ジョッショの友達ナナ東京編2-2
(戦場)
政府軍はアレッポ近郊まで迫ってきた。フャティの家族もまた市内から戦火の及んでいない郊外へ脱出することを余儀なくされた。廃墟になった民家の2階の一室で、7歳の少女と3歳の弟、それに自動小銃を持ったその父親が、子供たちの祖父であるファティと共にマットの上に横たわっていた。時折、父親はおびえた目で外の様子を窺がっている。ファティの妻と少女の母親は、戦火の中、この地に来る前に空爆で亡くなっていた。しかし、幼い少女もその弟の男の子も一言も母親のこと話さなかった。幼くして彼女らが置かれている状況を把握しているのである。そのことを思うと胸が張り裂けそうになって、ファティは思わず天に向かって十字を切った。
「いるか。」
ドアの向こうで声がした。父親は慌てて自動小銃をドアに向けた。
「俺だ。」
それは、政府軍と戦う仲間のシリア解放戦線の男の声であった。彼は、外に声が漏れないように用心しているようだった。
ファティは慌てて立ち上がり、ドアを開けると、仲間を確認してお互いに抱擁した。
「政府軍は市内を制圧したようだ。このままだとこの辺も危なくなる。私は彼らの進行を阻止するために、市内近郊でゲリラ戦を仕掛けるつもりだ。」
「私も行く。」
そう言って少女の父親のアリーも立ち上がった。
「父さん、子供たちを頼みます。」
彼の眼には涙が浮かんでいた。ファティは、そんな息子を固く抱擁し、
「何も心配することはない。私はお前の子供たちの命を守り抜くから・・。」
ファティはそう言うと、再び息子を固く抱擁した。そして、アリーは、父親のファティに隠し持っていたピストルを手渡すと、二人の子供たちを固く抱きしめて、何も話しかけることなく、戦友の後を追って外に出ると、ドアを閉めた。その間、子供たちは何も言わなかったが、目に浮かべた涙と固く口を引き締めたその表情から、戦争の悲惨さを必死で受け止めようとしている決意が感じ取れた。
夜になるとファティは、食料を求めて近所で避難する仲間の所をさまよった。今夜も彼らは少ない手持ちの食料から、ファティとその孫のために、できるだけの食べ物を提供してくれた。
「神にご加護を・・。」
そう言って、ファティの手に渡してくれる生きる糧を、彼は低く頭を垂れて受け取った。
「私はあなたのご恩を一生忘れない。」
ファティはそう言うと、孫の少女と男の子の待つ避難場所の民家へ向かうのだった。
子供たちはまだ寝ていなかった。ファティがドアを開けると彼らは一目散にファティの方へ駆け寄ってきて、彼の胸に飛び込んできた。
「何も心配することはない。お前たちの父さんたちが、この場所を必死で守ってくれるからね。ここに避難している仲間たちは、みんな一生懸命助け合っているから・・。安心していなさい。いつかまた我が家に帰れる日がきっと来るからね。」
そう言いながら、ファティは孫たちに笑顔を絶やさなかった。
次の日も空爆は上空の大轟音と共にやってくる。それでも子供たちはその音に慣れっこになったのか、ファティの横たわる傍らで、無邪気に走り回っていた。ファティはそんな彼らを見守りながら、明日の行く末も開けないまま、黙ってただ微笑みを絶やさず、彼らの屈託のない行動に目を細めていた。ふと気づいてみると、彼のポケットの中から一枚の絵ハガキが出てきた。それは、フランスで知り合った日本人のカズマからミルコ(フランスで知り合ったもう一人の友人)の死を伝える手紙と共に送られてきたゴヤの「巨人」の絵葉書だった。彼は思わず、手のひらに載せてその絵をじっと見つめていた。
「じいちゃん、それ何なの。」
少女がそんな彼に気づいて彼の傍らに近づいてきた。
「これはじいちゃんの友達のミルコのくれた絵葉書なんだ。」
「いつもじいちゃんが話していたフランスで知り合った友達ね。」
「そう、よく覚えているね。」
「だって、いつもカズマとミルコの話をするとき本当に楽しそうなんだもん。」
「そうか。このミルコもね、私たちが苦しめられている戦争で死んじゃったんだよ。」
ファティは、その時初めて顔を曇らせた。
「カズマはどうしているの。」
少女が尋ねる。
「彼は元気さ・・。じいちゃんはね、この戦争が終わったら、必ずお前たちと一緒にカズマのいる日本に会いに行くつもりなんだ。カズマがね・・、きっと“戦争大変だったね”って言うと思うから、“でもね、こんな可愛い孫がいるんだよ。”って胸を張って答えてやるつもりだよ。」
そう言って彼はその少女にウインクした。
その時、小さい男の子がファティが手に持っていた絵葉書をファティから奪い取り、嬉しそうに部屋に隣接する外のベランダに出ようとした。
「行っちゃダメ!」
少女の甲高い声が部屋中に響き渡り、その男の子の後を追った。
少女の手が弟に追いついたとき、フャティと少女と男の子の存在していた時間と空間は、予期せぬジェット機の爆撃とともに、正常に時を刻み、予想可能であり続ける日常の営みを突然切断した。
シリア軍の空爆は、ファティの命を一瞬で奪い、少女は、爆風で吹き飛ばされそうになった弟の衣服を掴んで、がれきの中で下に落下する少年の体を必死でくい止めていた。その光景を近くで見ていた人がいたら、少女の片手だけが弟の命を支え、決して弟を放しそうにないその片腕は、少女の愛するものが生き残ってほしいと願う祈りの象徴のように見えたかもしれない。
(野戦病院)
戦場で負傷を負って、二か月間ベットで寝たきりだったアリーが、やっと野戦病院を出て、かつてファティと子供たちと最後に別れた避難場所に帰ってきた。
空爆で大きく破壊されたベランダは、跡形も留めず、瓦礫の廃墟と化していた。
今より数か月前・・
アリーは、アレッポの周辺の小さな町で、ゲリラ戦を展開していた。
「どうだ。向こうの建物まで駆け抜けるか、あの高い建物なら周辺が一望できる。少し危険は伴うが、やってみる価値はあると思うんだが・・。」
戦友のサマールが、アリーに作戦をもち掛けた。
アリーは、サマールの言葉に意見を言うことなく、対面の建物へ向かって走っていた。
「ババアーン!」駆け出すアリーにめがけて機関銃が無差別に発射され、アリーは建物に到達することなく瓦礫で埋め尽くされた道の真ん中で転倒し動かなくなったのである。
「アリー!」友人のサマールの叫び声が、アリーの耳にかすかに記憶に残ったが、その後気を失い動かなくなったアリーの体が、まるで戦闘から離脱したかのように、道に横たわったのである。
アリーは生きていた。アリーが道に倒れた後、激しい戦闘となり、反政府軍のゲリラ隊は、かろうじてその場にいた政府軍の兵士を撃退したのである。
アリーは、反政府軍の野戦病院となった廃墟のビルの一室に運び込まれたのである。
比較的広いその空間には、ベットが十数台置かれていた。アリーは、その一つのベットに横たわっていたのである。
彼は、戦闘で倒れて、一日中意識を失っていた。翌日、野戦病室の壊れた窓から降り注ぐ朝日が、アリーのベットの一角に降り注いできて、まぶしさで目を覚ましたのである。
「やっと目覚めたか・・。」
アリーが、目を開けて横たわった視線から上を見ると、一人の初老の男がアリーに微笑みかけていた。
「私は、どうしてここに・・。」
アリーは、そう言いながら、必死で今の状況を把握しようとしていた。
「あんたの友達のサマールが、ここへ担ぎ込んだんだよ。彼は、また、戦場に行ってしまったがね・・。実に勇敢な男だ。あんたが倒れた場所まで、銃弾を浴びるのを覚悟で、救出に行ったのだからな。」
その男は、それだけ言うと、忙しそうに次のベットの患者の様子見るために、アリーから離れていった。
彼の頭には、包帯がまかれ、右足は何かで固定されているようだった。
周りの負傷兵のうめき声が、アリーの耳にも聞こえてきた。そのたびに、さっきアリーに話しかけた医者らしい男が、何らかの処置をほどこしていく。その献身的な姿を見て、ある種の敬意を払わない患者は、おそらく存在しないだろう。アリーもまた、必死で患者の苦痛を取り除こうとしているその医者に、神の救いが差し伸べられたような気持ちになって、感謝していたのである。
数日が経ち、アリーの容態も回復に向かい始めた。
「よくまあ無事でいられたものだ。あと数センチ違っていたら、まともに銃弾を頭に受けていたのになあ。あんたは運がいい。もっとも、こんな戦場で、生きられたのが、幸せなのか考えものだけどな。」
医師は、そう言って、声を出して笑った。
「先生は、私の家族について何か知りませんか。」
アリーが、唐突にそう聞いた。すると、その医師は笑うのを止めて、アリーの顔を見た。
「あんたの家族の悲劇は、誰かが偶然撮った写真で、世界中で有名になっているよ。」
医師はそう言うと、ポケットから新聞から切り抜かれた一枚の写真をアリーに見せた。
それは、ナナが弟のバセムの衣服を掴んで離さない壮絶な光景を写しとっていた。
アリーはその写真を見ると、思わずベットから上半身を上げようとして、激しい苦痛に見舞われた。
「無茶をするな。あんたは、まだ、起き上がれるような状態じゃないんだ。」
医師が、アリーをたしなめるようにそう言った。
「それで、二人は無事なんですか。」
アリーは、すがるような気持で、医師にそう聞いた。
「弟は、姉さんの救世主の様な振る舞いで、命を取り留めた。ただ、姉さんの方は・・。」
医師は、そこまで言うと言葉を詰まらせた。
「死んだのですか。」
「わからない。」
医師はそう言って、首を振った。
アリーの目から、大粒の涙がこぼれていた。医師は、それ以上何も言わず、静かに立ち去った。
ファティと子供たちがいた避難所へ帰ったアリーは、誰もいなくなった廃墟の部屋をただ茫然と眺めていた。空爆で大きく壊れたベランダの窓から見える外の町は、跡形もとどめない廃墟になっていた。そして、その窓を通して見える外の空が、夕日で真っ赤に染まり始め、次第に、自分の子供と父を襲った悲劇の場所を鮮血の色に染めていくようであった。
「私は、何のために生き続けなくてはいけないんだろうか・・。守ってやりたい家族はなくなり、残ったのは同胞たちとの連帯だけ・・。果たして、そんなものに意味があるのだろうか・・。」
アリーがそんなことを考えていると、突然、ボロボロになった部屋のドアのきしむ音がした。
「やっぱりここに来ていたのか。」
部屋に入ってきたのは、アリーを戦場で救ってくれたサマールだった。
「お前も帰っていたのか。」
アリーはサマールの方を向いて、寂しそうな笑顔を見せた。
「この地は、俺たちの最後の砦になってしまったよ。でも、数日もすれば、ここもどうなるかわからないがね。」
サマールは、そう言うと、少し俯いて、足元にあった瓦礫を蹴った。
「君は、まだ戦うのか。」
アリーが、サマールに尋ねる。
「さあな。お前と同じで、僕の守らなくてはならない家族はいなくなった。空爆でな・・。」
サマールの話を聞いて、アリーは泣きたくなったが、今ではその涙さえ感情の思うままにならなくなっていた。
「お互い、この世をさまよう抜け殻だな・・。」
アリーは、そう言うと、寂しそうな笑顔を見せた。
それを聞いたサマールは、両肩をすくめ、一言も反論しなかった。
「じゃあな・・。」
サマールが、そう言うと、アリーに背を向けてドアの方へ向かった。
その時、アリーは、やっとサマールに言わなければならないことを思い出した。
「有難うな・・。私の命を救ってくれて・・。」
アリーの言葉に背を向けたまま、サマールは右手を挙げて答えると、そのままドアを開けて出て行ってしまった。
しばらくして、アリーの父ファティの親友で、お互いの家族で助け合って、この地まで逃れてきたサッダーム老人が入ってきた。
「お前には、なんて声をかけていいやら・・。」
サッダームは、言葉通り、アリーに何と言っていいかためらっているようだった。
「サッダームさんには、いろいろお世話になりました。こっちこそ何とお礼を言ったらいいか・・。」
アリーは、老人にそう言うと、彼の手を取り強く握りしめた。
「ファティが死ぬなんて・・。わしには、まだ信じられん。それにナナまでも・・。」
最後の言葉は、断言するのをためらって、ひそめる様な声になっていた。
改めて、ナナの死を認識したアリーの目から、大粒の涙がとめどなく零れ落ちた。老人は、そんなアリーを慰めるかのように、何度も何度も彼の背中をさすっていた。
「お前はこれからどうするんだ。」
現実に戻ったかのように、サッダームがアリーに聞いた。
「まだ、決まっていません。」
アリーは、戦場に再び向かうとは言わなかった。
「そうか。」
老人は、アリーの気持ちを察したかのように、何の忠告もせずそう言っただけだった。
ふと、気づいたかのように、
「ナナの慈悲の手で、バサムは命を取り留めたんだよ。お前は、もう聞いただろうと思うが・・。」
老人は、アリーに少しでも希望を与えたかった。
アリーは、老人の言葉に答えるかのように頷いた。
「ナナが最後にバサムを救った手は、世界中の新聞にのったらしい。あの子はそのおかげで、フランスの支援者から救済の手が差し伸べられてな。」
サッダームの顔に笑顔が戻った。
「それでは、あの子は・・。」
アリーが、真剣な目で老人を見つめている。
「うん。バサムは運のいい子だ。お前も命を大切にしてこの戦争を生き残れば、バサムに会える日がきっとくる。」
老人は、アリーの気持ちを見透かしたかのように、死ぬことを思いとどまらせて、彼に希望を与えようとした。
諭されたアリーは、納得したかのように老人に微笑みかけた。
「そうそう、難民援助員がファティを訪ねてきてな、こんなものを預けていった。」
老人はそう言うと、ポケットから封筒を取り出し、アリーに渡した。
封筒には、「カズマからファティへ」と書かれているだけだった。
「ファティは死んでしまったから、これはお前に渡しておく。」
老人はそう言うと、アリーの肩を優しくたたいて、外に向かった。
最後に、ドアのところで、
「困ったことがあったら、何でも言ってきなさい。力になれることなら何でもやるから。」
老人はそう言うと、アリーが深く頭を下げているのを見ることもなく、ドアを開けてこの場を立ち去った。
政府軍の進撃を避けて、難民たちは慌ただしくこの地を去っていく。
アリーは、彼らが通り過ぎるのを壊された窓の空隙から、ただじっと眺めていた。
「このままここにいれば、殺されるぞ。」
サマールの言葉にも、余り関心を払うことなく、アリーはただ呆然と戦友の言葉を聞いているようだった。
アリーは、この地で静かに死を受け入れることに、抵抗するつもりは余りなった。
政府軍の兵士が、この部屋のドアを蹴破って突入した時、手に持った自動小銃で敵の一人でも倒したら、その次に、自分の頭に銃口を向けて引き金を引く。アリーの脳裏には、そんな光景が鮮明に浮かび上がっていた。
父親のファティ、娘のナナ、息子のバサムそれに殺された妻の顔が、アリーの脳裏に代わる代わるに思い浮かんでは通り過ぎていった。
「待っててくれ、私もすぐに会いに行くから・・。」
夕日に照らされて、壁にもたれかかったアリーは、小さな声で呟いた。
すると、
「父さん。死なないで・・。バサムを見守ってください。そうでないと、わたしなんで必死に弟を救ったのかわからなくなる。」
どこかでナナの声がした。
アリーは、はっとしたように我に返ると、必死で辺りを見渡した。
部屋の中は、瓦礫の散乱した荒涼とした空間しかない。
「ナナ!何処にいるんだ・・。」
夕日が沈み、暗闇が次第に濃くなってきているこの部屋には、アリーしかいないはずだった。アリーは、自分の幻聴に気づいて、諦めたようにふっと息を吐いて、目をひざ元に落とした。すると、ズボンのポケットから落ちかけた一枚の封筒が、薄暗の中にその白い色をくっきりと浮かび上がらせていた。
アリーは、何気なしに封筒の中身を引き出し、マッチを擦ってその文字を照らしてみた。
「ファティへ・・
このお金で日本へおいで・・。家族と一緒に・・。 カズマ」
英語でそう書かれた紙と同封されていたのは、一万ドルの小切手だった。
その手紙と小切手を見たアリーの目から、一筋の涙が頬をつたい、手が小刻みに震えていた。
「わたしには、まだやらなくてはいけないことが残されているのかもしれない。死んだ家族のためにも・・。みんなが生きていた証を、少しでも残してやらねば・・。自分が必死に生きることで・・。」
そう考えたアリーは、その場からすっと立ち上がり、閉ざされたドアを勢いよく足で蹴破ると、一目散に階段を下りて、外に飛び出した。
(再び東京)
「お前どうしたんだ。」
私が孫たちを保育所にとどけて、いつものように街の中をぶらぶら散歩して、マンションに帰ってみると、妻の幸恵が部屋の中で掃除機をかけていたのである。
「彩夏の病状がよくないっていうじゃない。なぜ正直に知らせないの。どうも不自然な報告ばっかりしか聞かせないから、直接、彩夏の入院している病院に電話で聞いてみたら、脳腫瘍が良性でないかもしれないって教えられて、慌てて東京にやってきたのよ。どうして正直に言わないの・・。もし、あの子に何かあったら、どうするつもりだったの。」
彼女は、本気で怒っているようだった。
「それで、彩夏の所へ行ったのか。」
私は、妻の問いには直接答えず、そう聞いた。
「当り前じゃない。彩夏からマンションの鍵預かってきたの・・。」
それで、彼女が部屋にいる理由が分かった。
「それで、仕事はどうしたんだ。」
私はそのことに関心はなかったが、他に言うこともなかったので聞いてみた。
「長期休暇にしてもらったの。別に、このまま退職になってもいいと思って・・。仕事より、娘の方が大事だからね。(しばらくして)ジョッショとマー君は、ちゃんと保育所に送っていったの・・。」
いつもの調子で、妻は心配そうに私にそう聞いてきた。
「ああ。」
私はぶっきらぼうに答えた。
しかし、内心は、妻が東京へ来てくれてほっとしていた。やはり、子供の面倒を見るには、男では細かいところに目が届かないことを、実感していたのである。
この前も保育所の遠足で、前日孫たちの食べるお菓子を買うのを忘れて、当日慌ててコンビニへ走ったことがあった。孫たちは何の不服も言わなかったが、内心、不満だったに違いない。
「山根さんという方が、いらしたわよ。」
いきなり、妻がそう言った。
「それで、どうしたんだ。」
私は、慌てて妻にそう聞いた。山根がこのマンションに来るなど想像もしていなかったのだ。あらかじめマンションの場所だけは教えていたのだが、直接私をマンションに訪ねてくるなんてことはないと思っていたのである。
「駅前のカフェでしばらく時間を潰すから、一応、あなたが帰ったら知らせてくれって言ってたわ。ここで待ってくれるように言ったんだけどね。あの方、私の方を見て、“あいつにお似合いの嫁さんですなあ。”って言って、にやりと笑ったのよ。何だか馬鹿にされたようで・・。」
幸恵にとって、山根は余り良い印象を与えなかったらしい。
「昔からそういうやつなんだよ。それに、弁護士をしていたから、すぐに人を観察する癖があるのだろう。」
別段、山根のために妻に言い訳をしてやるつもりはなかったが、話の流れでそう言ってしまった。「長居は無用」と感じた私は、それ以上妻との会話に付き合うのを止めて、早々に駅前のカフェに向かった。
私がカフェに行くと、山根はまだカフェで椅子に座っていた。テーブルを見ると、コーヒーカップが二つ置かれている。店に長居を気兼ねして再度注文をしたらしかった。山根は、人には辛辣なことをしばしば言うが、案外、人の気持ちを気にする繊細な性格も兼ね備えていた。
「どうしたんだ。私のマンションを訪ねるなんて・・。」
私は、そう言いながら、山根が座る向かいの椅子に座った。
ギャルソンが、注文を取りにやってきて、トレイを左手に持ったまま、右手でテーブルを拭いて、山根が飲んだコーヒーカップをかたずけ始めた。
「コーヒ。」
私は、ぶっきらぼうにそう言うと、山根が何の用できたのか気になって、彼の方をじっと見た。
「俺は、クリームパフェ。お前のおごりだからな。」
山根は、そう言うと、にやりと微笑んだ。
「ナナちゃんのことなんだけどな・・。」
山根は、さっそく用件を切り出した。
「うん。すまんな面倒かけて・・。」
私は、一応礼を言った。
「それが、妙なんだ・・。」
山根は、私の礼に反応することなく、深刻そうにそう言った。
「妙って・・。」
私が、そう言って、山根の話を促した。
「うん。私もいろいろ昔の知り合いを使って、出入国在留管理局の役人に近づくことができたんだがな・・。難民審査参与員の山田という男なんだけどな。」
山根はさすがに弁護士だけあって、ぼうっとしているようだが、仕事にかかれば敏腕の片りんを見せた。
「ナナちゃんの資料を調べたところ、すでにシリアで死亡しているんだよ。」(山根)
「そんな馬鹿な。多分、混乱している戦場のことだ、何かの記載ミスだろう。」(私)
「俺も最初はそう思って、あちこち頼んで、アリーのこともその家族のことも調べてもらったんだ・・。彼には、息子がいるらしい。最初はフランスの老夫婦に引き取られたんだけど、その夫婦が死んでしまい、今はパリの孤児院でいるらしい。名前は、バサム・・。五歳だ。」(山根)
「そうか、うちのジョッショと同じ年か・・。しかし、それだけ分かったのに、ナナちゃんが死んでることになってるなんて・・。」
私は、何か不思議の国に迷い込んだような気持ちになった。
二人の間で、会話が途絶えた。私は、山根がこれから何を言い出すのかと、少し不安を覚えたのである。山根もまた、自分の言っていることに矛盾を感じて、私にどう説明していいか、ためらっているようだった。
「これを見てくれ・・。」
山根は、今まで話したことの信憑性の切り札を出すかのように、ポケットから一枚の写真をテーブルの上に置いた。
私は、その写真を見て、確かに自分の鼓動が激しく波打つのを実感していた。
それは、空爆で吹き飛ばされそうになった弟のバサムの服を右手でつかみ、地上に落下するのを必死でくい止めているナナの姿であった。そして、その上の破壊されたベランダでは、ナナの祖父だろうか、孫たちを追ってきて、爆撃に命を落とし、血だらけで横たわる死体が、鮮明に写真にとらえられていたのだった。
私は、唖然として、言葉を発することさえできなかった。再び、二人の間で、沈黙が続いた。そして、ようやく山根が口を開いた。
「俺は、アリーとお前に頼まれたナナちゃんの難民認定で駆けずり回っているうちに、この仕事は、自分に課せられた宿命のようなものだと感じ始めているんだ・・。」
低い声でうなるようにそう言った。
その言葉を聞いた私は、ただ深く頷くだけだった。
(ジョッショ、ナナそれに兄ちゃんと幸恵)
相変わらず、孫の送り迎えは私の担当だったが、それ以外の子供たちの世話は、妻の幸恵が私に代わって一手に引き受けてくれた。幸恵は、幼稚園が終わると、いつも孫と一緒にマンションにやってくるナナのことが気に入っていた。
「ナナちゃんもジョッショやマー君と同じだからね・・。何でも同じようにしてあげるから、遠慮はダメ!おばちゃんは、小さいくせにいろいろ考える子は、好きじゃないからね・・。」
幸恵は、ナナにきっぱりとそう言って、ナナの気兼ねを拒絶した。
ナナは、妻の言葉に安心したように、孫と同じように幸恵に甘えるのだった。
「やっぱり、男はだめだな。孫もナナちゃんも、あんなに私にくっついて離れなかったのに、お前がここに来てからは、いつもお前の方に行きたがるんだからな。」
私は、妻の表情をうかがいながら、そう言って妻を持ち上げた。
「そんなこと言って・・。そろそろ子供の面倒を見るのが、辛くなったんでしょう。」
幸恵は、私の気持ちを見透かしたようにそう言った。
確かに、そんな気持ちがないわけでもなかったが、妻が目の前にいると、つい何でも任せたくなり、いつものずぼらな自分に戻ってしまうのである。よく世間では、熟年離婚などというが、もし、妻の存在を今の私のような気持で考えていたら、いつ突然唖然とすることが起こらないとも限らない。私は、少し客観的に自分の性格を見つめていた。
しかし、今回の妻の行動は、私に押し付けられた厄介なことではなさそうである。誤解を恐れずに言うと、心底、孫やナナと一緒にいるのが嬉しそうであった。これは、長い間、一緒に暮らしてきた夫の立場からの意見に過ぎないかもしれないが・・。
幼稚園が終わって、いつものようにマンションが近づくと、ジョッショと兄ちゃんとナナちゃんは、後ろにいる私を残して、一斉にマンションめがけて走り出すのである。もちろん、ジョッショはいつも最下位なのに、それでも悔しがることなく、ドアの前まで来ると、「ただいま!」と大きな声を上げて、妻がドアを開けるのを待つのである。
妻が、ドアを開け「お帰り!」と三人に言葉をかけると、子供たちは、勢い込んで部屋に吸い込まれていく。おそらく、この後、妻が用意した夕食を楽しそうに食べるのであろう。
私は、私でちょっとした楽しみができた。私は、子供たちの楽しそうな光景を想像しながら、マンションに戻ることなく、四人を残してアリーのレストランに向かうのである。
それは、妻が来てから、ほぼ同じ日課になってしまった光景である。
私と山根は、土日を除いてほぼ毎晩、アリーの店に集まっては、アリーの店で食事をとった。山根は、よほど店が気に入ったのか、電車を二駅乗っては、アリーの店にやってくるのである。いつものテーブルに座って、ビールを注文した後、二人で何かと昔話などしながら、アリーの料理を待つのである。これが、私にとってもこの上ない安らぎの時間になっていた。そして、隣に座った客の会話を盗み聞きして、面白い会話に、にやりと笑うのもしばしばだった。人の日常で何気なく起こる出来事も、他人からしたら、新鮮に思われることもあるのだということを、改めて認識するのであった。
「お前、うちの大学の経済学部にいる高木知ってるか。」
テーブル一つ挟んで座っている大学生らしき青年が、話を始めた。
一人は、かつ丼と餃子を代わる代わるうまそうに口に運んでいる。さすがに、若者である.。その食いっぷりは、我々とはかなり違ってワイルドである。
「知るわけないだろう。いくら小さい大学でも他学部の学生の面識なんか、サークルで同じでもないと、あるわけないだろう。」
問いかけられた青年が、きっぱりとそう言った。
「おまちどうさま。」
アリーが、にこにこしながら、注文を受けたもう一人の青年の前に、カレーライスの大盛とビールの中ジョッキをどさっとおいて、厨房へ入って行く。
青年は、嬉しそうに微笑み、ビールのジョッキを半分ぐらいいっきに飲み干した。
「お前、酒が好きだな。それだけ飲んだら、仕送りだけではやっていけないよな。」
箸を止めて、もう一人の学生が感心したように友達がビールを飲み干すのを眺めていた。
ビールを飲み終えた学生は、ふーっと息をつくと、
「そのことなんだけどな。その高木ってやつ。金に困ってオレオレ詐欺の出し子をやっていたようなんだ。お前見てないのか、今日のネットニュース。」
その青年はそう言いながら、前に置かれたカレーライスをスプーンですくって口に運んだ。
「めんどくさいこと言うなよ。俺が時事ニュースに関心ないことは知ってるだろう。人のことなどかまっていられるか。面倒な政治は、あの強欲な政治家に任せていればいいんだ。そのために税金払ってんだから・・。」
青年は、そう言って、鼻で笑った。
「へえ、お前、税金払ってんのか。」
もう一人の青年が、揚げ足をとるようにそう言うと、にやりと笑った。
「うるせえな。それで、その高木ってやつ、そんなことでニュースに載ったのか。記者もよっぽど書くことがないんだなあ。」
「それがな、そいつどうやら、その出し子でうまいこと騙した年寄りの家に押し入って強盗やったんだって・・。そうなると、話は違ってくるだろう。警察に事情聴取食らって、その日の内に、ガス管口にくわえて自殺したそうだ。」
友達から結末を聞いた学生は、やっと関心を持ったのか、かつ丼を食べる箸をいったん止めて、「へえ・・。」と言って、友達の顔をまじまじと見た。
「それがよう、うちのゼミの小百合ちゃん、高木ってやつと付き合っていたんだって・・。
昨日の朝、クラスへ行ったら、ボロボロ泣きながら、友達に高木の事件話してんだ。何でも、二日前に友達数人と川に泳ぎに行ったとき、高木ってやつも一緒だったんだって・・。
その時は、とてもうれしそうで、“生きてりゃ楽しいことがいっぱいあるな”なんて、その高木ってやつが、しみじみと言ってたらしい。」
「それ、盗み聞きか。」
「聞こえたんだから仕方ねえだろう。その高木って奴、ずいぶんもててたそうだ。いつも三人ぐらいの彼女と付き合っていて、大学へ勉強に来るというより、女の子ひっかけに来てたんじゃねえかって話だ。」
「それも盗み聞きか。」
「馬鹿!後で、高木を知ってるゼミの奴が話してくれたんだ。かなり目立った男だったらしいぞ、その死んだ男。」
「まあなんだな。遊ぶ金がなかったんだろう。なまじもてると、金も湯水のようにいるからな・・。」
事件を聞かされた若者が、感慨深げにそう言って、ため息をついた。
「その点、俺たちはいいよな。彼女一人と付き合うこともできないだからな。まあ、持って生まれた容姿はどうしようもねえもんな・・。その代わり、金に困って死ぬこともない・・。」
そう言うと、残ったカレーをいっきに口に運んで、ジョッキの横に置かれたコップの水をごくごくと飲み干した。
「うん。」
そう言われた、もう一人の青年は、友達が最後に言った冗談をまともに受け取って、ほっとしたような顔をして、
「おじさん。勘定ここに置くからね。」
そう言うと、テーブルに置かれたレシートを確認しながら、財布から細かいお金まできっちりそろえて、テーブルの上に置いた。それを見ていた、もう一人の青年も、同じような行動をとって、二人並んで店の外に出ていってしまった。
二人が出ていくのを確認した私と山根は、思わず目を合わせて、どちらからともなく、笑みをこぼした。
「こんなもんか。最近の若者は・・。」
山根が、彼らの会話を聞いて、感想を言った。
「俺たちも、あんなだったかな・・。」
私は、昔の記憶をたどるように、山根にそう答えた。
「忘れたな。今の俺たちにはできない会話だ。羨ましくもあり、悲しくもありだ。」
山根が、なぞかけのようなことを言った。
「今日は、アリーにナナちゃんのことを確かめるのはやめとくか。」
我々は、戦場でのナナちゃんの写真のいきさつをアリーに問いただそうと、意を決して店に来たのだが、あの二人の若者の会話に気合いを削がれた形になった。
(彩夏の病室)
「ナナちゃんを見てると、お前の小さい頃のことを思い出して、何だかほっとけないの・・。
事情は知らないけど、シリアの戦場から逃れてきた子だもの、マー君やジョッショには想像もつかない悲しい思いを経験していると思うわ・・。」
幸恵は、部屋の片隅でじっと窓の外を見ているナナを見ながら、自分の事のように娘の彩夏にそう言った。
「ナナちゃんは、いつも笑顔で私に微笑んでくれるのよ。ナナちゃんのことを思うと、私も病気に負けられないわ。」
幸恵の言葉を引き継ぐように、彩夏がナナに微笑みながらそう言った。
「母さん、いつ退院できるの。」
さっきから、母親のそばから離れないマー君が、二人の会話に入ってきた。
「もう少し我慢してね。その間、おばあちゃんの言うこと聞くのよ。」
彩夏の母親らしい言葉に、幸恵は、改めて自分の娘が母親になったのだということを実感した。
「僕は、大丈夫だよ。母さんがいなくったって・・。ばあちゃんやじいちゃんと我慢できるもん・・。」
ジョッショが胸を張ってそう言うと、思わずみんなの表情が、合わせたように緩んだ。
「さっき担当医の先生から聞いたけど、腫瘍は手術で直接細胞を見ないうちは、良性とも悪性とも言えないって言ったわよ。」
幸恵が、真剣な顔になって、娘にそう言った。
「私もそう聞いてるわ。色々考えても仕方ないから・・。母さん申し訳ないけど、その間、マー君とジョッショのことお願いね。ナナちゃんもね・・。」
彩夏はそう言うと、ナナの方を向いて微笑んだ。ナナは、何も言わず、彩夏に答えるように微笑んだ後、再び窓の外に目をやった。
「僕も、ちゃんとナナちゃんのことは、見ているから・・。」
ジョッショがそう言うと、
「お前、偉そうだな。うちのじいちゃんみたいだな。」
マー君が、ジョッショの言葉を受けてそう言うと、思わず病室に笑い声が沸き起こった。
「ところで、父さん、どうしてるの。近ごろ、ここへもあまり来ないから・・。」
彩夏が、病室にいない父親(私)のことを聞いてきた。
「私が来てからは、みんな私に任せて、山根さんっていう昔の学友といつも一緒にいるわ。その山根っていう人、一度、マンションに訪ねてきたんだけど・・。」
幸恵は、そこで言葉をつぐんだ。人の悪口になるのをためらったのだ。
「私も父さんから聞いたわ。山根さんこと・・。母さんが、余りいい印象持ってないってことも・・。でも、山根さんは、いい人らしいわよ。面白いじゃない、あの人・・。母さん、聞いた・・。山根さんが、どんなふうに奥さんと別れたか。」
彩夏は、こういうたぐいの話になると、俄然元気な様子になる。
「うううん。聞かせてよ。」
「父さんが、以前、病院に一人できた時、私が病気のことで憂鬱な顔していたので、面白おかしく聞かせてくれたんだけどね。」
そう言いながら、彩夏はそのことを思い出して、一人ほくそ笑んでいる。
「ばあちゃん。おしっこ!」
その時、ジョッショが困った顔をして、幸恵に訴えた。
「もう面会の制限時間だから、今度話してあげる。ジョッショ、ナナちゃん、マー君。また来てね。」
彩夏は、そう言うと、見舞いの四人に退室を促した。山根は、ひとまず妻には、恥をかかずに済んだようである。
(ナナ再生、今より数年前)
激しい爆音の後、ナナは弟のバサムの衣服の前の部分をつかんでいた。
「この手を離せば、バサムが死んじゃう!」
ナナの思考は、そのことを考えることで精一杯だった。
ナナには、状況が把握できなかった。ただ、弟の命をつなぎとめている自分の右腕だけが、自分がこの世にいる証であった。地上からこの光景を見つけた群衆が激しく叫んでいる。
「私は、どうすればいいの・・。」
ナナは、薄れていく自分の意識の中で、必死で誰かに訴えていた。
すると、次の瞬間、ナナの意識は途絶え、バサムは瓦礫の中に滑るように落ちていった。
彼女の必死で掴んだ衣服のおかげで、バサムは爆風に吹っ飛ばされることなく、瓦礫で落下の衝撃を押さえながら、地面にたどり着いたのだった。
「ナナ!お前が弟を救ったのだよ!」
下に落ちた弟のバサムを抱き上げた群衆の中の一人が、涙声で必死でナナに叫んでいる。しかし、掴んでいた弟の衣服を放した瞬間、弟が生きる引き換えにナナの命は絶えていたのであった。
ナナの必死の行動は、連続した時間と空間の中で、人には理解不可能な不連続な高いエネルギーの励起状態(基底状態から突然飛躍する)を誘発したのである。
時空の基底状態で、生き物は安定した密度のエネルギーを享受している。例えば、人の生きる世界で、1㎤の中に安定したエネルギー(光や電子)が閉じ込められるとする。人は、そのエネルギーに何の疑問も不思議も感じず、まるで空気中の酸素を吸って生きているように、当たり前のこととして、そのエネルギーを必要不可欠な条件にして生活を営んでいるのである。ところが突然、神のなせる業にも似た慈悲の心が少女に宿り、彼女の奇跡の行動が、流れる時間の次元を変えてしまったのである。今までの尺度の時間が異次元の時間のスケールに変換されてしまった。変換された時空は限りなく収縮し始めて、励起した異次元の世界に迷い込む。我々の一秒は、百万分の一秒と同値(時間が収縮したのにもかかわらず、内在するエネルギーは変わらない。)となり、千万分の一と同値となり・・、最終的な収束を拒むかのように、無限の収縮運動をやめようとしなくなる。
例えば、伸縮自在な1㎤の容器にエネルギーが閉じ込められているとする。容器1㎤のエネルギーを維持したまま、その容器の底面(時間)が限りなく収縮し、それに反比例するかのように容器の高さが高くなる。もしその収縮運動(時間)と膨張運動が止まらないなら、容器の底辺は一点に向かって無に収束し、それに反比例して、容器の高さ(エネルギーの尺度)は限りになく引き延ばされ、最後には無限に発散するだろう。やがて、その一点(異次元のスケールで凝縮していく時間)にかけられた天文学的無限のエネルギーは、この世の基底状態から、狂気を帯びた奇跡の励起状態に移行するのである。その状態は、もはや人の世界では理解できない神(理解不能)の領域に移行したのも同じであるかもしれない。
そうなのだ・・。ナナは自らの命を失った瞬間、この励起状態に陥り、もはやこの世の物理的束縛から解き放たれたのであった。彼女に課せられるべき死というこの世の宿命は、励起した奇跡の状態に移行した瞬間、再び彼女の意思に従うかのように、再生への道をたどり始めたのだった。
自由の魂を持ったナナの心は、将来、日本に住むだろう父親のアリーの指定された時空を指し示す座標軸へと舞い降り始めた。
「父さん、父さん。」
アリーの寝ていた枕元に、アラビア語でそう呼びかける声がした。
彼は昼間の疲れもあって、ずっと熟睡していたのだが、不思議なことにその呼びかけに、心を揺さぶられるように目が覚めた。
「誰だい。」
アリーは、優しい気持ちにいざなわれるかのように、その呼びかける声に応対した。
「私よ・・。あなたの娘のナナ・・。」
その言葉を聞いたアリーは、ベットから跳ね起きた。
「何処にいるんだ。ナナ。」
驚きで声を出すことも困難になったアリーが、喉からふり絞るような声でそう言った。
「父さん、私は階段の下で待ってるよ。」
ナナの言葉に、アリーは転げるように階段の方へ向かった。
確かに、ナナは、暗闇のうすぼんやりしたシルエットで、階段の下にたたずんでいた。
「ナナちゃん!」
アリーは、そう言ったきり、涙で前が見えなくなった。
「これからは、父さんに寂しい思いはさせないから・・。」
ナナは、二階から下を見下ろしているアリーを見上げると、優しく微笑んでそう言った。
アリーはその言葉を聞いて、やっとどうしてナナが自分の近くにいるのか不思議に思い始めた。
「でもどうして、ナナちゃんが日本にいるの・・。ナナちゃんは、シリア軍の爆撃で死んだと・・。(しばらく沈黙が続き)どうやって、ここへ来られたんだい。」
アリーは、今起きている現実に、つじつまを合わせようと、必死でナナに質問した。
「シリア難民の支援者に、父さんに会えるように手伝ってもらったの・・。その人は、親子二人っきりで話しなさいって・・。(ドアの方を振り返り)もう行っちゃったようだわ。」
アリーは、ナナのその言い訳に矛盾を感じながら、それ以上問いただす勇気がなかったのである。今の現実が壊れないでほしいというアリーの願いは、理解できない現象を追及することで、目の前で起こっている途方もない幸せを壊したくはなかったのだった。
「ナナが、ここにいる。それだけでいいんだ・・。私には、ナナに会える権利があるのだ。この幸福の代償は払ってきた。今の事実は、神が私に下さった慈悲の救済なのだ・・。」
アリーは心の中で、そう自分に言い聞かせ、必死で、神に感謝したのであった。
こうやって、アリーとナナの親子の暮らしが、日本で始まることになったのだ。
(山根のナナに関する調査)
山根は、いつも私と会っている駅前のカフェに私を呼び出した。
平日の朝ということもあって、店内の客はいなかった。
私は、山根のメールで呼びだされるとすぐにカフェに向かったせいもあり、彼より早く店に到着して、いつもの大きなショウウインドウのような窓がある一角にあるテーブルに席をとった。テーブルの横には、大きな鉢植えの棕櫚の木があり、その葉っぱで店内の他の席から視界を遮ることができ、窓からは駅に行きかう人々の様子をゆとりをもって眺めることができるという、結構気に入った場所であった。
一方、二駅電車に乗っていつもの私の住む駅に着いた山根は、スーツにネクタイという格好に、大きなリュックを背中に背負い、慌ただしく歩いて私の待つカフェに向かった。
「朝から、済まんな・・。」
山根は、そう言いながらも、私に気遣っている様子はなかった。
椅子に座るや否や、大きなリュックの中からドサッと山のように資料を取り出すと、まるで、その書類を小売するかのようにテーブルの上に並べ始めた。
「今日は、お二人朝から何か遊ぶ計画でも・・。」
まだスタッフが来ていないのだろう。カフェのマスターが、にこにこしながら注文を取りに来た。山根が、マスターの方に顔を上げる。
「そんなんじゃないんだ。今日は、こいつと大事な話でね・・。(私の方を向き、にやりと笑う)私は、コーヒーと朝のトースト。ボリュームたっぷりでね。」
我々は、最近、よく一緒にいた。夜は、アリーの店で一緒に食事をとることが多かったが、それ以外で話をするのは、このカフェで一緒にいる機会が自然と多くなっていた。そんな理由で、ここのカフェのマスターとも顔なじみになり、彼はときどき奥から顔を出して、他愛もない我々の会話に加わることもあったのである。
「大滝さんは・・。」
マスターが、私に注文を聞いた。
「コーヒ。」
私は、山根がテーブルに広げた資料が気になり、そっけなくそう言った。
私の言葉に気を使ったマスターは、それ以上何も話すことなく、厨房へと引っ込んだ。
「アリーとナナちゃんの資料のようだな。」
私は、目を落としていた資料から目を上げて山根の顔を見た。
「うん。これだけ揃えるには結構苦労したが、やっと必要な資料は手に入ったよ。シリアにいた頃のナナちゃんのことや、アリーの家族の情報を示す資料、それに、アリーが入管に提出した証明書のコピーも何とか手に入れられた。」
余り自分の苦労話をしない山根がこんなことを言うのだから、よほど手を焼いたのだろう。私はそう思ったが、余り感謝の言葉を並べても、山根は喜ぶようなタイプの人間ではないことを知っていたので、彼の言葉を聞き流して、再び資料に目をやった。
「結論から言うとな・・。」
山根は、いきなり私に真剣な顔を見せてそう言った。
「ナナちゃんのことか・・。」
私は、彼が私に言おうとする言葉に不安を抱いて先回りをしたのである。
「うん。資料だけでは、ナナちゃんは死んでるようだ。」
山根の言葉を予想していた私だったが、そう聞かされると、改めて背中がぞくっとした。
私は、「そんな馬鹿な!」とは言えなかった。アリーから聞かされた戦場での家族に起こった話や、爆風で弟の衣服をつかむナナの写真から、山根の結論に堂々と疑念を挟めなかったのである。
私は、テーブルに置かれたコーヒのカップに手を伸ばした。それに合わせるように、山根が、トーストにジャムを塗り始めた。二人とも、次の言葉が見つからなかったのである。
しばらくして、
「俺は、最初資料を読んだ時、ナナちゃんが死んでることをどう解釈したらいいか・・。その報告の結果を考えて、どうやってアリーとナナちゃんの助けになればいいか、迷ってしまったが・・。(ジャムを塗ったトーストをゆっくりと口に運ぶと、噛みしめるようにほおばった後)これは、俺に与えられた天命の仕事のように思うようになったんだ。何か大きな力が、俺を後ろから動かしているんじゃないかってな・・。」
山根の顔からは、いつもの人をからかうような表情が消えていた。
「何だか、若いころのお前のようだな。余り余裕がなくなると、年寄りの冷や水になりかねないから気を付けなくてはな・・。」
私は、山根をからかうようにそう言った。何故か、山根の真剣な気持ちをそらしたくなっのだ。それには、ナナちゃんを神秘化したくないという思いがあったからである。私の心の中では、ナナはあくまでも孫の友達でいてほしかった。ナナには、そんな無邪気な子供であってほしかったのだ。
山根はそんな私の言葉を察したかのように、にやりと笑って、右手を後ろに回して頭を掻いた。
「俺は、ナナちゃんが死んでいるか、生きているかなんて考えるのは、やめることにした。第一、親のアリーは、いまいるナナちゃんの存在を疑って見ていないんだから・・。」
私がそう言うと、山根は笑顔を見せたまま、私に同調するように頷いた。
「それで決まりだ。」
山根は、吹っ切れたようにそう言って、話題を変えた。
「問題は、ナナちゃんが衣服を掴んで、爆風から守ったこの写真の男の子のことなんだが・・。」
テーブルの上に置かれた写真を見ながら、山根はそう言うと、私の方を真剣な顔で見た。
「フランスにいるナナちゃんの弟だな。」
私は、前から聞いていた弟のことを山根に確認した。山根は、私の言葉に頷くと、
「その子は、今、パリの孤児院にいるらしい。5歳になるらしい・・。」
山根は、そう言うと、なぜか表情を崩して笑った。
まだ知らないナナの弟のバサムは確かにこの世に存在している。山根は、ふと、今までのあいまいなナナの存在への疑念とは違って、確実な事実を語ったことに、ほっとしたのかもしれない。
「今のナナちゃんと二つ違いか・・。」
私は、ぽつりとそう言った。
山根と私の間には、ナナちゃんの存在への不思議な矛盾をいろいろ詮索するのを止めようという暗黙の了解が出来上がっていた。
「お前、パリへ行ってくれないか。幸い、お前は若いころフランスでいたことがあったし、フランス語も話せるだろう。」
山根は、当然、私が彼の提案を拒まないことを想定していた。
「長く喋っていないから、言葉の方は自信がないが・・。その子を日本に連れてくればいいんだな。」
私も、山根の提案を拒むつもりがなかった。
山根は、深く頷くと、
「お前が日本に連れてきてくれれば、難民認定は俺が何とかする。アリーと子供を引き離すことは、人権問題だからな・・。もし、入管がいろいろ言ったら、知り合いのマスコミを使ってでも、きっと何とかするから。」
私は、山根の言葉に応じるように、軽く頭を下げて頷くと、フランスにナナの弟のバサムを迎えに行くことを決断したのだった。確かに、いろいろ問題はあったが、余り思考を巡らし用心するのは、こんな場合得策ではないことだけは、山根も私も了解していたのである。「やるしかない。」私は、心の中でそう思った。
(彩夏の手術)
私は、日曜なので孫とナナを公園に連れてきていた。妻は、孫から解放され、自由になった時間を利用して、孫やナナのためにいろいろ必要品を買うために、新宿の百貨店に行っていた。今日は、珍しく三人とも公園の広場を走ることもなく、池のそばのベンチに座って、水面を反射する日の光を見つめている。私は、最近、フランス語を思い出すためにスマホでフランスのニュースを聞く事が多くなった。今日も、孫たちに目をやりながらも、ニュースを熱心に聞いていた。
「どうしたの二人とも元気ないね・・。」
ナナが、心配そうに二人の顔を覗き込んだ。
ジョッショが、俯いて悲しそうな顔をしているのを見るのは初めてだった。
「母さんがね・・。明後日、頭の手術するんだって・・。」
ジョッショが、涙声でそう言った。
「知ってる。ジョッショの母さんが、私にそう言ってた。」
ナナが、ジョッショの言葉に応じた。
「それがね・・。(なかなか言葉が出てこない)じいちゃんとばあちゃんが、別の部屋で話しているのを聞いたんだけど・・。母さんの病気、重いんだって・・。」
兄のマー君が、ナナにそう言った。
「ママが死んじゃったらどうしよう・・。」
ジョッショはそう言うと、めそめそ泣き始めた。
「馬鹿!そんなことあるわけないだろう。」
兄ちゃんが、咎めるように、ジョッショを叱った。
「だって・・・。」
そう言ったきり、またジョッショが涙を流している。
そんなジョッショを見て、
「大丈夫。おばちゃんはきっと治るから。」
ナナが、きっぱりとそう言った。
「ナナちゃん。昔、雷を体に受けて、神様からパワーもらったって言ってたよね。」
兄ちゃんが、ナナから聞いたことを思い出して、そう言った。
ナナは、兄ちゃんの言葉にゆっくりと頷いた。
「だったら、ナナちゃん、母さん助けられるんだ・・。」
ジョッショが、兄ちゃんの言葉を聞いて、いきなり泣くのを止めてそう言った。
今度は、ナナが俯いている。そして、何かを決心したかのように顔を上げると、
「もし、私のパワー使ったら、ジョッショやマー君と一緒に長くはいられないかもしれないの・・。(水面の日の光が乱反射して、ナナの目に飛び込んでくる)でもいいの、ジョッショやマー君の母さんだもんね・・。何とか頑張ってみるから!」
ナナの言葉は、何かを決心したかのように、力強い口調になっていた。
「ナナちゃん。無理しなくていいから。」
ナナの普段と違う気迫を感じ取ったマー君が、ナナをかばうようにそう言った。
「無理なんかしてないの・・。私の大事なパワーは、大事な人を助けるために神様が私に下さった贈り物なの・・。ジョッショとマー君の母さんに私のパワーが使えるのは、私にとっても幸せなことなのよ。」
ナナが、自分に言い聞かせるようにそう言った。
「ナナちゃんは、神様の使いだったのか。」
ナナの言っている意味が分らないジョッショが、「神様の贈り物」と言ったナナの言葉を聞いて、素直にナナを敬うようにそう言った。
「私はね、神様に生かされてるの・・。父さんや弟、ジョッショやマー君達と少しでも長く一緒にいたいと、いつも神様にお祈りしているの・・。」
その時、ナナは自分の気持ちを正直に言葉にしたかった。
「ナナちゃんは、優しいね。」
ナナの言葉を聞いたマー君が、ナナの顔を覗き込むようにして、そう言って微笑んだ。
「そりゃそうさ。だから、僕はナナちゃんが好きなんだ!」
ジョッショが、誇らしげに告白した。
「ありがとう。」
やっと、顔を二人の方に向けたナナが、笑顔を見せた。
「帰るよ!」
私は、家に帰ろうと、大きな声で三人に声をかけた。
その声に、反応した三人が私の方を向き、
「はあーい。」と、声を合わせて返答した。
穏やかな昼さがり、やっと人並みの時間のリズムを取り戻したナナの心の安らぎは、他人への思いやりに突き動かされて、自らの新たな魂の旅立ちを決断しようとしていたのかもしれない。