ジョッショの友達ナナ東京編2-3
(ナナのパワー)
彩夏は、手術を明日に控えて、あまり眠れなかった。
「まあ、なるようにしかならないから・・。」
何度もそう自分に言い聞かせるのだが、不安は募るばかりであった。
担当の医者からも、必ず治るという言葉を一回も聞かされていないのだ。そんな時、ジョッショとマー君のことを考えると、自然に目頭が熱くなり、寝返りを打つたびに、目じりから涙が頬へつたっていくのである。窓の外は日没を迎え、窓から見える木々の形も薄暗がりのかすかな光で、ぼんやりとガラス越しに浮き出ているように見えた。
その時、誰かが病室のドアのノックをした。彩夏は枕元のスタンドの照明塔にスイッチを入れた。自分の周りがくっきりと光で照らされ、部屋の周辺の暗闇とはっきりしたコントラストをなしている。
「おばちゃん、大丈夫・・。」
そう声をかけて、微笑みながら病室に入ってきたのはナナだった。
「どうしたの今頃・・。誰に連れてきてもらったの。」
驚いた彩夏が、ナナの突然の出現に動揺を隠しきれないまま、自然とその言葉が口からついて出た。
「私一人で来たの。どうしてもおばちゃんんを助けたくって・・。」
ナナの言葉に、彩夏は何か不気味な気持ちを抱き始めた。
「おばちゃん怖がらないで・・。私は、いつものナナだから。」
ナナは彩夏の気持ちを見透かしたようにそう言うと、なおいっそう無邪気な笑顔を見せた。
「ナナちゃん、今から私に何かするの・・。」
彩夏が、こわごわと聞いてみた。
「うん。ただ、じっと座っていてくれればいいの。私が、おばちゃんの額に私の額をくっつけるから・・。その間、目を閉じてじっとベットに座ってくれればいいの。お願い、おばちゃん!ナナのいう通りにしてくれる。」
ナナの顔から笑顔が消えて、必死で彩夏に懇願した。
病室にいる二人の存在は、あらゆる日常らしさを見失い、ただ、必死で彩夏に懇願するナナの不思議な力に、彩夏は逆らえなくなっていく。
ナナは、ゆっくりと彩夏に近づき、そっと自分の額を彩夏の額にくっつけた。次の瞬間、彩夏の頭に激痛が走り、いつの間にか意識を失っていた。
しばらくして、ナナの体をゆする振動で彩夏は意識を取り戻した。
目を開けると、ナナの大きな瞳が彩夏の視界に入ってきた。
「ナナちゃん。私、大丈夫なの・・。」
彩夏は、不安が言葉となって、ナナに素直に質問した。
彼女が意識を失ったのは一瞬だったにもかかわらず、彩夏の意識は遠い世界を駆け巡ってきたような感覚に襲われたのだ。
「もう大丈夫。きっと、おばちゃんはよくなるからね。それと、おばちゃん・・。このこと・・、誰にも言わないでね。」
そう言うと、何故か、憔悴しきったナナの顔に、再び笑顔が戻ってきた。
不思議な国に迷い込んだ彩夏は、素直な気持ちでナナの言葉に頷いていて、改めて、ナナの顔を見ようとした。しかし、後ろに引きさがって、遠ざかっていくナナの姿は、あっという間に病室から消えていた。
(彩夏の手術)
「そんな馬鹿な!」
病院の医局で、彩夏の担当医が大声を上げた。
その異様な叫び声に、思わず、医局にいた他のスタッフが驚いたように担当医の方を見ている。
「吉井君、これ確かに、今日、手術予定の大滝彩夏さんのMR結果かい。」
担当医は、今日の早朝、撮ったばかりの彩夏のMRの映像結果と以前の結果を何度も比較しながら、写真を交互に凝視している。
「はい。先生の指示通り撮った右の映像が、患者さんの今日の結果です。」
聞かれた看護師は、怪訝そうな顔をして、素直にそう答えた。
「どうかしたのですか。」
ただならぬ様子を見ていた同僚の医師が、彩夏の担当医の浦口にそう尋ねた。
「頭の中から、腫瘍がすべて消えている。」
動揺を隠しきれない浦口が、尋ねられた医師の顔を見ることなく、MRの結果をじっと見ながらそう言った。
「そんな馬鹿な!」
そう聞かされた医師が、浦口の横に駆け寄り、スクリーンに描き出された、以前撮ったMR結果と今日撮ったばかりの彩夏の脳内写真を見比べる。
「吉井さん。これ、本当に大滝さんので間違いないの・・。」
見比べていた浦口の同僚の医師が後ろを振り向いて、看護師の吉井に確かめる。
「ちゃんと患者さんのお名前と記録日が、写真の下に記載されていると思いますけど。」
聞かれた看護師が、不快そうな顔をしてそう答えた。
「君、何かこの患者さんに治療処置をしたのではないの。放射線とか・・。」
同僚の医師が、手術前にするわけがないと思いながら、念のためにそう尋ねた。
彩夏の担当医師は、椅子の背もたれに背中を反って、大きく左右に頭を振った。
「今日の大滝さんの受ける手術、どういたしましょうか。」
婦長らしき年配の看護師が、今までの会話を把握して、浦口に大切な今日の手術をどうするかの決断を促した。
「今日は、いくら何でも中止するしかないでしょう。まさか正常な脳内の手術を行うわけにはいかないし・・。しばらく、経過を見て、もう一度MR結果やそのほかの検査を続行するしかないでしょう。こんなの見たことがない・・。」
浦口は、最後に吐き捨てるようにそう言った。
「申し訳ないが、病室にいるご家族の方の代表を呼んできてくれないか。吉井さん、このMR結果、このままにしといてね。素人には理解できないかもしれないけど、手術の中止を提案するんだ。科学的根拠もなしと言うわけにはいかないから・・。」
担当医は、今にも泣きだしそうな顔をして、看護師に強い口調で命令した。
しばらくして、私と、どうしても行くと言って聞かないジョッショを連れて、担当医だけがいる医局に入っていった。浦口は、まだパソコンの前で彩夏のMR結果をじっと見つめてる。他のスタッフは、いつもの仕事をこなすために医局にはいなかった。
「先生、いよいよです。娘のことよろしくお願いします。」
私は、浦口の前に用意された椅子にジョッショを座らせて、その後ろから深々と頭を下げた。
浦口は回転いすをこちらに向けると、ジョッショの方を見てにこりと笑い、
「母さん、手術しなくてよくなったよ。」
そう言って、ジョッショの頭に手を置いて、二三度ジョッショの頭を撫でた。
「やっぱりナナちゃんが、母さん助けてくれたんだ!」
浦口にそう聞かされたジョッショが、三人しかいない医局で、響き渡るような大きな声を出したのである。
「ナナちゃんて・・。」
さすがに、不思議に思った医師の浦口の口から、この小さな子供に、真剣な質問が出されたのである。
「ジョッショ、静かにしなさい!(頭を下げて)すいません。ナナって言うのは、この子の友達でして・・。きっと、ここへ来る前に、励ましの言葉を言われたんでしょう。」
私にそう言われた浦口は、ジョッショにそれ以上問いただすことはできなかった。
何故か、椅子から立ち上がったジョッショのはしゃぐ姿は、母の全快を少しも疑っていないようだった。
(アリーの店)
アリーの店の休みの日、ナナは、いつものように私の妻と孫と一緒に浅草に遊びに出かけていた。そんな時、珍しく山根が一人でアリーの店を訪ねた。
「今日は少し話があって来たんだけど、いいかな。」
山根は、いつものように書類をリュックに背負って、笑顔でアリーに話しかけた。
「山根さん、汚いけど僕の部屋でいいですか。」
アリーも笑顔で、山根の頼みに応じた。
部屋は四畳半床張りで、壁にはベットがあり東向きに日当たりのよさそうな大きな窓にカーテンがひかれていた。アリーは、向こうのナナの小さな部屋のドアを閉めると、自分の部屋の真ん中にあるテーブルと椅子がある場所に山根を座るように勧めた。
アリーの勧めに応じた山根は椅子に座ると、すぐにリュックから書類を出して、向かいに座ったアリーの方に書類を向けた。
「ここにサインしてくれないかな。」
山根が、自分が持参した書類にアリーのサインを求める。
その紙には、英語で息子バサムの親権を持つアリーが、日本で引き取って養育するという内容が、英語で書かれていた。書類を読み進むにつれて、アリーの顔から笑顔が消えて、紙を持つ手が小刻みに震え始めた。
「山根さん・・。」
アリーはそう言ったまま、山根の顔を見て、彼に語る言葉を忘れたように、じっと黙って見つめていた。
「バサム君は、パリの養護施設で他の難民の子供たちと一緒に暮らしているようなんだ。これだけ調べるのにも、けっこ苦労したんだぜ。」
山根は、アリーの真剣な視線に耐えきれなくて、少し冗談のように自分の苦労を自慢して、へらへらと笑った。
すると、アリーがいきなり山根の手をしっかり握りしめ、
「あなたは、我々家族の命の恩人だ。天国にいる父のファティや妻のエリーがいたら・・・。」
アリーがその先何を言いたかったのか・・。山根はアリーに聞いてみようと思ったが、涙でくしゃくしゃになったアリーが答えてくれるのは無理だと思って諦めた。
「ただし、バサム君が日本に来たら、この承諾書は有効なんだけど、そうでない場合は、提出場所を失うんだよ。」
山根は、アリーが余りにも喜んでいるのに戸惑ったように、そうくぎを刺した。
「でも、誰がバサムを連れてきてくれるの・・。」
感激が一段落して、現実に戻されたアリーが、山根に尋ねた。
「大滝が、昨日成田からフランスに向かったよ。後は、あいつ次第だ。」
山根の言葉に、アリーは感動したように、胸で十字を切って、
「神に感謝を・・。大滝さんの優しい気持ちにも感謝します。」
アリーは、少し芝居がかったように、体全体で山根や私に感謝したいようだった。
「ところで、ナナちゃんは、喜んでくれるかな。」
山根は、尻込みするようにそう言った。最近、山根はナナの存在を少し怖がっているように見えた。その理由は、ナナの根拠が示せない生存に、理屈で納得できない妖気のようなものを感じていたのである。山根は、今日も、ナナの不在を期待してアリーに会いに来たという側面があったのも事実である。
「もちろんです。ナナが帰ったら、山根さんに感謝の気持ちを言わせますから・・。」
アリーがそう言うと、山根は彼の目の前に右手を出して、左右に大きく振って、
「いや、いいんだ。ナナちゃんにそんなことはさせてはいけない。本当にいいんだ。」
山根は、必死にアリーの申し出を拒絶した。
その慌てようを見たアリーが、不思議そうな顔をして、山根の顔をじっと見ていた。
(パリの養護施設)
郊外の静かな街並みの一角に、バサムの住む児童養護施設があった。
私は、もう少しみすぼらしい建物を想像していたが、意外と立派なものだった。
玄関を入り、少し廊下を行くと、外部の来客のための応接室があり、部屋には日当たりのいい窓がいくつもあり、施設に植えられた木々が青々と茂っている風景を窓から眺めることができた。
児童たちの建物は別棟にあり、三・四人のグループで共同生活をしているようで、私が案内された児童の部屋はきれいに整頓され、いたって健全な生活が送られているように思われた。あいにく、児童たちは近くの公園に遠足に出て行ってるようで、私は、バサムの部屋を案内されたが、彼に会うことはできなかった。部屋には、二段ベットが両脇の壁に設置されていた。バサムは、四人の子供と同じ部屋で暮らしているらしい。一番年上の児童は九歳で、残り二人は七歳、六歳と、いずれもバサムより年上らしい。全員シリア難民で、フランスが受け入れた難民だった。私に対応してくれた施設の職員によると、年長の児童をリーダーとして、みんな仲が良く、この施設で問題を起こしたこともなかった。やはり、言語が同じで、戦火を潜り抜けた経験のある同胞の子供たちということで、幼いながら、相手の気持ちを思いやる優しさを持っているらしい。
私は、帰ってくるバサムを待つために、再び客室で施設の職員と共に、客間で待つことになった。
「(会話はフランス語)バサムは、おとなしい性格のいい子です。ただ、以前シリア難民として引き取られた里親は、あの子には余り幸運な環境でなかったようで、すぐにこの施設に回されることになったんです。要するに、里親は、同情心で不幸な難民であるバサムを受け入れたのですが、子供を育てる難しさを理解していなかった・・。まあ、よくあることですが。子供を育てるということは、一時の感情だけではどうにもならないのです。」
職員の名は、パスカル。この施設で、バサムを担当しているようだった。彼は、四十代半ばのベテランで、難民の事情には精通していて、児童の色んな問題に適格に対応できる人物のように思われた。
「私が日本から来た事情は、その紙に書いているとおりです。バサムは、私が引き取って日本に連れて帰っていいでしょうか。」
私がそう言うと、彼は確認するように、再び英語で書かれた書類に目を通し始めた。
しばらくして、書類を読み終わり、私の方に目を上げた。
「そうですか。バサムの父親は、日本にいるのですか・・。この書類を見る限り、私どもが、反対する理由はありません。ただし、最後はバサムの同意が必要ですがね。」
パスカルは、淡々とした口調でそう言った。
私には、バサムが父親の元に行くのを拒絶するなど想像もしていなかったが、彼の言葉に少し不安を持ち始めた。
「もちろんです。」
私は不安を振り払うかのように、きっぱりとそう言った。
「ところで、あなたはフランス語が話せるようだが、フランスで暮らしたことがおありなのですか。」
パスカルは、私が来た要件が済むと、さっきから気にかかっていたことを私に質問した。
「何十年も前、リヨンの大学の聴講生として通っていた時期があります。」
私がそう言うと、彼は興味を示してきた。
「私もリヨンの大学を卒業しました。あなたが通った学校は、町の中心広場から橋を渡った所にある川沿いのリオンⅡ校でしょうか。」
パスカルの表情が明るくなった。
私は偶然に驚きながら、彼の質問に笑顔で頷いた。
「リオンは、いい街です。」
パスカルが、私に同調を求めるように、そう言った。
「夏は開放的でしたね。私は、登山をするように、友達に会いに丘の上にある大学の寄宿舎によくいきました。」
何故か、私は激しく息をして、寄宿舎のある崖を登る自分の姿が記憶にあった。
「妙なことを覚えているんだなあ・・。でも、あなたとは仲良くなれそうだ。困ったら、何でも言ってください。バサムの件は、できるだけあなたの希望に添えるよう努力します。
ただ、バサムがどう言うか・・。(少し考えこんだ後)でも、あなたのような日本人が迎えに来たんだから・・。きっと、日本に行けば、バサムには将来に希望がもてるはずだ。」
パスカルの言葉を聞いて、私はフランスへ来て良かったと、後悔しかけた自分の気持ちを払拭した。そして、案外うまくいきそうな予感がしたのである。
「tu est contant de la vie d’ici.(ここの暮らしはいいかい)」
私は、対面に座ったバサルに、笑顔でそう聞いた。
「No problem.(問題ないよ)」
そう言って、バサムは私に笑顔を見せた。
「(フランス語)実は、私は君の父さんの友達でね・・。君を日本に連れて帰るためにここに来たんだ。」
私は、バサムが喜んでくれることを予想していた。ところが、
「僕は、ここにいる。ここの友達と一緒に暮らす。」
彼の返答は、私の不安を現実のものにした。
私は、思わず、バサムの横で椅子にかけているパスカルの顔を見た。
彼は、黙って私たちの会話を聞いていたが、バサムの言葉に驚きはしなかった。
「大滝さん。今日は、みんな疲れているので、明日、バサムとの面会の機会を作りたいのですが・・。」
パスカルは、私が性急に結論を出そうとするのを避けているようだった。
「分りました。私はサンミッシェル近くにホテルを予約してますから、明日、また、来させてもらいます。」
私は、パスカルの意図を考慮して、彼の意見を受け入れることにした。
「それはいい。大滝さん、もう少し待ってくれませんか。私の仕事はもう少しで終わります。私が、ホテルまで道案内しますよ。」
パスカルは、そう言うと、私に親し気な笑顔を見せた。
「それは、助かります。パリの街で地下鉄に乗るのは、骨が折れますから。ありがとう。」
私は、遠慮することなく彼の親切に甘えることにした。
私達は、ポン・ヌフ近くのカフェに行った。昔、リオンからパリに来ると、ポン・ヌフの橋から見えるセーヌの河岸を眺めながら、書店フナックへ行くのが楽しみのコースだった。私が地下鉄に乗ったときにパスカルにそのことを言うと、彼は気を利かせて、ポン・ヌフ近くで下車して、このカフェに誘ってくれたのである。パリのカフェは、東洋人一人では、なかなか入りにくい場所だが、パスカルと一緒なら何も気兼ねすることなく外のテーブルに座って、行きかう人を眺めることができた。
「どうですか、久しぶりのパリは・・。」
パスカルがそう言って、私に笑顔を見せた。
「移民が増えたね。でも、この町の明るく自由な雰囲気は変わらない。」
私は、初めから、余りパリに関して感想を言うつもりはなかった。そんなことより、バサムのことが気にかかっていたので、パスカルの意見を聞きたかったのだ。パスカルは、私の気持ちが分かったのか、それ以上は、フランスのことは話題にしなかった。
「バサムが一緒に暮らすグループ四人は信じられないほど結束が固いんです。無理もない。幼い子供が、いきなり、戦場から文化も暮らしも違う世界に放り込まれたんですから。しかも、過去の戦場の体験を持ったまま、この国の人間から隔離されたようにね・・。そんな時に、同胞の子供たちと、この国で時間と空間を分かち合う機会が得られたのだから、結束しない方が不思議かもしれない。」
パスカルが、私の聞きたい話をし始めた。
「私にも、バサムと同い年の孫がいましてね。しかし、今さっきのバサムの会話は、同じ年齢の児童とは思えなかったですよ。」
私は、バサムに対する印象を、感じたままに話した。
「そりゃそうでしょう。いくら幼くても、あれだけの経験をしたんだもの・・。子供に分別があれば、本来の性格が変わっても仕方がない。あなたの希望をかなえるためには、バサムと一緒に暮らす三人の子供たちの結束を、誰も傷つけることなく、どのように切り離すかです。これは、簡単な問題ではない。」
パスカルは、初めて、いかにバサムを日本に連れて帰るのが難しいか、その核心を指摘したように見えた。
「どうやら、短期間の滞在では済まないかもしれないな・・。」
私がそう呟くと、パスカルは、自分が説明したことを分ってもらえたと思ったのか、私の方を向き、にこりと笑って、
「大滝さんにそう言ってもらえるなら、私もできるだけバサムを説得するつもりです。」
と、約束してくれた。
(バサムの旅立ち)
すでにフランスでの滞在も数日が経ち、私は施設へ毎日通ってバサムに面会しているが、バサムの気持ちは変わらなかった。
「父さんが待ってるよ。父さんと一緒に暮らさないかい。」
私がそう言うと、バサムは寂しそうな笑みを浮かべ、「Non」と小声で呟いて、顔を下に向けるだけだった。その様子を見ていた私は、彼を説得するのをあきらめて、
「このショコラボンボン、後でみんなで食べてね。」
と言って、近くのパテストリで買ってきたお菓子をテーブルの上に置いて立ち去ろうとすると、バサムは必ず「merci」と言って、優しい微笑みを私に見せるのだった。
「なぜ、バサムの姉さんのことを言わないのです。確か日本には、姉さんもいるとあなたはおっしゃってたはずですが。」
バサムが面会室から出て行った後、バサムの横に座って、我々の会話を聞いていたパスカルが、怪訝そうな顔をして私に尋ねた。
「あの子は、姉が生きてると思ってないでしょう。爆撃で手を離した姉さんの姿を知っているのだから・・。」
私は、何故か、ナナの生存をバサムに言わない方がいいと思っていた。妙な話だが、私自身、ナナのこの世での生存に疑問を抱いていたのである。
「バサムとナナは、現実の世界で再会できるのだろうか・・。」
そんな思いが私の心の内にあったのである。もし万が一、再会できたとして、もし、私がナナの存在を口にすれば、そんな夢も壊れてしまうような気がしていたのである。
「わからないなあ。あの時、バサムは3歳だったんですよ。爆撃の時の姉の姿を記憶してるでしょうか(首をかしげる)。確かに生きてるんですよね、姉さんは・・。」
私の言葉に、パスカルは納得できない様子であった。
「本当にナナは生きてるのだろうか・・。」
パスカルが、私に確かめるように、ぽつりと呟いた。
私は「私こそそのことを知りたい。」と思いながら、パスカルの言葉を無視するかのように、「au voir」と言って、席を立つと、真っすぐ出口に向かった。
すると、施設の門を出た所で、パスカルが私を追ってきた。
「オオタキさん。あなた、バサムと暮らしているグループのリーダーの子と会ってみませんか。」
そう提案してきたのである。
彼の名は、ラーマン10歳であった。彼は、バサムと同じように、シリアの戦場からフランスに逃れてきたが、バサムのように里子に引き受けられることもなく、この施設でずっと暮らしていた。彼が6歳の時、爆撃で両親を失い、街角をうろついていた時に、NPOの援助者に救われたのである。
打開策もなく途方に暮れている私にとって、渡りに船であった。
「ぜひ会ってみます。いろいろ考えてくれてありがとう。」
私はそう言うと、東洋人らしく、感謝の気持ちを示すために、頭を深々と下げた。
「それじゃあ。明日、バサムと一緒にラマーンも面会に呼んどきます。」
パスカルはそう言うと、片手をあげて別れを告げ、くるっと体を反転して、廊下の奥の方へ立ち去って行った。
(アリーの店)
「大滝さんは、本当にバサムを連れてきてくれるのでしょうか・・。」
アリーが、夕食に訪れた山根に不安そうに尋ねた。
「大滝がフランスへ行ってもう一週間になるね。何してるんだろうな。アリーさんには、何か連絡あったかい。」
山根は、逆に、アリーにそう聞くしか仕方がなかった。
アリーは、首を振って笑みを浮かべた。
「ナナちゃんは、弟をフランスに迎えに言ったこと知ってるのかい。」
山根が、少し不安そうな顔をした。
「まだ言ってないです。もし、ナナが知ったら、どんなに喜ぶか・・。でも、少し怖いんです。もし、大滝さんが、バサムを連れて帰れなかったことを考えると・・。でも、どちらにしても、お二人には感謝してます。」
アリーはそう言うと、胸に手をやりとんとんと叩いた。
その時、ジョッショとマー君、それにナナを伴って、幸恵が現れた。
「ああ、お母さん。いらっしゃい。」
アリーは、四人の姿を見ると、笑顔を見せて、幸恵に声をかけた。
四人に背を向けて座っていた山根は、一瞬肩をピクリと動かし、驚いたように振り返ったが、無理やり笑顔を見せて、
「いらっしゃい。」と、なるべく陽気な声を出して平静を装おうとした。
山根は、私の妻が苦手のようであった。最初あったときから、観察するような目つきで山根を見て、「これが夫の悪友か・・。」と言ってるような表情を浮かべているように思えた。そして、山根が、張り詰めた場を緩めようと冗談を言っても、幸恵は乗ってはこなかった。
「山根さん、いらしたんですか。」
幸恵はそう言うと、三人の子供たちと一緒に、向かいのテーブルに座った。
「主人から何の連絡もないんですが、どうしてるんでしょうね。」
幸恵は、山根のことに余り関心はなかったが、少し変わった人だというのが、彼女の評価だった。
「そうですか。奥さんにも連絡がないのですか。何か、支障があったのでしょうかね。」
山根はそう言うと、アリーの方を向いた。彼の落胆の様子は、はた目にもよくわかった。
「支障って何のこと。」
不審な顔をして、ナナがアリーにそう聞いた。
「あら、いやだ。ナナちゃん知らないの。」
幸恵が、驚いたようにそう言った。アリーと山根に緊張が走る。
「うちの主人が、ナナちゃんの弟をフランスまで迎えに行ったのよ。」
幸恵は、二人の空気を読まなかった。
「本当なの・・。バサムが見つかったの・・。」
ナナは目を丸くして、驚きを隠しきれないようだった。
「まだ、バサム君が見つかったかどうか分らないんだ。ただ、パリにいるという情報を掴んだだけなんだ。」
山根は、ナナと目を合わせるのを避けながら、小さな声でそう言った。
「ナナちゃんに弟がいたんだ。」
マー君が、驚いたようにそう言った。
「そうなの。ジョッショとおんなじ年のね。」
ナナが、ジョッショの方に微笑みながらそう言った。
「その子、ナナちゃんと同じように魔法を使うの。」
ジョッショが、真剣な顔で、ナナにそう聞いた。その瞬間、アリーと山根が凍り付いたように黙って俯いた。
「そりゃそうさ。魔法使いナナちゃんの弟だもの。魔法なんか朝飯前さ。」
ジョッショに同調するように、マー君が誇らしそうにそう言った。ナナは、複雑な顔をして笑っている。
「この子らったら、時々変なこと言うんだから。ごめんなさいね、ナナちゃん。」
幸恵が、孫をたしなめるようにそう言って、ナナに謝った。
「うううん。」
それでも、ナナは慌てた様子もなく、笑って幸恵に応対した。
「そろそろ帰らなくっちゃ。」
山根が、この場から逃げ出したい様子で、焦ったようにそう言った。
「あら、いいじゃないですか。」
幸恵が、不審そうに山根を見た。山根は、苦笑いを浮かべると、リュックを背中に背負って店を飛び出した。
そんな山根の動揺を、気に留める様子もなく、
「ナナちゃん、弟に会えればいいね。」
幸恵が、微笑みながらナナにそう言った。
「有難う、おばさん。山根のおじさんや大滝のおじさんに感謝します。」
ナナは真剣な顔をしてそう言いながら、胸の所で十字を切った。
何故か、後ろの厨房に引っ込んだアリーの目から涙がこぼれていた。
「おじちゃん。僕は、オムライス!」
「僕は、かつ丼!」
マー君とジョッショの明るい声が、店の中で響き渡った。
(バサムとラマーン)
いつもの来客用の部屋に、バサルとラマーンが入ってきた。
日のよく当たる来客用のこの部屋は、緑の木々の小枝にとまる小鳥のさえずりがいつも絶えない居心地のいい部屋だった。すでに中央のテーブルに座って、二人を待っている私とパスカルに気が付くと、ラマーンがにこりと微笑みかけた。それにつられるかのように、私も笑顔を作った。
「この子がラマーンです。(ラマーンを見て)日本からバサルを迎えに来たオオタキさんだ。挨拶しなさい。」
パスカルは、そう言ってラマーンに挨拶を促した。すると、ラマーンは、パスカルの言葉に促されて、私に右手を差し出して握手を求めた。私が、それに応じて右手を出して握手をすると、親しみを込めた笑顔を再び見せた。
「あなたがバサムに持ってきたショコラボンボンをみんなで食べました。おいしかった。ありがとう。」
彼は、十歳という年齢にしては大きく見えた。その話す口調は遠慮がちだったが、端々に思慮深さがうかがわれた。そして、バサムのことを話す前に、ラマーンはこの施設でどれだけバサムと自分達のグループが、信頼し合って暮らしているか、色々なエピソードを交えて私に語って聞かせたのである。
「我々のグループでは、バサムだけがキリスト教の家族の中で育ったんです。だから、我々がお祈りするときは、バサムは黙って部屋の片隅で絵本を読んでいる。逆に、バサムが食事の前に十字を切っても、僕たちは何の気にも留めないんです。我々は、宗教を超えた絆で結ばれているんです。(私の方を見て)誰にも断つことのできない友情なんです。」
彼の言葉に圧倒されるように、四人が座るテーブルから会話が途絶え、窓から見える深緑の鮮やかさが私の目に焼き付いた。そして、私は、バサムを日本に連れて帰ることを諦め始めていたのである。しかし、ふとバサムを見ると、彼の表情には、以前私の提案を拒み続けた頑なな表情とは違う、何か悲しい諦めのような気配を帯びていたのである。
私は、一縷の望みを託すように、今まで一度もバサムに話していなかったナナの存在を口にした。
「バサム君、日本では、君の父さんと一緒にナナ姉さんが暮らしているんだよ。君はナナ姉さんには会いたくないのかい。ラマーン君には悪いが・・。」
私の必死の説得は、バサムの態度を動揺させたように見えた。
それと同時に、私はラマーンに対してルール違反のようなことを口にしたのではないかと、自分の言葉に引け目を感じた。
パスカルが、驚いた表情で私を見ている。彼は、私が頑なに口を閉ざしていたナナの存在に触れたことで、何が何でもバサムを日本に連れて帰りたいという私の執念のようなものを感じたのかもしれない。
「おじさん。あなたは、嘘をついているのじゃないのですか。」
バサムの動揺を感じ取ったラマーンが、私の言葉を疑った。
「本当なんだ。バサムには余りにも衝撃的とは思ったが、私はどうしてもバサムをアリーとナナちゃんに会わせたい。そのことをラマーン君にも理解してほしいんだ・・。」
私は、いつの間にか、ラマーンと対決しているような気持になっていたのかもしれない。
「バサムの姉さんは、爆撃の時、バサムの服を放したときに死んだと、バサムから聞いてるよ。そうだろう、バサム。」
ラマーンが、バサムが日ごろ話している話を確認するように、バサムの顔を覗き込んだ。
膝に置かれたバサムの手は小刻みに震えている。そして、彼はラマーンの問いかけに小さく頷いた。
「おじさん。ナナ姉さんは本当に日本にいるの。」
顔を上げたバサムの真剣な目が、真っすぐ私の方を見ていた。
「本当だ。ただ、ナナちゃんには、バサムのことは言わずに、ここへ来たけどね。」
私も、バサムのまなざしを真っすぐ受け止めてそう言った。再び、長い沈黙が続いた。
そして、最初に口を開いたのはラマーンだった。
「バサム、お前は、もう決めなくてはいけない。どうするんだ。僕たちと、このフランスで暮らすのか。それとも、日本へ行くのかい。」
そう言って、最後の決断をバサムに促した。
私も、パスカルもラマーンの言葉に、反論するつもりはなかった。
俯いて目に涙をいっぱい貯めていたバサムが、再び顔を上げて、窓の方を向いたまま、目の涙を手で拭って、
「ナナ姉ちゃんはね・・。僕の服から手を放す瞬間、こう言ったんだ・・。(やはり窓から視線を放さず、しばらく黙った後)「ナナは、きっとお前に会いに行くからね」って・・・。
そして、僕が地面に落ちて見上げた時、ナナ姉ちゃんの姿は、見えなくなっていたんだ・・。」
そう言った後、バサムの目からは、拭っても拭っても涙がこぼれ落ちていた。
ラマーンが、そんなバサムの頭を引き寄せ、手で愛情をこめて撫でた。
「いつかまた。バサムと会える日を楽しみにしているから・・。」
ラマーンは、バサムを抱きしめたまま、自分も泣きながら優しくバサムにそうささやいた。
パスカルが、ほっとした表情をして私の顔を見た。ただ、私はラマーンに何だか申し訳ない気持ちで一杯だった。
(別れ)
バサムとラマーンそれにグループの二人のシリアの子供が、児童施設の運動場で熱心にフットボールをして遊んでいる。施設にバサムを迎えに来た私とパスカルが、遠くの方で彼らの遊びを眺めている。
「バサムを呼びましょうか。」
並んで立っていたパスカルが、私に尋ねた。
私は時計を見て、
「まだオルリー空港に行くには、1時間ぐらい余裕があります。もう少し、彼らの別れを待ちます。」と言て、私はパスカルに微笑んだ。
しばらくすると、バサムと仲間の連中は、私たちが彼らを見ながらたたずんでいるのに気づいたようであった。
バサムは、フットボールしている友達から一人離れると、彼らに背を向けたまま右手を挙げて別れを告げた。すると、それに応じるように三人の子供たちが、笑顔で右手を挙げて、再び、ボール遊びを始めた。その間に、バサムが私たちの方へ駆け寄って来る。
私は、地面に置いていたバサムのスーツケースを手で持つと、
「ラマーンたちに別れを言わなくていいのかい。」
と、駆け寄ってきたバサムに声をかけた。
「僕たちは、昨日、別れの時は、いつものように普段のままで離れようって決めていたんです・・。だから、これでいいんです。今度会う時、今までずっと一緒だったように、「SALUT」って声をかけて、何も特別なことはなかったように再会するです。」
バサムは、我々にそう言うと、にこりと笑い、その後必死で涙をこらえた。
向こうの方で、楽しそうに三人の子供たちが、サッカーボールを追いまわしている。ただ、時折、バサムの方を見て見ぬふりをして、うかがっているのだが・・。
バサムたちの別れを確認した私は、パスカルの方を向き、
「パスカル、お世話になりました。」
そう言って、深々と頭を下げた。彼は、黙ったまま微笑んでいた。
私は、バサムに微笑みかけて、黙って彼の手を取り、そのまま前を向いたまま、パリの児童施設を後にしたのであった。
オルリー空港に着いたときは、出発間際になっていた。バサムと私は、慌てて飛行機のタラップを駆けあがった。機内をふと見ると、我々以外の乗客は、全員機内の座席に座っていた。私は、バサムの手をとり、機内に向かって一礼すると、急いで指定されたシートに座った。
「derniere minute!(ギリギリだ)」
私は、そう言って、バサムの顔を見て、にやりと笑った。
バサムも私の言葉に応じるように、右手を顔の前に出して上下に振った(危ない危ないの意味)。しばらくすると、飛行機は飛び立ち、機内の窓からは、パリの中心街が、凱旋門を中心に放射線状に伸びている街並みが、くっきりと眺望できた。
「on’y va!(さあ行こう)」
私は、自分の役割が達成できた満ち足りた気持ちで、少々高揚していたのかもしれない。
そんな私の振る舞いを見ていたバサムの表情からは、笑顔が絶えなかった。
「おじさん・・。(しばらく沈黙した後)あの空爆で、僕がナナ姉さんを最後に見た時、姉さんは確かに死んでいたように見えたんだ。僕は、姉さんが眠ったような顔をして動かなかったのを、今でも覚えているんだ・・。」
バサムが、みんなの前で言わなかった言葉を、私と二人だけになったときに初めて打ち明けた。私はどう言おうか、言葉に詰まった。「ナナちゃんは確かに生きている」と、断言できなかったのである。少なくとも、山根が私に見せたナナに関する報告書からは、明らかにナナは死んでいるのである。私は、心の奥底で、その事実に見て見ぬふりをしようとしていたのかもしれない。
「日本へ行けば、ナナ姉さんに会えるから・・。」
私は、バサムにそう言うと、それ以上この話題に触れないことにした。
すると、バサムが話題を変えた。
「どうしてオオタキさんは、僕たち家族のために、そんなに親切にしてくれるの・・。」
バサムが、不思議そうに私の顔を見た。
「私にもバサムと同じ年の孫がいてね。ナナ姉ちゃんと同じ年の孫もいるんだよ。」
私は、ジョッショとマー君のことを考えながら、笑顔を見せた。
「へえ。僕が日本へ行けば、オオタキさんの孫達と友達になれるかなあ。」
バサムが、そう呟いた。
「きっとなれるよ。」
私は、自信をもってバサムに請け合った。
「ありがとう。」
バサムが、最後にぽつりと言った。
「Ce n’est rien.(何でもない事さ)」
私は、少し格好をつけてそう言うと、シートにもたれて目を閉じた。
(幸恵が東京から帰郷する)
羽田空港は、いつものように雑然としていて、各地に向かう人々は、それぞれ自分の目的地のことだけ考えて行動しているように見えた。そして、そこで働くスタッフは、そんな人々を急き立てるように飛行機の機内に導いていくのだった。幸恵を見送りに、退院したばかりの娘の彩夏と孫のジョッショとマー君が、数分おきに滑走路から飛び立っていく飛行機を、屋上の展望台から眺めていた。
飛行機が飛び立っていくのを見ていると、鉄の塊が空高く飛び立っていく非日常的出来事を、どうしても当たり前の事象として納得することができない不思議な気持ちにさせられるのである。
「不思議だね。あんなものが飛ぶなんて・・。」
みんなが感じる気持ちを、マー君がぽつりと言った。
ジョッショは、兄ちゃんの言葉にも反応することなく、じっと離着陸する飛行機を凝視していた。
「ジョッショは、飛行機をこんなにまじかに見るのは初めてなの・・。」
幸恵が、にこにこしながら、感動したようにじっと飛行機を見るジョッショに話しかけたが、彼は幸恵の言葉にも反応しなかった。
「母さん、ありがとね。」
昨日、やっと病院から退院してきた彩夏が、母の幸恵と目を合わせることなく、照れくさそうにそう言った。
「よかったよかった。(そう言って、彩夏に笑顔を見せる)それにしても、ナナちゃんに会えなかったのは残念ね。」
幸恵が、初めてナナのことを口に出した。
「明日、弟のバサム君が日本に来るから、いろいろ入管へ行って、ナナちゃんのことも聞かれるらしいの。ナナちゃんは、まだ在留資格持っていないから・・。」
彩夏が、ナナの来れない事情を説明した。
すると、幸恵は納得したように頷いてから、腕時計を見た。
「まだ、出発まで一時間もあるから、下のカフェでコーヒーでも飲もうか。」
幸恵が、そう提案した。
「僕は、イチゴパフェ!」
今まで熱心に飛行機を見ていたジョッショが、いきなり口を出してきた。
「ジョッショ、ちゃんと私たちの会話聞いていたんだ。」
彩夏が、驚いたようにジョッショを見た。
カフェの客はまばらだった。マー君とジョッショは、注文したパフェを食べるのに集中しているのか、さっきから一言も喋らない。
「彩夏・・。徳島へ帰っておいで・・。」
幸恵が、彩夏の顔を真剣な目で見つめながらそう言った。
「うん。」
彩夏は、迷っているのか、あいまいな返答で幸恵の提案に口ごもった。
「僕はいいよ。兄ちゃんやナナちゃん。それに、アリーのおじちゃんや今度日本にやってくるバサム君が一緒なら・・。」
パフェを食べるのを止めたジョッショが、はっきりした声でそう言った。
「なあ、兄ちゃん。」
今度は、ジョッショは、兄ちゃんに同意を求めた。
兄ちゃんは、パフェを食べながら小さく頷いた。
その様子を見ていた彩夏が、
「考えときます。」
とぽつりと言った。
「そうしてね。」
幸恵は、念を押すように、彩夏にそう言った。
「母さん。そろそろ行かなくっちゃ。」
彩夏が、幸恵を促した。その時まで、幸恵は、何故か、ナナが会いに来てくれるのではないかと、心の奥底で期待していたのである。
「そんなこと、あり得ないよね・・。」
幸恵は、空想を振り払うかのように、自分に言い聞かせるために、ぽつりとそう言った。
「変な母さん。」
彩夏が、幸恵の最後の言葉に驚いて、そう言った。
四人は、長いエスカレーターに乗って、チェックインをする場所へと向かっていた。
すると、
「あっ!ナナちゃんだ!」
いきなり、ジョショが大きな声を出した。
階下を見ると、幸恵たち四人が乗るエスカレーターに向かって、ナナが一生懸命かけてきていた。ナナに遅れて、アリーがナナに必死で追いつこうと、よたよたと走っている。
「おばちゃーん!」
幸恵の乗るエスカレーターの近くへ来たナナが、必死に叫んだ。
「ナナちゃん!」
それに応ずるかのように、幸恵が、エスカレーターをかけ降りて、ナナの方へ向かった。
その数秒後、ナナは駆け寄ってきた幸恵の胸に飛び込んだ。
「よく来てくれたわね・・。ありがとう、ナナちゃん!」
幸恵は、そう言うのが精一杯だった。後は、流れる涙を手で拭いながら、ナナの頭を何度も撫でていた。
「すいません。遅れてしまって。」
やっと二人に追いついいたアリーが、息せき切りながらそう言った。
少し落ち着いて、ナナの体を離した幸恵が、両手でナナの腕をもったまま、
「ナナちゃんも、アリーさんも、きっとおばちゃんの住む徳島においで・・。何にもないところだけど、東京のようにみんな殺伐としてないから・・。きっと、穏やかに暮らせるよ・・。」
幸恵が、二人の顔を交互に見ながら、真剣な顔をして説得した。
ただ、ナナは、幸恵の言葉に寂しそうな微笑みを返すばかりだった。
(ナナ、アリー、バサム再会)
ナナとアリーが飛行機の到着通路を通って、検閲を済ませたバサムが、チェックアウトのカウンターから出てくるのをじっと待っている。
少し離れて、カウンター近くで、家族の再会を邪魔しないよに静かにたたずんでいる山根の姿も見られた。
「来た!」
アリーが、じっと抑えていた感情の高ぶりを押さえきれずにそう叫んだ。
アリーの見つめる目の方向には、三歳のころの記憶しかないバサムの成長した姿が、視界にはっきりととらえられた。バサムは、私と手をつないでゆっくりと出口につながる通路を歩いている。アリーの意識は、今にも現実から抜け出して、夢の世界にさまよいそうだった。時が、スローモーションのようにゆっくりとバサムの動きを彼の視覚に刻んでいく。
そして、バサムがチェックアウトを出た瞬間、アリーはバサムに向かって走り出した。アリーとは対照的に、ナナは、今まで通り、アリーと並んで立っていた場所で、感情の起伏を表情に出すこともなく微笑みながら、バサムの姿を目で追っている。
「神様は、私が生きて耐えた人生に恵みを下さった!」
アリーは、バサムに駆け寄りながらアラビア語で、そう叫んだ。
バサムが、アリーに答えるように、手をつないでいた私の手を放すと、小走りでアリーの方へ駆け寄っていった。アリーが、近くに接近したバサムを膝をついて両手で向かい入れると、しっかりと抱きしめた。アリーは、私には理解できない言葉でわめくように自分の歓喜を口走っていた。
「大変だったな。ご苦労さん。」
いつの間にか、二人の感動の再会のシーンをじっと見つめていた私に、山根が近づいてきて声をかけた。
「一つの物語の完結だな。」
私の口から、思ってもみない言葉が湧いて出た。
「気取ったことを言うな・・。でも、その通りだ。何だか、俺もこんな物語に参加できて、得したような気持にさせてくれた。お前はどうだ・・。」
私は、アリーとバサムが抱き合っている姿から目線をそらさず、山根の言葉にこくりと頷いた。知らず知らずに、私の眼がしらから熱い涙が頬を伝っているのを感じ、少し照れくさい気持ちになって、どうやってその涙を拭おうかと迷っていた。
「俺の人生も、こんな感動で物語が書けたらいいんだが・・。うまくはいかないもんだ。ただ、彼らの味わった試練も考えずにこんなことを言うのは、不謹慎かもしれんがな・・。」
私は、自分の涙をごまかすように、山根に教訓論を投げかけていた。
「あのシリア人のナナちゃんやアリーさん、それにバサム君も、望んで書いた物語じゃない。運命が、突然自分たちを振り回し、それでも必死で生きることに執着したからこそ、偶然生まれた一つの感動の物語の完結なんだろうな・・。」
山根は、茶化すことなく、私の問答にまともに答えて、そう言った。
我々は、彼らの再会を見て、久しぶりに生きる意義を考えさせられていた。
アリーとバサムはしばらく抱き合っていた後、バサムがナナの姿に気がついた。
バサムの視線の先で、静かにほほ笑むナナの姿は、まるでこの世に舞い降りた天使のように思えたのは、私だけだろうか・・。
バサムは、おもむろにアリーの腕からすり抜けると、ナナの視線の直線上にすっと立って、自分の服の胸元をしっかり手で掴むと、ナナの方に向かって、自分の服を思いっきりちぎれんばかりに引っ張った。
「ありがとう!ナナ姉ちゃん!僕が生きていられるのは、こんな風に姉ちゃんが僕の衣服を掴んでくれたおかげだよ!」
バサムは、目に涙をいっぱい貯めて、ナナに向かってアラビア語でそう叫んでいた。
「バサム。姉ちゃんが言った通り、また会えたでしょ。」
ナナは、ゆっくり近づいてくるバサムに向かって、笑顔でそう言った。
二人の再会を見守っているアリーの嬉しそうな顔が、父親としての至上の喜びを表現しているようだった。
「バサムおいで!」
ナナが、ゆっくり近づいてくるバサムに、両手を広げてそう言った。それに応ずるように、バサムは、いきなり駆け出して、ナナの胸に飛び込んだ。
(ジョッショとナナ)
保育園の友達と公園に引率されたジョッショは、仲良しの洋子ちゃんと砂場で遊んでいる。
三日間続いた雨があがった公園は、深緑の青さをいっそうくっきりと浮かび上がらせていた。公園の中では、保母さんの見守る中で、園児たちが駆け回って奇声を上げている。ジョッショは、かけっこが苦手であった。だから、公園に来ると、洋子ちゃんと一緒に砂場にやってきて、砂のお城なんかを作って楽しむのである。
「ジョッショ。」
俯いて砂を手で盛り上げていたジョッショに、話しかける声がした。ジョッショがふと見上げて前を仰ぎ見ると、ナナが立っていた。
「なんだ、ナナちゃんか。どうしたの・・。」
ジョッショがナナの呼びかけに答えた。
「ジョッショありがとうね。今まで・・。私は、父さんとも暮らせたし、弟のバサムにも会えた。これも、ジョッショのじいちゃんやばあちゃん。それに山根のおじちゃんのおかげ・・。」
ジョッショは、不思議そうな顔をしてナナの話す言葉に耳を傾けている。
「でもね・・。私に与えられた時間が、なくなっちゃったの・・。ジョッショだけには、私がいなくなる理由言っとくね。ジョッショ、お願い、みんなに言っておいて・・。私がいなくなっても、探さないようにって・・。(ナナが、優しい笑顔をジョッショに見せた)もう一回言うわよ。私を探さないでね・・。さようなら、ジョッショ。私は幸せな気持ちで、この世界から消えていけるわ・・。」
ナナの目から涙がこぼれ、やがて晴れ晴れとした笑顔に変わると、ジョッショの前からすーっと消えたのだった。
「ジョッショどうしたの・・。」
ジョッショと遊んでいた洋子ちゃんが、ジョッショの独り言に気づいて、不思議そうに尋ねた。どうやら、ナナの姿は、洋子ちゃんには見えていなかったらしい。
「ナナちゃんがね。魔法を使って消えちゃった・・。」
ジョッショは、理由もわからず悲しくなり、いつかおいおい泣いていた。
「先生!ジョッショが泣いてる。」
洋子ちゃんが、驚いて、先生に大きな声で助けを求めた。
気のせいだろうか、その時、公園にいる小鳥のさえずりが、今までより激しく響き渡ったのは・・。
一年が経った。
朝になると、私はいつものように吉野川の河口に散歩に出かける。
河口の堤防の上に座って、空を見上げると、飛行機雲が徳島空港の方へと伸びていた。その時、ふと昨年行った東京での出来事が、思い出として私の記憶に蘇った。
・・・
彩夏の退院祝い、バサムの歓迎会、そして、私の送迎会。いっぺんに三つの目的のために、孫と彩夏、それに、バサム、アリー、山根と私が、アリーの店に集まった。
ジョッショとマー君それにバサムが、おいしそうにアリーの用意したケーキを食べている。三人は初めて会った時から、言葉の障壁を乗り越えて、手真似と顔の表情だけで仲良くなった。子供の順応能力は、大人には真似のできない才能らしい。
みんなが、それぞれに笑顔で語らっている。不思議なことに、彩夏は山根と相性がいいのか、さっきから山根のくだらない冗談に声を上げて笑っている。私は、アリーにこれからのことを相談されて、徳島に来てはと、誘っていた。
するといきなり、マー君が、みんながわざと避けていたナナのことを話題に出した。
「どうして、ナナちゃんがいないの・・。」
マー君の言葉に、周りの大人は真空状態になったように、言葉が響かない静寂の空間に陥ったようだった。すると、ジョッショが、
「ナナちゃんはね、遠くへ行ってしまったの・・。僕に、ナナちゃんを探さないでって言ってたよ。」
そう言って、とても悲しい顔をした。
その言葉を聞いた、アリーが、人前もはばからず号泣し始めた。すると、バサムがアリーに駆け寄り、
「ナナ姉ちゃんは、どこかで、父さんと僕をじっと見ていてくれているから・・。だから、父さん、泣かないで・・。」
そう言って、アリーの背中を一生懸命さすっていた。山根も私も彩夏も、その光景を見ながら、もらい泣きするしか仕方がなかった。ただ、悲しそうな顔をしているジョッショの横で座っているマー君だけは、どうしてそんなにみんなが悲しんでいるのか理解できなかった。
「みんな、そんなに悲しまなくてもいいよ。ナナちゃんは、また魔法を使って、いきなり僕たちの前に笑顔を見せながら現れるにきまってるから・・。」
マー君が、自信満々にそう言った。
「そうだ、ナナちゃんには魔法があるんだ!なあ、バサム・・。」
ジョッショが、言葉の通じないバサムにそう話しかけた。
「C’est ca!(その通り)」
バサムは、ジョッショの言った言葉の意味が分かったかのように、フランス語でそう言って、「VIVE LA NANA!(ナナ万歳)」と叫んだのだった。
いつの間にか、みんなの顔に笑顔が戻り、バサムの言葉につられるように、
「VIVE LA NANA!(ナナ万歳)」
と、何度も叫んでいた。
・・・
あの時のことを思い出しながら、私は堤防に座って、一人感慨にふけっていた。
散歩から帰った私は、テーブルの上に置かれスマホからメールの着信音が鳴っているのに気づいた。
メールを開いてみると、彩夏、マー君、ジョッショ、それにアリーとバサムが、山根の古本屋でピースサインをして笑っていた。彼らに交じって、同じように奥の方で、山根も照れながらピースサインをしている。
私は、慌てて彩夏のスマホに電話した。
「届いた? 今とった写真よ。」
彩夏の声が弾んでいる。
「どうしたんだ。みんな集まって・・。」
私は、このメンバーが全員集まる理由が知りたかった。
「私たち全員、徳島で暮らすことを計画したの・・。山根のおじさんが、徳島で売りに出されたレストランを、アリーさんのために買ってあげたの。もちろん、私も仕事はやめて、徳島で就職するつもりよ。当分、父さんに厄介かけます。」
彩夏の声が、はずんでいた。近くで、子供たちのはしゃぐ声が、スマホを通して聞こえてくる。すると、彩夏のスマホを渡された山根が、
「そういうことだ。よろしくな・・。」
それだけ言って、彩夏にスマホを返した。
私は、久しぶりに、自分の感情が高ぶっているのを実感した。
妻の幸恵が、私の高ぶった声を聞いて、不思議そうな顔をして、私の様子を見に台所からやってきた。
「どうしたの。嬉しそうな声を出して・・。」
幸恵が、私にそう尋ねた。
「みんな徳島にやってくるぞ!彩夏もジョッショもマー君も・・。それにアリーさんもバサムも!山根までもな・・。」
私の興奮した声に、妻は、「まあ!」と言って、絶句してしまった。
何故か、外の小鳥のさえずりが一段と騒がしく聞こえたのは、私の気のせいだったのだろうか。
「ジョッショの友達ナナ。東京編」終わり