ジョッショの友達ナナ青春篇3-1
「ジョッショの友達ナナ3青春篇」
田辺正治18歳、東京の一流大学で相対性理論と量子力学を学ぶために、最近田舎から出てきた学生である。
私(正治の祖父)は、正治が物理を学ぶことを大いに喜び、東京生活の必要経費と学費の援助を快く引き受けた。私は、若いころ哲学に傾注してフランスまで留学したのだが、哲学は自分の知りたい学問ではなかったような気がして、哲学を学んだ努力が徒労に終わってしまった虚無感にさいなまれることもしばしばあった。それだけに、孫の正治が理科系の大学に興味を示したことで、自分の夢をかなえてくれるような気持ちになったのである。
一方正治も、
「サルトルの言う「存在と無」を知りたければ、物理や数学を学ぶことだ。」
小さいころから、いつもそう言って、ため息をつく老人の横顔を見て育った。
彼にとって、物理や数学を学ぶことは、自分が将来学ばなくてはいけない宿命のようになっていたのである。
話は、荻窪のラーメン店から始まる。
「すいません。しばらく、このベンチで待ってもらえますか。」
店員は愛想笑いをしながら、正治にそう言った。
彼は、この店のラーメンが好きだった。最近では、駅を出ると、この店でラーメンを食べることが多くなっていた。荻窪で下宿をし始めて半年になるが、最初のころは行列のできているこのラーメン店に入るつもりなどなかったのだが、たまたま、行列がなかった日に何の気なしに入って以来、この店の味のとりこになったのである。
ベンチに座った正治は、時間つぶしのつもりで一冊の本を手に取って読み始めた。すると、
「横に座っていいですか。」
若い女性の声がして、正治の隣に座ってきた。
人の承諾を求めながら、応諾も確認しないでいきなり自分の隣に座った女性に対して、彼は軽い不快感を覚えた。そのせいもあって、正治は意地を張るかのように、隣に座ってきた女性を無視するのように、自分の持っている本から目線を放さなかった。
「面白そうな本ですね。」
その女性は、正治の無視する態度に無頓着のようで、彼の読んでいる本の内容を知ろうとするかのように、彼の顔の近くに自分の顔を近づけて、本を覗き込んできた。
この彼女の仕草に、たまらず正治が顔を上げて彼女の横顔に目をやった。
「美人じゃないか、それもとびっきりの・・。どうやらハーフのようだな。」
彼の注意力が、彼女の表情に集中し始めた。
「ブラックホールの解説本です。興味ありますか。」
正治が満面の笑みを浮かべてそう言った。今までの苦虫をつぶしたような表情から一変している。彼女が彼の言葉に反応して、まともに正治の顔を見つめると、笑顔でこくりと頷いた。正治は、自分の心拍数が上がっているのを自覚した。
「お客さん、席空きました。」
店員の声にはっとしたかのように、正治はしぶしぶベンチから立ち上がった。それでも、彼女との会話が終わるのを惜しむかのように、彼は思いっきり気力をふり絞るように、
「よかったら、この本の内容解説しますよ。ブラックホールについて・・。」
と言って、彼女との知り合うきっかけを作ろうとしたのである。
「ありがとう。でも、今はラーメン食べたら仕事に行かなくちゃいけないの。」
彼女の言葉を聞いた正治は、落胆はしたが、「そんなにうまくいくはずがないよな。」と心の中でつぶやくと、意外と簡単に諦める気持ちになり、自分の感情の高まりが静まっていくのを自覚したのである。
「私の名前は、吉川奈美。よろしかったら、自由な時間にあなたの話を聞きたいわ。」
彼女はそう言うと、ジャケットのポケットから名刺を差し出した。
正治に奇跡が起こったのである。
「もちろん。いつでも話しますよ。」
正治は、そういいながら、震える手で彼女の名刺を受け取ったのであった。
(わたしの仲間たち)
アリーの食堂は、客が十五人も入れば一杯になる。だから、山根と私は客の少ない昼間に、ほぼ毎日彼の食堂に顔を出す。天気のいい日には、店の奥のテラスにおかれた小さなテーブルのある座り心地のよさそうな椅子に座って、外の風景(200メートル先は車の行きかう大通りにすぎないが)を見ながら昼食をとった後、二人で雑談を交わしたり、持ってきた本を読みながら、アリーの入れてくれたコーヒを飲むのが、我々にとってなんとも心地のいい時間なのである。
「よくまあ、飽きずに数学の本なんか読めるもんだな・・。」
隣に座っている山根が、私の右手に持った本を見ながらそう言った。
「お前は、本を読まなくなったなあ。学生の頃は、いつも六法全書を持ち歩いていたのに・・。」
私がそう言い返すと、山根はにやりと笑い、
「この年になって六法全書で何が学べるというんだ。所詮、法律では自分の心は満たしてくれんからな。」
そう言うと、テーブルの上に置かれていたビールのグラスを手に取って一挙に飲み干した。
「もうそのぐらいにしといたほうがいいんじゃないか。最近、肝臓の具合が悪いと聞いたぞ。」
私の娘の彩夏は、近くの病院で看護師をしていた。その娘から、山根が彼女の病院を通院していることを聞いていたのである。
「彩夏ちゃんだな。告げ口したのは・・。」
山根は、体の具合が悪くなると、彩夏に相談を持ち掛けた。どうも、彼女の助言がなかったら、病院に行く気はなかったが、彼の症状を聞いた彩夏が、かなり脅して山根を病院に誘導したようであった。
「お前はどこも悪くないのか。」
山根は、私の話題に移してきた。
「七十を過ぎたんだ、どこも悪くないほど頑強な体は持ちあわせてないよ。」
私はそう言うと、胸の心臓あたりに手をやって、病気の場所を山根に教えてやった。
「年を取れば、死ぬ覚悟もしなくちゃならない・・。ところが、そのうち覚悟をしようと思っても、いつもそのうちだ。生きてる時間は、自分で意識しない限り、淡々と過ぎていく。そんなところかな・・。」
山根は、意味ありげなことを独り言のように言うと、私の顔を見て笑った。
私は、彼の笑顔に応じるように、あいまいな笑みを浮かべると、再び目の前の本を読み始めた。
「アリー、ビール中ジョッキをここへもってきてくれ!」
山根は、私を無視するかのように、厨房にいるアリーにビールを注文した。
しばらくすると、愛想のいい笑顔を見せながら、アリーが中ジョッキを持って、我々の座るテラスに現れた。
「山根さん、これが最後だからね。」
アリーは、そう言いながら、ジョッキをテーブルに置いた。
「バサム(アリーの息子)と義治は、一緒に自転車で日和佐まで行ったそうだね。」
私が、アリーに話しかける。
「二人が仲がいいのはいいことですが、休みに家でじっとしていたことがない。」
アリーは、そういって肩をすくめると、私の方を向いて笑顔を見せた。
「あの二人は、子供のころから同じ学校へ通っている仲だからな。」
私は、アリーに言い訳をするようにそう言うと、彼に合わせるように笑った。
(ジョッショとバサム)
寺の境内の階段をゆっくりと歩いて行くと、日和佐の町が見渡せる高台があり、朱塗りの尖塔のある寺の建物が、日和佐の町の象徴のように建っていた。
ジョッショとバサムは、心地のいい春の風を受けながら、高台にあるベンチに座り、遠くに見える大浜海岸と、その浜に打ち寄せる海の波をぼんやりと眺めていた。
「ずいぶん遠くまでやってきたな。」
バサムはジョッショにそう言うと、寺の下の自動販売機で買ってきたコーラを口元に持っていって、喉を潤すように飲み干した。
「足がパンパンになった。それに、夜中から出発したから眠くて仕方がない。」
ジョッショは、不平を言いながらも、ここまで来たことに後悔はしていなかった。
「この町のどこかに、うまいうどん店があるそうだ。小さい町だから休んだら探しに行かないか。」
バサムが提案する。
「ネットで探したんだろう。でも、ネットの情報は当てにならないからな。」
ジョッショは、一応ケチをつけたが、昼食はうどんで決まりになった。
バサムが、ポケットからガムを取り出すと、ジョッショに差し出した。
ジョッショはそれを見ると、にこりとして、バサムの持つガムの束から一枚引き抜いた。
二人のいる高台には、たまたま誰もいなかった。四月の日差しが、心地よい暖かみを二人に与えていたのである。
「ジョッショは、兄さんのように東京の大学に行くのかい。」
この年頃の青年が会話をすれば、好きな女の子か将来の話である。
しかし、バサムは今までジョッショに、高校卒業後のことをあまり尋ねたことがなかった。
別段理由はないが、高校卒業は遠い未来に思えるし、バサムには自分の将来に対して明確な考えがなかったからだ。
「僕は兄ちゃんのように頭がよくないからな。それに、母さんに負担をかけるのも申し訳ないから・・。」
ジョッショは、時折、母子家庭であることを気にすることがある。「母親には迷惑はかけられない・・。」いつもどこかで、そう思っていた。
「じいちゃんがいるじゃないか。ジョッショのためならお金出してくれるよ。」
バサムはそう言うと、ジョッショの横顔を見た。
「じいちゃんとばあちゃんがいなかったら、母さん一人じゃ俺たち兄弟どうにもならないもんな。」
ジョッショはそう言うと、今度は彼がバサムの顔を見た。バサムはなぜかさみしそうな顔をしていた。
ジョッショは、彼の表情にはっとして、
「バサムの父さんなら、お前を大学へ行かせてくれるよ。」
焦ったようにそう言った。
「気を使うな。僕は、高校を卒業したらこの徳島で働くよ。第一、移民の子供が大学に行くなんて、贅沢だよ。」
バサムは、そう言うと、暗い気持ちを払うように笑い始めた。
「まあ、将来どうなるかなんてあんまり真剣に考えても、思い通りいくかどうかわからないしな。」
ジョッショは、そう言いだすことによって、この会話に終止符を打つことにした。
(正治と奈美の再開)
正治は、奈美の名刺に書かれている青山のスタジオの受付にやってきた。
「吉川奈美さんがこちらで働いていると聞いて、会いに来たのですが・・。」
正治は、さっきから緊張して、わきの汗が止まらない。
まさに大都会の象徴のようなお洒落なビルの玄関の自動ドアを通過すると、ラウンジに訪問者を接客するソファが点在し、その向こうに受付があり、紺のスーツを着た女性が座っていた。正治は、その女性に奈美からもらった名刺を差し出した。
その受付の女性は、名刺を見ると、怪訝そうな顔をして正治の顔を見て、
「吉川奈美さんには、アポイントはとっておられますか。」
しばらく間をおいて、そう聞いてきた。
「別にアポはとっていませんが・・。」
正治は、度胸を決めて、言い返すようにそう言うと、
受付の女性は、
「そうですか。(戸惑った表情をした後)少々お待ちください。」
と言うと、受付の横のドアを開けて中に入っていった。
正治は、その後姿を目でおっていたが、彼女が部屋の中に入っていくのを見届けると、ふっと大きく息を吐いた。よほど緊張していたのか、息を吐くと同時に、自分の両の手を受付のカウンターに突き出し、全身の体重をその両の手で支えるように力を入れた。
正治は、カウンターの前で十分以上待たされた。そのころには、この場にも少し慣れて、ラウンジを行きかう人を遠くから観察できる余裕ができてきた。
スーツ姿の男性もいれば、しゃれた格好のファッション雑誌から抜け出てきたような若い女性も何人か通り過ぎて行った。
「あなたですか、奈美ちゃんに御用というのは・・。」
正治は、ラウンジの様子に気を奪われて、対応に出てきた男の人の声にびっくりしたように振り向いて、慌てて「はい」と返事をするのが精一杯だった。
その男は、四十才前後で、細めのパンツとUVカットのポロシャツを着ていた。髪は前のあたりがブルーに染められて、どう見てもデスクで働く会社員のようには見えなかった。
「奈美ちゃんは午前の撮影が終わって、今、外に昼食に出かけているんですがね。」
男はそう言うと、受付の女性と同じように、怪訝そうな顔をして正治をじろじろ見始めた。
「撮影? 彼女はモデルかなんかですか。」
正治は、男の言葉に驚いたようにそういった。
「君、知らないの・・。彼女はうちのスタジオで任意契約しているフリーのモデルだよ。「サリュ」っていう雑誌読んだことないの。」
最初に正治を見た時より、その男の表情は穏やかになって、笑みさえ浮かべていた。
ふと気づくと、受付の女性は元いた受付の椅子に座って、男の言葉に反応して、同じように薄笑いを浮かべていた。
「僕は、東京に来て半年にもならないもんですから。」
正治が、理由にもならない言い訳をした。
「サリュは全国雑誌なんだけどなあ。(すっかり警戒心がなくなり笑顔を絶やすことなく)まあいいや。失礼だが、身分証明書なんか持ってる。」
そう聞いた時だけ笑顔が消えた。
正治は男の要求に答えて、ジャケットの内ポケットから学生証取り出して、彼にそれを差し出した。
男は、顔写真と正治の顔を何度か目で往復し、
「へえ、頭いいんだ。」
学生証を正治に返しながら、そう呟いた。
その時、玄関のほうから大きな声で、正治に声をかける女性がいた。正治が、声の方を振り向くと、吉川奈美が満面の笑顔を見せて、正治に手を振っていた。
「江川さん、彼と話があるので、午後の撮影少し伸ばしてくれないかな・・。」
正治と再開した奈美が、正治に対応していた男にそう懇願した。
「いいよ。しかし、そんなに大事なお客さんなの・・。」
江川はそう言うと、意味深な笑みを漏らした。
「私のカレシなの・・。」
奈美はそう言うと、いきなり正治の腕に自分の腕を絡めてきた。正治の顔が、真っ赤なトマトになった。
「奈美ちゃんは、インテリ好みか・・。」
江川が、あたりを気にしないような大きな声で笑い始めた。
その笑い声を無視するかのように、奈美は江川と受付の女性に背を向けると、強引に正治を腕で引っ張って、玄関の方に向かっていった。
(カフェで・・)
スタジオ近くのカフェに誘われた正治は、テラスのテーブルで、奈美と向かい合って座ることになった。
「ブラックホールが誕生するには、太陽の30倍以上の質量をもつ恒星が、自分の寿命を終えて、重力崩壊し始めたことが原因になる・・。恒星の物質成分は次々に重い成分に変化して、最後は鉄になるんだ。その段階で、この星は、超新星爆発を起こして、中性子星になってしまうんだが、太陽の質量の30倍以上もある恒星は、それでも重力崩壊を止めることがなく、ついに永遠に崩壊が止まらなくなり、最後はブラックホールになるんだな・・。」
正治は、ブラックホールについて、本で読んだことのある知識を、奈美の前で無我夢中で解説した。そうしなくては、奈美の視線を前にして、じっと黙っていられなかったせいもあった。
「マー君さ、私はあなたの大学の学生じゃないんだから・・。そんなにたくさん専門用語使われてもついていけないんだけどな。」
奈美は、そう言うとオレンジジュースの入ったカップのストローに口をつけて、ジュースを飲もうとしている。
一方、今まで、奈美に圧倒されていた正治の表情が真剣になった。
彼は、十年以上「マー君」と呼ばれたことはなかったのである。確かに幼児のころは、周りのみんなにマー君と呼ばれた記憶はあった。
「どうしたの?」
正治の表情の急変に気付いた奈美が、カップをテーブルの上に置くと、怪訝そうな顔で正治を見た。
「奈美さんとどこかで会ったことあったっけ・・。」
正治は、初めてまともに奈美の顔を見て、そう言った。
彼の言葉に狼狽した奈美の目線が、大通りを行きかう人の動きに移っていく。
「あなたの名前、正治でしょ。だから、マー君っていっただけ・・。」
奈美が、顔を逸らせたままそう言う。
「そうか。」
正治は、奈美の言い訳に何の疑念も抱かず、ニコニコしながら、奈美が見つめる視線のほうに目をやった。
奈美は、ほっとしたように、再び正治の顔をじっと見て、
「私が知りたいのは、ブラックホールに、もし私が吸い込まれたらどうなるかということなの・・。」
と、予想もつかないことを言い始めた。
「そりゃ、重力で押しつぶされるに決まっている。」
正治が、奈美の珍問にまともに答える。
しかし、彼の内心は、奈美の質問に対して、ただの綺麗なモデルとは違った、ユニークな個性をもった女性としての魅力を感じた。
「私ね、前にブラックホールに吸い込まれる夢を見たことがあるの。その時の私は、普段と少しも変わらず、意識もあり、思考力もいつものように働いてるの。それで、ふっと周りを見ると、自分の前の背景が曲線になってゆらゆら揺れてるの・・。ほら、凸面鏡に写った自分の姿を見たことがあるでしょ。あんな感じ・・。」
奈美はそこまで言うと、真剣な顔をして、正治の顔の表情を確かめた。
彼は二人でいることの緊張から解放されて、奈美の話に興味を持ちながら聞き入っていた。
「私の言っていること可笑しいかな。」
奈美が、不安になって、正治の確認を取るようにそう聞いた。
「いや、面白いよ。第一、偉そうにブラックホールの仕組みを解説している学者だって、ブラックホールに飲みこまれたことなんかないんだもの。奈美さんの話のほうが、よっぽど真実そうで面白いよ・・。」
奈美は、正治の返答に100パーセント満足し、安心したように続きを話し始めた。
「でもね、私、次第に不安になってね・・。(本当に不安そうな顔をして正治のほうを見る)このまま、どこまで行くのだろうと思ったの・・。だって、私は、自分の行動を制御できないんだもの。すると、いつの間にか、私の意識は、ブラックホールを落ちている自分の姿を、外から見ている視点に移ってしまっているの・・。ホールの外から見てると、落ちてる私は、初めは、落ちているのは人間だと判別がついていたのに、或る一点に吸い込まれていく近さに比例して、人間とは判別できない程どんどん小さくなっているの・・。でも、落ちている私は、何も変わらない。自分が小さくなっているなんて思いもしないのよ。そして最後に・・。」
奈美はそこまで言うと、両手の手のひらをぱちんと合わせて、周りの人が振り向くほど、大きな音をたてた。もちろん、いきなり両手合わせて打った大きな音に、正治も驚いて、目を丸くしながら奈美を見た。
「ブラックホールの一点(特異点)に達した瞬間に、落ちてる私が消えちゃったの・・。」
奈美は、自分の夢の結末を言い終えて、ほっとしたように正治に微笑みかけた。
正治は、奈美の無邪気な笑顔に、心臓の鼓動が再び高鳴るのを自覚した。
「奈美さんの夢は分かったけど、僕は君の夢にどう答えればいいかわからない。」
正治は、真剣に、奈美の話に何かの結論を出そうとしていたのである。
「マー君は、どう思う。消えてしまった私は、無に飲み込まれて消えてしまうの・・。それとも、新たな生をもらうと思う。行きついたブラックホールの一点を通って、他の宇宙に飛び出すとか・・。」
奈美の真剣なまなざしを見ながら、正治は、なお一層困惑した。
「この女性は、まともに話しているのだろうか。それともからかっているのだろうか・・。」
何度も自分に自問したのである。
「いわゆるホワイトホールの存在なのかな・・。」
正治は、自分の知識の知ってる限りで、奈美に真面目に応じようと決意した。
「ホワイトホールか・・。聞いたことある。」
奈美はそう言うと、自分の腕の腕時計に目をやった。
「そろそろ行かなくっちゃ。(正治のほうを向き)また会えるよね。」
奈美が、真剣な顔で正治を見た。
「もちろん。」
正治の語気に気合が入っていた。
(二人の再会)
「あんたさあ、ランドマークも行ったことないの。」
雨宮祐樹は、正治が東京に来て以来、東京の一番高い塔にも行ったことがないと聞いて、目を丸くして驚いた。この男、自称トランスジェンダーである。
正治が、初めて大学の講義に出て、教室でおとなしく座っていた時、親しげに話しかけきたのがこの男であった。
「あなたどこの出身?」
いきなり祐樹にそう聞かれた正治は、彼にどう反応していいか迷ってしまった。何しろ、自分の人生で初めて女性のような口調で話す男性に声をかけられたのである。もちろん、テレビで同じような男性がいるのは知ってはいたが、自分が直接この種の人間に話しかけられると、どういう風にふるまっていいか分からず、動揺を隠せなかったのである。しかし、正治のおどおどした態度にもかかわらず、祐樹は講義のたびに正治に話しかけるようになった。
「雨宮君は、あんたが好きじゃないの。」
いつも他人に話すことなく、黙って講義を聞いている同じクラスの江原なつみが、正治の前の席に座っている席から、正治の方に振り向くなり、にやりと笑って小声で正治に話しかけてきた。
「日頃ものも言わないのに、こんな時だけ話しかけてくる。いやな女だ。」正治は、そう思いながらも、薄笑いを浮かべて、彼女の言葉をやり過ごそうとした。
「どう、一度三人で浅草へ行ってみようか。」
祐樹の言葉に、前の席に座っていたなつみが、驚いたように再び後ろを振り向き、祐樹の顔をまじまじと見て、
「それって、私も入っているの?」
そう言って、祐樹に確認した。
祐樹は、なつみに微笑みかけながらうなづいた。正治は、自分を無視して交わされる会話に、なるべくかかわらないふりをして、自分のノートに目をやった。
「ガンマー関数とベータ関数の関係は、このようになります。」
正治たちの雑談の声に意を介さないように、小沢先生の講義は黒板に数式を羅列していく。
この先生は、どうやら生徒に関心がないようである。教室に現れるや、黒板に数式を書き始め、言葉少なに数式の意味を誰にも目を合わせず解説し、時間が来ると、生徒の質問も無視してさっさと教室を出ていくのである。生徒のほうも、最近では、そのやり方が分かってきたのか、何も言わずにノートに黒板の数式を書き留めていくのであった。
それだけに、正治と祐樹となつみの会話は、教室全員の耳障りな注目の的になっていた。
しばらく講義が続き、三人の雑談も一段落すると、教室の中は小沢先生が、黒板に打ち付けるチョークのパチパチという音だけが響き渡った。授業も後半にかかったころ、遅刻をしてきた生徒だろうか、いきなり教室に入ってきた。彼女の歩むハイヒールの足音が妙にチョークの音と調和して、不思議なリズムを奏でていた。すると間もなく、教室の中に不思議なざわめきが湧きあがった。ただ、正治だけはうつ向いたまま、さっき小沢先生が黒板に書いたガンマ関数の関係式からベータ関数へ導く計算の流れを一生懸命確認していた。
「あんた、雑誌サリュのモデルの吉川奈美じゃない・・。」
正治の席の後ろに立っている奈美に気付いた祐樹が、驚いて彼女に声をかけた。
その声は、教室のざわめきの一層大きなうねりを増幅させる結果になった。その時、その騒ぎに気づいた正治が、初めて自分の後ろに立っている女性に気が付いた。
彼女は、真っ白なシャツに細めのパンツをはき、首にアメ横で見つけたようなネックレスをつけていた。一見さりげない服装なのに、彼女の存在は周りの注目を集めていたのである。モデルの容姿と体形は、どんなに控えめにしようとしても、どこか人の注目を浴びてしまうのかもしれない。(こう言ってしまうと、何だか女性差別になるのかもしれないが、そういう意図はないのである。女性によっては、容姿と体形以外でも、思わず目立ってしまう人はたくさんいる。)
奈美は、祐樹の言葉ににこりと笑って頷いた。その時やっと正治は、後ろに奈美が立っているのに気付いた。
「どうやって、僕の居場所を見つけたの?」
正治は、周りから見られていることに戸惑いながら、やっと奈美に声をかけた。
「一回の掲示板に講義の時間割が貼りだされているでしょ。」
奈美は、淡々と正治の疑問に答えると、当たり前の行動のように彼の席の横に座った。
「君は横の男性の友達なの。」
日頃、生徒に声もかけない小沢教授が、眼鏡を少しずらして、覗き込むように奈美に声をかけたのである。
「はい、先生の講義が聞きたくて聴講に来たのですが、よろしいでしょうか。」
奈美は、教授の質問に動揺することなくそう答えた。すると、小沢先生は、うれしかったのか、意識はしてないだろうが、顔に笑みが現れた。
「お嬢さんのような聴講生は大歓迎だ。(腕時計を見て)余り授業時間はないが、私の講義を楽しんでくれたら幸いです。」
小沢教授の顔から笑みが消えることはなかった。
「ありがとうございます。」
奈美の笑顔を教室にいる誰もが食い入るように見ていた。
小沢先生は授業の後、奈美のところにやってきて、彼女の周りに集まっている祐樹、正治、なつみを、大学の近くにあるカフェに誘ったのである。教授は、偶然にも娘の雑誌から吉川奈美のことを知っていた。
「僕の娘が君のファンでね。すまないが君と一緒にいる写真をとらせてくれないか。」
教授は、照れもせず、うれしそうな顔をして奈美にそう頼んだのだ。
意外な教授の一面に、四人はすっかりリラックスして、普段の会話ができるようになった。
最初に教授に話しかけたのは、奈美であった。
「先日、正治君とも話したんですけど・・。先生はブラックホールからワームホールを通ってホワイトホールで物質が吐き出されるという理論どう思います。」
奈美は、教授がカフェに誘った時から、この質問を彼にぶつける機会をうかがっていたのである。
「奈美さんは、いつもそんなことを考えてるのかい。」
小沢教授は、奈美の意外な質問に驚いた。いつの間にか、集まった連中の雑談は消えて、奈美の質問に注目し始める。
「重力理論上、ホワイトホールは可能らしいんだが・・。僕にはその論理式を解説できる能力はないんだ。もっとも、奈美さんは数式の説明を求めていないと思うんだが・・。おそらく、ホワイトホールに吐き出された物質の行方だけが知りたいんだろう。」
小沢は、そう言うと、奈美の顔を見て微笑んだ。
「先生、それ以前に、理論はともかく、ホワイトホールの存在を信じているんですか。」
小沢の言葉に興味を示したなつみが、そう質問した。
「理論上可能なら信じるが、その理論が完璧じゃないなら確信は持てないね。でも、ホワイトホールの存在は、時空が存在している中で生きている人間にとっては、存在根拠を探求するうえで、無関心ではいられない理論だね。だって、我々が時空の中で生きているというのは、まぎれもない事実なんだからね。」
意外にも、教授は、奈美となつみの質問に真剣に答えたのだった。
そして、教授の言葉に、みんな納得したように頷いた。すると、教授は一枚の紙をテーブルの上に置いて、持っていたペンで丸い円を描き始めた。
「この円を宇宙と考えよう。(一枚の紙に注意を集中している四人の顔を確認する。)今、私はこの円の中心から円周に向かってまっすぐ進みだしたとすると、いずれ円周の境界に達するはずだ。つまり、宇宙の境界に・・。」
教授の説明を聞きながら、正治は、先日奈美が話したブラックホールの特異点への話を思い出して、奈美の言ったこととの類似に驚いていた。
教授の話は続く・・。
「ところが、不思議なことに、私はいくら進んでも円周の境界には到達できないんだ。別段、私の体と意識は何の変化もないのだが、私の動きを遠くから観察している人にとって、私は、進む距離に比例してどんどん小さくなり、やがて認識ができなくなるほどミクロな次元に入り込んでいくようなんだ。彼にとって、私はフェイドアウトしているように見える・・。ところが、私自身は何にも変わっていない。つまり、私を観察している人と私の距離の次元が異なっているんだ。ただし、宇宙は円である可能性は低いから、この話は、時空の限界についてのたとえ話にすぎないけどね。」
そこまで説明した小沢教授は、四人をけむに巻いたよう気持ちになり、笑みを浮かべて、奈美と生徒たちの顔を見た。ところが、奈美と正治は、当然のような顔をして彼の話に聞き入っていたのである。
「それって、この前、奈美さんが話したブラックホールの話に似ているね・・。」
正治は、そう言って、奈美に視線をやった。それに答えるように、奈美が正治の顔を見て頷いた。
「そうか、奈美さんは私の発想を先取りしていたのか・・。もっとも、私の話は、独自の発想力から生まれたものではないがね。つまり、ポアンカレというフランスの数学者の発想を借りてきたに過ぎないんだ。」
教授はそう言うと、頭をかいて、照れ笑いをした。
「おそらく、奈美ちゃんが知りたいのは、宇宙じゃなく、宇宙の向こうに広がる無の世界なんだろうが・・。無の世界は、時間と空間が存在しない。つまり、時間と空間の中で成立している我々の想像力も成立しないと考えなくてはいけない。宇宙は無限に広がる空間で、空間があるなら時間が成立する。だから、人間は宇宙の形も想像できる。計算(曲率・エネルギーなどで)なのか、ただの独自の空想なのかは勝手だが・・。でも、宇宙の向こうはそうはいかない。これは、奈美さんの質問に対する私の精一杯の返答なんだがね。もしかしたら、ホワイトホールは、宇宙の外の時空の成立しない世界に物質を放出しているのかもしれないね。」
教授の言葉を聞き終えた奈美は、想像する手段を断ち切られた世界に困惑してしまい、自分の気持ちを落ち着けるように、深く息を吐いた。
「奈美ってさ、見かけによらず、こんな問題を真剣に考えてんだ・・。」
初対面にもかかわらず、祐樹が奈美に呼び捨てで言葉をかけた。しかし、不思議と祐樹が言うと、何の違和感もないのも事実だった。
「みんなでまた集まろうよ。時空のない無をテーマにさ・・。」
なつみが、心躍らしながらそう言った。
「私も機会があれば参加するよ。」
教授のこの言葉に、四人は飛び上がらんばかりに喜んだ。
(私と山根)
私は山根と共同で海が眺望できる小高い丘にある畑を購入した。理由は、その畑に桜の木があり、春になると木の下でちょっとした花見ができるからである。広さは千坪程の家庭菜園としては十分すぎる広さであった。私が、妻の幸恵にこの話をしたとき、彼女は反対すると思っていた。ところが、
「誰の名義で購入するの・・。まさか山根さんと共同っていうわけにもいかないでしょ。」
と、極めて現実的な質問をしてきたのである。
山根も私もそのことは余り気にしなかったが、妻の疑問を山根に言うと、
「お前の孫の名前にすればいい。」
と、いとも簡単に答えたのである。
それを聞いた妻は、畑を購入する話には興味を示さなくなった。
やがて、山根と私は、にわか農民になったように、いろいろな野菜に挑戦した。もちろん、八百屋で並ぶ商品の様にはいかなかったが、形のいびつなトマトやサツマイモ、ネギなどがとれることもあった。
「東京の正治に収穫した野菜送ってやろうか。」
私が収穫したネギやトマトを持ち帰って、正治の母で娘の彩夏にそう言うと、
「やめときなさい。」
ただ一言そう言っただけだった。以来、収穫したものは山根と私だけが食べることにした。
待望の花見の季節がやってきた。私と山根は、この日を待ちかねたように丘の上の桜の木の下に毛氈を引いて、花見をしゃれ込むことにしたのである。
私たち二人が花見に出かけると、アリーが店を休んで我々に付き合ってくれた。
彼はいろんな素材で弁当をこしらえ、我々にふるまってくれたのである。山根は酒を、私はつまみを用意して、丘の畑の桜の木の下に陣取るのであった。
「周りに俺たち意外、誰もいない花見ができるとは贅沢なもんだ。」
山根は嬉しそうにそう言って、この土地を買ったことに満足していた。
「死んでは、金は使えないしな。」
私は、山根に呼応するように呟いた。山根が、遠くに見える海を見ながら、私の言葉に頷く。アリーは、我々が集まる花見を楽しみにしていたようで、始終嬉しそうに笑顔を見せていた。
するといきなり、
「俺は時々不思議に思うんだ。今いる我々のこの日本からずっと遠く離れたシリアでは、同じ時間に死と隣り合わせで必死に生きている人がいるんだなってな・・。」
山根の呟いた言葉に、アリーの顔から笑顔が消えた。
「私は、二人と一緒に花見をして楽しんでいていいのかと考えることがあるんです。自分の幸運に感謝しながらもね・・。」
アリーが、ぽつりとつぶやいた。
山根も私もアリーにかけてやる言葉を失った。ただ、穏やかな晴れた日に、居心地の良い空間で静かに流れる時間にこうやっていられることに、改めて感謝するのであった。
「俺はときどき思うんだが・・。この年になっても、自分が生きているこの世界の中で、何が起こっているのか余り真剣に実感することもなく、自分が生き続ける意味がどこにあるのかも分からず、やがて死んでいくんだろうか。ってな・・。」
私は、アリーの言葉をきっかけに生じた長い沈黙の後、妙に真剣な話をした。
すると、山根が驚いたように私の顔を見て、
「ずいぶん真面目なことを言うんだな。何だか、酔いが覚めてしまったよ。」
私をからかうようにそう言って、にやりと笑った。
「そうですね、今日は桜を楽しむ日でしたね。私が最初に余計なことを言ってすいません。」
アリーは、自分の呟いた言葉を後悔しているようだった。
「謝ることはない。三人の間で言葉を選ぶ必要なんてないからな。」
私は、アリーをかばうようにそう言った。
「そりゃそうだ。花見に自分の生きてる意味や世の中の現状を考えるのも悪くない。」
私に続くように、山根がアリーに気を使った。
三人の会話に誘われるように、私は、日頃自分が考えていることを聞いてもらいたくなってきた。
「くだらないことをしゃべり続けるみたいだけど・・。」
私は、一瞬、話を続けようかためらった。
「言ってみろよ。途中で止められると気持ちが悪い。」
山根が、私の話を促した。
私は、おもむろに自分の考えを話し始めた。
「ふと我に返ったとき、自分が無限の暗闇の中に、ぽつんと光が灯された小さな時空の範囲の中で生きていることに気付くことがあるんだ。そして、自分の関わる世界の向こうに、無限に広がる暗闇を考えたとき、不安というか、恐怖を感じることがある。普段、山根やアリーや家族に囲まれて、何気なく暮らしていると、その日その日の生活に夢中になって、そんな不安を感じることもないのだが・・。今の自分には、そうもいかなくなった差し迫った理由があるしな・・。」
私は、そこまで言って、自分の言いたいことを整理するために話を中断した。
「うん。自分に迫ってきた死という事実に触発されて、知らず知らずに、広がる暗黒の世界に、何があるのか想像をめぐらしてしまうんだろう。」
私の話を聞いていた山根が、私に同調するようにそう言って、薄笑いを浮かべた。
私は、彼の言葉にハッとしたように、
「そうなんだ!その想像なんだよ。普段、何気なく生活していると、自分の生きる時間に限りがあるなんて考えることもない。まるで、自分の生きる営みは永遠に続くような気になって生活しているんだ。しかし、自分の生きる時間は、確実に失われているんだよな・・。今、この瞬間に流れている時間の連続の延長上に、必ず不連続な死の事実が横たわっているんだよ。そのことを考えるとき、恐怖心だけじゃなく、純粋に不思議な気持ちになるんだ。」
私は、そこまで言って、私の話を聞いている二人の様子をうかがった。
すると、アリーは、いつの間にか、毛氈の上に横たわって、春の陽気に誘われてすやすや眠っていたのである。私は、彼の穏やかそうな顔を見ながら、自分の喋っている話が、余りにも不釣り合いに思えてきて、思わず苦笑をしてしまった。
一方、山根の方は、遠くの海を見つめながら、じっと私の話に耳を傾けているようだった。
すると、おもむろに山根が口を開いた。
「お前の話とはずれるかもしれんが・・。(私のほうに向いて)数日前、自分が死んだ後のことを考えてみたんだ。自分がいなくなったこの環境は、何も変わっちゃいない。アリーが厨房で忙しく立ち働き、バサムが高校へ行くために自転車を走らせ、ジョッショが途中で彼を待っている。ただ、そんな空間の中で、俺だけがいないんだ・・。当たり前といえば、当たり前なんだが・・。想像の中では、周りの世界は何も変わらず、淡々と時間(不変的時間ではない)は流れている。もう一度言うが、ただその世界に自分がいないというだけだ。おそらく、想像力は、自分の死で分断される時間を何事も起こらなかったように普段に戻して、中断で不連続になってしまった時間の流れを、無意識のうちに修復してしまうんだろう・・。まるで自分の死という事実が、時間の分断を引き起こしたという事実がなかったかのように・・。つまり、自分の想像力が、過去から未来と続く不可逆的な時間の流れに逆らって、自分の死で分断された時間の前後の順序をそっと入れ替えることによって、死んだ後の時間の経過を、あたかも自分が生きているときの時間の流れのようにでっちあげているんだよ・・。だから、今この瞬間、自分が生きているという事実を、まるで永遠に続く時間のように錯覚できるのかもしれないな・・。想像力というトリックのおかげで、永遠に生きている自分が出来上がってしまうんだ。もちろん、それは錯覚なんだが、自分が今生きてる意識の実感に、一番近い感覚かもしれないな。」
山根の言葉は、私の考えていた結論と不思議なくらいぴたりと一致していた。
私は、そのことが何故かうれしくて、何度も頭を縦に振って、彼の話に納得したという合図を山根に送っていた。
ふと、我々のいる丘の上に通じる小道をみると、必死で自転車を走らせて、こちらに向かっているジョッショとバサムの姿が見えた。
「子供たちが迎えに来たようだ。」
私がそう言うと、今まで寝ていたアリーが、上半身を持ち上げて大きく腕を伸ばしてあくびをした。ひょっとしたら、彼は、山根と私の会話を聞くのを避けるために寝たふりをしていたかもしれない。
「アリーは、キリストが復活するのを信じているのかい。」
起きたアリーを向かって私が尋ねてみた。
「もちろんですよ、田辺さん。神がいなくては、死んだ後は、誰が私の魂を救ってくれるの・・。」
そう言って、アリーは胸のあたりで十字を切った。
「アリーの想像力は、神を利用して自分に永遠を与えるさせるつもりらしいな・・。」
山根が、ニコニコしながら、アリーの肩に腕を回して、そう言った。
「山根さんは神様を信じないの・・。」
アリーは、怪訝な顔をして山根の顔を見ていた。
(ナナになった奈美)
吉祥寺の駅を降りた奈美は、自分のマンションのある場所へ向かうバス乗り場に向かった。
久しぶりにスカートをはいた彼女のまっすぐ伸びた足は、思わず男の目線を奪うには十分魅力的だった。そして、男たちが、彼女の肢体から顔に目をやると、再び美貌のとりこにされるのがおちだった。
バスを降りて、自分のマンションに向かうまでに、奈美は公園を通らなくてはならない。もちろん、都会の広大な公園だけに、防犯のための街燈があちらこちらに点在していて、若い女性が夜に通っても問題はないと思われていたが、それでも公園内に痴漢が狙う死角がないかというと、用心しなくてはいけないスポットが何か所かはあったのである。とくに、最近、この公園で痴漢の被害が数件起こっていて、駅前では、注意を喚起する警察がビラを配っていたほどであった。
奈美は、男が自分の後をつけているのに気づいていた。いつの間にか、彼女の周りには、人の気配はその男の他にはなく、不気味な足音が着実に彼女との距離を詰めていた。
一方、その男は、前を歩く奈美の姿のとりこになって、欲望の衝動がすでに抑えることができない状態にまでになっていたのである。
次の瞬間、春の甘い香りを乗せた優しい風が、男の顔をさっと撫でていった。
「いまだ!」
男は、狙いすましたかのように奈美にとびかかる瞬間を見極めて、全速力で彼女の背後に迫ると、襲いかかろうとしたのである。
その気配に気づいた奈美は、何を思ったのか、いきなり自由を奪われたかのようにその場に立ち尽くした。
「しめた!」
男は獲物を捕らえたオオカミのように、肉欲の悦楽に充血して、奈美の肩を抱きしめようと両手を広げた。
その瞬間、男の体に衝撃が走った。男の手足は、冷凍されたようにしびれ、心臓の鼓動が、不自然な不整脈を引き起こし、自分の体が支えられなくなった体は、地面にもんどりうって倒れこんだのである。
仰向けに横たわった男の体は、動く自由を奪われて、口から泡を吹きながら、ただ茫然と目の前の虚空を見つめていた。
すると、すぐ後ろで倒れこんだ男の方へ振り向いた奈美の顔が、青白い光に包まれて、うすぼんやりと、暗闇の中で浮かび上がっていた。
奈美は、男の顔を覗き込んで、にやりと笑い、
「お前さ、欲望が抑えられない獣に成り下がった外道だな・・。」
そう、嘲るように男の耳元でささやいた。
男の思考は、かろうじて奈美の言葉を把握して、恐怖のあまり全身を震わせている。
「動いてみろ・・。」
奈美が、からかうようにそう言った。
しかし、男は身動きするのはおろか、自分の意識が朦朧として、呼吸を激しくしながら、何とか命を維持するのがやっとだった。
「あああ・・。悲しいな。遠くの空で爆弾におびえながら、かろうじて命をつないでいる子供たちが必死で生きているというのに・・。」
奈美はそう言いながら、目じりから涙をにじませていた。
そして、彼女はその涙を抑えるかのように、男から目を離して真っ暗な空の方に目をやった。次の瞬間、気を落ち着けるようにふっと息を吐くと、再び男の方に目を落とし、長くて白い指を男の額にあてて、
「お前は、これから夢の中でさまようのだよ。」
そう言うと、にやりと笑い、男の額にあてた彼女の指先に、ぐっと力を入れた。
「あああ!」
男の恐怖で自制を失った最後の叫び声が、誰もいない公園内に響き渡ったのである。
荻窪駅のホームに正治の姿があった。彼は東京に来て三か月近くになったが、未だに、
駅を行きかう人々の歩く速さに慣れることができない。別段、群衆の歩調に合わせるのを嫌って、ゆっくり歩いているわけではないが、いつの間にか後からやってくる人々に追い越されていくのが、いつもの歩行パターンになっていた。
しかし、正治がいくらゆっくり歩いても、電車はすぐにやってきて彼を目的地に運んでいくのである。今日も、車内に座る座席はなく、彼は電車のつり革に手を入れると、移り行く景色を電車の窓からぼんやり眺めていた。
「お前知ってるか。昨日、例の吉祥寺の痴漢が捕まったそうだ。」
正治の前に座る学生らしき男が、隣に座る友達にそう言った。
「ふうん。ずいぶん時間がかかったな。最初の事件が起こって半年にはなるぜ。」
もう一人の男は、スマホの画面から視線を離さず、そう答えた。
「ところが、奇妙なんだよ・・。」
「何が。」
「捕まったといっても、その痴漢、公園の中で仰向けになって気絶していたらしいんだ。」
「ずいぶん間抜けな奴だな。まさか、逆に襲われでもしたのか。襲うとした相手が、空手かなんかやっていて・・。」
そう言って、くすっと笑った。
「それなら、まだいいんだけど。その痴漢、病院のベットで横たわって、目を覚まさないらしいんだ。別段、体に外傷は見られないのに、意識がもとに戻らないようなんだ。」
「お前、ずいぶん詳しいじゃないか。」
「吉祥寺駅を巡回していた警察が、痴漢の事件を尋ねた老人に話しているのをたまたま聞いたんだけどな・・。」
「ふうん。」
友達は、それ以上関心を示さず、そう言ったきり、スマホの画面に釘付けになった。
その時、
「マー君」
突然、そう言って、正治の肩をポンとたたいた男がいた。
正治が慌てて後ろを振り向くと、雨宮祐樹がニコニコ笑いながら正治を見ていた。
「雨宮君は、この辺に住んでるのだ。」
正治が、いきなり声をかけられた驚きを表情に残して、そう尋ねた。
「原宿で母親がブティックやってんの・・。このところ金欠だったんで、資金調達に行ってたのよ。よかったら、今度一度、私と一緒に彼女の店にってみない・・。出来れば、奈美ちゃんも一緒だと、彼女喜ぶんだけど・・。なにせ、奈美ちゃんは、母のやってる業界じゃ有名人だからね。」
祐樹の言葉に、正治は自信なさそうに頷いた。
「まだ、奈美さんとは偶然知り合ったばかりだから。」
「あら、ずいぶん仲良さそうだったのに・・。まあいいわ。もし、また会えたら、奈美さんにそう言っといて。」
正治の言葉にも、祐樹は諦めた様子もなく再度誘うのだった。
正治は、祐樹の言葉より、前の座席に座っていた学生たちが話していた痴漢の事件が、何故か気にかかっていたのであった。
(途切れない奈美と正治の関係)
奈美は正治を誘って、小沢教授の研究室を訪れた。
奈美が、コンコンと教授の研究室のドアにノックをする。
「はーい。」
間延びのした教授の応答が、中から聞こえてきた。
すると、奈美はそっとドアを開け、中を覗き込み、
「先生、お邪魔ですか・・。」
と、相手の様子をうかがうように、そう言ったのである。
「奈美さんか。入りなさい。後ろにいるのは、田辺君か・・。」
教授のうれしそうな顔を見て、正治はほっとして、軽く頭を下げた。
正治は、教授が奈美の訪問を嫌がるのではないかと危惧していたのである。ところが、彼は想像以上に奈美の訪問を歓待した。というのも、噂では、小沢教授は気難しいところがあり、生徒が個人的に質問をするために彼の研究室を尋ねても、たいていは理由をつけて追い返されるのが落ちだと聞いていたのである。
「やはり、先生も美人には弱いのかな・・。」正治は、そんなことを考えて、思わずにやりと笑ってしまった。
教授は、自らコーヒを入れて、奈美と私の座る前のテーブルの上においてくれた。
「先生は、マルチユニバース(複数の宇宙)ってあると思います。」
奈美は、コーヒーカップを手に持ちながら、いきなり教授に尋ねたのである。
教授は一瞬真剣な顔になったが、相変わらず笑顔を絶やさない。
「奈美さんは、いつも私に難問を突きつけるね・・。」
そう言いながらも、表情は嬉しそうだった。
正治は、うっかり余計なことを言って、教授の機嫌を損ねるの恐れて黙って座っていた。
「私は数学者だからね。奈美さんの質問に答えるには適格者じゃないかもしれないな。よかったら、友人の物理学者を紹介しようか?君のような美人なら、喜んで答えてくれると思うよ。」
教授は、ニコニコしながらそう言った。
「やはり、校内にセクハラ問題の相談室があるのは、それなりに理由があるんだ。」
正治は、教授の言葉の聞きながら、そんなことを考えていたのである。
「いいんです。私はただ好奇心を満たそうと、先生に尋ねただけです。先生なら、気兼ねしなくていいから・・。」
奈美の言葉に、なお一層気をよくした教授が、彼女の期待に応えようといろいろ考えているようで、しばらく沈黙が続いた。そして、
「私は、我々の住む宇宙以外に宇宙は無限に存在するように思うんだ。ただ、一部の物理学者が主張するインフレーション理論が根拠じゃないけどね・・。」
そこまで言って、教授は改めて考えを整理しているようだった。
「奈美ちゃんのような素人の質問に、こんなに真剣に答えるなんて、案外誠実なんだ・・。」
正治は、一転、教授を評価した。
「数学的な理由からですか。」
奈美は、教授の根拠に関心を示しているようだった。
「奈美さんは、ローレンツ変換って知ってるかい。」
いきなり専門用語が飛び出した。
奈美は、びっくりしたように頭を横に振った。
すると、彼は正治の方を見た。
「アインシュタインの特殊相対性理論の中に出てくる、時間と位置の変換行列ですか。」
正治は、少しその知識を持っていたのである。
「それ・・。光の絶対速度を根拠とした時空の変換式なんだけど・・。まあ、その式の説明は奈美ちゃんが興味があるなら、後で勉強すればいい。今日は結論だけ言うと、その変換式を利用すると、物体の速度が光の速度に近づけば近づくほど、その物体の質量は、無限大になるという計算式が導き出されるんだ。そう考えると、我々が住む宇宙の時空が成立するためには、光より高速に動く質量をもつ物体は存在しなくなる。」
奈美は、怪訝そうな顔をすると、
「それが、マルチユニバースとどんな関係があるんですか。」
と、教授に聞いた。
「うん。その光なんだが・・。光には質量がない。当然そうだろう。私が言った計算式が正しければ、光に質量があれば無限大だよね。ところが、光の速さは、決まっているんだ。光の速さは、一秒間に地球七周半って聞いたことあるかな。」
教授の言葉に、奈美と正治が合わせたように頷いた。
「つまり、われわれの宇宙が存在する基本原理は、決められた光の速さという偶然的根拠の下で成り立っているんだ。でも、どのように光の速さは決められたのか、誰も答えることはできない・・。そうなると、他の宇宙が成立するための、光の速さとは違う絶対基準が成立するかもしれない。つまり、宇宙成立のための違った規準を持つ他の宇宙は、無数にあると考えても不思議ではない・・。」
教授は、そこまで言って、微笑みながら二人の表情をうかがった。
「光の速度は、偶然の事実なんだ・・。先生のマルチユニバースがあるかもしれない理由は、偶然という事実を科学が説明できないことから推測したんだ。」
奈美は、彼女なりの理解をまとめるように、独り思いをめぐらし始めたようだった。
「奈美さんは、素直だな。」
教授は、自分の答えが奈美を説得したことに満足しているようだった。
「奈美さん、余り先生の邪魔をしてもいけないから・・。」
正治が、奈美を現実に戻すようにそう言った。
すると、
「田辺君は、私の考えをどう解釈した。」
いきなり、教授が尋ねてきた。
「僕は、これからこの大学での勉強で、今の疑問の答えを探します。もちろん先生の今の考えを考慮に入れて・・。」
正治は、教授の話した言葉が、奈美が研究室を訪ねてくれたことへのサービスのために、ひねり出された思い付きのように思えたのである。
「可愛くないね、君は・・。でも、君の返答は、100点満点かもしれないね。」
教授は、そう言うと、意味ありげに薄笑いを浮かべた。
研究室を出ると、いきなり奈美が正治に、
「マー君、アインシュタインの本あるよね・・。」
そう聞いてきたのである。
「あるけど・・。奈美さん、分かるのかい。ローレンス変換・・。」
そう言いながらも、正治は、これでまた奈美に会えることになったのが嬉しかった。
「君に分かるのに、私に分からないことはない。そうでしょ。」
奈美は正治をきっと睨みつけ、きっぱりそう言うと、暗い廊下を闊歩し始めた。