ジョッショの友達ナナ宗教編4-1
奈美の魔法は宗教団体に挑戦。そして、私の死。
「ジョッショの友達ナナ4-1」
愛生が父の危篤を知ったのは、授業時間であった。いきなり校長が教室に入ってきて、数学教師とひそひそ話を始める。
部屋のあちこちでざわめきが起こり始めた時、
「静かに!副島愛生君ちょっと来なさい。」
校長の声にびくっとしながら、愛生が俯いていた顔を上げた。
彼女の家庭の急変は、大学受験を目前にした彼女の将来に、暗い影を落としていた。彼女の父は、代々続く酒蔵の御曹司として酒造会社を経営し、彼女も生活に窮する様な家庭ではなかった。ところが、母が新興宗教に入信し、彼女の家庭環境は一変したのである。
父と母は何度となく大声で怒鳴りあって喧嘩をし、次第に家庭は崩壊寸前になっていった。
やがて、母は家出をして、父と愛生とで日々の暮らしを維持することになったのである。当然、大学受験を目の前にして、愛生は将来の見通しすら立たなくなってしまった。教室で顔を伏せて睡魔をこらえる習慣は、日頃の不安で夜も十分に睡眠が取れないことが原因であった。
校長から父の危篤の知らせを聞いた愛生は、家に大急ぎで帰ったが、父の死に目には間に合わなかった。彼女が父の遺体が置かれた部屋に入っていくと、叔父と叔母がすでに父の横たわる布団のそばで座っていた。
「愛生ちゃん!」
障子を開けた愛生に声をかけたのは叔母であった。目を真っ赤にはらし、愛生に何かを訴える様な悲壮な顔で、真っすぐ彼女を見つめている。
愛生は叔母の視線を避けるように、父の枕元で崩れるよに座り込んだ。父の顔には白い布がかけられている。
「自殺だそうだ。今まで警察の人が来ていてな。ちょうど今帰ったところだ。」
叔父が沈痛な面持ちで、愛生に事情を話す。
愛生は俯いたまま父の手を取って、あふれる涙を布団のシーツにしみこませた。すでに、父の手は冷たくなって、愛生の手の温みを奪っていく。
「とおさん・・。何だよ、私を独りぼっちに置いてきぼりにして・・。」
そう言って、愛生は自分の唇をきつくかんで、口からこぼれそうな嗚咽をこらえた。
「愛生、父さんを責めんなよ。兄貴(愛生の父)も切羽詰まった決心だったんだろう。わしだって、兄貴の立場に追い込まれたら・・。」
叔父はそう言うと、絶句してすすり泣き始めた。
しばらくの間、三人とも何も言えず死んだ父の横たわる周りで俯いて、時が止まって真空状態のような空間で、何をどうしたらいいのか判断するのさえままならず、真っ白な思考の中に落ち込んでいた。
どのくらい時間が経ったろうか、辺りが薄暗くなるのに気づいた叔母が慌てて立ち上がると、父の体の真上にあった照明に明かりをつけた。
「とにかく、事を前に進めなくてはな。」
叔父が意を決したようにそう呟くと、顔をあげて二人を見た。
「葬式は三人でひっそりとしてやって、兄貴を送ってやろうと思うんだが・・。(ためらいの表情を浮かべて)事情が事情だけにそれがいいと思うんだ。」
叔父の低い声に、叔母が頷いた。
「愛生はそれでいいよね。」
叔母が愛生に確認をとる。
それに答えるように、愛生が頷いた。
葬儀はあっという間に片付いた。葬儀場の祭壇の前の椅子に座った三人の無言の参列。もちろん最後の挨拶などない。そんな葬儀に、戸惑う請負業者の不審そうな顔だけが印象的だった。朝から始まった葬儀が終わって父が荼毘に付された時、すでに夕日が辺りを染めていた。秋の終わりが近づき、三人が座るソファーの上に一日の日の短さを象徴するように、暗闇が迫ってきている。
叔母が慌ててシャンデリアの吊られた照明に明かりをつける。
「やっと済んだ・・。」
叔父はそう言うと、安堵したのか大きくふっとため息を漏らした。
「こんなことになったのも、美佐江さん(愛生の母)のせい・・。」
叔母が、黙ってこらえてきた怒りを押さえきれずに口に出した。
同調も反論もしない愛生と叔父は、じっと黙っている。
「愛生には酷だが、現実を知ってもらわねばな・・。」
叔父が重そうな口を開いた。
外で、からすの鳴き声が寂しそうな夕暮れの空気を伝って聞こえてくる。
愛生は叔父の言葉にも俯いたままだ。
「お前の父さんが、昨日わしに会いに来てな・・。その時胸騒ぎはしたんだが、兄貴があんまりにも陽気だったんで、どこかで油断してしまった。」
叔父はそう言うと、叔父の目から涙がこぼれた。そして、小さなポシェットを愛生の前に置いた。
「娘の大学入学祝いにやるつもりなんだが、”家に置いておいては愛生に見つかっていきなり驚かすことができないので、預かってくれないか”って兄貴が言ったんだ。わしは不審に思ったんだが、今言ったようにやけに陽気な兄貴の顔を見て、すっかり兄貴の言葉を信用してしまった。(愛生の方を向いて頭を下げ)すまん・・。」
そのポシェットは包装紙に包まれ、つい最近買ったようにように見えるが、数か月前に父が愛生に買ってくれたものだった。
「何か入ってるの?」
叔母が、そのポシェットを見ながらそう言った。
「愛生名義の通帳だ。(少し躊躇しながら)百万円ある。」
愛生は、叔父の言葉に落胆した表情を見せた叔母の顔を見逃さなかった。
事実、父は今まで金に困ったことはなかった。つい最近まで、父の経営する酒造会社も堅実な商売をして、愛生が大学へ進学することで経済的心配をするなんて考えも及ばなかった。それが突然、母が新興宗教に入信したのである。半月も立たないうちに、愛生と父の何不自由のない生活が一変した。母は、父の知らない間に、勝手に家の通帳を持ち出すと、全て教団にお布施として寄付しまったのである。たちまち資金繰りに窮した父の会社は倒産し、残った家屋敷も全て借金の穴埋めに取られてしまった。
「人間なんて転び始めると、いくら止めようとしても勝手に転がって奈落の底に落ちていくもんだな・・。」そう言って、愛生に悲し気な笑みを漏らした父の顔が、叔母の表情と重なって、やり場のない怒りとも恨みともつかない感情の高ぶりが頂点に達する。
突然、今まで我慢しようと思っていた愛生の感情が、涙となって堰をきったようにあふれ出た。やがて、その涙は絨毯の上に落ちていき、その織物の中に痕跡も残さず染み込んでいった。そんな愛生にどうやって言葉をかけていいか分からず、叔母も叔父も黙って目を閉じるしかなかった。しばらくして、
「この金は父さんが愛生にしてやれる最後の思いやりだったんだ。大切に使いなさい。」
叔父がそう言って、ポシェットから取り出した父の通帳を愛生の目の前に置きなおした。愛生は何の反応も示さず、だだじっと自分のポシェットを見つめている。
「ところで、愛生の今後のことだが・・。」
叔父の言葉に、その場に緊張が走る。
「わたし、東京へ行く。」
愛生は、叔父と叔母の重荷になるかもしれないという危惧を一気に払拭するように、きっぱりとそう言った。
しかし、彼女の決意は、希望を抱いた選択ではなかった。
「それしか仕方がない。」という確信にも近い咄嗟の身の振り方だったのだ。
やがて、愛生は高校を中退すると、皮肉にも大学の入学試験の時期が終わる頃に、東京へ向けて旅立ったのである。
(ジョッショとバサム)
私(田辺洋英)が倒れて、救急車でこの病院に担ぎ込まれてから一月余りになる。妻の幸恵は毎日のように病室を訪ねてくる。二人の間の話題と言えば、大学受験が迫ってきているバサム(シリア避難民、日本で永住資格を取得)とジョッショの話が最大の関心事であった。
「バサムは全国共通試験で推薦入学が決まりそう。高校でトップの成績だったから、面接で、”余程しくじらなかったら大丈夫”って先生に言われたわ。」
バサムは、自分の夢であった医師になることに一歩近づいていたのである。
「アリー(バサムの父)が喜んでいるだろう。」
私にはアリーの顔が手に取るように想像できた。
「そりゃもう。毎日私の家に顔を出して、息子の合格の可能性を確かめていくの。そのたびに、”大丈夫だ”って言ってあげるのに、また次の日顔を出して私の表情を確かめながら、同じことを聞いていくのよ。私が”間違いなく大丈夫。先生もそうおっしゃってたわよ。”って言ってあげると、いつものようにほっとした顔をして帰って行くの。」
アリーは、バサムの高校での進路相談を妻の幸恵に頼んでいたのである。日本の大学の事情も分からず、難しい日本語も自信がないというので、バサムの進学の状況は全て妻が把握していた。
「ジョショの方はどうだ。」
私がそう言って妻の顔を見ると、今まで嬉しそうな表情がいきなり曇った。
「ジョッショは国立にはいけないんじゃないかな。やっぱり、英語と国語と社会がね・・。
数学と物理は、バサムよりいい点だったのよ。」
妻の言葉に、私は少しジョッショに悪いことをしたような気になった。
ジョッショに会うたびに、理系科目と文型科目を同列に扱わず、数学と物理に力を入れるようにしつこく言い聞かせたのである。
「じいちゃんは、お前が文型の学部に行くつもりなら学費は出さんからな。」
半ば脅迫するようにジョッショにそう言ってきた。
私は若いころ哲学に熱中して、フランスにまで留学した経験がある。しかし、結局「存在の不思議」を教えてくれたのは、年を取って学んだ相対性理論や量子力学だった。難解なテンソルや多様体は、物の見方を根本的に変えてしまうような人間の英知が含まれていた。
「もう少し若いころ数学や物理をやっていれば、もっともっと自分の知りたい存在の不思議が垣間見えたのに・・。」そう思ったとき、孫の正治や義治には、自分の感じた後悔を味わわせたくなかったのである。
「そうか・・。」
私はそう言うと押し黙ってしまい、二人の間に会話が途絶え、しばらく静寂が続いた。
すると偶然、沈黙を破るかように、ジョッショとバサムが私の病室を訪ねてきた。
明るい日差しが病室に差し込み、ジョッショとバサムの出現で、今までの沈黙が一変した。
笑い声が病室に何度も沸き起こり、ジョッショとバサムの将来を語る熱気が、私と妻にもひしひしと伝わった。
「東京の大学で一流の教授の授業を受けてみたいんだ。でも、僕には兄ちゃん(正治ことマー君)のように東京の国立大学に入るほど頭良くないしな・・。」
ジョッショが私に東京の私立大学で学びたい希望を真剣に語っている。
一方、彼の会話を聞きながらバサムが笑いをこらえている。
「どうしたんだ、バサム。何か面白いことでも・・。」
彼の表情に気づいた私がバサムに聞いた。
「ジョッショは、東京へ行けば奈美さん(マー君の恋人)の様な恋人に出会えると思ってるんですよ。僕といるときはいつもそんな夢ばっかり話すんです。なあ、ジョッショ。」
ジョッショの狼狽は、見ていておかしくなるほどだった。
「お前だって奈美さんのような奇麗な女の人と付き合ってみたいんだろう。人のことだけそんな風にからかうな。」
ジョッショがバサムにくってかかる。
「僕は奈美さんをそんな風に見たことないよ。」
バサムがぽつりと言った。
「そりゃそうだ、奈美さんをそんな風に考えたら、近親相姦だもんな。」
ジョッショの言葉にその場が凍り付いた。ただ、バサムだけがきょとんとした顔でジョッショを見ている。バサムとアリーは、ナナが奈美としてこの世界に出現したことをしらない。この事実は、私と幸恵、ジョッショと正治、四人の秘密であった。
脇で聞いていた妻の幸恵が、いきなり会話に入ってきた。
「まあ、そんなところでしょ。ジョッショらしい発想だから。」
幸恵はそう言うと、ジョッショの不用意な言葉を胡麻化すように大きな声で笑い始めた。
私はジョッショの熱心な抱負に真剣に耳を傾けていただけに、思わずふっとため息をついてしまった。
「まあいい。孫の学費はばあちゃんが管理するから、必要なお金は、ばあちゃんに請求しなさい。それと、バサムの学費は死んだ山根から預かってるから。アリーもばあちゃんがそのお金を管理してくれるように頼んでるんで、必要なお金は幸恵からもらいなさい。いいね、バサム。」
バサムが素直に頭を下げて感謝の意を示した。
「遠慮いらないからね。山根さんは、あなたが医者になるまで困らない十分なお金を残したから。」
幸恵がそう言うと、バサムはうっすら涙ぐんでいるようだった。
私は改めて山根と一緒に通った丘の上の畑から眺めた夕日を思い出していた。
「”時はあっという間に過ぎ去ってしまう。”って山根がよく言ってたけど・・。今こうやってみんなと話している時間の流れもどんどん過去の記憶に変換されるんだろうな・・。」
私は、ただただ流れる時間の実感のなさを、漠然とした不安な気持ちで見送るだけだった。
「また始まった。”全ては不可逆的な拡散”ですか。訳わからない。」
幸恵は自分の思考に浸っている私を引き戻すように、そう言ってからかった。
その後、バサムは徳島の大学で医学を志し、ジョッショは東京の大学で学ぶことになったのである。
(奈美と正治)
正治(ジョッショの兄)は、お気に入りの椅子に座って、テーブルに置かれた瓶を手に取って、残ったウイスキーをグラスに注ぎながらじっと液体が落ちていくのを見つめている。
「マー君がウィスキーを飲むとはね。」
彼の動作を横から見ていた奈美がそう言って笑みを浮かべた。
「祐樹(学友)がママからもらったんだって・・。なつみ(学友)は見向きもしないから仕方なくもらったんだ。自分でもこんな酒飲めるなんて思ってもみなかった。祐樹は、奈美なら飲めるんじゃないかって言ってたよ。そんな雰囲気があるんだって・・。」
祐樹の言葉に、奈美が手を横に何度も振って否定した。
「私、お酒飲む人苦手なの。急に人格変わったらりして、あれって自分に自信がない証拠よ。」
奈美の勝手な思い込みのように思えたが、正治は敢えて反論しなかった。最近正治は少しずつ酒量が増えていた。
「それじゃあ。じっと黙って飲んでるぶんなら文句ないわけだ。」
正治がそう言うと、
「そう、だからじっと黙って飲んでてね。」
奈美はどこか不満げな表情を浮かべた。最近、奈美は、仕事のことかもしれないが、どこか精神が不安定になることがあった。
「奈美の魔法をしばらく見てないな。」
そのことを察知したのか、突然、正治が話題を変えた。
「魔法って、これのこと?」
奈美はそう言うと、目を閉じて一点に自分の意識を集中する。
すると、正治が持っていたグラスが手からすり抜け、床に叩きつけられ砕け散った。
「奈美!」
正治は驚いた表情を浮かべながら、奈美の顔を凝視する。
「最後に残ったお酒を駄目にしちゃって・・。残念でした。でも、マー君にはウィスキーは似合わないから。」
奈美の好き嫌いの感性は、理屈じゃなかった。その性格を把握するまで、正治は何度となく彼女の理不尽なわがままに耐えなければならなかった。なにせ、力ずくではかないっこない相手である。
「マー君が寛容な性格でよかった。」
奈美は癇癪を起こして、正治に軽い電撃を発することが何度かある。そのたびに、申し訳なさそうにそう言って、反省するのだった。
「奈美の能力に関心がある自分としては、実験体験のようなものさ。ただ、致命的な攻撃だけはやめてくれよ。」
正治はそう言って、奈美の自分に危害を与える能力を大目に見た。実際、彼は奈美の電撃を受けることに怒りを感じたことは一回もなかった。
「ごめんね・・。」
奈美は心から反省しているようだった。自分でも、自制が足りないことを自覚しているのである。半面、正治なら自分のどんな行動も受け入れてくれると思う甘えもあった。
二人が同棲を初めて二年近くになるが、深刻な喧嘩をしたことは一度もなかった。二人とも相手を信頼しきっているのかもしれない。
ところで、正治は奈美の能力に科学的根拠を見つけ出そうと、真剣に電磁気や量子に関心を示している。幸い彼の大学での専攻は彼女の超能力をテーマにするのに適していた。
「脳波を使って、いろんな外界の世界とつながることができるのは分かっているし、電子機器の操作も可能なことは実証されている。そう考えると、奈美の能力も単なる異次元の超能力という言葉で結論ずける必要はないかもしれないな・・。」
正治が、独り言のようにぶつぶつ呟いている。奈美は、やっといつもの正治に戻ったような気がして、満足げな笑みを浮かべる。
「マー君は、やっぱり普通の人と違っていないと面白くないわ。」
奈美の意味の分からない言葉に、正治はまるで気づかないかのように、自分の思考に没頭し始める。
「奈美の集中力は人に真似のできない異常な衝撃を外界に与えるのは分かっているんだ。まるで、体内にたまった電荷が放電して、空間に電場を生み出すようにね・・。つまり、奈美の並外れた精神の集中は、彼女の体に何らかの伝達刺激を与え、その衝撃で生じたエネルギーが電子を外界に弾き飛ばすのかもしれないな。」
正治は夢中になって奈美の能力に根拠を与えようとしている。こうなると、正治は自分の思考に閉じこもり、奈美の言葉にも反応しなくなる。奈美は、そんな正治が好きであった。
その時、正治のスマホにメールが届く。奈美がメールに関心を示し、正治の方を見る。
「ジョッショだ。」
奈美の無言の質問に促されるように正治がメールの相手を告げた。
「なんて・・。」(奈美)
「早稲田に合格したから、東京に上京するらしい。」(正治)
「そう。(少し躊躇しながら)バサムはどうなったのかしら・・。」
明らかに奈美の表情が緊張している。
「医学部受かったそうだ。(奈美に笑顔を見せて)よかったね。」
奈美の目が潤んでいる。
「父さん、喜んでるだろな・・。」
「夜中に酒に酔って、大通りで大騒ぎして警察が来たらしい。ジョッショのやつ、奈美の気持ちを考えて、大げさに書いてんだよ。」
「父さんのことを考えると、結構嘘でもないかもね。」
奈美はそう言うと、正治に向かって笑顔を作った。
「ジョッショのやつ、祐樹となつみにもメールしたらしい。二人からジョッショのお祝いに集まろって・・。」
「二人には、騒ぐいい理由ができたようね。」
正治は、奈美のこんなすがすがしい顔を見たのは久しぶりだった。
(愛生とジョッショの出会い)
ジョッショが東京に来て一か月が経った。大学生活にも慣れて、それなりに学業に専念する日々が続いている。彼は兄と奈美が住む吉祥寺からは遠く離れた西武新宿線の中野という駅の近くにアパートを借りた。理由は、大学に行くには比較的便利で、中央線よりは家賃が安かった。ジョッショは彼なりに私の妻(祖母に当たる)からの仕送りの倹約を気にしているのかもしれない。更に、授業のない土日には、コンビニでアルバイトも始めていた。ジョッショと愛生の出会いは二人が働き始めたこのコンビニだった。
実家から逃げるように東京にやって来た愛生は、父が残したわずかなお金を頼りに、ネットカフェで寝泊まりしながら、とりあえず自分の身元について何も聞かれずに雇ってくれたこのコンビニで働くようになったのである。
彼女は結局、高校卒業目前にもかかわらず、退学をしてまでして(担任の計らいで卒業資格は、後になって取得できた。)、故郷を逃げるように去らなくてはならなかった。それでも、自分に降りかかった不幸を悲しんでいる余裕もなく、ただその日を何とか生き残っていくサバイバルゲームのような暮らしが続いていた。
ジョッショは愛生と同じコンビニで仕事をしていた。
ジョッショは、忘れ物に気付きコンビニに帰ってきていた。この偶然が、後になって、愛生の運命を左右する出会いになっていくのである。
その頃、愛生は自分の衣類をバックに入れて、東京の街をさまよう生活が続いていた。身元保証人もいない愛生に住まいを提供する不動産業者はいなかったのである。そこで、職場で店員が入れ替わる合間を狙って、控室で身に着けている下着を取り替え、コインランドリーで洗濯して、最低限の清潔さを保っていた。「まるでホームレスみたい。」そんな自分を振り返るとき、思わず自虐的な言葉が口からついて出た。
この日も、いつものように注意深く、辺りの気配を見ながら急いで下着を脱いだのだったが、偶然のいたずらのせいで、ジョッショに自分の裸体を見られてしまったのである。
「ごめん・・。」
このジョッショの言葉が、愛生の脳裏にずっと残ることになった。
コンビニの仕事を終えて駅に向かう愛生の心はずたずたになっていたのである。
人間というものは、ふとしたきっかけで張り詰めた緊張の糸がぷつりときれることがある。愛生は、東京へやってきて彼女なりに生きることだけに専念していた。今の自分の状況を客観的に反省する余裕などなかった。「今という日を何とか生きていく。」ただそれだけが、愛生の日々の行動を支えていた。
それが、ジョッショに自分の裸体を見られた羞恥心で、生きていく張り詰めた自分の忍耐に小さな亀裂が生じた。その裂け目は、時間の経過とともに広がっていって、自分の心をずたずたに引き裂いてしまいそうになったのである。その時初めて「死」という言葉が脳裏をかすめた。泣きたい気持ちが襲い、目に涙がたまって前方がかすんで見える。
その時突然、背後から愛生を呼び止める声がした。
「ごめんね。」
ジョッショの謝罪の言葉だった。
自分の中に閉じこもって外界を意識しなくなっていたことに気付いた愛生は、驚いて振り返った。
すると、仕事を終えて後を追っかけてきたジョッショが躊躇いながら、
「君に謝りたくて・・。」
と、改めて愛生の目を見ずにうつ向いたままぽつりと言った。
「私の裸・・、つまりどうだった?」
愛生は、自分でも思いもしなかった言葉がついて出た。彼に対する敵意のような感情が、相手へ大胆不敵とさえ思わせる言葉になって、口からついて出たのだ。
「鼻血出そうになった。」
ジョッショはそう言うと、愛生の敵意を感じていないかのように、初めて愛生の目を見てにこりと笑った。
彼の余りにも無防備で無邪気な言葉は、愛生にとって、今までの鬱積していた屈辱や悲しみを一変させる起爆剤になった。そして、笑顔で自分を見ている青年に、ひょっとしたら今の自分を救ってくれるのではないかという、理由のないかすかな希望を抱き始めたのである。
「馬鹿!やめて・・。」
自分の心の動きとは裏腹に、彼女の言葉はジョッショに厳しくあたった。
「だけど、あれは僕に責任があるんじゃないよ。つまり、ちょっとした偶然が起こしたいたずらじゃないんかな。」
ジョッショが、愛生の高飛車な言葉に反抗する。
「でも、私の裸を見たのは事実だし。あんたがエロい気持ちを抱いたのも事実でしょ。」
愛生は引き下がらなかった。しかし、心の中では彼の戸惑った表情を見ながら、次第にさっきまでの自分自身に感じた惨めな気持ちが払しょくされていくのを、心の中で認識し始めていた。
ジョッショは愛生の言葉に反論できず、ただうつ向いたままじっと愛生の怒りの言葉を耐え忍んでいるようだった。なぜか、愛生はそんな彼の態度に好感をもって眺めている。
「まあいいわ。ちょうどお腹すいたから夕食おごりなさいね。それで許してあげるから。」
愛生の提案に、ジョッショが一瞬戸惑った。彼は今から兄に会う約束があったのである。愛生は、そんなジョッショの態度を見逃さなかった。
「いやなら許さない!一生恨んでやるから!」
ジョッショは、愛生の言葉に明らかに狼狽していた。
「わかった。何処でも君の好きなところへ連れて行くから。」
ジョッショは兄との約束を断念した。兄の怒った顔が目に浮かぶ。
「焼肉!」
愛生がいきなり大声を出す。本当に彼女はその時、お腹いっぱい肉を食べたかったのである。ジョッショはそんな愛生を見ながら、初めて自分と同年代の少女の心の動きが手に取るように分かった。
「どこまでついてくるんだよ。」
焼き肉店を出てから愛生はずっとジョッショの後をついてくる。二人が食べた食事代を払った時、ジョッショの財布にはほとんど金が残っていなかった。
「わたし、行くところないの・・。」
愛生がぼそりと小さな声で呟いた。
「そんなこと言われても・・。」
困った顔をしながら、ジョッショは前を向いて、高田馬場駅の階段を小走りで走りあがった。彼女を振り切るつもりがあったのである。振り返ってみると、彼女が歩調を合わせるように小走りでついてくる。
「あのな!」
ジョッショは自分のいらだちを隠しきれなかった。愛生は彼の言葉にも、黙ったままうつ向いたままじっと立ち止まるだけだった。
「泊めてやってもいいけど、俺は男だし・・。知らないからな。」
これでけりがついたと思った。
「いいよ・・。」
愛生は、知らないうちに自分の体が小刻みに震えているのに気づいた。
その言葉に、ジョッショも彼女と同じように自分が震え始めたのに気が付いていた。
二人はその後どうやってジョッショのアパートに着いたのか覚えていない。ただひたすら家路を急ぐジョッショ・・、それに遅れまいと必死で後をついていく愛生。二人の間には会話はなく、ただ頭の中がボーとして、ゼンマイ仕掛けの人形のように目的地のジョッショの住いに向かって行ったのである。
こうなれば、男と女である以上必然であり、後戻りはできないものだ。予想通り二人はジョッショの部屋に置かれた一人用のベットに二人でもぐりこむことになったのである。
ジョッショが愛生を抱きしめた時も愛生は小刻みに震えていた。その時ジョッショは、無性に彼女が愛おしくなったのを覚えている。
ふとジョッショが振り向くと、ベットに窮屈に横たわる愛生の鼻に自分の鼻がくっついた。すると、愛生はにこりとジョッショに笑顔を見せて、両手でしっかりと彼の体にしがみついてきた。
「陶酔の桃源郷ってこんなことを言うのかな・・。」ジョッショが自分を振り返った時の唯一の感想だった。二人は夢うつつのまま夜明けになるまで絡み合っていた。
(兄とのハプニング)
熟睡していた愛生とジョッショは、部屋に響き渡るインターフォンの音で叩き起こされた。
「どうしよう。」
愛生が助けを求める。
「とりあえず服を着て、トイレにでも隠れてて。」
ジョッショの声が途中で裏返る。余程慌てているのだろう。ジョッショには、インターフォンを鳴らした相手に察しがついていた。兄の正治である。昨夜会う約束をしていて、愛生との出会いのせいで破ってしまったのである。
部屋に入った兄が辺りの異変に気づき始め、部屋に置かれた椅子に掛けながら周囲を見渡している。
「なんか(鼻をひくひくして)におうな。」
「きのう餃子食べたから。」
苦しい言い訳をする。
「食べ物じゃなくて・・。まあいい。昨日はどうしたんだ。お前が来ると思って研究室から寄り道もしないで自宅へ直接帰って来たんだぞ。」
正治は部屋に入ってきたときから不満げな顔をしていた。
「ばあちゃんが昨日連絡してきて、じいちゃんの病気思ったより悪いらしい。できれば、一度徳島に帰ってほしいって連絡あったんで・・。兄ちゃんにも言っといてくれって言うから、そのことで相談しようっと思って・・。」
「そうか。今は難しいな、夏休みになったらすぐ帰るつもりだ。お前が最後に会った時、じいちゃんどうだった。」
「そんなに深刻だとは思わなかった。東京へ来る前に病院に見舞いに行ったけど、冗談言って元気だったよ。ただ、兄ちゃんと奈美さんやなつみさん、それに祐樹さんに会いたがってた。」
ジョッショはそう話しながらも、目をきょろきょろさせている。
「お前、何だか今日変だな。何かあんのか。」
正治はさっきからジョッショの挙動に不審を抱いている。
「俺、これから授業があるんだ。悪いけど、また改めて兄ちゃんのアパート訪ねるよ。奈美さんにも久しぶりに会いたいし。」
ジョッショは、兄が帰ることを暗に促す。
その時、ハプニングが起きた。ジョッショの言葉を無視して、兄が椅子から立ち上がると、トイレに向かったのである。
「兄ちゃん!」
ジョッショの絶叫が部屋の壁から反射する。
正治がジョッショの叫び声に驚いて振り返りながらトイレのドアを開ける。
「わあー!」
正治はその声に驚いてジョッショの方に顔を向け、元に顔を戻してトイレの中を見た時、愛生が正面にたたずんで正治に笑顔を見せていたのである。
「わあー!」
今度は、正治が絶叫した。
俯いて、ベットの端に座る愛生とジョッショ。腕を汲んで椅子に座って、二人に対座する正治。三人の間に何とも言えない気まずい空気が漂っている。
「大体、愛生ちゃんの事情は分かった。家出同然で東京に出てきたんだから借りる部屋もないわけだ。それにしても宗教二世って本当にあるんだ。ニュースではよく見ていたけど、身近に話を聞くと凄まじいもんだな。愛生ちゃんには同情するけど・・。(ジョッショを睨みつけて)お前がこんなに手が早いとはな。」
そう言って、正治がジョッショの目を見て意味深な笑みを漏らした。
「兄ちゃんも奈美さんと一緒に暮らし始めていたよな・・。徳島へ最初に帰ってきたとき。」
ひるまず、兄を見返してジョッショが言い返した。
「おまえな!」
そこまで言ったが、正治には言い返す言葉が出なかった。また、しばらく沈黙が続く。
ベットの端に座る二人は、ひたすら恭順の構えである。
「祐樹のママ(原宿でブティックを経営)なら何とかしてくれるかもな。」
正治の言葉に、二人が顔を見合わせ嬉しそうな笑顔を見せた。
「やっぱ、ジョッショに賭けてよかった。」愛生は心の中でそう呟いた。
(祐樹の母と正治の仲間)
「わかった。何とかしてあげる。」
正治がジョッショと愛生の事情を話すと、雨宮敏子は笑いが止まらない。敏子と並ぶように、祐樹となつみがジョッショと愛生の向かいに座っている。ジョッショと愛生は、自宅でいるとき以来ずっとおとなしく恭順の構えを崩さない。
「マー君はジョッショの気持ちよくわかるでしょう。奈美さんとの出会いもよく似たものだし。」
なつみは、二人の横に座る正治の顔を見ながら、にやりと笑ってそう言った。
「俺は奈美と会って、即一緒に・・。」
そこまで言って、言葉に詰まる。
「おねんねしないわよね。」
祐樹が正治の躊躇った言葉を補った。
敏子と祐樹それになつみが一斉に爆笑する。正治が何とも居心地悪そうにそわそわする。そして、「なんで俺が笑いものになるんだ・・。」そう思うと、ジョッショと愛生のために骨を折ってやったことを後悔した。
「それにしても、愛生の母さん・・。そんなことまでして、神の国に行きたかったのかな。」
なつみが話題を変えた。内心、正治は自分の話がそれて、彼女の言葉にほっとした。
「母さんは、私が小さいころ祖父や祖母とうまくいってなくて・・。私の家は古い酒造会社だったから、いろいろしきたりなんかあって、馴染めなかったみたいなんです。私が小さかったころから、母の楽しそうな顔あまり見たことがなかった・・。そんな時、今の宗教に出会って母の人格が一変したんです。何だかいつもキラキラしてる顔になったようで・・。間もなく祖母と祖父が相次いで他界して、父は会社を一人で背負わなくてはならなくなって、母とはすれちがいの生活が続くようになったんです。いつの間にか母が神の国に入信したことも、あまり気を止めなくなってしまって・・。やがて、母が家の財産を無断で寄進するようになってしまったんです。父が気付いたときには会社の財産まで宗教団体にわたってしまって・・。」
愛生が、喋った後で深いため息をついた。みんな真剣に彼女の話を聞いている。
「過酷な経験したものね・・。考えようによっちゃ、ジョッショの出会いがどん底から抜け出すきっかけかもしんないね。」
祐樹がそう言うと、ジョッショが初めて顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。
「たまたまだけどね。ジョッショの邪心ありげな行動には同情しないけど。」
なつみがそう言うと、にやりと笑った。今度は、正治が彼女に同調するように声を出して笑った。
「やっぱりお母さん、愛生ちゃんにこんな思いさせたんだから、同情できないな。ましてや予想しない結果とはいえ、夫を死に追いやるなんて・・。」
敏子の主張に、しばらくみんな正面切って反論するする雰囲気にはなれなかった。
「うちのママも、パパと離婚して僕を必死で育てたから・・。でも、みんなうちのママみたいに強くなれないしね。愛生ちゃんの母さんは、その宗教に自分の居場所を見つけたのかもしれないよ。つまり、或る意味生きる意義が見つかったのかもね。自分のアイデンティティって、自分の所属する環境から決まるのかもしんないね。」
祐樹が、敏子の批判で愛生が傷つかないようにそっと彼女の母を援護した。
「どうしたの祐樹・・。ずいぶん神の国に理解あるのね。私は非科学的な営利団体は認められないけどね。どっちかと言えば、祐樹のママの言うことに共感するわ。どう考えても愛生ちゃんはその宗教のせいでこんな目にあったんだから・・。同情なんてできない。」
なつみがきっぱりと愛生の母を断罪した。
ジョッショはこの連中が小難しい話を始めるのを何度も見てきただけに、こんな時は聞かないふりをするのが一番だと決めていた。そこで、ただ黙って愛生の表情を時々見ている。意外にも、彼女は連中の話に熱心に耳を傾けているようだった。
「群集心理かもね。みんなが自分と一緒の方向に向かって、信じる世界を共感しているいる。そう考えただけで自分の生き方に意味が見いだせるのかもね。」
今まで黙っていた正治が会話に参加する。もともと彼も祐樹やなつみと同種の人間だから、この手の会話にいつかは加わるのは必然だった。こうなると、会話は終わりそうになかった。ジョッショは、壁にかかった時計を見る。
その時、ジョッショと同じように議論を避けたい人がいた。祐樹の母の敏子である。
「まあ、議論はそのぐらいにして・・。愛生ちゃんは、今日のところはジョッショの所に泊めてもらいなさい。二三日うちには愛生ちゃんの住いは見つけておくから。それと、明日からうちのブティックで働かない?愛生ちゃんみたいに可愛い子を探していたからちょうどいいわ。」
愛生には、理知的な女の子に備わった清潔感と清楚な雰囲気が感じられた。敏子は彼女の長所を見逃さなかった。やはり、ただでは転ばないタイプの女性である。
「ぜひお願いします。」
愛生が、勢い込んで深々と頭を下げる。ジョッショとの出会いは、彼女の悲劇の転換点を予感させた。愛生は、その幸運に感謝をするかのように、横にいたジョッショの手をそっと握りしめてしばらく放さなかった。
(ジョッショの恋人、愛生)
小さな丸テーブルに二人が対座して座っている。テーブルには、愛生が料理の得意としているカレーライスが二つ。小鉢にはレタスとトマトの野菜が盛られ、フレンチドレッシングがかけられている。もう一つ、みそ汁が容器に満たされているが、これはどうやらインスタントのようである。
「愛生は料理できるんだ。」
前に並んだ料理を見ながらジョッショが嬉しそうに彼女に話しかける。
「ずっと母さん居なかったから、父さんの料理も作っていたの。」
愛生はそう言うと、ジョッショに微笑みかけた。ジョッショはスプーンを取ると、皿に盛られたカツを豪快にほおばった。
「うまい!」
お世辞抜きで美味かった。彼は「今の幸せがずっと続いてくれ。」と心の中で祈っている。
「でもさ、あんたの兄さんの恋人の奈美さんってどんな人。」
愛生の質問にも、ジョッショは手を休めることなくスプーンから口へと食べ物を運んでいる。昨日からいろんなことがあったし、兄に連れられて祐樹のママに会うまで、まともに食事をとっていなかったのである。
「一言でいえば、魔女かな。」
ジョッショの思いもかけない言葉に、愛生の持っているフォークが一瞬止まった。
「そんな怖い顔してんの?」
愛生の想像力は、湯婆ばのような顔を思い描いている。
「いや、顔は美人だよ。でも、魔法を使うんだ。(はっとして)いや、今のは冗談。」
「へえ・・。私とどっちが美人。」
少し容姿に自信がある恋人同士になった女性が、よくする質問である。愛生もその例外ではなかった。
「そりゃもちろん・・。」
ジョッショがそこまで言った時、愛生の顔に勝ち誇ったような笑みがこぼれた。
「いやだ。ジョッショったら。」愛生は、ジョッショが言い終わった後の言葉まで用意していた。
「奈美さんに決まってる。彼女には誰だってかなうわけないよ。」
「あら・・。」
開いた口がなかなか塞がらない。やっと、
「ジョッショの兄さん、そんなにかっこいいかな?そりゃ、一流の国立大学に行ってるインテリだし、優しそうな雰囲気は持ってるから女性にはもてるかもしれないけど・・。そんな美人と釣り合わないよ。」
愛生は、自分がまだ会ったことのない奈美に嫉妬しているような気がした。
「愛生の言う通りだよ。僕にも男として許せないところがあるんだ。兄貴には・・。」
兄の恋人を憧れるように聞こえたジョッショの言葉に、愛生は次第に軽い嫉妬を感じ始めた。
「わたしさあ、祐樹さんのママが部屋を見つけてくれるまで、明日からネットカフェで泊るわ!」
その言葉を聞いたジョッショの顔が泣きそうになる。
「そんなこと言わないでくれよ!僕は愛生とずっと一緒にいたいんだから・・。この通り。」
そう言うと、テーブルにスプーンをおいて、両手をついて深々と頭を下げた。
その行動に驚いた愛生が、一瞬何も言わずにじっと頭を下げたジョッショを見つめている。
「分かったわよ。一緒にいてあげる。」
ひょっとすると、ジョッショのこんな無邪気な感情の表現が、彼を好きになった理由かもしれない。愛生は自分がジョッショに恋心をゆすぶられた理由を見つけたような気がした。
ただ、ジョッショは、愛生を傷つけた奈美と愛生の容姿の優劣については、最後まで気づくことがなかった。彼にとっては、そのことは動かしがたい客観的事実であったのだ。
(東京へ)
院内にあるカフェショップから紙コップのコーヒを買ってきて、総合病院のラウンジにあるテーブルに陣取って、本を読むのが私の日課になった。私は元来、人の群がるところが好きでなく、常に人の集まる場所は避けてきた。ところが、病で入院し、ベットで過ごす時間が長くなるにつれて、人が恋しくなってきたのである。ラウンジで耳に入ってくる様々な人が出す雑音が、何故か心地よく感じられるのである。更に不思議なことに、その騒音は、私の読書の集中に妨げとはならない。
「またここに来てるんだ。」
妻の幸恵が、テーブルに座っている私を見つけると、笑顔を見せながら声をかけた。
私は彼女の顔を見上げて、同じように笑顔を見せる。
「今日は体の調子がいいしね。」
「そう、それはよかった。」
幸恵は嬉しそうに笑った。
「ちょっと話があるんだ。病室に行こうか。」
私がそう言うと、彼女は応じるように頷いた。
私は腰をあげて立ち上がり、ゆっくりと長い廊下を歩き始める。長い廊下を端まで行って、エレベーターに乗り、7階まで行ったところに私の病室がある。
廊下を歩いていると、車いすに乗った患者が看護師の介助で病室を移動していたり、インターンらしき若い医者が、二人で談笑しながら歩いている。両脇の壁には一面に病院関係者が描いた油絵がかかっている。私には絵の価値など分からないが、油絵を見てるだけで心が安らぐ。
「山根が残してくれた東京のマンションの部屋、今、空室だよな?」
私は二人で廊下を歩いているときに、いきなり幸恵に話しかけた。
「借りてた人が最近引っ越したから。でも、それがどうしたの?」
自分の言おうとする提案を少しためらった。
私は自分の病状について、詳細に聞いたことがない。ただ、彼女の態度や言動から普通でないことだけは察しがついた。
「東京で住もうと思うんだ・・。」
彼女の足が止まり、驚いたように私の顔をじっと見る。
私は妻の歩調の変化を無視するように、彼女から遠ざかりながら進んでいく。その背中を追っかけるかのように、再び彼女が追いついて、隣を歩き始める。ただ、二人の間には会話がない。彼女は深刻な顔をして、何かを考えているようだ。
そして、
「いいわよ。担当医の先生は私が説得する。でも、命の保証はないわよ。」
彼女の言葉は、私にとって一見淡々と答えたように聞こえた。しかしそれ以上に、私から何も理由も聞かずに、私の勝手なわがままを理解してくれた彼女の決断が涙が出るほど嬉しかった。
幸恵は、かつて山根が死の直前に話していたことを思い出していた。
「奥さん、私は幸運かもしれない・・。あなたの孫や奈美ちゃん、それに祐樹君やなつみちゃんのように、僕の考えることを真剣に聞いたり意見を言ってくれる若者に囲まれて最期を迎えられるんだもの・・。田辺(私)に東京で偶然再会できなかったら、東京の病室の一角で、「自分のこの世でいる不思議」について誰とも語りあえず、孤独な死に方をしたんだろうなと思うことがある。いまさらながら奴(私)には感謝しています。」
そう言って、にこりと笑った。
「私は主人やあなたがいつも議論している”存在の不思議”なんて言われても、どう答えていいかわからないですけどね。」
彼女がそう答えると、
「あなたはそれでいいんです。みんなが我々みたいだと、それはそれで気持ちが悪い。あなたがいるから、田辺や私が訳の分からないこと言っていられるんです。」
山根が真面目にそう言った時、幸恵は自分が褒められたのか馬鹿にされたのか分からず複雑な苦笑いをしたことを思い出していた。
「主人も山根さんのように、東京にいる若者に囲まれて死にたいんだろうか?」そんな風に夫のことを思いやり、妻は私の言葉と山根の最後の言葉を重ね合わせていたのかもしれない。彼女は彼女なりに私の決断を理解していたのである。
(奈美の魔法)
奈美はまだ愛生に会っていない。正治からはジョッショと彼女の出会いやその後の出来事について聞いてはいるが、雑誌のモデルとしての仕事が忙しく、愛生とジョッショに会う暇がなかったのである。そんな折、私が東京にやってくるという知らせが飛び込んできた。
「マー君のじいちゃん、病気良くなったの?」
奈美は、正治から私の容態がよくないと知らされていたのである。
「僕にも分からないんだよ。ばあちゃんからは、じいちゃんの病気が深刻なような話聞いてるし。(自分の記憶をたどるように、しばらく黙った後)とにかく、山根さんが住んでたマンションで、二人が東京生活を始めるらしい。」
奈美はYOUTUBEから流れてくるドビュッシーの曲(月の光)に耳を傾けている。
彼女は二人の暮らす部屋に帰ると、暇さえあれば音楽を聴くのが習慣になった。昼間の忙しい生活の気分転換にクラッシックの音色は心を休めてくれるのかもしれない。
「確か、奈美が消えようとして捕まえた時、ラフマニノフが流れていたよな。」
正治が、曲に聞き入っている奈美を見ながらそう言った。
「ごめんなさい。マー君のじいちゃんの話を面と向かって聞かなくて・・。でも、ちゃんと真剣に聞いてるから。」
奈美がそう言って、彼に笑顔を見せた。彼は今でも奈美が笑顔を見せると、ドキッとして心のざわつきを感じることがある。
「最近忙しそうだけど、無理してんじゃないの?」
正治が奈美を気遣うようにそう言って、自分の話題から話を変えた。
再び、雑誌「サリュ」に掲載された奈美の記事に注目する読者が増え始め、彼女のファンが急増し始めたのである。そのため、雑誌編集の紙面で大幅に彼女の掲載が増え、モデルとしての仕事時間が増加し始めていた。中には熱狂的なファンが仕事場の前でうろうろしている。そんな群衆を避けるように、ひっそりと撮影場所から抜け出すのが、彼女の日課になった。奈美にとって、今の状況は愉快な事ではなかった。
二人の暮らす住まいは、公園に面した三階建てのマンションだった。昼間には窓からは公園の緑が、光と共に目に入ってくる。夜になっても、人のざわめきも聞こえてこない閑静な環境だった。或る意味、東京に住む人にとって憧れの住居だ。その分、家賃も一般的な水準より高い。しかし、奈美にとって二人が暮らす住いだけはゆったりと暮らせる空間であってほしかった。そんな理由もあって、今のモデルの仕事をやめて、もっと低賃金の仕事をするわけにもいかなかったのである。
「マー君。(少しためらいながら)私と結婚してくれない。」
奈美のいきなり切り出した言葉に、正治は目を丸くして彼女の顔を見返した。
「どういう心境なんだ。突然驚かすなよ。」
正治は、そう言いながらも、心臓の鼓動が高鳴って一生懸命平静を保とうとしている。
「結婚したアイドルなんて誰も振り向かないでしょ。」
奈美は結婚したい理由をあいまいに答えると、正治が驚いているのを見てにやりと笑う。しかし、正治はその言葉で察しがついた。彼女が人から注目されることを嫌っているのは前から知っていたのである。
「僕はいいよ。結婚するなら奈美以外考えられないから。ただ、僕には金もないし、正式な結婚式も挙げられないよ。」
正治には、彼女の結婚を拒む理由などなかった。ただ、学生である自分に人並みの結婚式は挙げられないことだけは言っておきたかったのである。
「いいよ。籍さえ入って、結婚指輪が指にはめれれば・・。」
彼女の口調は淡々としていた。
「何だか、奈美の都合で結婚するみたいだな。(彼女に、にやりと笑い)でも、それでもいいんだ。結婚は二人の愛の形だから・・。なんて、ちょっと恋愛ドラマみたいにきめてみました。」
「馬鹿。」
内心二人は、結婚という言葉を口に出すことで、自分達が思った以上に相手への愛情を確認し、満ち足りた気分に浸ることができたようである。
(老人夫婦の東京暮らし)
私と幸恵は山根のマンションで住み始めた。幸い、私の病は小康状態に入ったのか、常にけだるい感覚はあるが、日常生活を営むことができたのである。私は朝起きると駅に向かい、都心に出かけて買い物(書籍やレコード)をしたり、反対方向の電車に乗って吉祥寺や三鷹の緑の一画にあるカフェで音楽を聴きながら数時間過ごすのが日課になった。そして、帰宅すると妻が夕食を準備している間、買ってきたレコードをプレイヤーにかけ、ベランダのお気に入りの椅子に座って、夕日が沈むのをじっと眺めていることもあった。
「昔買ったレコードたくさん持ってきたのに、まだ一生懸命集めるのね。」
妻はそう言いながら、私の前に置かれた小さなガラスの丸テーブルに、箱に入ったままのピザとサラダを置いた。
「何だか音楽を聴かないと不安になるんだ。自分に暗い闇が襲ってきそうで・・。」
私がそう言って顔を上げて妻の顔を見ると、彼女はびくっとした後、無理やり笑顔を見せた。そして、
「正治がもうすぐしたら来るから・・。メールがあったの。」
私の言葉をかき消すようにそう言った。
彼は、ジョッショに彼女ができたことや、奈美と結婚することを報告するために、何度か我々のところにやってきていた。
「マー君以外、若い連中はなかなかうちへは来ないな。」
私は、ジョッショやなつみちゃんや祐樹君、それに奈美ちゃんが顔を見さないことに少し落胆していた。
「しかたないわ。みんな忙しいんだから。」
妻の幸恵が、笑顔でそう言う。
「そりゃそうだ。忙しいのに無理して老人に会いに来る物好きもいないよな。」
私が諦めたようにそう言うと、
「ひがむな、ひがむな。そのうちみんな顔出すわよ。」
妻はそう言って、私をからかった。
正治は私たちのマンションに来ると、妻の出した料理を美味そうに食べている。
私はにこにこしながらその食いっぷりを眺めているが、私の視線を気にする様子はない。食べ終わると、ふっと息を吐き、両腕を後ろに回して上半身を支えながらくつろいだ。
「ばあちゃん、母さんに奈美の結婚のこと話してくれた。」
少し不安そうに、妻の方を見ながらそう尋ねる。
「問題ないって言ってたわ。母さんは奈美ちゃんを気に入ってるから、いつかは二人が結婚することを願っていたと思うよ。ただ、正治が学生だから少し早いとは言ってたけど。」
正治は安心したように笑顔を見せた。
「どうして、直接彩夏(正治の母)に言わないんだ。大事な話なのに。」
私が苦言を挟んだ。ただ、内心どうでもいいかなとも思ったが、どこかで二人の会話に加わりたかったのだ。
「うん・・。僕には奈美を支える生活力がないしね。今のマンションだって彼女が借りてるんだ。僕は居候のようなものだしね。結婚後も自分の生活はじいちゃんに頼らないとやっていけないし。」
彼の言ってることは、誰でも気になる悩みである。
「まあ、結婚するからと言って何も変わらないんだろうし、奈美ちゃんが言い出したことだ。お前は断るわけにもいかないもんな。お前の生活力がないことで、別れることになったらどうする?」
私は正治が思っていることを見抜いていた。
「じいちゃんの言う通りだ。僕には他の選択はないもんな・・。後は、なるようにしかならないよ。」
私に本音を指摘されたにもかかわらず、正治はどこか嬉しそうなのは、やはり奈美と結婚したいという切実な願いがあるのである。
その時、誰かの訪問を告げるインターフォンが鳴った。
来客は、なつみと祐樹だった。
「おじさん、余程深刻な病気のようにマー君から聞いてたけど元気そうじゃん。」
彼らは私の病気を気遣って、あえて再会を控えていたのだ。
「ほんと、大袈裟なんだからマー君は・・。」
なつみも私の様子に安心したように笑顔を見せた。
私は気持ちが弱ってるせいもあったのか、二人の顔を見た瞬間から喜びがこみあげてきた。
「また二人とこうやって会えただけでも、東京へ来たことは間違っていなかったな。」
そう言って妻の幸恵の顔を見た。目頭が熱くなり妙な感激が胸を熱くした。
「そうね。」
妻もそう言ったなり、目に涙を溜めて必死で笑顔を作っている。
「どうしたの二人とも・・。」
不審そうに祐樹が言うと、なつみと顔を見合わせる。
「じいちゃん、徳島からとっておきの酒もってきたと言ってたよな。」
気まずい雰囲気になりそうな場を変えるように、正治が大きな声を出して私の方を見た。
「待っててね、今とってくるから。主人は飲めないけど三人で飲んだらいいわ。それと、お寿司屋さんに出前とるからね。今日は歓迎パーティーにしようか。」
妻がはじけたように甲高い声を出し、ひとりはしゃいでそう言った。
夜も更けると、年のせいかすぐ眠気が襲い、眠ってしまう私だが、みんなが集まったこの日は深夜になっても眠気を感じることはなかった。三人の青年たちの談笑が私と妻の気持ちを明るくする。
「宇宙の形って言っても、宇宙の曲率を考えると、球体とかトーラス形だったり、平面かもしれないなんて、いろいろ説はあるけどピンとこないな。」
正治の始めた話題が、私の興味をそそる。
死を身近に意識してからずっと、私の想像力は自分の魂が行きつく世界を描こうと必死でもがいている。山根が言っていたように、死はこの世の突然の断絶のはずだが、人はその事実にあらがうかのように、魂の存在に執着する。死とは自分とこの世をつなぐ肉体の機能の停止を意味するはずだ。しかし、人の想像力はその事実から目を背けるように、永遠の魂の存在を信じることによって、時間の流れを永遠へと延長する。想像力が、死の瞬間とその直後の時間の流れをすり替えて、時間の断絶を修復することによって、自分の存在を復活させるのだ。もちろん、その努力は人の生きる執念が生み出す不可能な挑戦でしかない。それでもなを、私は死後の自分が行きつく先を想像するのをやめようとしない。
私は自分の考えを整理することなく、突然、
「死んだら宇宙の果てに行くのかな・・。それとも宇宙からも抜け出して無の世界へ行ってしまうのかな・・。」
と、独り言のようにつぶやいた。驚いた三人の視線が、私に注がれている。
妻は、さっきからソファで横になってうたた寝をしている。
「どうしたんでんですか急に・・。」
なつみが不思議そうな顔で、私に尋ねた。
「最近、宇宙の果てをさまよっているような夢を見るんだよ。」
私は驚いて私の顔を見ている三人の表情に気づいて、わざと手で髪の毛をかきむしりながら、照れ笑いをしてそう言った。
「それって、どんなイメージの世界なんです?具体的に、幾何学的にどうとか、薄暗くてぼやけてる空間とか、それとも宗教画のようだとか?」
祐樹が興味を示して聞いてきた。
「目が覚めたら、夢の具体的な世界を描写することはできないんだ。ただ、宇宙の果てでさまよっているという記憶だけが、強烈な感情となって残っているんだ。」
「感情って、どんな?」
正治が、たたみかけるように質問する。
「悲しみだったり、歓喜だったり・・。ふと気づいたら、目に一杯涙をためたりしてるんだ。」
私は自分なりに一生懸命答えようとしているが、意味が通っているようには思えない。
「よく宇宙は曲率0の平面だっていうけど、あれってどういう意味なんだろう。」
三人ともそれなりに、宇宙の形には興味があるらしい。今のところ、知識に説得力を与えられる程、彼らの学力は十分な域には達していなかった。もちろん私もできない。ただ、彼らはきっと、将来自分の知識に納得のいく学識を身に着けるのだろう。私はそんな彼らを羨望の目で見ていた。
「地球が丸いことが分かったのは、現実の世界を自分の住んでる世界より高次の観点から見ることによって、引き出された結論だよね。」
正治が新しい考え方を提案しようとする。
「高次の観点って、地球を他の天体と相対的にとらえてようとする視点のこと?」
なつみが正治の意見を確認する。正治が質問に答えるように頷く。
「その論理から言うと、宇宙の形は判別できないことになる。だって、宇宙の形を知りたかったら、より高次の観点が必要になるから・・。でも宇宙より高次な観点は存在しないよね。だって宇宙の先は無次元だもの。」
祐樹が、自分なりの論理で正治となつみの話に結論を出した。
ひょっとすると、私は死後の世界を知ろうと、把握不可能な無次元の世界を想定して、宇宙の果てにさまよう死後の魂を想像しようとしていたのかもしれない。しかし、それは無理な話である。宇宙を越えた先は想像力さえ及ばない無の世界なのだから・・。
「やっぱり、宗教を信じて死を理解したほうが気楽かもしれないね。」
祐樹の最後の言葉は、最近みんなが関わったジョッショと愛生の現実問題を意識している発言でもあった。
「宗教は信じない。」
私はみんなの話に耳を傾けながらも、そのことだけは自分の考えを頑固に主張した。
外の暗闇に朝日が刺し始め、ベランダの鉢植えに植えられた赤や白の花々が、光を受け入れて、鮮やかに自分を輝かせようとするころ、三人の若者は、一人二人と帰っていった。
「また今日という日が、新鮮な気持ちで迎えられますように・・。」刹那な命を実感した時から、この呪文が私の朝の日課になった。
(愛生との出会い)
愛生が原宿の祐樹の母の経営するブティックで働き始めて一か月以上が経つ。やっと、接客にも慣れてきて、東京でのまともな生活が定着し始めた。ジョッショとは、仕事が終われば必ず会いに行く。彼との偶然の出会いは、彼女の運命を一変させてしまったようだ。そして、自制が利かないほどジョッショに魅かれていく今の自分がたまらなく愛おしかった。
「その服どうかな?」
若者の店には不釣り合いな老人の客が、愛生に話しかけてきた。
「”どうかな”って言いますと・・。」
老人が指さした赤と白のコントラスが際立ったワンピースを見ながら、愛生が不審そうな顔をして老人に反応する。
「気に入った?」
そう言って、老人は笑顔を愛生に見せる。どう答えていいのかわからない愛生は、じっと黙って老人の顔を見つめている。
すると、
「ジョッショの祖父です。」
私がそう言って、軽く頭を下げた。
「あっ!」
驚いた愛生が、私につられるように頭を下げた。
「兄の正治から、愛生ちゃんのことは聞いてます。新宿へ来た帰りにちょっと会いたくなってね・・。」
私は絶えず笑顔を絶やさない。
「どうも・・。副島愛生です。義治さんにはお世話になってます。」
愛生は緊張を説くことができないのか、改めて深く頭を下げた。
「久しぶりに孫の名前を聞いたな。私の前ではジョッショとしか呼ばれたことないから。」
そう言って、必要以上に大きな声を出して笑った。
そんな私の仕草に少しほっとしたのか、愛生は少し緊張を解いて笑顔を見せた。
「愛生ちゃん、その服プレゼントするよ。サイズは自分で適当に選んでね。」
私はそう言って、値札に書かれた72000円を支払うためにクレジットカードをポケットから引き出すと、愛生の前に差し出した。
「ええっ!」
愛生はカードを受け取ったまま、じっと私の方を見ている。
「ちょっといい服着て、ジョッショをおどろかしてやりなさい。愛生ちゃんは可愛いんだから・・。」
私は何度も会っている知り合いのような口調でそう言った。
「おじさん・・。」
愛生は満面の笑顔を私に見せた。
結局、愛生の仕事が終わるのを待って、ジョッショといつも待ち合わせる紀伊国屋の前まで彼女と行くことになった。買ったばかりのワンピースを着て、背中にはショルダーバックを背負って現れた愛生の姿は少し不自然だったが、服は彼女に似合っていた。
「じいちゃん・・。」
私が愛生と並んで立っているのを見たジョッショは、不思議な組み合わせに唖然としているようだった。
「せっかく可愛い彼女を見つけたんだ。すぐ、わたしに会いに来んか!」
私はわざと叱責するようにそう言った。
ジョッショの視線が愛生の鮮やかな色のワンピースに向かう。
「ジョッショのおじいさんが買ってくれたの。」
愛生の声は弾んでいた。私はこの時、明るい未来を信じて疑わない二人の若者のはち切れそうなエネルギーを感じて、生きる力をもらったような気がした。
ジョッショは東京へ来ても、相変わらず自分の明るい未来を疑ったことがないような表情をしている。
「お前は無邪気でいいな。」
私の思った感想が、素直に口から出た。
「これでもいろいろ悩みがあるんだから。なあ、愛生・・。」
ジョッショが愛生に共感を求める。
「うん。」
愛生が素直に同意の返答をする。
「まあ二人で乗り越えろ。それも楽しいもんだ。」
私はそう言うと、右手をあげて別れを告げると、二人をその場に残したまま背を向け、彼らが引き留めるのを無視するかのように、駅に向かって歩き始めた。
「後は奈美ちゃんだけだ・・。」何故か東京へ来て以来再会をはたしていない奈美のことを考えながら、夕暮れの雑踏の中を俯き加減に歩きながら、帰宅を急いだ。