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プレイボーイ、プレイボール  作者: 桃山城ボブ彦
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プロローグ~『伝統の一戦』の夜~

 照明灯からのカクテル光線で、甲子園球場のダイアモンドの中を五回の表の守備へと散らばってゆくジャガーズナインの姿がまばゆく照らし出されている。1984年のセ・リーグのペナントレース、神急ジャガーズが今シーズン初めて”宿敵”東京サムソンズを本拠地に迎え撃っての第四回戦は五万五千の観客から立ち上る熱気の中、これから中盤戦へと突入していくところだ。

 ホームラン王と打点王を獲った昨シーズンに続き今シーズンも打撃好調の四番を打つ掛川がサードベースのやや後方で軽く土をならし、右手のグラヴを軽く拳で叩いている。その仕草に呼応するようにセカンドの岡村とショートの平木が軽く伸びをしてからキャッチボールを始める。今日の先発を任されている新人投手の池ノ内はそんな光景を眺めつつ、やや強張った表情で次に対戦するサムソンズの『新外人』、1メートル90センチの巨漢の黒人、イーライ・クロセッティをチラリと見やっていた。3対2と、ジャガーズのリードは僅かに1点。その1点をこの回も守るためにルーキー投手は三番を打つクロセッティから加原、そしてゲーリー・コラソンと続くサムソンズの『150万ドル』クリーンアップと対峙しなければならないのだ。


「三周り目のクリーンアップときたもんだ。池ノ内もそろそろ捕まるかも、ですな」

 ブラウン管に映し出されるそんな光景を丸池淳平まるいけじゅんぺいは、清潔だが客のいないバー~客がいないから清潔なのだろうか~でブランデーを両手のひらで温めながら同席の客に呟くように話しかけた。あまり、面白くない光景だった。本来ならば彼はバーではなくそれこそ、甲子園球場のバックネットの記者席に座っていたはずだから当然なのだ。

 だが、隣の止まり木に腰かけている男は、丸池のそんな屈折など知りはしない。

「しかし流石は”伝統の一戦”だ。今夜も、よく入っているねえ」

 感心したような声が丸池の左耳に入る。

「はあ」

 彼は生返事をし、両目をソニーのテレビ画面から隣席へと移した。

「毎夜毎夜これだけの客が……僕の頃なら考えも出来なかったよ」

「あなたの時は?」

「ああ、そうさ」

 男は頷き、スコッチの満ちたグラスを口元へと運んだ。ややシミの多い頬骨がかすかに動き、屈託なくアルコールを喉に流す心地よさを丸池に示す。

 画面ではクロセッティがバッターボックスへと向かっている。

「そうだなあ、ナイターなんて出来る設備はどこの球場にもなかったし、日曜日も平日もデーゲームのみ。……だから日曜はともかく平日に五千人も入ったら大したものだったさ」

「五千人! 今のパ・リーグみたいなもんですなあ」

「そうかね」

 男は少し機嫌を損ねたように短く呟き、グラスの中身を言葉と同じように静かなままに半分まで空けた。悪いことを言った、という感覚が丸池の頭をよぎった。記者として、取材対象から話を引き出す前に機嫌を損ねることほど愚の骨頂もない。甲子園にいない苛立ちがそうさせるのだろうか。

「失礼しました。大した意味はないのです」

「あったら、困ったもんだねえ」

 男が笑いかけた。どうやら杞憂のようだった。

 だが……それにしても……だ。丸池は反省もそこそこに戸惑いを覚えはじめた。本当に、このチェック柄のスーツを着こなす瘦身の紳士は元プロ野球選手なのだろうか? 彼の思考は、相手の感情を害したかもしれないという後悔の比ではない混乱を始める。170センチくらいの身長に黒縁のメガネをかけ、薄くはなり始めているが白いものの少ない頭髪を七・三に分けている男の姿は、要職にいる会社員にこそ思えても元スポーツ選手には見えなかった。

「でも、あの頃は野球チームを持っていた都市、要は東京も大阪も、それから名古屋にも食うものなんてなかった。東京なんて転入制限がかけられていたしな」

 男は遠いところを眺めて頬を緩める。そして、テレビに見入った。

「転入制限、ですか?」

「ああ、都市部には大陸やら南洋からの引揚者、地方への疎開からの帰還者がひしめいていた。でも、ヤミを頼らなきゃまともな食い物なんてなかったからな」

 190センチの上背に88キロの肉を備えたクロセッティがせわしなくバットを振りつつ、池ノ内と対峙している。そんな最中の言葉に、大男には飢えた経験はあったのだろうか、と丸池は思う。ついでに、去年は大リーグのモントリオールで六番を打って.297の打率と67の打点という好成績を残した人間が突如、その地位をかなぐり捨てて日本のプロ野球に入った経緯がどこにあるのかを知る者は少ないだろうな、とも思った。


 好打者の来日経緯についてある新聞は「以前日米野球に出場したから日本びいきなのだろう」と書いた。スポーツ紙は「モントリオールよりも凄い、契約金と年俸あわせて70万ドルというカネに目がくらんだのだ」と断定した。日本で一番売れている経済誌は「前年のコラソンに続き、いつでも欲しい時に大リーグのレギュラーを引き抜けるほど、日本は経済大国になったのだ」と、いささか誇らしげに記事を締めくくった。記事を読んだ世間の野球ファンはそのうち、そう言った推測のどれかに寄り添うのだろう。

 だがクロセッティが日本に来た本当の理由は、マリファナ所持のために大リーグでの契約を見送られたからにすぎない。それは、週刊誌『文豪春秋』のサムソンズ番だった丸池がそうであるように、記事を書いた連中なら皆知っているだろう。

 しかし、誰も真相など書かなかった。いや、書けなかった。「薬物中毒者を偉大なるサムソンズが獲った」などと報道したら最期、そんな記事を発表した新聞社も雑誌社も日本中に五千万人はいるというサムソンズ・ファンからソッポをむかれることになるのだ。『清く、正しく、人の模範たれ』を球団のモットーとするサムソンズの下に集った丸池を初めとする新聞雑誌の番記者たちは、猫の首に鈴をつけることに心血を注ぐほど暇ではなかった。


「でも、食うや食わずの中で野球を観に来るお客さんが五千人もいたんだ君……。何の腹の足しにもならない野球試合に一万の瞳を集めるのがどれだけのことだったか」

 男は残りのスコッチも喉奥に収めながらまた遠くを見つめ、そしてクロセッティと池ノ内の勝負の行く末に視線を移した。

「すみません」

「いや、いいのさ。……あなたはいくつかい?」

「今年三十四になります。昭和の二十五年の六月生まれで」

「藤本さんがパーフェクト・ゲームをやった年か」

 男がかつて200勝を達成したサムソンズのエースの名を口にしたのは、クロセッティがカウント0-3から誰が見ても明らかな外角低めへのボール球を引っかけてセカンドゴロに討ち取られた時だった。

 丸池が、マリファナがなくとも早晩クロセッティは大リーグにいられなかったかもしれないと感じた頃、アルコールで喉をウォーミング・アップした相手の言葉がついに彼の目的の為に開かれ始めた。

「でも僕が今から話す顛末はそれよりも更に前の話だ……」

「今晩はそれを聞きに来たのです」

 丸池は微笑んだ。そして、手帳とボールペンを用意した。

「昭和二十一年の夏……西宮球場……京浜プレイボーイ対帝都サムソンズの第十三回戦……」

 男の口が一つ一つの言葉をいつくしむように開かれていく。今夜は、二つのサムソンズを相手にしなきゃいけないと思いながら、丸池は紙上にペンをはしらせはじめた。



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