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ジョッショの友達ナナ青春篇3-2

(祐樹の母)

祐樹の母の店は、三階建てのビルだった。

原宿のブティックといえば、若者のファッションの最先端である。その場所でこれだけの建物で店を運営をしているとなると、かなりの金持ちに違いなかった。

正治が奈美を祐樹の母の店に誘ってみると、別段嫌な顔もせず、気楽に応じてくれた。

そのことを、教室で祐樹に話すと大いに喜んだ。ただ、我々の話を黙って聞いていた江原なつみが、「自分もつれていけ」と言い張ったのである。

正治は喜んで応じようとしたが、祐樹は明らかに嫌な顔をした。

「なによ、私が行ったらいけないの。それなら、奈美ちゃんにもそのことを言って、店に行かないように忠告するから・・。」

なつみは、一度しか会っていない奈美のことを親友のように話した。正治は、結局、いつもの連中と奈美をつれて祐樹の母に会うことになったのである。


祐樹の母は、正治の想像の域を出なかった。必要以上に全身装飾品で飾り立て、手には大きなダイヤの指輪が、これ見よがしにはめられていた。どうやら、服は原色が好きらしく、白のブラウスにグリーンのジャケット、それに紺のパンツは、自分の年齢を忘れた身なりを好むマダムにありがちな選択であった。ただ、経営者らしく一つ一つの仕草はてきぱきしていて、細身の体には似合わず、エネルギッシュな雰囲気があった。

彼女は、奈美が来たことに上機嫌で、三階にある応接室に我々を招き入れた。

「よく来てくれたわね。祐樹がお友達に無理を言ったんじゃないの・・。」

祐樹の母は、そう言いながら、笑顔で正治の顔を見た。

「いえ・・。」

祐樹の母雨宮敏子が観察するようにじっと見ているのに気づき、正治はうつむき加減に返答した。

「さきちゃん。みんなにコーヒ注文して。余りおいしくないけど、近くのマハラジャでいいわ。祐樹、私の代わりに、後でみんなを食べにでも連れて行ってね。」

敏子は、店のスタッフにコーヒの注文を頼むと同時に、テーブルの下に置かれていたバックからカードを取り出して、祐樹に渡した。祐樹が、嬉しそうにカードを受け取って、正治の方を向いてにやりと笑った。

「田辺君は四国の出身なの・・。」

「はい。」

「祐樹から聞いたんだけど、あなたも、私たちと同じ母子家庭なんですってね。」

「はあ。」

正治は、終始短く返答することで敏子の会話を避けようとした。彼にとって、敏子のような母親は、自分の母の彩夏とは余りにもギャップがありすぎて、どう対応していいか分からなかったのである。

「私は、江原なつみと申します。祐樹君とは同じクラスで、いつも雑談なんかする仲間です。」

なつみは、敏子と会った時から自分が無視されていることを意識していた。

「あらそう。なつみちゃんね。外見通り、おりこうさんのようね。うちの祐樹と同じ大学だもんね・・。」

敏子は、意味深なことを言ったが、それ以上なつみに外見の詳しい説明はしなかった。彼女の言葉に、なつみの愛想笑いが一挙に消えた。

敏子は、奈美の方を向いて、満面の笑顔を見せた。

「奈美ちゃんよく来てくれたわね。」

奈美に話しかけた敏子の声は、一オクターブ上がったようだった。

ちょうどその時、コーヒを注文して帰ってきたスタッフの早紀が敏子の近くにやってきた。

「さきちゃん、この子知ってる。」

敏子が、早紀に尋ねた。

「サリュのモデルの吉川奈美さんですよね。」

早紀はそう言うと、敏子の横に座って奈美に微笑んだ。

「祐樹から奈美ちゃんのこと聞いた時から、早紀ちゃんとも話してたんだけど・・。(奈美の様子を見る)奈美ちゃんは、雑誌サリュとは専属契約結んでんの?」

敏子が、恐る恐る奈美に尋ねた。

「いえ、何度か話はあったんですけど・・。私、モデルずっと続けるつもりないんです。」

奈美がそう言い終えると、ドアが開き、マハラジャの店員が、コーヒカップとコーヒの入ったポット持って部屋に入ってきた。

「すいません。」

早紀がそう言うと、コーヒカップがテーブルに並べられ、ポットのコーヒが五人に注がれていった。

コーヒが入れ終わり、マハラジャの店員が部屋を出終わると、敏子が椅子から身を乗り出して、

「奈美ちゃん、うちのアルバイト頼めないかしら・・。時間は、奈美ちゃんが自由に決めていいの。お得意様が来た時、うちのスタッフと一緒にお客様の服の選択にアドバイスしてくれれば、それでいいの。後は、なるべく目立つ場所で、お客の間でぶらぶらしていてくれれば、有難いんだけど・・。時給は1時間3万でどうかしら。」

敏子の最後の言葉に、正治となつみが思わず姿勢を正して奈美の顔を見た。

正治の予想に反して、奈美は困った顔をして、ためらっているようだった。

「週一回でもいいんです。」

敏子の横に座っていたスタッフの早紀が、奈美に食い下がった。どうやら、この早紀というスタッフは、敏子の右腕らしかった。

「嫌ならいいのよ、奈美ちゃん。私、何にも聞いていなかったから・・。ただママに頼まれて、ここに誘っただけなんだけど・・。ごめんね。」

祐樹は奈美にそう言うと、母の顔を睨みつけた。敏子は息子の非難するような視線に、一瞬困惑したようだった。

「日曜4時間だけなら・・。」

奈美が祐樹をかばうように、そう提案した。

「よかった。」

敏子はそう言うと、早紀の顔を笑顔でみながら、計画通りにことが運んだ満足を共有しているようだった。

すると、いきなりなつみが話し始めた。

「あのう、私もアルバイトで雇ってくれないでしょうか。土日だけなんですけど・・。」

なつみの言葉に、敏子は驚いたようになつみの表情をうかがった。

「あなたお勉強はどうするの。」

敏子がなつみに尋ねる。

「大学は、土日休みですから。」

「そう・・。早紀ちゃん、何とかなる。」

敏子が早紀に打診する。

「そうですね。(明らかに困ったいる様子で・・。)支払いのカウンターなら、何とか。時給は1500円ですけど・・。スタッフの衣服はこちらで用意します。」

早紀の提案には、正治でさえ、なつみが可愛そうに思えてきた。奈美の条件と余りにもギャップがありすぎたのである。

なつみは、早紀の言葉を聞きながら、次第に笑顔が顔から消えていった。

しばらく、考えている様子だったが、

「それでお願いします。」

なつみはそう言うと、敏子に頭を下げた。

「ママ、時給2000円にしてあげて・・。」

祐樹の意外な言葉に、座っていたみんなが祐樹の顔を見た。

「それでは、他のアルバイトのみんなに言い訳できませんから・・。」

早紀が即座に祐樹の提案を拒絶した。すると、

「早紀ちゃん、黙っていればわからないから・・。なつみちゃんも内緒ね。」

敏子が、そう言ったのである。この時、正治は祐樹への母への印象が一変した。



原宿の祐樹の母の店を出た四人は、まず、高級フランス料理店でフレンチのフルコースを味わった後、未成年禁止にもかかわらず、祐樹の住む高級マンションで、酒を買って宴会をすることになったのである。

正治も奈美も終始上機嫌で、祐樹の面白い会話もあって、大いに盛り上がった。

ただ、なつみは普段より口数が少なく、ひたすら食べることに専念していた。


「しかし、このマンションは、大学生が一人で住むような場所じゃないだろう。」

正治は、高級そうなソファに座り、時折、その場で腰を上げてバウンドしながら、非難するように祐樹に言った。

「私だけが住んでいるんじゃないのよ。月に一回ぐらいはママが来て泊っていくんだから。何しろ、ここは都心に近いしね。」

祐樹は、正治に言い訳をしたつもりだが、、言い訳になっていないような気がした。

「なつみちゃん、大丈夫、あまり元気なさそうだけど・・。」

奈美は、さっきから口数の少ないなつみが気にかかっていた。

「気にしないで。私、元々、躁鬱の落差が激しいから・・。」

なつみはそう言って、奈美に笑顔を見せた。

祐樹と正治は、さっきのアルバイト料の落差が原因だろうと密かに思っていた。


最初、あまり口も利かずただ黙って酒を飲んでいたなつみは、みんなの会話が進むにつれて、かなり陽気になってきた。そして、酔いがまわったせいもあって、時折、わからぬ言葉を羅列してはソファにぐったり横たわり、また目覚めては気勢を上げて大声を出した。

「なつみ、かなりやばいなあ。」

さすがに、彼女の行動の異常さに気付いた正治が、苦笑しながらそう言った。

「お酒飲みすぎよ。さっきからかなりのハイペースで飲んでるもの。」

祐樹もさっきからなつみの振る舞いには、少し不安を感じていたのである。

「俺、送っていくよ。」

正治が、困った顔をしながらそう言った。

「酔った女性を抱えながら一緒に歩くのよ。奇声を上げるかもしれないし。周りが絶対怪しむって・・。」

祐樹も困っている様子で、そう言った。

「だからと言って、このまま彼女を祐樹の部屋に残して帰れないだろう。」

正治が言い返す。

「それは困るわ。いくら私がトランスジェンダーだからって、なつみと一緒にこの部屋で一夜を過ごすのはね・・。」

二人の問答がずっと続くように思われたが、奈美が二人の会話に終止符を打った。

二人の会話を横で聞きながら、奈美は可笑しさをこらえられずに噴き出したのである。

二人が、奈美の顔を怪訝そうに見る。

「私がなつみちゃん送っていくから。」

奈美が、きっぱりとそう言った。

「それもなあ。女二人で夜の街を歩くのは危険だし。それに、奈美ちゃん美人だし・・。僕も一緒に行こうか。」

正治が、そう提案した。

「何よ!今の言い草・・。私は美人じゃないから大丈夫だと言いたいの。」

そう言った時だけ、なつみは素面になったようにしっかりした口調で話し、正幸の顔を真剣な顔で睨みつけた。

正治の狼狽ぶりは、横で見ている奈美の目にも気の毒だった。

すると、なつみが、

「奈美ちゃん。私の下宿西武新宿線の所沢なの。かなり遠いわよ。」

そう奈美に話しかけたのである。どうやら、なつみは奈美に送ってもらいたかったようである。

「いいわよ。」

奈美は、ニコニコ笑いながら、なつみの依頼を快諾した。

「わたしはね。容姿で女性への応対を変える男が大っ嫌いなの。わかったか、正治!もっとも、たいていの男はそうだけどね・・。」

なつみはそう言うと、また、酩酊したかのようにけらけらと大きな声で笑った。その場に居合わせた誰も、なつみがどれだけ酔っているのか判断しかねていた。

正治は、この場は黙っているのが得策だと感じて、うつ向いたまま一言も言わなくなった。

祐樹は、そんな彼らを見ながら、面白そうに笑っていた。



(なつみと奈美)

木造の建物は、女性専用の古びたアパートだった。なつみの部屋の窓からは日差しが差し込み、雀のさえずる声がひっきりなしに聞こえてきた。

奈美は、紅茶の入った水を鍋で沸かし、たっぷり砂糖と牛乳をその中に入れると、沸き立ったところで、茶こしで二つのカップに注いだ。そして、レンジのチーンという音が鳴り、その中に置かれたトーストを取り出し、なつみが座っている小さな丸テーブルの上に、飲み物の入ったカップと小皿にいれたトースト四枚を置いたのである。

「ありがとね。」

なつみが、小さな声で囁いた。朝起きた時から、二日酔いで頭痛が治らないなつみは、こめかみを指で何度も押しながら、

「奈美ちゃんは、本当にブラックホールとか宇宙の形に興味があるのね。」

と、相手の顔を見ずにそう言った。奈美は、さっきから、正治に会った時に話したホワイトホールの話をなつみにも話していたのである。

「自分がどうしてここにいるのか。自分はいったい何者なのか。考えれば考える程、不思議になるでしょ・・。」

奈美が、トーストをかじりながらそう言った。

「その通りだけど・・。奈美ちゃんは、それを知るために、正治君や遠藤教授に遠慮なく質問するんだもの・・。その積極性は大したものよ。」

なつみは、カップに口をつけて熱くないか確認しながら、恐る恐る啜った。

「なつみちゃんは、どう思う。」

奈美は、なつみの言葉に直接は返答せずに、そう尋ねた。

「奈美ちゃんが、ブラックホールに入って何にも影響を受けないっていうのは、ありえないわね。だって、ブラックホールの中は数億度の灼熱地獄だもの。ただ、時空がゆがめられたら、熱の波長がどうなるのか、私には知識がないけどね・・。奈美ちゃんの肉体ではなく、魂だけがホールを通過するなら別だけど・・。そうなると生きてる人間の体験ではなく、死んだ後の世界の話になるね。」

そう言って、なつみの顔から笑みがこぼれた。

「だからなのか・・。」

なつみの話を聞いて、奈美は独り納得したかのように頷いた。

なつみは奈美の言葉に訳が分からず、怪訝そうに彼女を見る。

「宇宙はね、いくつかのパーツからできていて、そのパーツを組み合わせると宇宙が完成するらしいの。遠藤教授ならそのこと知らないはずないんだけど・・。多分、奈美ちゃんには説明しても理解してもらえないと思って、奈美ちゃんの話に合わせたのだと思うよ。」

なつみが、微笑みながらそう言った。

「そうなのか・・。でも、あの教授の言うこと本当に面白かったよ。」

奈美は、素直に教授の話に感動していたのである。

すると、なつみが、

「ホワイトホールってブラックホールと双対そうついになってる残り半分の世界じゃないのかな。例えば、球体があって、北極が中心である半球がブラックホール。南極が中心である半球がホワイトホールって具合にね・・。ワープはこの二つの世界を繋ぐ通路かもしれないね。でも、ホワイトホールの世界では、我々の世界とすべてが同じだけど、あらゆるものが対照的になってるの。まるで鏡に映った自分の姿のようにね。」

と、自分なりの宇宙観を展開した。

いつの間にか、宇宙への好奇心で想像力が刺激され、二人の話す会話が生き生きと独り歩きしているようだった。

すると突然、

「でもね。宇宙の外は誰もわからないよね。だって、想像力では無を理解できないものね。」

最後に、ぽつりと奈美がつぶやいた。奈美のどこか悲哀を込めた最後の言葉に、なつみはどう答えていいかわからずに、黙ってテーブルの上に置かれたカップを見つめるだけだった。


(正治の事故)

なつみと奈美が祐樹の部屋を出てから少し経って、正治はマンションを出て家路に向かったのである。彼は東京へ来て初めて酒を飲み、友達たちと楽しく過ごした一日だった。

正治はいつの間にか鼻歌を歌いながら、祐樹の部屋で交わした仲間との会話を思い起こしながら歩いていた。

奈美の終始笑みをたたえた優しい顔が脳裏をかすめた。正治にとって、奈美は憧れの女性になっていたのかもしれない。彼は、彼女といるだけで幸せになり、胸弾むのだった。


正治は、祐樹のマンションでの会話を思い出して、にやりと笑った。

「奈美ちゃんさえやる気を出せば、一流のモデルになれるし、アイドルになることだって不可能じゃないと思うな。ただ、今の奈美ちゃんにはそんな意欲はなさそうだけど・・。」

祐樹はそう言って、奈美の顔を見た。奈美は、ただ、黙って笑っている。

「でも、なんで奈美ちゃんは正治なんかに近づいたのかな。どう見ても、正治は奈美ちゃんとは不釣り合いに見えて仕方ないけど・・。」

奈美の言葉を待たずに、祐樹が話題を変えた。

「その通り!可笑しいよね。奈美ちゃん、なんか魂胆あるでしょ。」

今まで、黙って酒を飲んでいたなつみが、急に祐樹の言葉に反応した。

「僕もそう思う。たまたまラーメン屋の外で交わした言葉が、ここまで発展したんだからな。縁て不思議なものだよな・・。」

正治は、奈美との出会いを思い起こして、なつみの言葉に同調した。

「あなたたち三人だって同じでしょう。たまたま大学で同じクラスになったわけでしょ。

人との付き合いなんて、最初は偶然なのよ。それに、マー君は、わざわざ青山のスタジオまで私に会いに来てくれたし・・。」

奈美は、そう言って正治に微笑みかけた。

「案外、ぼーとしているようで積極的なんだ。正治君は・・。」

なつみが、皮肉交じりにそう言った。今日の彼女の言葉にはどこかトゲがあった。やはり昼間のバイト料のショックが尾を引いてるうようにみえた。

「なつみちゃんは、嫌味を言うときだけ素面になるんだな。」

たまらず、正治がなつみの言葉を押し返した。

「まあ、そのぐらいにして、今日は楽しく過ごしましょ。彼女ら二人のバイトも決まったんだし・・。」

祐樹の言葉を機に、みんなそれなり楽しい時間が続いたのであった。


正治は、さっきみんなで過ごした時間を思い起こしながら、駅のホームの階段をいつものようにスローペースでとぼとぼと歩いていた。

その時、

「何とろとろ歩いてんだ。邪魔だ、どけよ!」

正治は、酒のせいか少し聴覚が鈍っていた。頭の後ろでかけられたその言葉が夢の中で響くように聞こえてきたのである。

すると再び、

「どけよ。うすのろ!邪魔なんだよ。」

正治が、その言葉を自分の鈍くなった聴覚で聞き分けた瞬間、その男の手が正治の肩にかかり、激しく押してきたのである。男の暴力でバランスを失った正治の体は、手をさし伸ばし、階段の手すりを掴もうとした。しかし、酔った体は反応が鈍く、伸ばした手はむなしく空をつかみ、真っ逆さまに階段を転げ落ちたのである。

ホームで待つ女性の叫ぶ声が、かすかに正治の耳に聞こえたが、転げ落ちた衝撃で激しく打った頭と全身の痛みで、正治の意識は次第に途切れていったのである。



(再びバサムとジョッショ)

私と山根は、いつものようにアリーの食堂でたむろしていた。

テーブルにはコーヒのカップが二つ置かれている。年のせいか、山根も昼間は、あまりビールを飲まなくなった。その日はちょうど日曜日で店には客もいない。そんなわけで、ジョッショとバサムは、店のテーブルに幾冊かの参考書を並べて、熱心に勉強していた。


「じいちゃん。この問題解ける。」

いきなり、ジョッショが後ろを振り向き、本を読んでいた私に話しかけた。

その問題は、数列の漸化式だった。

私は彼から問題を受け取ると、問題の内容を確認した。

「一般項を求めたらいいんだろ。」

私にとって、その問題は難しくはなかった。

私は問題が書かれた紙の余白を使って計算式を展開し、解答を書き留めるとジョッショに渡した。

「すげえな。結構難しい問題だけどな。じいちゃんは、いつも物理や数学の本を読んでいるけど、ただ、ぼうっと数式を眺めているだけじゃないんだ。」

ジョッショは私を褒めたつもりだろうが、私の心は傷ついた。

二人のそんな会話を聞いていた山根が、噴き出すように笑い始めた。

「おじさん、この問題は解けますか。」

今度は、バサムが物理の問題を持ってきた。

「力学問題か・・。要するに、動摩擦係数を求めるために全体に作用する力の合成が、ゼロになれば解けるんだろう。」

私はぶつぶつ呟きながら、バサムが持ってきた問題をジョッショの問題の時と同じように、紙に書いてバサムに手渡した。

バサムは渡された解答をじっと見た後、

「ジョッショ、お前のじいちゃんに教えてもらえば、俺たちも希望がかなうかもしれないぞ!」

そう言って、バサムが嬉しそうにジョッショに話しかけた。

「二人の希望って何なんだ。」

横で我々のやり取りを見ていた山根が、バサムに聞いた。二人は、一瞬目を合わせ、ためらうようにすぐには答えなかった。

しばらくして、やっとジョッショが山根の質問に答え始めた。

「バサムは、医者になりたいらしいんです。」

「ほう・・、それはいい。もし希望がかなったら、父さんのアリーも嬉しいだろう。」

山根が感心したようにそう言った。残念なことに、アリーはこの場にはいなかった。

「医者になって、何かやりたいのかい。」

私が、バサムに動機を聞いた。

「医者になったら、シリアに帰って、少しでも故郷の子供たちを救いたいんです。」

バサムがそう答えると、奥の方でアリーのすすり泣く声が聞こえてきた。

そして、いきなりみんなの前に現れると、

「田辺さん、山根さん、バサムの希望がかなうように助けてやってください!私からもお願いします。」

そう言って、また、すすり泣き始めたのである。

いきなり厨房から出現して泣き始めたアリーの行動に、その場に居合わせた全員が凍り付いてしまい、しばらくの間気まずい沈黙が続いた。

「ところで、ジョッショはバサムのように、将来の希望があるのかい。」

山根が聞いた。

「バサムがなりたいなら、僕も医者になろうかと・・。」

どうやら、ジョッショの動機は薄弱だった。

「お前、医者になることをなめてるんじゃないか。医者になるには、兄ちゃんの正治ぐらいの成績を取らないといけないんだぞ!」

私の口調は、知らないうちに、ジョッショを叱責するように厳しかった。

「まあいいじゃないか。お前の孫が頑張るといってんだ。それに、お前、孫が理系の大学に行くなら学費出してやると言ってただろう。」

山根がジョッショをかばうようにそう言って、険悪になりかけたその場の雰囲気を和らげた。すると、私の言葉に沈んでいたジョッショが、山根の言葉に勇気づけられたのか、再び笑顔で私の顔を見た。

「私も、及ばずながら、英語ならお前たちを教えてやれるかもしれん。」

山根は、どうやら二人の希望を実現可能だと思っているらしかった。

「山根さん、田辺さん。お願いします!」

再び、アリーが祈るような表情で私たちの顔を見て、そう叫んだ。

「そう言われてもな・・。」私は、心の中でそう呟いた。二人を医学部に進学させるのは、無理だと思っていたのである。

それでも、

「まあ。二人にやる気があるのなら、手伝ってやるのも無駄ではないかもしれんな。」

私は仕方なくそう言うと、山根の顔を見た。山根は、自信満々に頷いた。彼は私よりかなり楽天的な性格かもしれない。



(ジョッショの動機)

時間はさかのぼる。

「どうしたのバサム。」

ジョッショが心配そうにバサムの顔を覗き込み、彼の様子をうかがった。

私の家のキッチンテーブルでテレビを見ていたバサムが、テレビのニュースを見ていて、いきなりすすり泣き始めたのである。ジョッショは、バサムの悲しみの原因を知るためにテレビの画面に目をやった。

その画面に映し出されたのは、アフガンの子供たちが食糧不足で苦しんでいる映像だった。

「いつも戦争で一番苦しい思いをするのは、こんな小さな子供たちなんだ・・。この子の目を見ろよ。本来なら無邪気に遊んでいるはずの子供が、絶望になすすべもなく震えて、周りを見ながらおびえてるんだ。しかも、この子の力ではどうすることもできない現実なんだ。戦争をやりたければ、大人たちが勝手にやればいい。でも、なんで子供を巻き込むんだ・・。何もできない小さな命を、どうして奴らは思いやることができないんだ。」

テーブルに置かれたバサムの手は、小刻みに震えている。

子供の頃、戦場を逃れて生き延びてきた経験のあるバサムの言葉に、ジョッショは彼にどんな声をかければいいのか分からず、途方に暮れて、じっと黙っているしかなかった。

すると、バサムは、そんなジョッショの当惑に気付いたのか。いきなり彼に笑顔を見せて、

「ごめんな・・。ジョッショを困らせる気はないんだ。でも、今でも戦場で逃げ惑う子供たちのことを思うと、無力な自分にどうしようもない絶望を感じて、眠れない日があるんだ。シリアの子供たちが僕に助けを求めているような気がしてね・・。」

バサムは、そう言うと、またうつ向いて、声を押し殺すように嗚咽した。

ジョッショは、泣いてるバサムを見ながら、

「自分の想像力では、バサムのように彼らに共感することはできない。」そう思って、なるべくバサムをそっとしてやるしか仕方がなかったのである。

そんなジョッショにも震えるような悲しみを感じた事件があった。それは、虐待で殺された子供の事件である。

「なんで、親が子供を殺すんだ。親しか頼れない小さな子供の無力な命を握りつぶすように・・。」

彼の怒りは、この世の矛盾にどうすることもできない自分の無力に、やりきれない現実の前で、怒りが時間とともに通り過ぎて行ってくれるのをじっと待っているしかなかった。そして、そんな気持を味わった時、ジョッショは少しだけバサムの悲しみと共感することができたような気がしたのである。


ジョッショはいつものように、学校へ行く道の途中で待っててくれるバサムのいるアリーの店の近くの四つ角の交差点に自転車を走らせた。

バサムが自転車をまたいで立っている。

朝の光がキラキラと輝き、バサムのシルエットが光で眩しくなるほどの快晴だった。

「どうしたんだ。ニコニコ笑って・・。なんかいいことでもあったのか。」

ジョッショは、バサムの笑顔を見ながら、つられるように笑顔を見せてそう言った。

「俺は医者になるよ。そしてシリアへ帰ったら、子供たちを一人でも多く救ってやるんだ。」

バサムは、一つ一つの言葉をかみしめるように、ジョッショに自分の決意を宣言しているようだった。

「そうか、医者か・・。(しばらく沈黙して)仕方ない。俺もお前に付き合ってやるよ。」

ジョッショは、ふっと思いついた考えを言葉に出した。

「別に、お前に付き合われてもな・・。」

バサムがそう言って、苦笑する。

「もし、お前のようにシリアの子供たちの苦しみを共感できたら、俺もお前に付き合ってシリアに行ってやるから・・。」

相変わらず、ジョッショは自分なりの幼稚な発想を持ち出して、自己満足しているようだったが、バサムは何故かジョッショの思いやりが嬉しかった。

「でも、自分一人で勉強しても医学部に入れるのかな。みんな優秀な奴は、塾や予備校に通っているのに・・。」

バサムが不安をのぞかせた。

「俺に考えがあるから・・。」

ジョッショの頭には、いつも数学や物理の本を眺めている私の顔が思い浮かんだようだった。


(再び東京)

「吉川奈美さんでしょうか。」

奈美に電話がかかってきたのは、青山のスタジオで雑誌の写真取りをしていたときであった。

「はい。」

いつもなら相手がわからない携帯の呼び出しに応じない奈美だったが、裕樹やなつみと親しくなったせいで、もしかしたら彼らからの電話かもしれないと思い、電話にでたのである。

「田辺正治さんという方ご存じでしょうか。」

「はい。」

一瞬、奈美は胸騒ぎがした。

「こちらは、代々木警察のものですが。田辺さんが昨夜、傷害事件の犠牲にあいまして・・。

彼の身元を調べていたら、彼のポケットからあなたの名刺が出てきたので電話させてもらったのですが・・。」

奈美の手が小刻みに震えている。

「彼、深刻な状態なんですか。」

やっと、そう聞くのが精一杯だった。

「いや、命に別状はないようなのですが、駅の階段から突き落とされたようで、右手を骨折していまして・・。」

「犯人は見つかったのですか。」

「それが、今、捜索中です。」

会話は、そこでいったん途絶えた。奈美は、今の仕事を中断しようと即断した。

写真家の岡野が心配そうに奈美を見ている。

「すぐいきます。」

奈美は警察の問い合わせに応じた。奈美のようなモデルが撮影を中断するのは、仕事を辞めるような覚悟がいった。

「どうしたの。青白い顔して・・。」

様子が急変した奈美を気遣って、岡野がそう聞いてきた。

「岡野さん、お願い・・。知り合いが負傷したらしいの。撮影延期してくれない。」

一瞬、岡野の表情がこわばった。

「奈美ちゃんの恋人?」

岡野がにやりと笑ってそう聞いた。

奈美がうつむいたまま頷く。

「仕方ない、行ってきな。その代わり、一回夕食おごり。」

そう言って笑顔を見せた。

「ありがとう。岡野さん。」

そう言いながらも、近くにおいていたポシェットを右手でつかむと、大急ぎでスタジオを飛び出した。


(奈美と正治の関係の進化)

正治が目を覚ますと、自分が知らない部屋で横たわっているのに気が付いた。

彼は右手の骨折に気が付かず、手を動かして起き上がろうとした。次の瞬間、

「ううう。」

思わず、痛みで悲鳴が出た。

すると、部屋のドアが開き、奈美が笑顔で入ってきた。

正治は、今の自分の現状が分からず、不思議そうに奈美を見ている。

「馬鹿ね。右手、骨折してるのよ。動かずじっと寝てなさい。」

奈美の言葉に、正治は自分の右手を見た。

かたい石膏のようなギブスで守られ、右手は固定されていたのである。

「でも、どうして奈美さんが・・。」

「ここは、私のマンション。昨日、あなたは病院からここへ担ぎ込まれたの。今あなたが寝てるのは、私のベット・・。居心地いいでしょ。」

奈美は、そう言って、笑顔を見せた。

正治が階段から突き落とされて、二日がたっていた。その間、正治は手の手術を受けて、病院で傷の処置を受けた後、病院スタッフは奈美の承諾を得て、彼女のマンションに彼を移動したのであった。

「おなかすいたでしょ。二日間何にも食べてないんだもんね。ちょっと待っててね、今何か作ってあげるから。」

奈美の優しい言葉に、正治は涙が目にあふれ出しそうになるのを必死でこらえた。

「でも不思議ね。あなたが意識を失って寝ている間、一度も大便しないんだもの・・。

おしっこなら私もおしめ取り換えられたけど、さすがに大わね・・。」

正治は、奈美の言葉に耳たぶまで赤くなるのを自覚した。

「奈美さん・・。それじゃ。僕の下半身見たの。」

知りたい気持ちが、屈辱に勝った。

「そうよ。だって仕方がないじゃない。私が看護師さんだと思いなさい。そしたら、当たり前でしょ。」

奈美は、正治が困惑している表情を面白がって見ているようだった。

気づいてみると、正治はおしめをしていたのである。


奈美の作ったおかゆは、たまらなくおいしかった。正治は奈美に介助されて、知らず知らず完食したのである。

奈美が、スプーンを正治の口元に運ぶとき、自然と奈美の顔が正治の目に近づいてくる。

そのたびに、彼の心臓の鼓動は激しく波打つのであった。

「何緊張しているの・・。もう観念しなさい。私の部屋で一日以上こうやって過ごしてんだもの。しかも、おしめまでかえさせて・・。」

奈美は、そう言うと、じっと正治の顔を見た後、そっと唇を当ててきた。

彼女の甘い香りが正治の嗅覚を独占して、薄暗い部屋にくっきりと浮かび上がった奈美の白い顔は、彼の視覚を麻痺させた。彼の五感は、奈美の色香のとりこになって、抗ってもどうしようもないと悟った蛇ににらまれた蛙状態だったのである。

「シャワー浴びてくるからね。じっと寝ていなさいね。最も、逃げ出したくても逃げれないか。その体では・・。」

奈美の囁くようなその言葉は、正治の聴覚に魔法をかけ、彼女の自由な意思に服従させられた。


奈美は、シャワーを浴びて、そっと部屋に戻ってきた。彼女の体を巻いていたバスタオルが、横たわる正治のベットの横に置かれたとき、衣服をまとっていない奈美の白い裸体が、見上げている正治の視線の先で揺れているようだった。その時初めて、正治の内なる欲情が体内から沸き上がり、今までの心の動揺が嘘のように消え失せると、立ちすくんで正治をじっと見ている奈美の体を、彼の自由の利く方の手で引き寄せたのである。

「やっぱり俺は、奈美が好きで好きでたまらなかったんだ。」正治は、どこかで抑えてきた自分の気持ちに、初めて正直に答えられたような気がした。


次の朝、正治がふと目を覚ますと、奈美が横に寝ている。

「夢が覚めませんように・・。」正治は奈美の横顔を見ながら、何度も何度も心の中でそう祈っていた。

すると、いつの間にか、奈美の大きな目が正治の顔を覗いている。

「手の痛みなかった・・。」

奈美が、優しく尋ねてきた。

「不思議だな、全然痛くなかった。快楽は痛みを吹き飛ばすのかもしれないな・・。」

正治は、真剣にそう答えた。

「馬鹿・・。」

奈美はそう言うと、眠そうにまた目を閉じて、しばらくの間、正治の言葉を思い出しては、目を閉じたまま何度も何度も笑っていた。



(正治と奈美の甘い関係)

「夕食作るんだけど、一緒に食べない。」

奈美からのメールが届いた正治は、バッグに単位取得に必要な参考資料を詰め込むと、返事のメールを打った。

「すぐ行く。」

正治は、学期末が近づき、単位取得のためにも少しでも学習時間が必要だったが、愛情を交わした奈美の誘いを断れるほど、ストイックな青年でもなかった。


今日の奈美の料理もクスクス料理であった。彼女の作る料理は、決まってエスニック風の料理である。

二人の関係は、「また、エスニック料理か、たまには日本料理も食いたいな・・。」などと言えるほど、まだ遠慮がない成熟した恋人同士の間柄ではなかった。

それでも、奈美が料理をしている間、正治は大学の単位のために、奈美のキッチンテーブルの上に参考書を広げて、少しでも学期末の終了試験の準備をしていたのである。

「何勉強しているの?」

奈美が、テーブルの上に広げた資料の数式に集中している正治の後ろから、腕を首に回して自分の頬を彼の顔に触れながら尋ねてきた。奈美にとって、今では正治は愛する恋人であり、少しの時間でも彼の前では素直に愛情を確かめたかった。

正治もまた、そんな奈美のストレートな愛情表現がたまらなく愛おしかった。

「電場と磁場の相互関係を数式にしたマックスウェル方程式を理解しようとしてんだ。」

「ふうん。それって大事な式なの・・。」

「おそらく、物理の法則の中でも指折りの意義のある方程式なんだ。この方程式から、光は電磁波であることが導き出される。他にもいろいろね・・。」

「光は電磁波なの?」

「うん。この式から電磁波の速度が分かり、それがピッタリ光の速度と一致するんだ。」

「光か・・。そう言えば、この世界は光の魔法がかけられているのかもしれないね。光がなければ、私たちの認識自体も失われるんだもね。」

奈美は、正治の予想もしない言葉を口にした。

「奈美は、時々、存在の核心をつくようなことを言うね。」

そう言いながら、正治は、自分の顔に近づけられた奈美の目に視点を当てた。

大きくて黒目の割合が大きい彼女の目は、男たちの心をとろけさせるには十分だった。

「例えばさ、もし私が光の速さの数十パーセントの宇宙船で宇宙の果てに向かったとするね・・。」

正治は興味を引かれて、レポートをまとめようとしていたペンの動きを止めた。

「前にも遠藤先生と議論したように、誰かが地球で私が乗ってる宇宙船見ていると、宇宙船の中にいる私の周りはどんどん小さくなって、宇宙の境界では限りなく点に近くなると仮定できるよね・・。そうなると、私は地球にいる時の自分とは根本的に違った存在になってしまうのかしら・・。」

そこまで言って、奈美は迷宮に陥った自分の想像力をクールダウンするかように、肺に貯めていた息をゆっくり吐いた。彼女の絡めた腕は正治からほどかれ、キッチンテーブルの周りをぐるぐる回り始める。しばらくして、奈美が再びつぶいた。

「でも、宇宙船の中にいる私にとって、自分の周りの現象は少しも変わっていないのに・・。外国旅行に行ってる飛行機の中にいるようにね・・。」

奈美は、自分の空想に夢中になっていた。

正治は、奈美の真剣な顔が面白くて、思わずくすりと笑った。

「ただね、光の性質は、私が乗ってる宇宙船のスピードで時空の座標が変わっても、相変わらず不変なのよ・・。そうよ、だから私と宇宙船の中では何にも変わらない・・。だって、光の法則が変わらない限り、どんな場所にいようと、光を通して変わらない自分を認識することができるんだもの・・。」

奈美は自分の世界に没頭しているように見えた。

「やっぱ、奈美は不思議な女の子だな。もっとも、そのおかげで僕は君と知り合いになれたけど・・。」

正治が、ぽつりとつぶやいた。

「違う!マー君とはこうなる運命なの。」

奈美は、断言するようにそう言った。

その言葉を聞いた正治は、自分の知らない奈美の持っている謎の部分をどうしても知りたくなった。

「ただ、光に支配されている宇宙の範疇で考えたって、無の真空は光の法則では何も分からないのだろうね・・。」

奈美の想像力では、結局は、いつも同じ結論に落ち着いてしまうのだった。それは、生きてる人間が、死をどんなに想像しても分からないのと同じことだったのかもしれない。

「やっぱり、僕たちが最初に出会ったときに話した宇宙の穴であるブラックホールの特異点から先を想像しない限り、どうにもならないか・・。」

正治は、余りにも真剣な顔で想像を膨らませている奈美の様子を見ながら、からかうようにそう言った。

「そう、それなのよ!」

意外にも、奈美は正治の言葉に目をきらきら輝かせながら、正治の言葉に満足したようにほほえみかけた。



(バサムとジョッショの目標)

ジョッショの医学部志望は、彼に届いた一通のメールで変わってしまった。

「田辺さん、山根さん、オムライス出来ました。バサムもジョッショも勉強済んだら食べてね。」

アリーは、ニコニコしながらみんなに食事をふるまった。水曜日は店も休みなので、四人はアリーの店で勉強することにしている。他の日は、私の家や山根の部屋で教えることもあった。私は数学と物理、山根は英語を担当した。授業のやり方は単純で、二人に渡した参考書の問題を、ノルマを与えて宿題に出して、集まったときに私が解答を解説した。山根も二人に英作と読解の課題を与え、その添削をするだけだった。

二人は、このやり方に文句も言わず、すべて自力で解いてきた。

「あああ。やっと終わった・・。」

ジョッショは、勉強から解放されて、手足を大きく伸ばして大きな声でそう言った。

バサムは、まだ私たちが出した課題の結果を熱心に見ている。

「この分だと、瓢箪ひょうたんこまもありうるな。」

山根が嬉しそうに、二人を見ながらそう言った。

「まだ始まったばかりだ。お前は、楽観視しすぎだよ。」

私は、そう反論しながらも、予想より二人が熱心に勉強することに驚いていた。

「どうだ。この分だと正治にも負けない成績を取るかもしれんぞ。」

山根はそう言うと、声を出して笑った。

私は、内心、二人の学力は正治には到底及ばないと思っていたが、本人たちのやる気をそぐこともなかったので、山根の言葉には苦笑いするだけだった。

「冷めないうちに食べてね。バサムも食べなさい。」

再び、アリーが食事を促した。

このごろ、アリーは、店が休みになると午前中だけ宅配のアルバイトをしていた。バサムの学費を少しでも貯えたいのだろう。

「しかし、微分や積分を勉強して何になるんだろうな。」

ジョッショが、高校生なら誰でも考えそうなことを口に出した。

「それじゃ。何を勉強すればいいんです。」

以外にも、そう反論したのはアリーだった。

「そりゃ、英語だったら外国人と話ができるし、法律だったら、山根のおじさんのように、バサムやアリーさんが日本で暮らせるのに助けられるしね。」

ジョッショの言葉に、山根が満足そうににやりと笑った。

「微積は、物の本質を知るにはなくてはならない道具なんだ。例えば、水や電気の流れを解析したり、地球の形だって数式で表現できるんだ。」

私がアリーの言葉に味方する。

「じいちゃんは、僕が理系を勉強しないと学費出さないからな・・。ひょっとしたら、微積の勉強は、そのことが一番の目的かもしれない・・。」

私はジョッショの言葉を聞いて、彼の勉強の動機に少しだけがっかりした。

「それでいいんだ。勉強することに疑問を持たなかったら、動機はなんでもいい。」

山根は、自分なりにいいことを言ったといわんばかりに、声を出して笑った。

「そうじゃないだろう。」私は、ジョッショと山根を見ながら、心の中で何度もつぶやいた。

バサムは、そんなみんなの会話を聞きながら、絶えず微笑んでいた。彼には、勉学することに、ゆるぎない目標があったのである。

山根のテーブルには、オムライスの他にビールジョッキが置かれ、私の前にはコーヒカップが置かれていた。山根は、うまそうにビールを飲み、私も頭を使った後の一杯のコーヒをゆっくりと味わった。

その時、ジョッショのタブレットにメールが入った。ジョッショが、オムライスを食べながら、タブレットを覗き見る。

「誰からのメール?」

一緒に食べていたバサムが尋ねる。

「兄ちゃんから写真が届いた。」

その言葉を聞いた全員が、ジョッショのタブレットを覗き込む。

その写真には、正治、奈美、祐樹、なつみが、笑顔で写っていた。

「ほう、学友らしいな・・。正治君は、もう友達を作って楽しくやってるようだな。」

山根が、そう言った。

「この青年、化粧してないか。」

私は、そう言って目を凝らして、写真を覗き込んだ。

「東京じゃ、珍しくないでしょ。」

バサムが、祐樹を擁護する。

「ひょっとして、端に写ってる女性なつみ・・、兄ちゃんの彼女かな。」

ジョッショが嬉しそうにそう言った。だれも、奈美が正治の彼女なんて思いもしなかった。

いつの間にか、みんながジョッショの意見に賛同し、その場は大いに盛り上がった。

「それにしても、この女のなつみ、やっぱり頭よさそうだな。優しい顔してるけど、

目が鋭いよ。」

山根の意見に、みんなが頷いた。ここまで、誰も奈美のことは話題にならない。

しばらく、写真について話が盛り上がった後、アリーがぽつりと言った。

「正治君の横で写っている女優のような女の人・・。誰なんでしょうね。」

全員、改めて奈美に視線を注ぐ。

「綺麗な人だな・・。東京でもこんなきれいな人めったにいないよ。」

アリーが、東京でいたころのことを思い出しながら、独り言を言うようにそう言った。

「あれだ、近くにいた女性がたまたま写ったんだろう。」

山根が、さっきから推測していたことをみんなに話した。内心、みんな奈美が気にかかっていたのである。

「それにしては、不自然だな。何だかみんなと仲良く微笑んでるようだが・・。」

私はそう言うと、山根の説明に納得がいかず、首をかしげて、再び、微笑んでいる奈美の顔をじっと見た。

すると、また、ジョッショのタブレットにメールが届いた。

ーみんなを紹介するな。向かって右端に移ってるのがなつみちゃん、その隣が祐樹君。大学の同じ同級生。そして、僕の横にいるのが、僕の恋人でモデルの奈美ちゃんです。ー

熱心にメールを読んだみんなが、一斉に、

「ええええ!」

同じように声を張り上げて、唖然として、ただお互いに顔を見合すだけで、しばらく声を出すこともできなかった。しばらくして、

「そんなの反則だろう。」

ジョッショの小さく呟く声に、全員が頷いたのも当然の反応だった。


数日後、

「じいちゃん、僕は東京の理系の大学に進学することに決めたから、学費お願いね。」

ジョッショが私にいきなりそう言いだした。

「医学部は、諦めたのか。」

私は、ジョッショの軽薄さを皮肉ろうと、からかうような笑みを漏らしてそう言った。

「うん。僕にも明確な目標が出来たんだ・・。」

ジョッショは、私の皮肉に気づく様子もなく、確固とした決意でそう言っただけだった。



(祐樹の母雨宮敏子の策謀)

日曜日になると、なつみと奈美は、原宿の祐樹の母の経営するブティックの前にあるカフェで軽食をとり、ブティックでのアルバイトの前に二人で雑談するのが楽しみになった。もちろん、支払いは奈美がした。この習慣を提案した奈美は、なつみのアルバイト料の不満を和らげるためだったが、今では二人の友情を深めるいい機会になった。

奈美は、正治や小沢教授の教えてくれた「光の不変性」の話をなつみに話した。

「何だか、奈美ちゃんは、物理の知識を使って自分の宇宙観を自分独自に創り上げることを急いでいるみたいね・・。確かに、光はこの世の中が存在する重要なキーワードであることは認めるけど、光が宇宙の謎のすべての疑問に答えられるかというと、そうではないよね。例えば、重力・・。奈美ちゃんがブラックホールにこだわるなら、ブラックホールができる根本的原因は重力の暴走にあるのは知ってるよね。存在の基本的性質にしても、素粒子論を抜きにしては語れないし、そもそも四つの力である電磁気力、弱い力、強い力、そして重力の統一的理論がわからないなら、宇宙の基本原理は分からないと思うの・・。最も大統一理論は、まだ誰も解明していないらしいけどね。」

そこまで言うと、なつみはサンドイッチと一緒に頼んだオレンジジュースをストローで口の中に吸い上げた。

「偉いね、なつみちゃんは・・。ちゃんと科学の常識を踏まえて、宇宙を想像するのだから・・。正治や遠藤先生は、ただ私の話を聞いて、私の考えに納得したように頷くだけだけど、本当は真面目に聞いてくれていなないのかもしれないな・・。でも、なつみちゃんは、私のいい加減な知識から想像した世界観を真剣になって聞いてくれて、意見を言ってくれるんだもん。わたし、なつみちゃんと友達になって、本当にラッキーだと思ってんの。」

奈美は、お世辞ではなく、本当にそう思っていた。

「でもさ、科学的知識ばっか気にしていたら、自分の信じる宇宙観なんかいつまでたってもできないし、学問的知識から抜け出せない、味気のない想像の世界になってしまうかもね。その点、奈美ちゃんは感じたままに、誰にでも自分の世界を語って聞かせるんだもの。たとえ、小沢先生の前でもね・・。人間が考える葦である以上、どんなに単純な想像力でも、自分の世界観を持って生きてると思うの。それが身近な環境だけから引き出された世界かもしれなくてもね・・。だから、奈美ちゃんは自分なりでいいんじゃないかな。」

なつみは、自分が最初に言った意見で、奈美が宇宙への興味をなくさないように、暗に奈美の世界観を擁護した。


二人の会話が終わりに近づいたころ、なつみがカフェの窓越しに、ふとこれから働くブティックの方に目をやると、いつも見たことがないような行列が店の入り口あたりからずっと伸びていた。

「奈美ちゃん、あれ何かな。かなりの行列ができてるよ。」

なつみが、奈美に話しかる。

「さあ・・。バーゲンでもやるのかしら。」

奈美も不思議そうに、その人だかりを眺めている。

その時、奈美のスマホにメールが入った。ポシェットからスマホを取り出した奈美が、首をかしげる。

「誰から?」

「早紀(ブティックの責任者)さんから。今日は、裏口から入ってきてッて・・。」

「私は、いいのかな?」

なつみがそう言って、奈美の顔を見る。

再び奈美が首を傾げた。


(サリュ編集室)

雑誌サリュの編集室に、編集長の江川と写真家の岡野、それに数人のスタッフが座っている。丸テーブルの上には雑誌「ルガル」が置かれていた。「ルガル」は、若者をターゲットとして発刊される月刊誌で、ファッション、趣味、スポーツ、有名店紹介など若者の流行を先取りすることで発行部数を伸ばしてきた雑誌である。

彼らは、江川がめくったページの表題に見入っている。

<原宿のブティックに、ファッション雑誌サリュのモデル吉川奈美が店員として登場!>

「岡野さん、奈美ちゃんから聞いてた?」

江川が、雑誌の内容を食い入って読んでいる岡野に聞いた。

岡野が、首を振る。

「この記事仕掛けたの雨宮敏子だよ。」

江川はそう言うと、いらいらしながら煙草に火をつけた。

彼は、雨宮敏子とは同じ業界で働く関係で古くからの顔なじみであった。

「原宿のブティックの?」

江川が、貧乏ゆすりをしながら頷く。

「よくやるよ。うちのモデルって知っていながら・・。」

江川の貧乏ゆすりが次第に激しくなってくる。

「でも、奈美ちゃんは、うちと専属契約を結んでいないから・・。どこでアルバイトしても自由といえば、自由なんですがね。」

岡野が、不機嫌そうな江川の表情を上目づかいに見ながら、そう言った。

「そんなことは分かってるよ!」

ついに、江川の怒りが爆発した。部屋の中に緊張が走る。

「こうなったら、吉川奈美と交渉して、どうしても専属契約結ばなくっちゃな・・。」

「しかし、そのことは、彼女と何度も話し合ったんですけど、彼女は契約を結ぶ気なんかなさそうなんですがね。」

岡野が奈美の意志を代弁した。

彼はサリュ専属の写真家であるが、編集長の右腕でもあった。

「このままでは引き下がれないでしょ。ギャラを倍増してでも何とかしなくては・・。」

江川の剣幕が、辺りに緊張をはしらせた。


実は、江川は雑誌ルガルの記事を見て、数時間前に雨宮敏子に電話をしていたのである。

「雨宮さん、お久しぶりです。サリュの江川です。」

「連絡来ると思ってた。元気そうね。」

「ルガル見ました。ずいぶんじゃないですか。」

「あなた、何年この業界で仕事してるの・・。自分の所のモデルの価値がわからないようではしかたないわね・・。奈美ちゃんのことは、以前から関心があったのよ。それが息子の知り合いだとわかってね。日曜だけアルバイトに来てもらってるだけ・・。たまたま私の出資しているルガルの編集長にそのこと話したら、ぜひ、記事にしたいと言うから・・。

確か、奈美ちゃんはあなたんところの専属モデルじゃないわよね。」

江川には、敏子の笑い顔が見えるようだった。

「仕掛け人雨宮敏子は健在ですね。まあ、あなたを敵に回したってろくなことないから、今回は引き下がりますけど・・。余り、いじめないでくださいよ。」

そう言いながら、江川の顔は引きつっていた。

「私は、自分の店の経営に一生懸命なだけ・・。お客を喜ばせるためなら、いろいろ考えなくっちゃね。まあ、あなたには恨みはないし、また、お酒でも飲みましょう。」

そう言って、敏子はにやりと笑った。


場面は、編集室に戻る。

スタッフと集まって、奈美の専属契約について話し合っていた江川の編集室に、原宿の敏子のブティックに様子を見させに客に潜り込ませていたアルバイトの青年が帰ってきて、慌てた様子でドアを勢いよく開けた。

「どうだった。」

話し合いを中断して、江川がその青年に大きな声でそう尋ねた。

「行列ができていて、奈美さんが現れると大変な騒ぎになって・・。」

「握手会か、サイン会でもやってたか。」

岡野が、にやにや笑いながらそう聞いた。

「いや、奈美さんは、三人のスタッフにガードされながら、入ってきた客に笑顔を見せていただけです。なんでも、店長(早紀)の方針で、奈美さんはいつもと変わらない普通の店員の一人としてお客を迎えるコンセプトだそうです。僕の近くにいた店員に聞いたんですけどね。」

偵察をしてきた青年は、自慢そうにそう言った。

「ひょっとしたら、火がついたかもな。時すでに遅しか・・。」

江川は、敏子の戦略に感心するとともに、奈美の専属契約は無理かもしれないと思い始めていた。


一方、行列の騒ぎからやっと解放されて、アルバイトを終えた奈美となつみが雨宮敏子に呼ばれた。

敏子の部屋には、敏子の他に早紀が待っていた。

「ごめんね、今日は・・。私も行列ができるとは思っていなかったの・・。」

敏子は満面の笑顔を浮かべていた。

二人は、敏子の言葉には反応せず、じっとうつむいている。奈美は、あれほどの人の流れに笑顔を絶やさず対応したことは今までなかった。なつみは、急きょ早紀に頼まれて、客の行動に注意しながら、奈美の近くでずっと居続けた疲労で口をきくのもおっくうだった。

「二人には、今日の成果に見合うだけの報酬を払わなっくっちゃあね。」

敏子は、笑顔を絶やさずそう言うと、早紀の顔を見た。

「奈美ちゃんさえよければ、日曜朝11時から3時まで店に入ってくれれば、1回20万円、

なつみちゃんも、今日と同じ仕事をやってくれれば、5万円、アルバイト料として払わせてもらいます。もちろんあなた方の同意がとれたとしたらだけど・・」

早紀は、敏子に促されてそう言うと、二人の方を見てにこりと笑った。

この提案に素早く反応したのは、なつみだった。いままでじっとうつむいたままだった顔をさっと上げると、

「それじゃあ、月20万以上に・・。」

なつみの言葉に、敏子がにやりと笑って頷いた。

「奈美ちゃん・・。」

なつみが、喜びを隠しきれないかのように、奈美に何か言おうとした。

早紀と敏子は、奈美にとってなつみが大切な友達であることを心得ていた。なつみをその気にさせれば、奈美が断れないと判断していたのである。そして、その判断は間違っていなかった。

奈美が顔を上げて、なつみにほほえみかけ、

「なつみちゃんがやる気なら、私も断らないわ・・。」

奈美の顔には、うれしそうな表情はなかった。

しかし、なつみは奈美の言葉に、嬉しさのあまり思わず奈美を抱きしめたのだった。

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