今日のホームラン(コラソン 22号)
一
二つのサムソンズを相手にするという丸池の目標は叶わなかった。男は呟いてくれた途端、再び野球中継に見入ってしまってなかなか話を続けてくれないのだ。それに、だ。
「場所を変えるべきだったかねえ」
丸池は今更ながらに後悔した。
「テープ・レコーダーもこのままだと使えやしねえしなあ」
彼は脇に置いた機材に視線を落とす。静かなバーをインタビューにセッティングしたのはともかく、ナイター中継の中それを敢行しようとした記者は、今更ながらバカとしか言いようがない。甲子園の記者席への未練と、相手が元・野球選手ということがそうさせたのか。
「これじゃ中継が終わる9時までは何も出来やしねえ」
そう思った丸池は、目の前のハイボールを一息に空けた。ドジをしているくせに、なんだかんだいってここの勘定くらいは経費で落ちるはずなのだと信じているのだ。ほろ酔いの男はやけのを起こしているのか、酔った頭でインタビューを聞き、書き洩らすリスクなどとんとおかまいなしである。
間抜けな記者がハイボールの次にマティーニをバーテンに注文した頃、加原が0―2からセンター前にヒットを打ち、開幕からの打率を.361という高いものにした。ルーキー時代から3年連続で25本以上のホームランを打った男は、今年は率も残すことも目指しているらしい。
そして、バッターボックスにはヘルメットからはみ出た長いブロンドの髪を持つ32歳のゲーリー・コラソンが立つ。
「うへぇ」
マティーニを待ちながら丸池は頭を抱えた。四番バッターの次は五番打者が出てくる。そんな当たり前のことをわきまえてなお、彼はあてたばかりのパーマ・ヘアを搔きむしった。
何せこのコラソンこそ、彼をサムソンズ番から追いやった張本人なのだから。実は、丸池には理由はともかくにせよ偉大なるサムソンズに「鈴」をつけようとし、しかもそれに失敗した前科があった。
二
ゲーリー・コラソンがノース・ウエスト機で成田からカリフォルニアへ向けて飛び立ったのは去年の晩秋、要は1983年の日本シリーズが終わってから僅か2日後の11月10日のことだった。見送る報道陣は少なかった。前年のリーグ優勝を中京モーターズにさらわれたサムソンズが、ペナント奪回の切り札としてサンディエゴ・パトリオッツから破格の年俸である40万ドルと、帝国ホテルのスイート・ルームで招聘した強打のレフト。それが、コラソンの前評判だったというのに、日本シリーズでサムソンズがパ・リーグの武蔵チーターズを最終戦で制して久しぶりに栄冠にたどりついたというのに、その数は少なかった。
シーズン打率.223 ホームラン21本 打点45という1983年シーズンのコラソンの打撃成績を振り返ればそれも当然だろう。彼が残した数値として目覚ましいのは三振の数だけであり、それは114を数えていた。規定打席にも達していない打者の数字としては驚異の数である。親の仇のように外角のスライダーにバットを振り回し、ドジョウ掬いのようにフォークボールを捕えようとした彼が、親の仇もドジョウにもモノにも巡り合えなかったらそういうことになる。
大リーグとは違う変化球ばかりの日本野球にヒステリーを起こしていたコラソンは、梅雨明けからしばしばゲームを欠場しだした。左膝の古傷が痛むというのだ。サムソンズの優しい監督はその言葉を簡単に信じた。いや、優しさだけではなかったかもしれない。コラソンがスライダーを三球続けて空振りするたびに後楽園球場のサムソンズのベンチに据え置かれた冷蔵庫と扇風機を破壊するのであれば、彼をベンチで温めておく方がナンボかマシだった。それに、この外人選手がいなくともサムソンズは首位をひた走っていた。完投できる先発陣が、味方が犠牲フライとスクイズでせこく稼いだ点を最後まで守り切っては3対1とか4-3なんてしょっぱいスコアで勝ちつづけていたのだ。
「そうですねえ……」
コラソンが叩き割った瓶から飛び出たコーラの飛沫でユニフォームを茶色くした監督は試合後のインタビューで銀縁のメガネを光らせると丸池に苦笑した。7月の晩、広島オイスターズとの試合でコラソンが4回続けて三球三振に倒れた晩のことであった。
「コラソンが復調するまでレフトには若手の駒井を併用します」
奈良の高校を出て三年目の長距離砲候補”ロング・トール・ノリー”こと駒井もまた、三振が多かった。だが、彼は三振するたびにベンチの備品を破壊するなどという芸当を身につけていないだけ善良な存在だった。それに彼は、スライダーやフォークはともかくカーブ・ボールが打てた。コラソンはカーブも打てなかったのだ。
20歳の駒井が2か月で12本のホームランをかっ飛ばし、サムソンズの優勝マジックが一桁になってもコラソンの打棒は復活しなかった。まれに奇跡的にバットがボールに当たればホームランを打つが、それ以上に破竹の勢いで三振を喫していた。丸池の下に、「コラソンが夜な夜な赤坂のディスコで踊っている」という情報が遊び仲間からもたらされたのはその頃だった。
ネタを頼りに老舗のディスコに彼が足を運ぶと、果たしてそこには痛めたはずの左膝を駆使してドナ・サマーの『ホット・スタッフ』でステップを刻むブロンド野郎の姿があった。ドナ・サマーだけならまあいいだろう、と記者は思った。「ありゃ、いい女だしな」。
……問題はコラソンが次に控えるチークタイムを女子大生と過ごそうとしたことである。そして、その女子大生があろうことに丸池が目下、青山界隈で貢ぐだけ貢いでモノにしようとしていた女だったときた日には猶更だった。
変装用のサングラスの下で丸池の瞳は燃えあがった。お、俺の……み、みゆきちゃんとチークダンスを……。すると、こ、こ、このあとはベッドの上でクロスプレーの練習かい! 球場ではババアのようなベースランニングを披露しているくせに! 彼の妄想と劣情は飛躍していく。
「やあねえゲール」、とみゆきちゃんが誰ぞをたしなめる声が聞こえる。「そういうのはまた、後でタップリとしてあげるわ」。
「コラソンめ、許さねえ」と丸池は呟き、同行したカメラマンに踊る二人の写真を撮らせた。そして深夜に帰社するや否や、私怨多めの正義のペンを奮い始めた。嫉妬に狂った記事が世に出た次の日、コラソンの三振数は114でようやく打ち止めになった。
残りのシーズンを謹慎していた男の寂しい帰国風景を取材しようとした酔狂な記者が丸池以外にはいなかった理由はシーズン成績だけでなくそのあたりにもある。それに、コラソンは日本シリーズにも起用されなかった。代役の駒井が打ちまくったのだ。
「へいへい、こらそんさんの、おひとよ」
ロサンゼルスへの搭乗案内をボンヤリと聴いていたコラソンに彼は下手な英語で話しかけた。
「なんや」
「けびょうをつかっても40まんどるはもらえたしで、あんた、いいしーずんじゃあないの。え?」
「おどれ!」
コラソンの白い肌がみるみる赤くなっていくのを丸池はニコニコしながら堪能した。みゆきちゃんを盗られた恨みは相当、深い。
「おれのみゆきちゃんをかっさらって……おもいしるのことなのだ」
丸池が馬鹿だったのは、コラソンを罵倒することに夢中になり、少なくとも女に関してはサンディエゴの男に完敗したということを忘れてしまったことだろう。
「ああ、そうか。お前か……」
賢明なるコラソンは、すぐにその事実に気づいた。顔の赤みはさっと引き、代わって白い歯と笑みが浮かび始める。
「彼女、美味しかったぜ」
「このやろう!」
その言葉に彼我の肉体の差も忘れて丸池は相手につかみかかった。
「やかましい、阿呆」
次の瞬間、スタジアムでは放たれることがなかったゲーリー・コラソンの22号ホームランが丸池の顔面へと叩き込まれた。そして翌週、右目にパンダのようなアザをこさえた男はサムソンズ番の任を解かれた。選手を挑発して暴力をふるわせたことで、記事の一件で丸池を嫌っていた球団から社に抗議があったことと、そもそも件の記事に私情が入り乱れていたことが社内で問題視されたのだ。
三
「いい女は男を狂わせるのだ……」
運ばれてきたマティーニをすすりながら、大した反省もない丸池は物思いにふける。性格がどこかポジティブなのだ。だから彼は二軍戦の取材と、企画記事ばかりの遊軍記者にならなきゃ夜の9時前に酒を飲むこともできなかっただろうな、などといいことを考える。
「打て―、コラソン」
傍らの男が機嫌よく叫んだ。この人、サムソンズ贔屓だったのかなあと思いながら「打つな、アホンダラ」と心の中で丸池は応じる。
みゆきちゃんがどこかにいなくなってもコラソンはまだ、日本にいた。二年契約だったのだ。おまけに駒井がオープン戦でフライを追ってフェンスに激突したせいで再びスタメンに舞い戻ってやがる。
「三振しちまえ」
彼は気づかれないように呪詛の言葉を吐いた。なのに画面の向こうではコラソンがバットを振りぬき、あろうことにか打球はライトスタンドの中段へと突き刺さっている。池ノ内のスライダーをものの見事に打ち返したのだ。俺の敵意をテレパシーで感じて奮起したんじゃなかろうか。
「本当に、もう」
カクテルグラスに添えられたオリーヴを齧りながら丸池がいじけた頃、喜色満面のコラソンがベースを一周してサムソンズは逆転した。プロ野球が誕生して50年の今年も、「球界の帝王」東京サムソンズの強さに変わりはなさそうだった。
「しかし、だねえ」
プロ野球50年という単語が頭をよぎることで、丸池はようやくコラソンへの怨念から立ち戻った。野球中継が終わるまであと5分。そしたら、彼はインタビューを再開しなければならない。
「本当にこのお方、38年前にサムソンズ相手に投げたのかねえ」
丸池の横で小躍りしながら拍手をしている紳士の名前は住江義弘という。55歳のガス会社営業部長代理、一見、何の変哲もない野球ファンのサラリーマンだ。
だが、プロ野球の公式記録によれば同姓同名の右腕投手が昭和21年の1シーズンのみ京浜プレイボーイに所属していた。サムソンズ相手に1試合投げたのがプロ野球での全てのキャリアである彼こそが、文豪春秋で始まろうとしている『悠球のダグアウト』と題された50年間の間に野球界がため込んだこぼれ話の特集記事、その第1回の取材対象なのだ。
「君も番記者時代は結構、コラソンとは親しく語ったんじゃないの?」
「ええ、まあ……」
上機嫌な住江に対して丸池は言い淀む。あのアホと語ったのが口でなく、拳であったなど、信じてはくれないだろう。
「僕が投げた日も、アメリカ人は球場にいたよ……スタンドにね。でも、親しく口がきける存在ではなかった。畏敬の存在だった」
住江の口がまた、ゆっくりと開き始めた。中継が終わったのだ。マティーニで重くなった頭を必死に鼓舞しながら、丸池は再び仕事に取り掛かり始める。でも、ペンを持つのは面倒くさかった。そうだ、テープ・レコーダーが使えるようマスターに頼んでテレビを切ってもらうとしようか。記者はそんなことを考えはじめていた。