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ジョッショの友達ナナ東京編2-1

私が、東京に来たのは三十年ぶりであった。

私は、大学時代東京で過ごした。あの頃、地方から来た大学生はみんな下宿に住んで、風呂は銭湯に通ったものである。たまには、下駄なんか履いて、洗面器を片手に持って、ちまたで流行った「神田川」などという歌の世界にあこがれて、いったい同棲するなんていうのは、どんな気分になるものだろうか、などとぼんやり夢の生活を想像したものである。


「彩夏が病気になったんだって。昨日、私に来てほしいってメールあったけど、私は仕事があるからいけないでしょう。・・お父さんは、ぶらぶらしているから代わりに行ってもらおうか?・・そう書いてメールしたら、しばらくして、お願いしますだって・・。余程困ってるのよ。あなたでもいいなんて言うのだから・・。」

女房は、まるで私の都合など尊重しない口調で、言いたいことだけ言って、私が必ず娘の所に行くつもりでいるのである。

娘は、私の反対を押し切って結婚し、挙句の果てに、二人の子供を抱えて離婚した。

離婚の連絡をしてきたときも、何やら女房といろいろ電話で話していたようだが、結局、私には詳しいいきさつも話さず、

「彩夏ね、離婚したんだって・・。」

女房が私に知らせたのは、たったそれだけだった。

私は、「あっそう、いい気味だ・・。」何て言ってやりたかったが、娘の怒る顔を想像すると、ただ、苦虫をかみつぶしたような顔をして、じっと言いたいこと言わずに我慢して、黙っているしか仕方がなかった。


「彩夏・・、正治君と義治君の面倒を見る人がいなくって、切羽詰まったのよ。親として行ってやるのは当然よね。それに、あなたの可愛い孫の面倒が見られるのよ。私に仕事がなかったら、すぐに行ってあげるのに・・。あなたは、運がいいのよ。こんな機会をもらえるなんて・・。」

最後に、私に言った女房の言い草が、飛行機に乗って座席に座って目を閉じた時から、何度も何度も、私の記憶の底から呼び覚まされた。

「なめてんのか!」

私は、女房の言葉を受けて、何度もそう繰り返していた。私の想像問答の中で・・・。


「簡単なことよ。マー君とヨシ君を、毎朝、幼稚園と保育所に届けて、夕方迎えに行ってあげればいいのだから・・。その間の時間は、あなたの自由に使っていいのだからね。」

こうである。

「飯はどうするんだ。」

私は、いつの間にか、女房の術中にはまって、すっかり東京に行くことになってしまっていた。

「どこか、定食屋さんでも見つければいいのよ。東京なんだから・・。そんな店いっぱいあるはずよ。」

彼女は、学生時代京都の大学だったので、東京の事情など知るわけもないのである。

「勝手なことばかり言いやがって・・。」

私は、声に出ない怒りの言葉を頭の中で叫んでいた。



(東京到着)

昼過ぎに羽田について、すぐに山手線の品川にある彩夏のいる病院に向かった。

徳島の空港から、山手線の電車に乗車するまで、なんと3時間半である。

私が学生の頃、帰省するとなると、おおよそ9時間かかったものである。

新幹線で大阪まで、それから神戸に向かって、徳島行きのフェリーに乗るのである。

確かにあの頃も飛行機は飛んでいたが、徳島―東京間の便などあろうはずもなかった。

仮にあったとしても、運賃のことを考えると、飛行機などテレビのニュースでは知っていたが、私の生活空間の中では、未来の乗り物だったのである。


私は、何十年かぶりに電車から東京の街を見ることができたが、不思議なもので、この大都会は、大きく様変わりしているはずなのだが、相変わらず私のいたころの雰囲気を留めていた。山手線、地下鉄、各駅名、騒然とした人の密集。そんな東京を思わせる強烈な印象は、相変わらず、何十年たってもその雰囲気をとどめたまま存在していたのである。

「不思議な街だ。私が、この街で生活していた若い頃の慣れ親しんだ空間を、どこかで味わうことができる。」

私は、電車の外の景色を見ながら、そんなことを考えていた。



(娘のいる病院)

「父さん来てくれたんだ。」

彩夏は、まるで自分が頼んだことを忘れたかのように、笑顔を見せた。

私は、抗議の意味もあって、娘の言葉には反応せず、娘がいるベットの横の椅子に、二人で一つ椅子を分け合って座っている孫の方に笑顔を見せた。

「この人誰なの。」

弟の義治が、私の顔を不思議そうに見ながら、兄の正治に聞いた。

「徳島のじいちゃんだよ。」

そう言って、正治は私の顔を見て、ほほ笑んだ。


正治は、彼が生まれて三才頃の時、彩夏と帰省したことがあった。もちろん、父親抜きである。いくら、娘に不満を持っていても孫の顔を見れば、喜ぶだろうという彩夏の目論見もくろみがあったのだろう。

実際、私は嬉しかった。彩夏が帰る前は、無視してやろうと心に決めていたが、孫の顔を見ると、氷山がマグマに氷解するように、孫の顔を見て、にこにこ微笑んでしまったのである。しかし、それ以来、娘は実家へは帰ってこなかった。

おそらく、私が予言した通り、夫と離婚し、その後は苦労の連続だったからだろう。

もし、徳島に帰って来たら、

「それ見ろ!俺の言った通りだ。」

私が、娘にそう言うのは目に見えていると思ったのだろう。

娘の性格上、その言葉を聞いて意気消沈するほど、気の弱い女ではなかった。しかし、私にそう言われるのが、悔しかったのだろう。

そんな事情で、私は弟の義治とは会ったことがなかったのである。


「ふうん。徳島のじいちゃんか。」

義治はそう言うと、不思議そうな顔をして、私の顔を見た。

「義治君は、いくつになった。」

私は、弟に話しかけてみた。

「三歳だよ。」

同じに椅子に座っていた正治が、私に答えた。

「そうか。で、正治君はいくつになった。」

もちろん、私は同じように兄の方にも聞いた。

「六才。」

正治はそう答えると、母親の方を見た。

「この子らの面倒見てくれる人いないのよ。わたしは、しばらく病院出られそうにないから・・。ここ二日ほど友達に頼んだのだけど、彼女も仕事があるし・・。そうなると、両親しかいない訳・・・。本当は母さんに頼んだんだけど、仕事あるからね。必然、ぶらぶら遊んでいる父さんしかいないから・・。」

彩夏は、頼みづらいのだろうか、意地を張って平静を装っているが、相当困っている様子が推測できた。意地っ張りなのは、昔から治らないのである。

「別に遊んではいないが、母さんとお前がどうしてもというから、わざわざ東京まで来てやったんだ。」

わたしは、できる限りの勇気を振り絞って、自分の立場を高みに置こうとした。

「あっそう、まあそれでもいいわ。 あのね、マー君、ジョッショ。じいちゃんが今日から、しばらくあなたたちの面倒見るから。嫌だと思うけど、お母さん病気しちゃったから我慢してね。」

彩夏は、私の言葉に苛立っているのは確かだが、いつものように、まともに私に喰ってかからず、嫌味を言うだけで我慢したようだった。

彼女が嫌味を言うにとどめた態度からも、彼女が弱り果てているのが感じ取れたのである。

私は、もうこれ以上、彩夏と同じ空間にいるのは、やめたほうがいいと思った。

いつものように、娘と喧嘩が始まっては、子供たちに可哀そうだと思ったのである。

「マー君、ヨシ君おいで、母さんこれから寝るらしいから。病人は疲れるからね・・。」

私はそう言うと、二人の手を取って、出口の方へ向かった。すると、

「父さん、よろしくお願いします。」

病院のドアを開けて子供を連れ出そうとしたとき、予想もしていなかった娘の言葉が耳に入ってきた。

「わかってるよ・・。お任せあれ!」

私は、娘の方を振り向くこともなく、そう言うと孫二人と病室を出た。



(孫二人と私)

「マー君は、兄ちゃんって呼べばいいよね。」

私は、駅を降りて商店街を左右見ながら、正治に話しかけた。

「そうだよ。」

正治は、自分の住むマンションまで案内するつもりだろうか。常に半歩先を一人で歩いた。

義治は、私と手をつなぎながら、時々つないだ手に頼って、ぶら下がろうとしている。

「じゃあ、ヨシ君は、よっちゃん、でいいのかい。」

私は、義治のほうを見ながら聞いてみた。

「違うよ。義治は、ジョッショって呼ばれてるんだよ。」

先を行っていた正治が、急に立ち止まって振り向いて言った。

「どうしてジョッショって言うんだい。」

私は、不思議に思い尋ねてみた。

「なぜだか知らないけど、みんなそう言うんだ。保育所でもね。」

正治が、誠実に答えてくれた。

言われた当の本人は、何にも答えようとせず、ただ時折私の腕にぶら下がってきた。


彩夏の住むマンションは、どこにでもありそうな家族向けの部屋だった。

決して、豪華な住処ではないが、それなりに清潔感はあった。

誰かが、訪れることを想定していたのだろうか、部屋の中はきちんと整頓されていた。

「二人は、お腹すいただろう。今日はずっとお母さんと病院にいたんだからなあ。」

私は、そう言って兄ちゃんを見た。

「カップラーメンがあるよ。じいちゃんの分もあるから。」

正治は、そう言って、ダイニングルームのテーブルの上に置いてあるカップラーメンの方へ行った。追っかけるように、ジョッショもテーブルの椅子に掛け上った。

私は、その光景を見て、涙がこぼれそうになった。

「母さんは、カップラーメンを夕食に食べさせるのかい。」

やりきれない気持ちを抑えながら、私は正治に聞いてみた。

「いつもじゃないけど、母さんが仕事で遅くなったときは、二人で食べるよ。」

私の、感情的に高ぶった表情を不思議そうに見ながら、正治が答えた。

「じいちゃんが、兄ちゃんとジョッショの一番好きなものをごちそうするから、今から駅前まで引き返そうか。」

私がそう言うと、今まで黙っていたジョッショが、

「やった、やった!僕は焼肉!」

そう言いながら、部屋の中を嬉しそうに、ぴょんぴょん跳ねた。

「僕もそれでいいよ。」

正治も、表情を緩めてそう言った。

私は、幸いここへ来る途中に、焼き肉レストランを確認していた。

「行くぞ!出発!」

私はそう言うと、勢いよく外に出た。


焼き肉を食べた三人は、満足そうな表情を浮かべていた。

特に、私は東京に着いてからずっと何も食べていなかったので、やっとほっとした気持ちになった。

「じいちゃんは、魔法のカードを持ってるね。」

レジカウンターで、支払いにカードを出した様子を見ていた兄ちゃんが、店を出るなり私に話しかけてきた。

「じいちゃんは、東京へ来る前に、カードさえあれば何でも大丈夫だって、テレビの人が言ってるのを聞いていたからね。」

私は、兄ちゃんの会話に適当に対応した。

「僕もカード知ってるよ。友達のお母さんが使っているのを見たことあるよ。」

おいしいものを満足いくまで食べたと見えて、ジョッショが満足した顔で、初めて二人の会話に入ってきた。

「母さんは、カード使わないのかい。」

「僕は、母さんが使うのを見たことない。」

正治は少し考えて、そう言った。

「兄ちゃんは知らないんだ。母さんもスーパーで使ってたよ。」

ジョッショがすかさず、兄ちゃんに反論した。

「あれは、あのスーパーでしか使えないんだよ。でも、じいちゃんの使ったカードは、どんなところへ行っても使えるんだ。母さんのカードよりすごいんだ。」

兄ちゃんが、ジョッショに説明した。

ジョッショは、それでも納得した様子がなく、少し困った顔をしていた。

「兄ちゃんは、何でも知ってんだな。驚いたよ。」

私は本当に驚いていた。

「僕、何でも知ってるよ。」

兄ちゃんは、そう言って、ぴょんぴょん跳ねながら、上機嫌であった。

その様子を見ていた、ジョッショもさっきまでの困った顔は、すっかり晴れて、

兄ちゃんの後をぴょんぴょん跳ねながら、自分たちの住むマンションに向かったのである。



(孫との生活)

私にとって、考えていた以上に、孫と一緒に暮らすことは幸福な気持ちにさせてくれた。

兄の正治は、何事につけて観察力が鋭く、来年小学校で勉強しても、誰にも負けない成績をとる事は確実だった。弟のジョッショは、私の妻に似たのか、細かいことにはこだわらないし、物事も深く考えることが苦手なように見えた。ただ、無邪気な性格は、人に嫌われることはない得な性分なのかもしれない。


私の生活リズムは、一変した。朝起きると、二人を近くにある保育所と幼稚園に送り届け、マンションに帰ると細々とした用事を済ませ、孫たちの服を洗濯をし、部屋の中を適当に掃除するのである。さすがに、食事は外で食べることにしているが、毎日、孫に栄養をしっかり取らせるには、それなりに信頼できる食堂を見つけなくてはならない。幸い、この界隈は、食べ物屋が多く、今のところいろいろな食堂を渡り歩くことで、二人の孫は、食事に満足していた。

「じいちゃんは、金持ちなのかい。いつも、レストランに行って、僕が何でも好きなものを注文しても、文句言わないんだもの・・。」

ジョッショが、にこにこしながら、私にそんなことを尋ねたことがある。

すると、

「じいちゃんは、お金いっぱい持ってんだよ。母さんがそう言ってた。だから、じいちゃんといるときは、遠慮せずに何でも買ってもらいなさいって・・。」

兄ちゃんが、餃子に箸をつけながら、ジョッショにそう答えた。

どうやら、この前三人で病院に言ったとき、娘の彩夏に悪知恵を吹き込まれたようである。

「じいちゃん、日曜日にデイズニーランドに行きたいんだけどな。僕の友達なんか、みんな行ってるのに、ぼくだけ行ってないんだ。」

ジョッショが、私の顔をちらっと見て、悲しそうな顔をした。

それでも、私は彼の企みに快諾するしか仕方がなかったのである。



(彩夏の病状)

「思っていたより深刻な病状でありまして・・。」

医者は、画面に写されたMR検査の結果をじっと見つめながら私にそう告げた。

「深刻とは、どういうことなんでしょうか。」

私の顔が、緊張でひきつった。

「どうやら、思っていた以上に腫瘍のたちが悪そうでして・・。」

医者は、表情一つ変えずにそう言った。

「まさか、命の危険はないのでしょうね。」

私の手は、無意識のうちに震えていた。

医者は、私の問いに答えることなく、

「まあ、しばらく時間をいただいて、更に精密検査をしたいと思います。お父様には、申し訳ありませんが、娘さんの入院期間は、相当長引くことを覚悟しておいてください。」

そう言うと、回転いすを反転して、私の退室を促した。


数分後、私は娘の彩夏の病室にいた。

「聞いたでしょ。」

娘は、表情を変えることなくそう言った。

「ああ。でも、心配することはない。きっとよくなる。」

私は、無理やり自分の表情を緩めようとした。

「気休めは言わないでよ。(少し沈黙が続き)こうなったら仕方ない、覚悟決めなくちゃね。ただ、子供たちがね。」

さすがに、娘の顔が、悲壮感で曇り始めた。

「子供のことは、私が責任を持って世話をする。何の心配もいらないから・・。それより、お前自身、気をしっかり持って、病気を克服しなくてはな。」

私が強く言っても、彩夏はいつものように逆らうことなく、こくりと頷いた。

「とうさん、お金のことだけど・・。」

娘はそう言うと、ちらりと私の顔を見た。

「馬鹿!金の心配などするな。私が、入院費も家賃や子供たちの生活費もすべて面倒みるから・・。明日から、お前の病室も個室でずっといられるように頼んできた。」

私は、この時ほど自分の経済力に心配しなくていいことが、有難かったことはなかった。


もし、私に財力もなく、生活にきゅうきゅうとしていたなら、娘の心配にどう答えたらよかったのだろうか・・。

「すまんな。私にはどうしようもない話だ。せめて、孫にだけでも十分なことはしてやりたいのだが・・。」なんて、真剣な顔をしていうしかないだろう。

「仕方ないわよ。生きるってことは、悲しみをじっとこらえて前に進むしか、仕方がないのかもしれないわ・・。」なんて、娘が言ったら、私の心は、みじめさで張り裂けそうになるだろう。それでも、苦笑いをして、娘の言葉に頷くしかないのだろうか・・。

そんなことを考えると、「この世はお金・・。」などと、うそぶいている奴らのことを、馬鹿にしたように笑うことはできないのかもしれない。

「しかし、それもなあ・・。」私は、そんな考えに納得することはできなかったのである。自分でふと思った「経済力」という言葉から、私は、次から次へと自分自身に疑問を投げかけている。こうなると、どう結論を出していいのか、時計仕掛けのおもちゃのようにぐるぐる思考があっちからこっちへと反転して、収拾がつかなくなってしまうのである。


私が何だか訳の分からない問答を、自分の頭の中で一生懸命考えていると、

「とうさん、また、いつもの抜け殻病にかかったみたいね・・。」

彩夏が、私がぼうっと何か考え込んでいるのを見て、微笑みながらそう言った。

「ああ、ごめん。」

私はそう言って、慌てて謝った。

彩夏は、子供のころ、何度も父親に真剣な話をしているときに、いきなり取りつかれたように周囲のことに関心を示さず、自分の思考に引きずり込まれて、周りの人と会話不能に陥った父親の姿を目にしたものである。

彩夏が高校生になった頃は、そんな父親の態度にむしょうに腹が立ったこともある。しかし、今日のような深刻な会話で沈み込んだ時に、いきなり放心状態になる父を見て、妙にこんな父が可愛く思えたのである。

「不思議だなあ。こんな気持ちになったのは、初めてだな・・。」

彩夏は、そう思って、思わず笑みがこぼれた。

「母さんも連絡しなくてはな。」

私は、娘に確認するようにそう言った。すると、

「母さんには、しばらく私の病状は言わないで。病状が長引くとだけ言っといて。母さんは、父さんと違って働いているんだから。母さんが東京に飛んで来たら、母さんの仕事の心配までしなくっちゃいけないんだもの。」

そう言って、彩夏は、私の提案に反対した。

「お前、そんなに人のことを考える人間だったっけ。特に親のことを・・。」

私は、正直そう思った。

「失礼ね。私だって思いやりはあるんだから・・。」

彩夏が反論した。

「そらそうだ、お前も子を持つ母親だからな。」

私がそう言うと、彩夏が、いきなり笑い始めた。それにつられるように、私も笑った。

その一瞬、二人は深刻な状況から、少しだけ解放されたような気持ちになった。



(ナナのいる食堂)

孫と私が、夕食を外で取り始めて、数週間がたった。兄ちゃんもジョッショもまだ外食に不満はないようで、夕方になると、嬉しそうに外に出た。

「今日は何を食べようかな。兄ちゃん、また、焼肉にしようか。」

ジョッショがそう言いながら、私の顔を見る。

「焼肉もいいけど、たまには、じいちゃんの好きなものも食べさせてくれよ。」

私は、ジョッショに、控えめに反抗した。

ここ数日、私たちは肉がメインのメニューばかりであった。子供たちの栄養バランスから考えても、余りいい食事とは言えなかったのである。それに、孫たちと違って、私はいささかレストランの気の利いた味付けに飽き始めていた。

「たまには、家庭の料理が欲しいものだ。」そんな気持ちがどこかにあった。

すると、いきなり初めて入った路地の片隅で、鄙びた食堂を見つけたのである。


店内には、われわれ三人以外に客はいなかった。四人掛けのテーブルが三つ、それにカウンターがあり、もし、この店が客で満員になったら、この空間で自由に身動きができるのだろうかと、不安になるほど狭かった。

「いらっしゃいませ。」

どこからか、不思議な発音でそう声がすると、店の主人が奥から出てきた。

奥と言っても、おそらく、奥には厨房しかなく、彼はそこで料理の仕込みでもしていたのだろう。私たちは、彼の顔を見て、思わず顔を見合わせた。日本人ではなかったのである。

「何にいたしましょう。」

その男は、そう言うと、一生懸命私たちに笑顔を振りまいた。

兄ちゃんとジョッショは、男の言葉に反応するかのように、テーブルに置かれたメニューにを手に取った。私は、いまだに戸惑っていた。そして、

「やはり、この店に入ったのは間違いだったか。」そんなことばかり考えていたのである。

すると、しばらくして、兄ちゃんと同じくらいの年の女の子が、テーブルに座っている我々の近くに近づいてきたのである。

「あっ!ナナちゃん。」

その女の子を見て、いきなりに兄のマー君が大きな声を上げた。

その女の子は、異国の女の子だった。私の見たところ、二人は中東辺りの顔の特徴を持っていた。

「マー君。」

ナナも兄ちゃんに答えるようにそう言った。

ナナは、兄の正治が通う幼稚園の同級生だったのである。我々はそのことを知ると、急にほっとする気持ちになり、店内の五人の顔に、お互いの警戒心を取り払った笑顔が戻ってきた。

ナナの父の名は、ムハンマド・アリー。シリア人である。三年ほど前に、政治亡命を希望して、日本にやってきた。シリアには、家族もいたが、空爆でナナとアリーそれにナナの弟以外は、全員死んでしまったらしい。この店は、難民支援の団体からの紹介で格安な賃料で借りていた。最初は、シリア料理を出していたが、この界隈が新興住宅街ということもあって、一向に経営がうまくいかなかった。そこで、今では日本の一般的料理を勉強して、普通の食堂と変わらないメニューを出していた。

「しかし、アリーさんは、よく日本の料理を出せるようになりましたね。」

私は、お世辞も織り込みながら、彼の努力を褒めた。

「私は、元々、シリアでは料理人だったの。」

アリーさんは、マー君がナナの同級生ということもあって、すっかり打ち解けた表情を見せて、私の言葉に応対した。

「なるほどな・・。」

私はアリーの言葉を聞いて、感心したように頷くと、出された肉じゃがに箸をつけた。

ジョッショは、さっきから、大きなどんぶりのかつ丼を、うまそうにほうばっている。兄ちゃんは、時々、ナナの顔をちらっと見ては、行儀よく、天丼のどんぶりをテーブルに置いたまま、ころもに包まれたエビフライを箸で挟んで食べている。

「ジョッショは、おいしそうに食べるね。」

ナナが、ジョッショの方を向いて、微笑みながらそう言った。どうやら、ナナも義治の相性を知っているようであった。ジョッショは、その言葉に一旦顔を上げてナナの方を見て、またどんぶりを手で持つと、箸でかつ丼のご飯を集めては、口の中に詰め込んだ。

その姿を見た残りの四人は、何だかジョッショの無邪気な振舞いに、思わず笑顔が漏れて、一斉に笑い出した。

何だか、東京で新しい家族を見つけたような気持になったのは、私だけだっただろうか。

その日以来、私と孫二人は、夕方になるとアリーの店に行き、夕食を食べるようになった。


(ナナと孫と一緒に)

電車のシートに座ったジョッショは、電車の窓の方に向いて、じっと変わりゆく風景を見つめている。ジョッショを挟んで座った兄ちゃんとナナが、嬉しそうな顔をして向かいのシートに座ったわたしに笑顔を見せている。

電車は都心からはずれ、次第に緑を蓄えた人の住む匂いを感じさせる郊外へと変わっていく。私は、都会の摩天楼や騒然とした人波から次第に遠ざかっていく風景を、電車の窓から見ながら、どこか気持ちが安らぐのを感じていた。

この頃、二人の孫の顔が、次第に温和な表情になっていくのを感じている私は、東京に来た幸運をひしひしと実感していた。

「あの子らには、一杯楽しい思いをさせなくては・・。」

今の私にとって、孫の笑顔を見ることが、自分の喜びになっていた。更に、運のいいことに、そんな二人の孫以外に、ナナという女の子まで嬉しそうな表情をして、私の目の前で微笑んでいるいるのである。

私は、「人の生きる満足とは、こんな形ではないだろうか」と、心の中で自問していた。


高尾山に着いた当初は、三人とも大はしゃぎで、ジョッショなどは、ナナと兄ちゃんの両方から手をつながれて、意気揚々と山登りを始めたのだが、案の定、リフトから降りて、数百メートルも行かないうちに、私が背中に背負うことになったのである。幸い、この山は、完全に観光化していて、山の頂上へ向けて少し歩くと、喫茶店や休憩所で飲み物や食べ物には事欠かなかった。中でも、中にあんこの入った焼きたてのタイ焼きのような食べ物は、三人を大いに喜ばせた。

やっと山頂に到達するころには、子供たちより、私の方が疲労で動けなくなってしまった。なにしろ、ジョッショを背負いながらの登山である。いかに低い山とはいえ、普通の登山客が登る二倍もの時間を費やしてやっと登頂したのであった。

山頂の上は、自由に動けないほどの人でごった返していた。若い男女の二人ずれ、子供と親の家族ずれ、いろいろのパターンがあったけれど、老人と幼い子供の組み合わせは、我々だけではなかっただろうか。それでも、山頂から眺められた麓の景色は、一服の清涼を与える心地よい眺めであった。我々は、そんな安らぎの時間を十分味わうこともなく、慌ただしく下山の途に就いたのである。

途中、吊り橋では、ジョッショが再び私の背中で背負うことを要求した時には、心底、私は恐怖を感じた。こんな低い山のわりには、結構な高さにつるされた釣り橋だったのである。私は、どちらかと言えば、高所恐怖症である。ランドマークに上ったときも、二人の孫は、何の躊躇もなくガラスで下が見える床の上に平気で足を踏み入れたが、私には、そんな真似はできなかった。

「じいちゃんは、高いところが苦手なんだ。」

私は、思い切って、ジョッショに弱音を吐いた。

すると、それを聞いていたナナが、ジョッショの手を取ると、ずんずんと彼を引っ張って、あっという間に橋を渡り切ったのである。

「ナナちゃんありがとうな。」

後からやっと渡り終えた私は、ナナに感謝の言葉を言った。

「いいのよ。おじちゃんが困ったことがあったら、手伝ってあげるから・・。」

私の方を向いて、ナナが、嬉しそうにそう言った。

孫と私とナナの間に、なんだか不思議な友情が生まれたような気がしたのは、私の気のせいだろうか。


我々は、夜になってやっと自分達の町で電車を降りた。

「遅くなってしまって、申し訳ない。」

ナナの住む古ぼけた集合住宅の一角の部屋のドアまで来て、やっとナナを送り届けることができた私は、申し訳なさそうに、父親のアリーに謝った。

「いいんです。ナナよかったな。(ナナの方に笑顔を見せて)この子には、楽しい思いをしてやったことがないのです。本当に、この子には辛い思いばかりさせて・・。」

そう言うと、アリーは、何故か涙ぐんでしまったのである。

その光景をかき消すように、

「マー君、ジョッショ、また明日ね!」

ナナの快活な言葉が、静まってしまった街角に響き渡った。


(昔の学友 山根秀介)

孫を幼稚園に送り届けた私は、二駅隔てた駅でぶらりと降りた。久しぶりに昔住んだことのある下宿のあたりを、一人で歩いていたのである。三十年以上も経つと、昔の面影はすっかり消え失せて、街並みからは、学生が住むような下宿のある木造の一軒家は消え失せ、高層ビルのマンションで埋め尽くされていた。私は、そんな一角に挟まれるように、小さな古ぼけた古本屋を見つけたのである。

「面白い店があるものだ。」その店を見つけた私は、昔、駅から大学に行く途中で点在していた数十軒の古本屋を思い浮かべていた。あの頃は、大学の授業が終われば、必ずと言っていいほど、そんな古本屋の数軒をはしごして、古本を手に取って、数ページパラパラと読んだものだった。ついこの前も、今日のように孫から解放されて、母校の周辺の古本屋を探したが、見事に街は変貌し、懐かしい匂いのする店はほとんど見つからなかった。それが、今、思いもがけない住宅街に、昔なじみのある風情の古本屋を見つけたのである。私は、まるでおいしい匂いのする料理の店に誘い込まれるように、その店の中へと入っていった。

その店には誰も客はいず、奥の方で店主らしき年のいった男が、転寝をするように目を閉じて座っていた。面白いことにこの店には、古本ばかりではなく、古ぼけた棚に、昔のレコードが並べられていた。私は、懐かしそうにそのレコードを手に取ると、一つ一つジャケットを確かめていった。

ところがどうだろう・・。そのレコードの大半が、私の大学時代に一世を風靡したジャズの名盤ばかりであった。チクッコリア、キースジャレット、MJQ、ハービーハンコック・・・。もちろん、アートペッパーやマイルスデイビス、ロンカーター等・・。私は思わず懐かしさに揺り動かされて、「ううん」と、うなり声をあげてしまった。

すると、その声に気づいた店主らしき男が、私の方を見た。

「ずいぶん、懐かしそうに見てるね。」

その男の表情も、私と同じように緩んでいた。自分と同じような年代の男が、自分のコレクションに感心して、私がうなり声をあげたのが嬉しかったのかもしれない。

すると、次の瞬間、その男の顔から笑顔が消えて、私の顔をまじまじと見始めたのである。

私も、その凝視に呼応するかのようにその男の顔を見た。

「あああ!」

その声は、私と店主の口から、ほぼ同時に発せられた。

「山根秀介か?」

私は、恐る恐るその男に声をかけた。

その男は、私の声に、深く頷くと

「大滝浩一だよな・・。」

今度は、私が深く頷く番であった。彼は、大学時代の私の学友だったのだ。


山根は、すぐに店を閉じると、私を自分の自宅へ招いた。

彼の自宅は、店から少し離れた高級マンションだった。

「ずいぶん立派なマンションだな。」

私は、出入り口の扉を開ける暗証番号を押している山根の背中に声をかけた。

「まあ、一人暮らしだから金を使う相手もないのでな。」

彼は、背を向けたままそう言った。

「お前、弁護士をしているのじゃないのか。」

山根と最後に会ったとき、彼は弁護士資格に合格していた。田舎に帰る私と違って、将来前途有望な彼の表情が、どことなく余裕のある笑みを漏らしていたのが、何故か今でも記憶に残っていた。

「辞めた・・。」

山根はそう言うと、私の方を振り向いて、にやりと笑った。


部屋は広かったが、乱雑に置かれた書籍や衣服で、何となく昔の学生時代の下宿の雰囲気を漂わせていた。

大きなテラスから、遠くの方まで見渡せる明るい部屋で、昼の暖かい光さえあれば、心地のいいうたた寝ができるかもしれないというのが、この部屋の印象だった。

「酒にしようか。とっておきのスコッチがあってな。」

山根は、嬉しそうにそう言った。

「いや、私はすぐ赤くなるから・・。昼間っから赤い顔をして外へは出られないしな。」

私はやんわりと断った。

「差し障りないなら、泊っていかんか。せっかく徳島から来たのだろうから。」

山根は、私の出身地を覚えていた。

「いや、今は事情があって東京で孫二人と三人暮らしだ・・。夕方には孫を迎えに行かなくてはいけないんだ。」

私は、簡単に自分の事情を話した。

「ほおう・・。また、変わった環境にいるんだな。」

山根は興味をひかれたのか、しきりと私が孫と東京暮らしをしている理由を聞きたがった。

事情を話すと、彼は何度も、「ほう」と興味を示す合いの手を入れた。

「そりゃ大変だ。その年で孫の世話は難儀だろう。ところで、娘さんの具合は大丈夫なのか。」

 山根は、私の娘の病気の状態を聞いてきた。

「うん。それがな・・。あまりよくないのだ。」

私がそう言って俯くと、合わせたように、山根が深刻な顔をして俯いた。

「まあ、望みはあるから・・。」

私は、顔を上げると、深刻な雰囲気を振り払うかのようにそう言った。

「まあ、子供のためにも、頑張れよ。」

山根は、そう言うと優しい笑顔を私に見せた。

「ところで、お前の方はどうなんだ。女房はどうしたんだ。」

今度は、私が山根に彼の環境を尋ねた。

「とっくに別れた。いろいろあってな。弁護士は、二年ほど前に辞めてな・・。今は、親が残した家を改装して、お前が見たあの店をやっているんだ。俺は元々、古本屋の主人がやってみたくてな。ところが、いざやってみると、いやあ、儲からん。それでも、毎日暇つぶしに、店でああやって座っているんだ。」

山根はそう言うと、大きな声で笑い出した。私も、仕方ないので、彼に合わせるかのように笑い始めた。



(彩夏の病院)

ジョッショは、病院に来ると彩夏のベットの端に座り、時折、母に甘えるように母の寝る横にもぐりこむのである。

「ジョッショはまだ赤ちゃんだからな・・。」

兄ちゃんのマー君が、ジョッショをからかうようにそう言った。

その言葉が恥ずかしかったのか、ジョッショはベットから降りて近くの椅子にちょこんと座った。

彩夏は、三人と一緒に来たナナの顔を見ながら微笑んだ。

「へえ、ナナちゃんというの。良かったね、マー君、ジョッショ。いいお友達ができて・・。」

彼女の言葉に、ナナが彩夏に向かって微笑み返した。

「ナナちゃんは、いつも一緒なんだ。この前だって、じいちゃんと兄ちゃんと、ナナちゃんで山に登ったんだよ。」

ジョッショが、嬉しそうに彩夏に報告した。

「ジョッショは、じいちゃんにしょっちゅうおんぶされたけどね。」

兄ちゃんが、そう言うと、ジョッショが兄ちゃんを恨めしそうに睨んだ。

「父さんすいません。だいぶ疲れたでしょう。」

彩夏は、今まで言ったことがない言葉を平気で言うようになった。父親の私を気遣うなんて、今まで記憶がなかった。

「結構、面白いよ。元々、東京は、昔、何年もいた街だしな。それに、この前なんか大学時代の友人に会ってな・・。」

私が、そう言ったとき、看護師が入ってきた。

「患者さんが、疲れるといけないので、今日はこの辺でね・・。」

その看護師は、そう言うと、我々の退室を促した。

「すいません。」

私は、そう言うと、黙って三人を連れて病室から出ることになった。


「母さん大丈夫かなあ・・。」

兄ちゃんが、心配そうな顔をして私の方を見た。

「大丈夫・・。時間はかかるけどね。それまでじいちゃんやナナちゃん、それにジョッショと一緒にやっていけるかい。」

私がそう言うと、

「僕は、大丈夫!」

ジョッショが、大きな声でそう言った。それにつられるように、兄ちゃんが頷いた。

「いいね、二人には優しい母さんがいて・・。」

少し寂しそうな顔をしてナナがそう言ったので、私はナナの気持ちをそらせるように、

「今日は、ナナの父さんに頼んで、みんなの好きなオムライスでも食べようか。ナナちゃんも一緒にな・・。」

私は、大きな声でそう提案した。

「賛成!」

ジョッショが勢いよく賛同した。兄ちゃんとナナも嬉しそうに、賛成の右手を挙げて、私の前を勢いよく駆けだした

私が来てから一月足らずになるが、彩夏の容態はあまり好転を見せなかった。私にとって、そのことがいつも不安の原因となって、三人の嬉しそうな顔にも、心底からの嬉しさを感じなくなっていた。「これからどうなるのだろう・・。」娘の彩夏に会うたびに、そんなことを考えずには、いられなかったのである。


(アリーの店で・・)

ジョッショとナナそれに兄ちゃんは、三人同じテーブルに座って、夢中でオムレツを食べている。私は、アリーの料理の中でもオムレツを一番評価している。おそらく、子供たちも同じ意見か、オムレツを注文する頻度が一番多い。我々が、食事をする時間は、客がいない時間帯が多く、子供三人と私たちだけの時が多かった。私は、いつもナナちゃんの食事の分もアリーに支払っていた。もちろん、アリーはそんな支払いを納得せず、いつもつっかえして、我々三人の支払いだけを受け取ろうとするのだが、私がしつこく四人分を支払うようになって、最近では諦めたかのように受け取るようになった。

「ナナちゃんは、私の孫と同じ扱いをしたいから・・。」

私のその言葉に、アリーはすまなさそうに頭を下げた。


今日は、子供たちの食事中に、アリーは私に一枚の紙を見せたのである。

「私は余り知り合いがいないので・・、もちろん私の支援をしてくれる人たちは、いつも私のことを真剣に考えてくれるのです。しかし、今度の報告は、みんなどうしていいかわからないの・・。迷惑と思ったけど、大滝さんは、いい考えがないかと思ってね・・。」

アリーは、藁にもすがりたいような気持ちなんだろう。

それは、入出国管理署からの通達であった。内容は、ナナちゃんのことである。調査の結果、アリーには娘の存在は書類には記載がなく、もし一緒に暮らしている娘がいるなら、不法滞在に該当するので、国外退去を命じるという内容だった。

私は目を通すと、

「アリーさん、この内容は事実なの。」

そう質問して、アリーの顔を見た。

「ナナは、私の娘なの・・。嘘言ってないよ。」

アリーはそう言うと、私の見つめるまなざしに、真剣な視線で応じた。

二人の間に、しばらく沈黙が続いた。

私としても何とかしてやりたいが、かと言って最近東京に来たばかりの私に何か妙案が浮かぶはずがなかった。次の瞬間、私は旧友の山根秀介の顔が思い浮かんだのである。

「そうだ、山根は弁護士だったはずだ。彼なら、相談を持ち掛ければ乗ってくれるかもしれんな・・。」ふとそう思ったのである。

「私に、一人相談できる知り合いがいるので、頼んでみるよ。」

私は、次の瞬間、思わずアリーにそう言ってしまった。

「本当ですか!山根さん、お願いします。」

アリーは、そう言うと、深々と私に頭を下げた。

私は、そうは言ったものの、山根はすでに弁護士活動をしていないと聞かされていたので、今さながら少し後悔していたのである。



(山根への依頼)

私は、アリーが店を休む日に、アリーを伴って山根の古本屋を訪ねた。

「どうしてたんだ。もう少し顔を出せよ。昼間は暇なんだろう。」

山根は私の顔を見て、不満そうにそう言ったが、私は彼の言葉に特に反応を示さなかった。

「今日は、ちょっとお前に頼みたいことがあってな。」

私がそう言うと、一緒に来ていたアリーが、山根に頭を下げた。

「この方は・・。」

アリーの行動を見て、戸惑ったように山根が私に尋ねた。

「アリーさんと言ってな・・。シリア人の難民なんだ。実は、このアリーさんの困っていることで、お前に相談しに来たんだよ。」

私は、余り山根には期待をしていなかった。弁護士を辞めて数年が経ち、今では裁判所とも縁が遠くなった男に難民問題を相談しても、所詮、書類の出し方を教えてくれるのが関の山だろう・・、と考えていたのである。

ところが、山根は、事情を話すと、熱心に相談に乗ってくれたのである。

「それは、入国管理局のよくある手法だな。彼らは難民認定を出さないのが任務のように思っている。国際的人道主義という錦の御旗が出ない限り、とにかく面倒なことは起こしたくないんだ。それがこの国の暗黙の方針なのだから、彼らも従うしかない。(少し何かを考えているように、少し沈黙が続き)しかし妙だな・・。父親の入国認定をしておいて、娘を国外退去させるとはな・・。どう考えても、国際的人道主義からして、彼らにしてもやっかいなことになるとは考えないのかな・・。」

山根は、自分の疑念に首を傾げた。

「入管局の調べでは、ナナちゃんは、アリーさんの娘になっていないらしい・・。」

私がそう言うと、山根は確かめるようにアリーの顔を見た。

「ナナは私の娘です。」

アリーは、訴えるような目で山根を見た。

「そうか。もしかして入管局の見落としかもしれんな・・。私が確かめてみます。」

山根の言葉に、私とアリーは顔を見合わせた。

「費用はどのぐらい必要なんだ・・。」

弁護士の厄介になったことがない私は、通常知られている常識から、弁護士費用はかなりの額になると思っていた。

「お前、俺に頼んでおいて、今さらしり込みするのか。」

山根が、私を見ながらにやにや笑ってそう言った。

「いや、そう言うつもりは・・。ただ、予め費用だけは知りたかっただけだ。」

私はそう言いながら、今さら後には引けないと覚悟を決めた。

すると山根が私の考えを見抜いたように、

「お前から金をとる気はないよ。ちょうど暇をしてたから、昔の仕事をするのも悪くないと思ってな・・。(またにやりと笑い私を見て)安心しろ!」

内心、私はほっとした。弁護士を使うとなると、妻に送金を依頼しなくてはいけなくなる。

おそらく、妻は東京に来ることになるだろう。そうなると、娘との約束を破ることになりかねなかった。

「すまんな。」

私は、山根に逆らうことなく頭を下げた。それにつられるように、アリーが、深々と頭を下げたのだった。


山根が引き受けてくれるのを聞くと、アリーはほっとしたように、「お願いします。」と言って頼んだ後、私を残して帰ってしまった。

これ以上、三人でいても仕方がないと思ったのかもしれない。実際その通りだが・・。

「お前は暇なんだろう。少し俺に付きあえよ。」

私が、アリーの方を向いて帰って行くのを見ていると、山根がそう言った。

彼に頼みごとをした以上、無下に断るわけにもいかず。私は、山根に付き合うことにした。

彼は、私を駅近くのかなり高級そうなフレンチレストランに連れて行った。

「久しぶりですね、先生。」

この店のシェフだろうか、山根が入っていくとすぐに厨房から顔を出し、山根に親し気に声をかけた。

「こいつは、私の大学時代の学友なんだ。今日は、いろいろ昔ばなしでもしようと連れてきたんだが・・。うまいものを食わしてくれ。」

山根は、そのシェフにそう言って、親し気な笑顔を見せた。

「それは、お楽しみですな・・。わかりました。ワインはどうします。」

そう言って、シェフがワインの注文をとってきた。

「いつもので・・。」

山根が、慣れた口調でそう言った。

私は、二人の会話を大きな窓から見える街路樹の木々を見ながら聞き流していた。

私は、最初この店に入ったとき、ジャケットにスニーカー、普段のパンツをはいただけの服装では気が引けるように思っていたが、どうやら二人の会話からすると、この格好でも別段問題はないようだと思い少しほっとしていたのである。

「お前、東京に嫁さんは連れてこなかったのか。」

山根がシェフとの会話の後で、私に尋ねてきた。

「仕事があるのでな。」

私は、そっけなくそう言った。

「そうか。そうすると、娘の病状を知らないわけだ・・。」

山根は、勝手にそう判断した。その通りだった。

「ところで、どうしてお前、嫁さんと別れたんだ。」

今度は、私がいきなりぶしつけな質問をした。まあ、山根に気を使うことはなかったから、気にかかっていた言葉が、自然と言葉をついたのである。

「うん。お前には理解できんかもしれんがな。我々夫婦の間には、子供がいなくてな・・。」

山根は、私の言葉に気を悪くすることもなく、その話題に移ろうとしているようだった。

山根は、そう言ったなり、しばらく沈黙を保った。別段、他意はなさそうだが、昔のことを自分なりに振り返っていたのかもしれない。

ソムリエが、ワインとオードブルをテーブルに置き、私たちに笑顔を見せた。

私は軽く頭を下げたが、山根はこれから自分が話す言葉を慎重に選んでいたのか、ソムリエの挨拶を無視してしまった。

「ある日、俺は女房にこう言ったんだ・・。(少し沈黙が続き)“俺もこのまま仕事を続けても、目的もなくただ時間が過ぎていくような気がするんだ。もう五十代半ばを超えたしな・・。この辺で、自分が若いころ考えていた古本屋でもやろうかなんて時々思ってな・・。幸い、親が残してくれた不動産はあるしな。”ってな、半分、冗談交じりにそう言ったんだ。」

そこまで言って、山根は私の顔を見た。

「お前の嫁さんは、確か同じ弁護士だったよな。」

私は、二人の結婚式に出席することはなかった。その頃には、すでに徳島で住んでいたので、呼ばれてもいかなかっただろう。

「相続専門のな・・。」(山根)

「それで、彼女はその言葉にどう言ったんだい。」

私は、少し興味がわいてきた。


(山根と妻の会話)

「だったらおやりなさいよ。別段、今の職業に縛られることもないし。そう、縛られなくてもいいのよ・・。私たちに子供がいるわけでもないし。今さらお金を残したって何の意味もないわ。」(山根の妻)

山根はあっけにとられて、

「お前はどうする・・。」(山根)

「私は、今の仕事を続けるわ。別段やめる理由もないし。」

「そうか。」

しばらく沈黙が続き。

「考えてみると、私たち夫婦でいる理由もないわね・・。だって、これだって、理由もなく、自分を自分で縛り付けているようなものよ。」

二人の会話は、そこで途絶えた。


私は、山根にこれ以上、彼らのことを聞くのが怖くなってきた。しかし、半面、こういうたぐいの話は、聞かずには我慢ができないのである。所謂、「怖いもの見たさ」というものかもしれない。

「それでどうなった。」

いつの間にか、私は、小さな声でそう聞いていたのである。

「その通りになったまでさ。我々は、離婚することにしたんだ。」

山根がきっぱりそう言った。

「そうか、それもありかもしれんな・・。ところで、それから、彼女はどうしてるんだ。」

私は、無神経にもそう聞いたのである。

「俺と別れた後、すぐに再婚したらしい。」

山根が、無表情にそう言ったとき、私は、何故か笑いを必死でこらえながら、しかめっ面をしていた。

「これは、悲劇なのだろうか。それとも、喜劇なんだろうか・・。」

私は、心の中で何度も自分に自問していた。

とあるフランスレストランでの熟年男の会話は、妙な方向へ向かったまま、何の魂胆もなく続いていった。ちなみに、フランス料理も月並みの味で、特にコメントしなくてもよかろう・・と、私は思った。



(山根が私とアリーを訪ねてきた)

山根は、ナナの在留資格取得のための申請書を作成するために、アリーの店で私たちと待ち合わせることになったのである。

ちょうどその日は、日曜だったので、私は孫を連れてアリーの店に朝からやってきていた。

山根が現れたのは、十時過ぎだった。

彼がアリーの食堂に現れた時、孫たちは、私と親しく話す山根を見て、じっと不審そうな顔をして彼を見ていた。

「じいちゃん。この人誰なの・・。」

ジョッショが、私の方に来て、そう尋ねた。

すると、山根は、にこにこしながらジョッショを見て、

「この子が、お前の孫か。」

そう言った。

「義治って言うんだ。後ろにいるのが、兄の正治・・。マー君、こっちへ来ておじさんに挨拶しなさい。」

何となく、ありきたりの引き合わせが続いた後、ジョッショも兄ちゃんも素直に挨拶に応じた。ナナは、何故か緊張気味に、山根の方を見て表情をうかがっていた。そして、

「ナナちゃんは、間違いなく、アリーさんの娘なんだね・・。」

山根がそう聞くと、ナナは頭を縦に振った。

「昔、私の父が知り合いだった日本人を頼って日本に来たのだけど、結局、探し出すことができなかったの・・。それで、東京へ来て、支援してくれる人たちに頼って、日本で在留資格を受けられたの・・。みんな、支援者のおかげ・・。」

アリーが、自分の事情を一生懸命語り始めた。

「それで、ナナちゃんの在留資格は、同時に取らなかったの。」

山根が、アリーにそう聞いた。

「ナナは、私が東京で働けるようになっので、シリアから呼び寄せたの・・。」

私には、そう話すアリーの表情が、何故かおどおどしているように見えた。

その気配を察知したのか、山根は、それ以上、ナナもアリーにも質問をするのを止めて、

「とりあえず、在留資格取得の申請書を、明日にでも入国管理局に出してみます。」

山根はそう言うと、コーヒーを注文して、孫とナナちゃんと私が座っているテーブルに椅子を持ってきて座り、三人の子供たちの方を向いて笑顔を見せた。

「義治君は、ジョッショって呼ばれてるんだね。」

山根は、にこにこしながらジョッショの顔を見た。

「なんで知ってんの・・。」

兄ちゃんが、すかさず、山根に聞いた。

「マー君のじいちゃんからね・・。」

山根は、そう言うと、今度は兄ちゃんの方を向いて微笑んだ。

彼は子供の扱いに慣れているのか、それからも私から仕入れた孫とナナの情報を使って、話題を持ち掛けては三人の子供たちと親しくなっていった。

「おじちゃんは、どうしてじいちゃんを知ってるの・・。」

ジョッショが、興味ありげにそう聞いた。

「じいちゃんが通っていた大学で同じ生徒だったんだよ。じいちゃんとは、よく一緒に遊んだ友達だったんだぞ。」

山根の言葉に、「ふうーん。」と兄ちゃんが彼に反応すると、私の方を見た。

「じいちゃんにも大学生の時があったんだ・・。」

兄ちゃんは、何だか不思議な気持ちになって、ぽつりとそう言った。

「そりゃそうさ。じいちゃんにだって、ナナちゃんや兄ちゃんやジョッショと同じように元気な子供だった時があったんだぞ。」

当たり前ではあるが、私は、子供たちにそう言って時間の経過が、人を変化させているという事実を教えようとした。

「そんなものか・・。」

ジョッショが、腕を組んだまま、感心したように私の言葉を噛みしめていた。

ただ、ナナちゃんだけは、私の時間の変遷の話には関心なさそうで、我々の会話には入ってこなかった。私が、ふとナナの顔を見ると、何とも言えない寂しそうな表情を浮かべていたのが印象的だった。

「ちなみに、叔父さんもじいちゃんと同じころに、同じように子供だったんだぞ・・。」

山根が、自慢げに大きな声でそう言った。

「そんなもんか・・。」

兄ちゃんが、考え深げにそう言ったとき、山根と私の目が偶然あって、何とも言えない苦笑が漏れた。生きる時間が残り少ない二人の男の悲哀のこもった感慨が、同時に、お互いの心にシンクロナイズしたのかもしれない。


(私と山根と孫たちとナナが公園に)

山根と私は、孫とナナちゃんを連れて、吉祥寺の公園に行くことにした。

「子供は、何もなくても、ああやって楽しそうに遊べるのだな。」

公園のベンチに座り、芝生の空き地でボールを追っかけている三人の遊びを遠目から見ながら、山根がぽつんとそう言った。不思議なもので、一人で座るベンチと、こうやって子供達を見守って座るベンチでは、まるで自分の置かれている環境が違うのである。

山根の顔には、穏やかなゆっくり流れる心地のいい時間が流れていたのかもしれない。

もちろん、私も、子供たちのおかげで何度も味わった穏やかな時間であった。

「お前、アリーさんの言葉やしぐさに、何かひっかる物がなかったか。」

突然、山根が、今までの穏やかな表情から真剣な顔に変わって、私の方を見た。

「うん。」

私も山根と同じような違和感を感じていたのである。

二人の間で会話が途絶えた。山根は、それ以上その話題には触れなかったのである。

「まあ、明日調べてくれよ。何か問題があるかもしれんが、よろしく頼む。」

私は、そう言って、山根に目を合わせることなく、軽く頭を下げた。

「話は変わるが、あの子らは、自分がいずれは死ぬなんて考えもしないのだろうな。」

山根は、ジョッショや兄ちゃんの楽しそうに遊ぶ方を見ながら、微笑みながらそう言った。

「そりゃそうだろう。子供が自分の死を見つめたら、子供でなくなる・・。」

私の言葉が面白かったのか、山根は、私にかまうことなく大きな声で笑い始めた。

「うまいこと言うな。(間をおいて)俺は、この頃、自分が死ぬことを何度も考える・・。お前はどうだ。」

「この男、どれだけ真剣に言ってるんだろう。」私はそう思い、彼の質問に答えるのに躊躇した。そして、

「この年になったら、やっぱり死ぬことを考えないやつはいないだろう。」

そう言って、とりあえず普通の返答で山根の質問をはぐらかすことにした。

「不思議だな。死ぬってことは・・。今の時間の延長で、必ずやってくるんだもんな。死ってやつは・・。人生最大のイベントが、音もたてずに静かに忍び寄っているんだもんな。」

言葉のわりには、山根は、自分の言った言葉を楽しんでいるようだった。

「最大のイベントか・・。しかし、そのイベントが、ある日、予期しない時に、突然やってきて、死ぬってことを考える余裕もなく自分の時間が途絶える人もたくさんいるんだからな・・。それって、どっちがいいんだろうな。自分が生きていることが、単なる現象でしかない。その事実を素直に受け止めるのも、悪くないかもな・・。」

山根は、私の言葉に驚いたように、じっと私の顔を見た。

「面白いこと言うな。お前は、昔から哲学の本が好きだったからな・・。今でも読んでるのか、サルトル・・。」

山根は、私の過去を思い出したかのようにそう言った。

「哲学は、とっくに興味がなくなった。哲学書なんか読まなくたって、生きる事実が真実を教えてくれるような気がしてな。俺もお前も、死を迎える年が近づけば、自然と哲学者になれるもんだ。」

私は、最後に山根の話題を煙に巻いてやったと思った。

「東京にいる間は、俺に付き合えよ・・。相変わらず、面白い男だ。」

何が気に入ったのか、山根は上機嫌でそう言った。


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