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ジョッショの友達ナナ青春篇3-3

(奈美が再びナナに)

夜中、正治が夢にうなされて大きな声を出して起きたことがある。

彼の横には奈美が寝ていたが、彼の声に驚いて起きてしまった。

「どうしたの。」

眠そうな声で、奈美が尋ねる。

「うん。」

正治はそう言ったなり、何も言わない。

「階段から落とされた夢?」

奈美が聞いても彼は答えない。奈美は、正治を安心させるように彼の体を抱きしめた。

すると、正治がおもむろに口を開いた。

「あの時、僕は誰かに声をかけられ後ろを振り向いたんだ。酔ったせいか意識ははっきりしてなかったけどね・・。」

奈美は、じっと聞いている。

「夢を見ていたら、僕を階段から落とした男の腕にタトゥウーがあったのを思い出したんだよ」

正治の言葉に、奈美が上半身を起こして、ベットのテールランプを点けた。

奈美の白い顔が、照明の光に浮かびだされた。

「どんなタトゥーだった。」

上半身を右ひじで支えながら、奈美が正治の顔を覗き込む。彼の顔は、少しおびえているように見えた。

「全体は黒だったけど、頭だけは赤い蛇だった・・。今の夢で、妙に鮮明に思い出したんだ。(奈美の顔を見上げ)ごめんな、つまらないこと思い出して・・。もう寝よう。」

明日は、二人とも忙しかった。正治は、学期末の試験が控え、奈美はルガルの記事が出て以来、祐樹の母のブティックでは、多くの客に笑顔を振りまき、雑誌サリュの編集長からは専属契約の話から逃れるのに苦労していた。それでも、奈美はその夜の正治の言葉をしっかりと記憶に留めたのであった。


(復讐)

仕事の時間が長引くと、奈美の帰宅は夜遅くになった。そんな時、奈美は、何故か、いったん代々木で下車して、駅の周りをぶらぶらしてから、再び電車に乗って帰宅した。代々木駅は正治の傷害事件の現場だったのだ。


奈美の前を一人の若者が通っている。深夜のせいか通行人の姿はまばらで、たまたまその場には奈美とその男しかいなかった。彼が駅の階段に差しかかった時、いきなり奈美がその男に声をかけた。

「あのう・・。」

奈美の呼びかけに、男が不機嫌そうに振り向いた。次の瞬間、男の顔から笑顔が漏れる。

「なに・・。」

奈美に話しかけられた男の顔は、次第に上機嫌になっていく。

「腕のタトゥー・・。珍しいですね。」

奈美はそう言うと、男の顔を見てにこりと笑う。

「これかい。(自分の腕を見ながら)よかったら、ちょっと俺と付き合ってくれれば、じっくり見させてあげるよ。」

男が、奈美の方を見てにやりと笑う。それに応じるように、奈美が男の腕を覗き込み、

「この蛇とおんなじ・・。」

「どういう意味だ?」

男が不審そうな顔をして、自分のタトゥーと奈美を交互に見た。

「私さ、蛇のように陰険な男大嫌いなのよ。おまえさ、この階段から人を突き落としたことあるでしょ・・。」

男の顔が、怒りの表情へとさっと変わった。

「お前、何者なんだ。」

「あんたが突き落とした男の恋人。」

「お前、馬鹿か!俺に因縁つけてこのまますむと思ってんのか。」

男の大声に驚いたように、歩いていた人が、二人を迂回するように小走りで去っていく。

「あんたには、眠ってもらうね。これからしばらく・・、ひょっとしたら数年かもね。」

奈美はそう言うと、男の顔をじっと見た。何故か、奈美の瞳が真っ青に変わっているような気がした。男は、奈美の異様な変化を感じ取り、戦慄を振り払うように、

「なめんじゃねえぞ!」

大声でそう叫ぶと、奈美顔に右手を振り下ろそうとした。その瞬間、男の心臓に衝撃が走る。

「うううう。」

男は痛みで唸り声をあげると、そのまま意識を失って階段の最上段から真っ逆さまに転げ落ちたのである。

あたりに悲鳴が起こり、倒れた男の周りは、あっという間に野次馬の人だかりができてしまった。

その様子を、階上からじっと見ていた奈美は、騒然となったあたりからすっとすり抜けて、来た道を静かに引き返し、停車していた電車に乗車した。


事件の翌日、正治はスマホでニュースに釘付けになった。

<代々木駅の階段で、先日と同じような事件が起きた。>

という見出しで、事件の詳細が報道されていたのである。ただ、その記事の最後に、

<この事件は先日の傷害事件とは違い、事故の可能性が高いようである。なお、被害者は、心臓に障害があり、完全に回復するのは難しく、おそらく数年は意識が戻らないかもしれない。>と書かれていた。

「どうしたの、急に真剣な顔になって・・。」

学生食堂で一緒に昼食をとっていた祐樹が、怪訝な顔をして正治の顔を見ている。

「なんでもない。」

正治は、ごまかすように祐樹に笑顔を見せた。

祐樹が、正治の見ていたニュースを見るために自分のスマホを操作する。

「先日の傷害事件って、正治のことじゃない?(スマホの画面から正治の顔に視線を移し)じゃあ、この被害者って、ひょっとして・・。」

正治の顔が、みるみるおびえた表情になっていくのを感じ取った祐樹が、この話題を中断して、

「大丈夫?顔色悪いわよ・・。」

と、正治を気遣うようにそう聞いた。

彼の言葉に、正治ははっと我に返って、

「なんでもない。授業始まるから、もう行こうか。」

そう言って、祐樹の返事を待たずに立ち上がった。


大学の講義が、教室のピーンと張り詰めた雰囲気の中で続いている。もうすぐ、彼らにとって初めての学期末試験が、近づきつつあったのである。

そんな雰囲気に逆行するように、祐樹は授業に集中できずに、ぼんやりと窓の外を眺めている。

「確か、痴漢の犯人が、意識不明の障害を負ったのは、奈美のマンションの近くの公園だったよな・・。」

彼は、そんなことを考えていると、自分の心臓の鼓動が次第に激しくなるのを感じた。

そして、過去の幼いころの記憶がよみがえる。

「ナナちゃんが病院で、母さんを救ってくれたのは・・。」

正治には、それ以上このこと深く考える勇気はなかった。

「偶然だ、しっかりしろ!試験も近いのに、なに馬鹿なことを考えてんだ・・。」

ふっと息を吐いて、

「ありえない。」

正治は、思わず声に出して呟いた。

「どうしたの?」

横で並んで講義を聞いていた祐樹が、不審そうに祐樹の顔を覗き込んでいた。


(火がつき出した奈美の人気)

日曜日の朝、なつみと奈美が、カフェの窓から向かいの自分たちが働くブッティックを眺めている。

「行列、先週の倍になってるよ。それに、大手週刊誌のネット電子版で奈美ちゃんがブティックで働いている写真のカットと行列のこと特集してたよ。すごいね、いよいよアイドルの仲間入りかもね・・。」

なつみがうれしそうにそう言った。しかし、奈美の表情は、うれしそうと言うには程遠く、どこか沈んでいた。

「奈美ちゃん、うれしくないの?」

そんな様子を見ていたなつみが、奈美の顔を見ながらそう言った。

「あの行列見てると、なんだか気持ち悪くない・・。全員、一つの幻想の中にのめり込んでるみたい。まるで、みんな同じ方向にプラスとマイナスがそろっていて、一斉にその方向に動き出すみたい。群衆が一つの生き物になったみたいにね・・。」

奈美は行列を見ながら、つぶやくようにそう言って、ぶるっと身震いをした。

「でもさ、あの連中、奈美ちゃん目当てに集まってんだよ。奈美ちゃんが手を振ったら、大きな歓喜が起こり、笑顔で何か言ったら、歓声が一斉に上がる。これって一種の快感じゃない・・。」

なつみの言っていることには説得力があった。

「変なこと言うけどね。群衆の熱狂って、言葉通り狂気を誘うような気がするの。それが行き過ぎると、熱狂する対象になっている人間の自由にまで介入しようとするんじゃないかな・・。僕がこんなに思ってるんだから、どうしてそれに応えなくてくれないんだ。なんて・・。勝手に思いこんでるくせに、いろいろと個人の私生活に注文をつけてくるの・・。例えば、アイドルって、勝手に恋愛もできないこともあるじゃない。あれって、ファンが勝手に思い込んでる相手の自由を縛りたいという独占欲の象徴じゃないかな。もっとも、週刊誌の記事もそんな大衆心理を目当てに成り立ってんだけどね。芸能人なんだから・・って、大義名分を振りかざしてね。」

そう言いながら、奈美は群衆の行列から視線をそらし、コーヒーカップに手をやった。

「奈美ちゃんて、面白いこと考えるね。やっぱり、普通の女の子じゃないような気がする。

普通なら、あれだけ大勢の人に注目を浴びれば、一種の自己満足というか、快感を覚えるけどな。」

なつみは、まるで奈美の立場になったような気持ちでそう言った。

「論理飛躍するけど、群衆の熱狂ほど怖いものないの。政治の独裁者は、熱狂する民衆がいるから成立するの・・。その結果は、殺し合い。奴らは、自分に共感しない人たちを許さないの。だって、その群衆は、自分たちの考えだけが正義と思い込んでいるから・・。

普段仲良く暮らしていた隣人が、ある日突然、殺人者の顔をして襲ってくることもあるの。」

奈美の顔に、なつみが今まで見たことがないような激しい憎しみに満ちた表情が現れた。

なつみは、そんな奈美の今まで見たことがない様子に、思わず恐怖心すら覚えた。

「奈美ちゃん。アルバイト、断ろうか・・。」

なつみが、思わずそう切り出した。それほど、奈美は窓の前に広がる群衆の行列に嫌悪感を露わにしていたのである。

「なつみちゃん、それでいいの・・。(なつみがうんと頷く)でも、今日はがんばるよ。そうしないと、裕樹君のお母さんにも、なつみちゃんにも、迷惑かかるもんね。」

奈美はそう言って、なつみにほほえみかけた。

内心、なつみはほっとした。今日のアルバイト料を当て込んで高価な本を買っていたのである。


(脱出)

なつみは、カフェでの奈美との会話の内容を祐樹に電話で伝えた。とにかく、奈美のファンへの拒否反応は、まともでないように思えたのである。

「そうか、奈美ちゃん、そんなに嫌がってんの・・。」

祐樹は、自分が奈美をアルバイトに誘っただけに、責任を感じていた。

「でも、私にはどうしていいかわからないし・・。」

なつみは、この問題を解決できるのは祐樹しかいないような気がしていたのである。

「まあ、それはそうと、なつみはアルバイトをしてるような余裕あるんだ。明日は遠藤先生の授業の試験があるのに・・。」

祐樹はそう言うと、ふふっとなつみに聞こえるように笑った。

「あんたとは違って、普段勉強してるからね。それより、今の話、祐樹なら奈美ちゃんを助けられるの。」

なつみは、話題をそらした祐樹に余裕があるように感じた。

「明後日で一学期も終了するけど、なつみは明後日の夜、何か予定あるかな。」

祐樹が妙なことを聞いてくる。

「私の実家は埼玉だし、ことさら帰省しなくてもしょっちゅう帰ってるから、学期末に区切をつける必要もないので暇してるわよ。」

「そう、それじゃ、みんなで集まろうか、奈美ちゃんと正治を呼んでね・・。それに、うちのママと早紀さんもね。」

祐樹の最後の言葉に、なつみは彼が何か奈美の脱出作戦を企てているのではないかと思った。


(ホテルのフレンチレストランで)

祐樹はなつみに言った通り、自分の母や奈美、それにいつもの連中をレストランに誘った。

祐樹の計画通り、一人の欠席もなくみんな出席した。

祐樹の母敏子の希望で、集まった場所は最高級のフレンチレストランになった。

「ママ、何か挨拶する?」

祐樹は、敏子に発言を促した。上機嫌の敏子は、始終笑顔で彼の言葉に応じる。

「祐樹となつみちゃんと正治君はやっと試験も終わったし、奈美ちゃんとなつみちゃんのおかげで、私の店も最高の利益を出せました。なにより、原宿での話題も独占できて、感謝の言いようもありません。これから、奈美ちゃんがどれだけ人気が出るか・・。他人事ながらワクワクしてます。以上」

敏子の声は弾んでいた。

「ママさ、僕ね、夏休みの間、正治の故郷の徳島で過ごそうと思ってんだ。」

祐樹が、笑顔で母の敏子に言った。

「そう、正治君、祐樹が一緒に行って迷惑じゃないの。」

敏子が、正治の方を向いて打診する。

「いえ、故郷にはじいちゃんの家が、かなり広いので宿泊には問題ありません。それに、近くにアリーさんと言って、食堂を経営してるシリア人の家族同然のおじさんがいて、ばあちゃんが料理作れなくても、食事には困らないんです。昨日電話で話したら喜んでました。」

正治はそう言うと、グラスにつがれた赤ワインに口をつけた。

「私も一緒に行っていいかな。」

なつみが、にやりと笑って、そう言った。

「問題ないよ。」

正治はワインの味に感動しながら、笑顔で答えた。日頃飲んでるワインの味とは、かなり違っていたのである。

祐樹となつみと奈美の間で、目で確認するような動きがあった。

「もちろん、奈美ちゃんも一緒に行くよね。」

祐樹の声は、今までより少し高かった。

その言葉を聞いて、料理を食べていた早紀のフォークとナイフの動作が止まる。

「それってどういう意味?奈美ちゃんがいなくなるっていうの・・。」

今まで柔和だった早紀の表情が一変した。

「当たり前でしょう。奈美ちゃんは正治の恋人だもの・・。徳島の家族が一番会いたいと思ってる来客でしょう。」

祐樹は、あえて早紀と目を合わせようとしないで、料理を食べることに専念しながらそう答えた。

「奈美ちゃんはそれでいいの・・。」

早紀と同じように慌てた様子の敏子が、奈美の気持ちを確かめるようにそう聞いた。

奈美は、うつ向いたまま頷いて、

「マー君と一緒にいたいから・・。」

今まで誰に見せたことのないようなしおらしい様子で、奈美がぽつんとつぶやいた。

「奈美のやつ、役者だな・・。」そう思ったのは、正治だけではなかった。

次の瞬間、気まずい静寂が辺りを包む。しばらくして、

「確か、早紀ちゃんは、四国出身だたわね。」

みんなの沈黙の後、敏子が話題を変えた。

「ええ。松山です。」

早紀の声は沈んでいる。

「徳島は知ってるの?」

敏子が尋ねる。

「はい。松山に比べれば経済力は半分以下だし、確か、観光の魅力ランキングでも、下からワースト5に入ってるんじゃないかな。」

明らかに、早紀の口惜しさがにじんだ言葉になった。

ただ、早紀がいくら反対しても、奈美は専属契約を結んでいないフリーな立場だっただけに、徳島へ行かないように説得しても無駄なことは分かっていた。

「早紀さんの言う通りです。松山のように道後温泉もお城もないし・・。まあ、人が少ないだけに、交通渋滞は余り起こらないけどね。」

正治は、早紀の言葉を受けて、場を和ませようと冗談を言ったつもりだが、誰も笑わなかった。

「祐樹、これって、お前の策略ね・・。」

敏子が、意味深な言葉を息子に投げかけた。

「母さんの息子だからね。」

祐樹がそう応じると、敏子は息子の言葉に大うけして笑っている。同じように、早紀も笑っている。二人の笑いで、一挙にこの場が和んだ。

「仕方ないわね・・。私たちの完敗ようだわ。その代わり、奈美ちゃんが東京に帰ってきて、雑誌サリュの編集長がモデルに雇わなかったら、私の出資してる雑誌ルガルのモデルになってね。もっとも、サリュもそこまで馬鹿じゃないと思うけど・・。」

敏子は、息子の計略にあっさり負けを認めたのであった。



(徳島へ)

奈美、なつみ、祐樹、正治は、東京の羽田から一時間半で徳島空港に到着した。

「何だか、遠くへ来た気がしないね。」

祐樹は大きなリュックを背負い、Tシャツ、短パン、サンダル姿であった。

「君の身なりなら、近所に遊びに出かけるような格好だから、ちょうどいいんじゃない。」

なつみは、祐樹の余りにも軽装な身なりにあきれていた。

さっきから、何人かの乗客が驚いたように奈美の方を見ては、知らないふりをして通り過ぎて行く。おそらく、東京で話題になっている彼女の出現に驚いているのだろう。

「さて、これからどうするの。」

祐樹のウキウキしている気持ちが、伝わってくるような陽気な声だった。

「みんな一緒に帰るのがあんまり急に決まったんで、家族には知らせてないんだ。

とりあえず、ばあちゃんとじいちゃんの家に行ってみようか。うちの母は、今頃、病院で働いているからな。」

正治の言葉に、全員頷いた。


空港からバスを乗り継いで、四人が私の家にたどり着いた時には、午後になっていた。

正治達を出迎えたのは正治の祖母の幸恵であった。

「誰もいないのよ。みんなアリーさんの店で、バサム君とジョッショの勉強に付き合っているから。今日は、お店休みなのでね。」

幸恵は、いきなり帰ってきた正治に驚いた様子だったが、孫との再会を喜んでもいるようだった。彼女は、正治と一緒にやってきた三人を見て、

「なつみちゃん、祐樹君、それに、奈美ちゃんね。」

そう言って、一人一人の顔を見ながら名前を言っていった。三人は、彼女から名前を呼ばれると、頭を下げて挨拶をした。

「才女のなつみちゃん、自称トランスジェンダーの祐樹君。」

幸恵は、正治から聞いていた二人の情報を披露した。

「おばさんは、私たちのこと、なんでも知ってんですね。」

なつみが、少し驚いた様子だった。

「正治から聞いてますよ。私は、孫がいい友達に出会えて喜んでるのよ。」

「最後の言葉は、おばさんの社交辞令だろうな。」

すかさず、祐樹がそう言った。

「ほんとよ。(奈美を見て)奈美ちゃんね。正治の言う通り、本当に綺麗な女の子ね・・。

本当に、正治の・・。」

そこまで言って、ためらった。

「私、正治君の恋人です。」

奈美がいきなりそう言うと、みんなが笑い出した。特に、幸恵は爆笑した。

「今の言葉、ジョッショやうちの人の前で言ったら、きっと悔しがるわよ。二人は、奈美さんの写真を見ては、<ありえない>って、いつもぶつぶつ言ってんだから・・。」

すると、じっと側でみんなの会話を聞いていた正治が、

「そうだよな・・。ありえないよな。」

と、独り言のように、つぶやくように言った。

この言葉に、なつみと祐樹は笑うと思っていが、共感するように頷いた。それを見ていた幸恵も、二人に合わせるように頷いた。


(アリーの店へ)

四人は、私の家に荷物を置くと、我々がいるアリーの店にやってきた。

四人の出現で、山根、アリー、ジョッショ、バサムは、大いに盛り上がった。もちろん私も笑顔が絶えなかった。

しばらく経った時、

「夢を現実にした正治に乾杯!」

と、半分冗談半分真剣に、山根が右手に持ったワインのグラスを上に突き出しながら、そう叫んだ。

「それってどういう意味ですか?」

すかさず、正治が反応する。

「奈美ちゃんを見れば、誰だってそう思うだろう。なつみちゃんと祐樹君はともかく、男な、らみんな一度はこんな彼女ができたらどんな思いになるのだろう、って空想するものさ・・。ちょうど、宝くじに当たった時のことを考えて、あれこれ考えるようにね。人間なんて、想像の中で半分生きているようなものだから・・。その夢見た空想と現実が一致するなんて、普通の男ならこれ以上の喜びはないもんだよ。」

山根の言葉に、

「お前、ずいぶん踏み込んだ発言するな。さっきから、かなり飲んで酔っぱらったのか。」

と、苦笑いをしながら言ったのは、私であった。

他のみんなも、笑いながら聞いている。

「<夢かうつつか幻か この世のことはかりそめぞ>なんて、源氏物語にあったよな・・。」

山根の雄弁なしゃべりが止まらない。

アリーは、料理をふるまうために厨房に引っ込み、ジョッショとバサムは、山根の言葉に関心がなさそうに、参考書に目をやっている。それでも、残りのみんなは、何も言わずに彼の言葉に耳を傾けていた。

するといきなり、山根が、

「ごめんごめん。みんなが盛り上がってるのに、しらけさしたね・・。」

と言って、頭をかいて、

「東京からのお客さんは、大いに飲んでくれ。私のおごりだ!」

最後にそう言って、自分の言葉を締めくくった。

「わたしたち、お酒を飲むには、一年だけ年が足りないんですけど・・。」

祐樹がにやりと笑って、そう言った。

「今日は例外的に認めるよ。はるばるみんながやってきたんだから・・。」

私が、山根の言葉を追認した。


その後、ジョッショとバサム以外は、大いに禁断の飲酒を楽しんだ。

みんなの騒ぎをよそに、奈美がアリーを手伝いに厨房に入って行く。

「手伝わなくっていいよ。奈美さんはお客だから・・。お酒飲んできて。」

アリーが、優しく奈美に声をかける。

「おじさん、ここの暮らしに満足してる?」

奈美は、油で汚れたフライパンを洗剤で洗いながら、小さな声で恐る恐るアリーに聞いた。

「私の暮らしは、百点満点。これ以上望めば、神様に叱られる・・。」

冗談交じりにそう言って、奈美に笑顔を見せた。

奈美は目じりからうれし涙がにじみ出て、それを隠すようにうつむきながら、激しく鍋の底を磨いていた。


夜になり、さすがの騒ぎも落ち着いたころ、再び山根が口を開いた。

「正治、ここでは奈美ちゃんとは一緒に暮さないのか?」

「僕は、母さんとジョッショと一緒にマンションで暮らす予定です。奈美ちゃんは、じいちゃんの家で厄介になります。」

正治は、ニコニコしながらそう答えた。

「奈美ちゃんはそれでいいのか?」

山根の質問に、奈美も笑顔で頷いた。

「それでは、一緒に帰ってきた意味がないな・・。正治、これを受け取れ。」

山根が、そう言って差し出したのは、自分が住んでるマンションの鍵だった。

正治が、怪訝そうな顔をして受け取る。

「私は、明日から病院暮らしだ。それも長期のな・・。今度はいつ帰ってこれるかわからんのでな。そこで、その間、私のマンションで二人で暮らせばいい。」

山根の表情は、いつもと変わらなかった。

「おじさん・・。」

正治はそう言ったなり、次にいう言葉が出てこなかった。

「すまんが、もし、私が病院から帰ってこなかったら、田辺(私)、後は頼めるか・・。」

いきなり山根が言った言葉に、私は即座に答える言葉が見つからなかったが、何とか笑顔を見せて頷くことができたのである。

「若者よ!いっぱい楽しいい時間を過ごせよ。(すっと立ち上がると)私は疲れた。お先に失礼するよ。」

山根はみんなに握手をすると、それ以上何も言わずに、出口で後ろを向いたまま右手を挙げて別れを告げると、立ち止まることなく出て行ってしまった。

「山根さん!」

アリーが、山根の背中を見ながら、悲痛な叫び声をあげたのが、私の心にいつまでも残った。私は、山根の病のことはうすうす知っていたが、正治たちの帰郷と彼の入院が重なった偶然に、複雑な思いで彼を見送ったのである。



(山根の入院する病院)

山根が入院して20日が経った。

アリーは、毎日早朝、山根の病室を訪ね。店で作った料理をおいていった。正治やバサム、ジョッショも何度か顔を出す。もちろん私も、彼の病室を見舞うのが日課になった。

「この後、丘の上の畑へ行くのか・・。よく続くもんだ。」

山根はそう言って、苦笑いをした。

「草も生えたしな。それに、お前がいないと話をする相手が女房だけになって・・。」

私も苦笑いをした。


今日、私は山根の病室に来る前に彼の担当医と相談をしていた。

「難しい状態です。」

医師はそう言ったなり、黙ってしまった。

「かなり深刻なんですか?」

「私は、不安そうに尋ねた。

「山根さんにはご家族がないようなので、田辺さんを身近な肉親と思って話をしますが、いつ病状が急変してもおかしくない状態です。」

医師のその言葉に、私は涙を抑えることで必死になり、それ以上山根の病状を聞いてみる余裕もなくなってしまったのである。


私は、山根の病室から見える外の青空を見ている。

「今日も暑そうだ・・。」

山根はそう言うと、ふっとため息をついた。

私は、山根の前で「なぜ自分が存在しているのか」と言う、二人の間でいつも話してきた禅問答のような議論を止めることにした。その会話は、彼自身がこの世からいなくなるという現実的事実を、余りにも具体的に想像させることにつながってしまうような気がしたからである。なぜか、山根も私の意図を理解したように、日常の自分の周りのことしか言わなくなった。

「祐樹君は、一人で四国一周の旅に出かけてしまったよ。」

私が、話題を見つけて山根に話した。

「変わった若者だな、あの祐樹とかいう青年は・・。でも、好感が持てる。Going my wayだからな・・。他の連中はどうしてる。」

私の会話に応じて、山根がそう言った。

「奈美ちゃんと正治は、お前のマンションの部屋を使わしてもらっている。初めは違和感があったが、結構お似合いの恋人同士かもしれん。娘の彩夏なんか、二人の結婚の話なんかして盛り上がっているよ。(苦笑する)なつみちゃんは、ジョッショとバサムと一緒に毎日図書館通いだ。よほど学問が好きらしい。二人の家庭教師も引き受けてくれてな・・。おかげで俺も畑へ行ける回数が増えた。」

私は、淡々と山根に、日常の出来事を語って聞かせた。山根は、笑顔で黙って聞いていた。

すると突然、山根が話題を変えた。

「お前に頼みがあるんだがな・・。」

いつもの二人の会話にはない真剣な表情だった。

「うん。」

私も真剣に応じた。

すると、彼はベットの下に置いていた小さな鞄を取り出し、

「この鞄の中に、バサムの通帳と、アリーの店の登記権利書が入っている。通帳には、バサムが大学終了までの十分な学費を振り込んだ。それと、アリーの店の登記は、彼の名前に変更しといた。俺が病院に入る前に、手続きして処理したんだ。」

「ずいぶん、手回しがいいな。」

「こう見えても、弁護士だからな。」

山根は、そう言って笑った。

「他にも、俺の全財産が入ってる。遺言書はお前への譲渡としておいたから、お前の判断で、みんなのために使ってくれ。」

笑顔を絶やさず、そう言って、私に鞄を差し出した。

私は、しばらく鞄を見つめていたが、次第に涙があふれるように流れ出て、鞄がぼんやりかすんで見えた。山根は、さらに腕を突き出して、鞄を受け取るように促した。



(ジョッショと奈美)

奈美は時間に余裕ができると、幸恵(ジョッショの祖母)の所へ来て料理を手伝ったり、掃除をしたりして、幸恵の傍にいることが好きだった。


ジョッショが、図書館でバサムと勉強した帰りに幸恵に会いに来た。

「ばあちゃん」

家のドアを開けるなり、ジョッショの快活な声が家中に響く。

彼の予想に反して、玄関に現れたのは奈美だった。ジョッショの態度が緊張した様子になり、笑顔が消えて下をうつ向いた。

「ばあちゃんいないのか・・。」

うつむきながらぽつりと言った。

「いいじゃない、あがりなさい。おばさんは、丘の上の畑におじさんの弁当を届けに行ったの。」

奈美が、笑顔でそう言う。

「でもな・・。奈美さんと一緒にいれば、窮屈だからな。」

ジョッショは、正直に自分の気持ちを打ち明けた。

「何言ってんの。今、おばさんとハンバーグ作ったところなの。昼ごはんまだなんでしょ。」

奈美は、ジョッショのぎこちない態度を全然気にしていないようだ。

ハンバーグは、ジョッショの好きな食べ物だ。彼は好物につられるように、奈美が料理を作っている台所へと入っていった。


奈美がニコニコしながら、キッチンテーブルをはさんでハンバーグとごはんを口にほうばり、時々味噌汁を啜るジョッショの顔をじっと見ている。

奈美の視線に気づいたジョッショが、

「そんなに、じっと見られると食事がのどに通らないよ。」

奈美に不服を言う。

「あら、がつがつ食べてるじゃん。」

奈美は、そう言って笑い出す。

「俺は、奈美さんのようにきれいな女の人を見たことないからな・・。何を話していいのか、なかなか思いつかないよ。」

ジョッショは、正直に本音を言った。

「うまいこと言って・・。学校にも綺麗な女の子いっぱいいるでしょ。」

ジョッショのように真剣な顔をして自分の容姿を褒められると、奈美もまんざら悪い気はしない。

義治ジョッショ君は、バサム君といつも一緒なのね。」

「まあ、バサムは兄弟のようなもんだから。」

ジョッショの言葉に、奈美は嬉しさがこみあげてきた。

「義治君は、そんなに勉強してマー君と同じように東京の大学へ行くの?」

奈美が、話題を変えた。

「そうさ。兄ちゃんのように東京へ行って、奈美さんのような恋人を作るんだ。」

ジョッショの声が弾んでいる。

奈美は、思わず大きな声を出して笑い始めた。

「相変わらずねジョッショは・・。自分の思いのままにgoing my wayだね。」

そう言いながらも、奈美の笑いは止まらなかった。

すると、いきなりジョッショは、奈美の顔をまともに見て、

「あ い か わ ら ず ・・? 奈美さんは、俺のことを以前から知ってるの?」

そう言って、不思議そうな顔をした。

次の瞬間、奈美の笑う声が途絶え、彼女の普段の振る舞いからは、考えられないほど慌てた様子に変わった。

「知らない、知らない。(手を横に振りながら)ごめんね、変なこと言って・・。」

そう言いながら、テーブルの上にあった空っぽになったみそ汁のお椀を手に取ると、流し台の方に行き、水を激しく流しながら、お椀を洗い始めたのである。

この時ジョッショは、記憶の中にあったナナの顔がふっと浮かんだ。ジョッショは、奈美に会った時から、「ナナちゃんだ。」と思う気持ちが付きまとっていたのである。

確かに、ジョッショの記憶の中でのナナのイメージと奈美の印象とは、まったく類似点さえなかった。しかし、ジョッショがナナと出会った時、彼はナナと遠い昔に出会ったような錯覚に襲われたのを覚える。そして、その感覚は、奈美を初めて見た時にも感じた錯覚だった。

「奈美さんは、ナナちゃんじゃないよね・・?」

突然口にしたジョッショの言葉に、奈美のお椀を洗う手が自然に止まった。

二人のいる空間に緊張が走り、しばらくお互いに言葉を発することができなくなった。


「ただいま。ジョッショ来てるの?」

ジョッショのスニーカーを確認した幸恵の声が、台所まで聞こえてきた。

幸恵の声は、凍り付いた二人の空間をゆっくりと溶かしてくれる絶好のタイミングを与えてくれた。

「おばさん、お帰んなさい。」

奈美が、大きな声を出して幸恵に返事した。

笑顔になった奈美の顔を見ているジョッショの様子が、次第に普段の自分の表情に変わっていった。


(山根の死)

「アリーさんの様子がおかしいんだ・・。」

奈美と正治の住んでいるマンションを訪ねたジョッショが、インターフォンを通じて、兄の正治に訴えた。

「今、ドアを開けるから。」

正治が、慌ててそう言った。


学校帰りの途中、山根の見舞いに行くバサムと別れたジョッショは、そのことを知らせるためにアリーの店を訪ねた。

彼が店に入るなり、食堂のテーブルで、顔を伏せて号泣しているアリーの姿があったのである。

「どうしたのおじさん・・。」

ジョッショが、彼の様子に驚いて、真剣な顔をして問いかけた。

アリーは極度の混乱状態にあったようで、ジョッショに答えることができないようだった。

それでも何とかテーブルにうつむいたままで、

「田辺さんが、知らせてくれたの・・。」

そう言うと、また号泣し始めた。

「なんて・・?」

ジョッショは、テーブルに顔を伏せたまま泣いているアリーの肩にそっと手を置いて、そう尋ねた。

「山根さんが、死んだ。」

そう言うと、今までより大きな声で泣き始めたのである。

ジョッショにはどうすることもできず、アリーをその場に残して正治のところに助けを求めたのである。


ジョッショから事情を聴いた正治は、部屋の奥の方に向かって奈美に声をかける。

「奈美!今からアリーさんの店に行ってみるから・・。」

正治の声を聴いた奈美が、慌てて着替えていたのだろう、シャツのボタンをしながら玄関に現れた。

「私も行く。」

彼女の真剣な顔からは、この事件を他人のこととは捉えていないようだった。

三人は、事件に急き立てられようにアリーの店に向かった。


三人の助けもあって、アリーは次第に落ち着きを取り戻し始めた。

正治が、呆然と椅子に座っているアリーの横に座り、肩に手を回し落ち着くように促し、ジョッショは、厨房でコーヒを入れてアリーの前のテーブルにそっと置いた。

アリーがやっと顔を上げて、ジョッショが持ってきてくれたコーヒに感謝するように、彼の顔を見てにこりと笑った。

その時、慌てた様子で、山根の見舞いのために病院を訪れていたバサムが帰ってきた。

「山根のおじさん、死んでたよ・・。僕が病室を訪ねたら、おじさんの遺骸は死体安置所に移されたって・・。看護師さんが言ってた。」

バサムは、集まったみんなに、淡々と自分が見てきた状況を話している。しかし、彼の冷静な口調に反して、彼の目から涙が止めどなく流れている。

それを聞いたアリーが、再びテーブルに顔を伏せ、すすり泣き始めた。

「田辺のおじさんは・・。」

今まで黙ってみんなの話を聞いていた奈美が初めて口を開いた。

「そのことを知らせに、田辺のおじさんの家に寄ったんだけど・・。おばさんが出てきて、おじさんの行方が分からないんだって・・。おばさんは、おじさんから山根のおじさんが亡くなったことを知らされて知っていたよ。おじさんは、ショックで目がうつろだったようだよ。」

バサムが、見てきたことを淡々と説明する。

「大丈夫かな・・。じいちゃん。」

ジョッショが不安そうな顔で、ぽつりとつぶやいた。

すると、奈美が緊張した面持ちで、

「私が見てくる。みんなアリーさんのことお願いね。(バサムの方を見て)めそめそするな!山根のおじさんが生きていたらそう言うよ。」

そう言って、外へ飛び出した。

「バサム君、自転車借りるね。」

店の中に、外に出た奈美の声が聞こえてきた。


奈美の自転車が、全速力で丘の上の畑の道を登っていく。

私は、桜の木の下に置かれたテーブルの上に置かれたCDプレイヤーから流れる音楽を聴きながら、椅子に座って、赤く染まっていく空に立ち上る煙をじっと見つめていた。

「おじさん!」

やっと畑にたどり着いた奈美の声が、私の耳に入ってくる。

「山根のおじさん、亡くなったのね・・。おじさん、大丈夫・・。」

私の近くで自転車を降りて、自転車を走らせて荒くなった呼吸を整えながら、奈美が声をかけてきた。

私は、彼女に涙を見らないように、麦わら帽子を深くかぶりなおし頷いた。

息を整えた最後に、奈美がふっと息を吐き、私と同じように前に広がる夕日を眺めている。

「山根が天国で困らないように、病院で預かってきた服を燃して、その煙を空に送ってやってるんだ。天国にうまく届けばいいんだが・・。」

私は、いくら我慢をしても涙が止まらなかった。

奈美は私の言葉に答えず、じっと前で立ち上る煙が真っ赤に染まった空に舞い上がるの見つめていた。

しばらくの間、二人は、静かに煙が空に吸い込まれていくの黙って見ている。

やっと、奈美が私の聞いている曲に気づいて、

「おじさんが聞いてる曲、何ていう曲?」

と聞いてきた。

「マーラーの交響曲第五アダージェット。山根がここへ来ると、よく夕日を見つめて聞いていた曲なんだ。」

私は、前を見つめる視線をそらさず、そう言った。

「いい曲ね・・。(しばらく沈黙が続き)私もこの場所から朝日を浴びながら・・。そうだ、私はラフマニノフの交響曲二蕃三楽章アダージョにしよう・・。それがいい。」

奈美の妙な呟きに、私は初めて奈美の顔を見て、不審そうに彼女の様子をうかがった。


数日が経ち、お遍路参りをしていた祐樹に正治からメールが届いた。

「にいちゃん、どっからきたんだ。」

焼山寺の参道で、祐樹がお遍路参りの装束を着た老人に声をかけられる。

「わたし?東京から・・。ここはいいわ。山の道は夏でも比較的涼しいから。四国はやっぱり暑いからまいっちゃった。」

そう言って、その老人に笑顔で答える。

「にいちゃん、面白い話し方するな。」

そう言って、老人は祐樹の顔を見て笑顔を見せた。

「おじいちゃんには、こんな話し方、不快かしら・・。ごめんね。」

祐樹がそう言うと、

「いや、みんなそれぞれさ。兄ちゃんはそれでいい。人の目なんか気にするんじゃないぞ。」

老人は、最後の言葉に力を入れて祐樹の話し方を擁護した。

その時、メールが入ったのである。

ー山根のおじさんが急死した。みんなショック。ー

祐樹はメールを読みながら、一瞬立ち止まる。

「どうしたにいちゃん・・。」

異変に気付いた老人が、声をかけてきた。

「なんでもない・・。おじいちゃん、長生きしてね。」

祐樹の口から、ふとそんな言葉が自然について出た。

「ありがとよ。」

老人は、そう答えると、健康を誇示するかのように前を向いて力強く歩き始めた。

祐樹の心に、さみしい気持ちが残り香のようにまとわりついて、ずっと消えることがなかった。



(精霊流し)

バサムと一緒に川のほとりでしゃがんで行きかう人を見ていたジョッショが、精霊流しの蝋燭の明かりで照らし出された奈美の顔に視線をやった。

「やっぱり、ナナちゃんだ・・。」ジョッショは、心の中で呟いた。

「どうした、ジョッショ。やっぱ奈美さんが気にかかるのか。さっきから、奈美さんとすれちがう連中が、みんな奈美さんの方を見てるよ。浴衣を着た東京のモデルだもんな。はっとするのが自然だよな。」

バサムはそう言って、ジョッショにつられるように奈美の方を見る。

「お前、奈美さんになんか感じることないか。」

ジョッショがバサムに尋ねる。

「そりゃ綺麗な人だよ。でも、他になんかあるのか。」

「いや。別に・・。」

ジョッショは、そう言うと奈美の方から視線を逸らすと、また、点在する精霊流しの明かりを眺めていた。


一方、二人から少し離れたところで、奈美となつみと正治が、蝋燭で照らされた灯籠を川の水面にそっとおいて、流れていく灯りを見送っている。

「この光景を見てると、山根のおじさんの魂が本当に御世に旅立っている様に思えるよな・・。」

正治が、その場の雰囲気に浸りながら独り言のようにつぶやいた。

「へえ、ずいぶん感傷的なこと言うのね。」

なつみが、正治をからかうようにそう言った。

「生死を超えた宇宙の摂理があるとすれば、この精霊流しのように死者の魂を押し流して、どこかに運んでくれる川の流れのようなものってあるのかな・・。」

奈美が、ぽつりとそう呟く。

なつみと正治が、奈美の言葉に思わず顔を見合わせる。

「今の奈美ちゃんの疑問は、今の科学の知識では立ち入れないよね。つまり、想像でしか推測出来ない問題かもしれないね。でも、時空の中での法則では、計り知れない霊の世界ってあるのかもしれないね。」

奈美の疑問へのなつみの返事になった。

「それって、神の領域に踏み入るしか仕方がないってことかな。」

奈美がなつみのほうを向いて、再び疑問を投げかけた。

「神の存在を前提にすれば、我々がこの世で存在する根拠もすべて納得がいくかもしれないけど、それは何か違うような気がするんだけどな。」

正治は、自分が考えている精一杯の結論を出したが、奈美の疑問に満足を与えるだけのはっきりした解答にはなっていなかった。

「種の連鎖は、遺伝子レベルで生き物のDNAに組み込まれているって聞いたことあるけど、

それって奈美ちゃんの疑問の答えにはなっていない気もするし・・。確かに科学では説明がつかない何かが我々を含めた生き物を支配しているような気もするね。それが神を無視できない理由かもしれないけど・・。」

なつみは、いつものように真剣に奈美の疑問に答えようとしている。

「個々の人間が生きている時空の根拠とは別のレベルで、我々が世代を重ねることで、種の保存に関わる宿命を背負わされているのかもしれないね。そう考えると、山根のおじさんは、新たな次元へ旅だったのかもしれないね・・。」 

三人の話は、次第に科学を超えた神霊の世界の肯定に誘導されているように思えた。

「やっぱ、神のなせる業なんかな・・。」

なつみは、そう言うと、ふっとため息をついた。


いつの間にか、奈美は、ナナとしての自分の記憶を蘇らせていた。

シリア軍の空爆が通り過ぎ、ナナとファティ(ナナの祖父)は、防空壕から外に出て、空爆があった通りを手をつないで歩いている。周りには、爆撃によって死んだ人々の遺体が、黒焦げになって横たわっていた。老人、若者、幼い子供たちまで・・。ナナは、そんな光景を見ながら涙が止まらなかった。

「じいちゃん、神様はどうしてこんな惨いことをお許しになるのかしら・・。」

ファティの顔を見上げたナナの頬から涙がつたっている。 

「神は、必ずあいつらを許さない。きっと、この報いをお与えになる。きっとな・・。」

ナナはファティとつない手が、改めてきつく握りしめられるのを感じた。


記憶から立ち戻った奈美が、

「でも、私は神を信じない。だって、種の連鎖だって有限な時間と空間の現象でしかないんだもの。種は必ず滅びるし、地球だって有限な時間に存在してるだけだもん・・。神は無限の不条理の前では無力じゃないのかな。やがて、時空を超えた無はすべてを飲み込むの・・。私たちの想像力だって真っ暗闇の真空に引きずり込んでしまう気がするの・・。でもね、我々の宇宙の法則が通用しないもう一つの宇宙があったとしたら、我々の魂は存在するかもしれないね。」

奈美は何かに挑むような真剣な顔をして、二人に訴えるようにそう言った。

「奈美は、本当は時空の法則を知ることで、無の真実が知りたいのじゃないのかい?」

正治が、奈美の本音を推測しながら、控えめな声でそう言った。

「神は、無の根拠になることはできないもんね。きっと・・。」  

なつみが、正治の言ったことを追認するようにそう言った。

暗闇をじっと見つめる奈美の真剣な顔をみてると、まるで光のない真っ暗闇の世界に無の意味を探し求めているように思えた。          

「だって、無の向こうに何かがあると信じないと、私たちの魂が存在する根拠の最後の救いである希望さえ失われるかもしれないもんね・・。」

奈美はそう言うと、表情を崩してにこりと笑った。

「奈美の言うことを聞いてると、今を生きてる人間とは違うレベルの話をしているような気になるな。」

正治は、奈美が「魂」という言葉を使うとき、自分たちとは違う意味が込められているように思えてしかたがないのである。

「もう、この話やめようか。なんだか気味が悪くなってきた。山根のおじさんの魂を静かに見送ろうよ。」

なつみが、そう言いだした。

二人も彼女の提案に反対する気持ちはさらさらなかった。



(奈美の旅立ち)

朝の四時過ぎに私の家のインターフォンが鳴った。

「どうしたの?こんな朝早く。」

対応に出た妻の幸恵が、玄関に立ちすくんでいる正治の青白い顔を見ながら、そうきいた。

「奈美がいないんだ。ばあちゃんなら奈美のいるところわかるかと思って・・。」


正治が、夜中に目覚めると、横で寝ているはずの奈美の姿がなかった。

「マー君、私がいなくなっても探さないでね。あなたが探せば、私はもっとつらくなるから。何てね・・。」

奈美は、正治の前では演劇のセリフのようなことを言って、よくからかった。

昨夜の奈美の言った言葉も冗談と受け止めて、正治は何も気に留めずに眠ってしまった。

ところが、正治が夜中に目を覚ました時、奈美の昨夜の言葉が現実になったのである。


「知らないけど・・。昨日も奈美ちゃんと昼間に料理を作ったけど、何にも言っていなかったわよ。」

幸恵が、正治の真剣な顔を見ながらそう言った。

母が夜勤で独りなので昨夜から私の家に泊まっているジョッショと私が、ただならぬ気配に気付いて玄関にやってきて、二人の会話を聞いている。

「兄ちゃん、急がないとナナちゃんが消えてしまうよ!」

突然、ジョッショが、泣きそうな顔をして正治に訴えた。

「ナナちゃん・・て、ジョッショは妙なこと言うのね。」

幸恵が、ジョッショの方に振り向いて笑っている。

<私はラフマニノフの交響曲二蕃三楽章アダージョにしよう・・。それがいい。>

私は、山根が死んだ時に、奈美が丘の上の畑にやってきて、呟いた言葉を思い出していた。

「もし、奈美ちゃんがナナちゃんだったら・・。」

私の思考は、ふとそんなことを思いめぐらし始めた。次第に、仮想は現実となり、抑えようのない不安が襲い始めた。

「正治、丘の上の畑へ急げ!お前が独りで行くことで、奈美ちゃんは救い出せるかもしれないぞ・・。」

いつの間にか、私は抑えきれない衝動にかられ、根拠のない確信で、正治に大きな声を張り上げた。

「兄ちゃん、急げ! 朝日が昇る前に・・。ナナちゃんを救い出さなくっちゃ! 兄ちゃんの奈美さんへの愛情で・・!」

私の言葉に続くように、ジョッショが兄に絶叫した。


もうすぐ朝日が昇る。正治の自転車は、猛スピードで丘の道を駆け上がっていく。

正治は自転車を走らせながら、自分は死んでしまうのではないかというぐらいペダルを踏んだ。

やがて、畑の近くに来ると、ボリュームを最大限にあげた音楽が聞こえてくる。その曲は、以前、奈美が私に言っていたラフマニノフの「交響曲2番第三楽章アダージョ」である。

正治が、丘の上に着いたとき、海の向こうの朝日が昇り始めていた。

正治は激しく息を弾ませながら、畑の向こうの崖に立っている奈美の姿が、朝日の光で輝いているのを見つけた。

「な み・・!」

正治の叫び声が、奈美の耳に飛び込んでくる。

奈美が、彼の叫び声におびえた顔で振り向いた。

「来ないで!」

奈美の声が、この世の断末魔のように、早朝の空に響き渡る。

何故か、ラフマニノフのアダージョが、二人の緊張を高めるように大きな音で流れてくる。

「私はこれ以上、この空間でいられない・・。私の体を支えるエネルギーがバランスを失っていってるのを感じるの・・。だから、もうこれ以上わたしを呼び止めないで!」

そう叫んで、正治を見つめる奈美の目から涙があふれている。

奈美は、やがて自分の肉体が朝日の光と区別がつかず融合して、光子となって飛散することを予感していたのである。

正治は、奈美の言葉を無視するように、彼女の方へ一歩一歩あゆみを進める。

「君の魂は、僕のいる時空から離れられないことを、僕は知っている・・。もちろん僕も君のいるこの時空がなければ、存在する何の意味もないことを君は知ってるはずだ・・。」

正治は、眩しく輝く奈美の方をじっと見つめながら、ゆっくりと歩みを止めずに、何かに挑むようにそう言った。

正治の言葉を聞きながら、奈美の顔がうなだれる。

「お願い、それ以上近寄らないで!そうでないと、あなたも死んでしまうから・・。」

奈美は祈るような気持ちで正治に訴えかけた。

朝日の光が奈美の体を異常な強さで包み込む。それとともに、奈美の体が、次第に光を放ち、彼女の存在自体が薄れていくように思えた。

突然、正治が全速力で走り出し、彼女に触れられるまで近づいたとき、奈美の体に体当たりしながら抱きしめると、二人は絡み合うように一つになって、地面に倒れこんだのである。

次の瞬間、倒れこんだ二人の頭の真上で、激しい光の乱反射が上空まで真っ白に染めていった。やがて、爆音にも似たけたたましい音と、人の断末魔のような叫び声が混じりあい、二人の頭上で大轟音となり、辺りを恐怖に陥れた。

二人はただ頭の中を空っぽにして、必死に一つになろうと抱きしめあっている・・。


どのぐらいの時間が経っただろうか。二人の頭の上を覆って、二人の視界を奪っていた極度に輝いた光の乱反射が薄れていき、辺りに静寂が戻ってきた。

二人は目を開けて、辺りを見渡し始める。すると、今まで気づかなかったラフマニノフの曲が、抱き合った二人の静寂の空間を優しく流れていた。

二人は、目があった瞬間、何故か気持ちを合わせたように微笑みあった。

「どうやら、奈美はこの世界でいられそうだね・・。」

正治は、激しく高鳴っている鼓動を抑えながら、彼の目の前で、大きな目をなお一層大きく見開いて、何かにおびえている表情をしている奈美に優しく語りかけた。

「馬鹿だな、マー君は・・。死んでいたらどうするの。」

奈美が、そっとささやいた。

「僕は、何も怖くないよ。奈美と一緒なら・・。たとえ、奈美が怖がっている無の中に吸い込まれてもね・・。」

正治の迷いのない言葉に、奈美は高ぶった感情を抑えられないように、彼の胸に顔をうずめて、嗚咽し始めた。

その時、丘の上へ必死で自転車を走らせているジョッショの姿が、朝日の中で輝いている光の中で薄っすらと包まれているのだった。


               終わり


次回、「右衛門12」連載予定!



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