毒子回想録
八
「勉強しろ」
「勉強しとるか?」
勉強、勉強、勉強とやたら勉強を強いる父でした。父が学生の時に勉学に熱心だったのか定かではありませんが、母曰く「学内で五本の指に入る」優等生だったようです。ただ、父の家庭は貧しく、父は高校を卒業するとすぐに、建設会社で働き始めました。
父は、私に工業高等専門学校に入学するように強く勧めました。たしか「就職に強いから」という理由で父が私に入学を進めていましたが、今になって思うと、それはただ単に叔母の息子が工業高等専門学校を卒業し、安泰の役所に勤めていたので、私にそれを投影しようとしただけでした。
本来、学ぶという行為について色々な選択肢を考える必要があります。高校を卒業して大学に入学するのか。それとも専門学校に入るのか。はたまた、高校卒業と同時に働き始めるのか、などなど。工業高等専門学校に入学するのも一つの選択肢ではありますが、あくまで一つの選択肢にすぎません。
父は二人の子供、つまり私と弟のために、教育機会についての情報収集を著しく怠りました。私は運よく、父の進める工業高等専門学校の入学試験で不合格になり、県立の普通高校に進学することになりましたが、頭の良い弟は、工業高等専門学校の試験に受かり、入学することになりました。
教育には主に学校教育と家庭教育の二つがあります。毒親というものは、後者の子供に対する家庭教育が苦手なようで、私も親からまともな家庭教育を受けた記憶が一つもありません。毒親が子供に求めるもの。それは学校でよい成績をとることです。
私は暗記科目にめっぽう強く、学校の成績は抜群によかったので、その意味で父から怒られることはありませんでしたが、これは一種の自己防衛というものです。学校の成績さえよければ、父から怒られること、もっと深刻な問題は、幼い時のように暴力を振るわれることがないことを、子供ながらにも理解していたからでしょう。私は本当によく勉強しました。
実家には父の勉強した形跡は一切なく、幼少から今日に至るまで、私は一度たりとも父が本を読んだところも見たことがありません。そして、家庭教育をまともに受けてこなかった私に暗い影がつきまといます。
それは、毒親の遺伝子を受け継いだ私が人の親になって、子供ができても、その子供にまともな教育を施してあげられないのでは、という強い疑念です。
毒親の下で育った毒子でも、教育された一端のまともな大人に育ったならば、毒親から毒子への負の連鎖を断ち切るために、あえて結婚しない、または結婚しても子供を作らないという賢明な選択肢を考えます。私は二十代にして結婚しない、子供を作らない、という選択をした一人です。
ちなみに弟は、工業高等専門学校を卒業して、国立大学に飛び級で入学しました。大学院まで出て、大企業に就職したものの、紆余曲折があり、その会社を辞めてシンガポールに逃走。シンガポールで仕事と伴侶を見つけて、今は北海道で仕事しています。弟の奥さんとは一度も会ったことがないです。というか、興味ないです。