙古邁進型の性格を、教祖としての必要条件を備えた稀有な人物だと思っている。ところで、名城は本当に教団の教えを信じているかというと、いささか疑問点もある。しかし、彼にとって、教団は自分の権力をほしいままに操れる都合のいい宗教集団であったのは事実である。
神の国の修行の場と呼ばれる大講堂に信者数十人と勧誘されて集まった連中が、教祖の神のお告げを静かに聞いている。その中にはみどりと今野の姿もあった。驚いたことに、みどりたちに誘われたジョッショと山井の姿も見られたのである。それは、山井の提案だった。愛生を苦しめる組織の実態を確かめることで、どうやってこの宗教団体と縁が切れるのかを探ろうと、ジョッショを誘ったのである。
「初めて自分がこの世に存在することを意識した時、自我の反省が誕生する。そして、自我の確認は、時間の流れの中で記憶の中におしとどまり、自分の生の根拠を探し始める心の葛藤が始まる。やがて答えの出ない葛藤に終止符をうった時、自分の生きてる世界が自我の反省をしなくても自分がその場にあることに何の支障もないことに気づくのである。それは、自分を巻き込むこの世の営みが、流れる時間と空間が一体になることを意味するのだ。しかし、流れる時間の生なる営みが続く限り、やがて人は死という事実に直面する。自我を反省しなくなった自分にとって、永遠に続くはずだった世界が、死という事実を身近にとらえるようになることで、生に限りがあることを知るのである。その時、人の業は死を忌み嫌い、自分という自我の永遠の継続を願うようになるのだ。この時、人の心に、魂の救済が芽生え始めるのである・・。つまり魂とは、「自分であること」を、時空を超えた永遠の存在へと高めることを意味するのである。それでは、その永遠の魂を持つにはどうすればいいのだろうか・・。(自分の言葉を聞き入る信者の顔をぐるりと見渡す。)それは、我が心に宿った神の慈悲にすがるしかないのである。我が神を信じたものだけが、神の国にいざなわれ永遠の魂を約束されるのだ!」
教祖の声が甲高く講堂に響き渡り、彼の唇が震えている。
彼の、信者を説得しようとするエネルギーに引きずられるかのように、信者たちは皆、首を垂れてすすり泣き、うめき声をあげて感動の世界に陶酔しきっているのである。
やがて、神の主は畳に胡坐をかいたまま、その場で50センチ程飛び上がった。
「おおお!」
信者たちのどよめきで、講堂の空間が揺れ動くのではないかと錯覚する。皆立ち上がり、思う存分体を揺らせながら講堂を駆け回る。その場が異様な雰囲気に包まれて、信者たちの狂気が炎のように空間を感動の嵐に巻き込んでいった。
「内なる魂が、我々の肉体の呪縛から解き放たれた!」
一人の信者があらん限りの声を振り絞り、目を血走らしてそう叫んだ。
「おおお!」
呼応するかのように他の信者が雄たけびを上げる。
この騒然としたお祭り騒ぎは、1時間以上続いたのである。ただ、ジョッショと山井だけは、彼らの大騒ぎを講堂の片隅に座ったまま、呆気にとられたようにじっと眺めていた。
ジョッショと山井は、神の使いである名城公平に、教祖の法話の後部屋に招待された。
「どうでしたか、我々の信仰の有様は?私たち信者は何の疑いもなく、神の主の教えを信じている。彼らの素直な心がおわかりいただけたでしょうか・・。」
名城が笑みをたたえながら、丁寧な言葉で二人に話しかけた。
「宗教というものに今まで触れたことのない私には、少し奇異に見えました。」
山井が正直な気持ちを打ち明けた。同感するように、ジョッショが彼の横で頷いた。
「そうですか。(笑顔を絶やさない)でも、これに懲りずにまたいらしてください。出来れば、あなたのお仲間とも・・。(笑顔が消えた)今野の話によると、愛生さんやあなた方は、雑誌サリュのモデルの奈美さんともお知り合いとか・・。主によると彼女には聖なるにおいがするそうです。ぜひご一緒に・・。」
ジョッショには、名城の目が一瞬光ったような気がした。
「やけに俺たちを丁重に扱うと思ったら、どうやら奈美さんが狙いか・・。」ジョッショは一瞬名城の魂胆を見抜いたような気がした。山井は奈美に会ったこともないので、名城の意図が分からなかった。
「一つ質問をしてもいいですか?」
ジョッショは、名城という男の人を見下すような視線がさっきから気になっていた。
今、彼の魂胆が分かった以上、他人を見下す自信の根拠を探ってみたかったのである。
「どうぞ、私に答えられることならなんでも説明しますよ。」
再び名城の顔に笑みが戻る。
「教祖が言っていた”自我の反省”っていったいどういう意味ですか?」
今度はジョッショの顔に笑みがこぼれる。言葉のレトリックの薄弱さを指摘しようとしたのである。
すると、名城は近くのテーブルに紙を置いて、鉛筆で線を引いた。
山井とジョッショが不思議そうな顔をして、名城の顔を見る。
「この線をあなたが生まれた時からの時空の流れだとする・・。」
いきなり、名城が意味不明の話を始める。二人は黙って彼の説明を待っている。
「あなたはこの時空の流れのどこにいるか確定できますか?」
名城はそう言うと、二人の顔を見てにやりと笑った。
「線が時の流れなら、線上の一点を今自分が生きてる瞬間だと指定すればいいだけじゃないんですか?」
山井が当たり前のように名城の質問に答える。
「ところが、指定した瞬間、その位置は右(時間の進行方向)へと進んでしまう。つまり、自我の反省とは、時間を止めて記憶の中で自分を確認することなんです。簡単に言えば、今の自分ではなく、過去の自分を、記憶を借りて再認識することなんです。この世を生きることは曖昧模糊とした時間の流れの中で不確かな自分の生を営んでいるだけなんです。主が言っている魂の力とは、そんな自分の曖昧な存在に永遠を吹き込むことによって、この世の時空を超えた神の世界に踏み入ることなんです。神に祈りを捧げることによって・・。」
名城の言葉は、ジョッショや山井にとって、自分たちがけむに巻かれたようにしか聞こえなかった。
(現実の世界)
「ジョッショと山井君は、ハイゼンベルグの不確定性原理という理論を聞いたことない?」
なつみが名城の言葉を二人から聞いて、咄嗟にそう言って二人の顔を見た。
「聞いたような気もするんですけど・・。」
山井は自分の学識を胡麻化すようにそう言って、否定も肯定もしなかった。
「少なくとも物理学を目指して大学に入ったんだから、不確定性原理ぐらいは知っときなさい。」
なつみがそう言うと、ジョッショと山井は何だか奈美と愛生の前で恥をかいたような気持ちになった。
奈美と正治が住む阿佐ヶ谷のマンションは、いつも仲間のたまり場だ。
都心に近いということと、居心地のいいスペースがあるというのが理由であるが、ここに来れば奈美に会えるという期待が、彼らをこの住まいに引き付けるのだった。彼女には、容姿以外に、人をひきつける得体のしれない魅力があった。
「例えば、時間の流れである線上の或る一点を指定するのに、電子のような素粒子の単位を考えるね。もちろん、点に厚みがあるとしたらそれは事実上点とは言わない。そこで、極小である素粒子の次元まで質量を下げてみることにしたの。ところが、電子は位置と速度を同時に測定することは不可能なの。つまりね、時間の流れの線上に位置を確定することは不可能なの。逆も言えるけどね。少なくとも、我々の生きてる時空の中では・・。」
ジョッショと山井は、名城の時と同様、再びけむに巻かれることになる。
「要するに、時間の流れと位置を同時に表現するような線を描くことは不可能だということですか?」
意外にも、なつみの言うことを納得したのは愛生であった。
「そう言うことなんだ。ジョッショと山井君は名城氏にからかわれたのかもしれないね。だって彼ならそのぐらいのこと知ってるはずだもの・・。」
なつみがそう言った瞬間、ジョッショと山井は返す言葉もなく、ただじっと押し黙ってうつ向いているしか仕方がなかった。彼らの態度を横で見ていた奈美が思わず噴き出した。それにつられるかのように、愛生となつみの爆笑が部屋の中に響き渡った。
「しかし、確かに現実に時空は存在するよね。空間は現に私を生かしてくれてるし、時間は確かに環境の変化と共にある・・。この事実をどうやって説明すればいいのかしら。」
愛生が改めて、なつみに疑問を投げかけた。ジョッショは愛生の言葉を聞きながら、彼女の方が自分より明晰な頭脳を持っているのじゃないかと思い始めていた。
「そうだろ。線を描いて時間の流れで例えても、誰も違和感を持たなくても不思議じゃないよね。」
山井が愛生の主張にすかさず乗ってきた。
「自分の意識の中で、絶対的存在である時空を前提としているから、自分の存在の確認ができるのかもしれないよ。つまり、自分がいると確信するから、生きてる次元の時空が存在するのかも・・。でも、それは現象としては事実じゃない。そう考えれば、時間の流れも納得がいく。だって、自分の想像力の中なら、時間と位置を同時に測定できることを可能にしくれるんだもの・・。量子力学が誕生する前の科学者たちもその前提で物事を見ていたのだと思うよ・・。ラプラスという学者は、科学はすべての未来を見通せて、すべての現象が理解できる完璧の域にまで達したと豪語したらしいのよ。まさにシュレジンガーの猫の疑問はなかったんだから。ただ、現代科学はとんでもなく人の常識を打ち破ってきた。現に、相対性理論の数式から生み出された論理的整合性で、加速度が時間を伸び縮みさせるなんて納得できる?普通の人なら誰が信じる?そんなこと・・。」
なつみはいつの間にか周りの連中のことを忘れて、自分の主張に酔っているようだった。
「なつみの悪い癖が出た。いつの間にか、周りの連中を振り切って、自分だけが納得する世界に入っちゃうんだもの。ちょっと羨ましいけどね・・。」
奈美はそんななつみが、大好きだった。
「なんだか、教団での俺たちの体験は無駄だったような気がするな。」
なつみの主張についていけないジョッショが、諦めたように呟いてため息をついた。
「そんなことないよ。二人だからこそ、そんな突飛なことができたんだよ。きっと愛生ちゃんを悩ませる教団を内部から知ることは、見えない不安から逃げないことだからね。」
奈美はそう言って、二人を励ました。
「教団はむしろ愛生を使って、奈美さんをターゲットにしているみたいだけど・・。」
ジョッショは、むしろ奈美のことを心配していた。
「私?(ニヤッと笑い)大丈夫・・。」
ジョッショだけは奈美の秘密を知っているだけに、彼女の自信が納得できた。
「奈美さんは普通じゃないもんな。」
ジョッショが意味ありげな言葉をはいた。ただ、誰も彼の言葉に反応しなかった。
その時、正治が帰ってきた。
「どうしたの?」
部屋に入ってきた正治の沈んだ表情をすぐに察知した奈美が、そう聞いた。
「うちのじいちゃん・・。昨日から総合病院に入院したようなんだ。」
正治が奈美の質問に答える。
「深刻なの?」
ジョッショの表情も一変する。
「ばあちゃんの話では、かなり深刻なようだ。本人には話してないけど・・。」
正治の話は、この部屋にいる全員に得体のしれない不安を呼び覚ましたようだった。