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大切なひと

 拍子抜けするほどにあっさりと、麗沙は見つかった。

 教室を出て廊下を曲がった先、自販機の近くのベンチに、彼女は座っていた。

 俺がまっすぐに彼女の方へ向かうと、彼女は怒りも悲しみも込められていない声で言った。

「笑いにでも来たのか」

 俺は迷わず答える。

「返すものがあってな」

 俺は胸ポケットからクシャクシャになった紙袋を取り出し、手渡す。

 あの日、麗沙に投げ付けられたキーホルダーだ。

 彼女はほんの一瞬、驚いたような顔をしてから、ため息をついた。

「バカな奴だ。まだ捨ててなかったのか」

 その言葉に、刺々しい響きはない。

 俺は少し安心して、麗沙から少しだけ離れた位置に座った。


「それ……渚先輩に渡すものだったんじゃないか?」

 麗沙はしばらく袋の中をぼうっと眺めてから、答えた。

「そうだ。けど、もう必要ない」

「先輩のこと、嫌ってるわけじゃないんだろ?」

「当たり前だ。ただ……あの人に、僕はもう必要ない。それだけだ」

「……どういう意味だ?」

 俺が質問すると、麗沙は自嘲的に笑った。

「僕のことは、どれだけ聞いた?」

「中学の時の後輩で、水泳部やってたって」

「それだけか?」

「あと、自分が贔屓したせいでお前がイジメに遭ったとか」

「……あの人らしいな。悪いことは、全部自分のせいにしようとするんだから」

「違うのか?」

「あの人は贔屓なんかしちゃいない。僕が嫌がらせを受けたのは、全部僕のせいだ」

 そう言うと、麗沙は髪を軽くかき上げてみせた。

 さらさらとした鮮やかな金髪が、ふわりと舞う。


「小学生の頃だ。この髪を、変だと言ってきたやつがいた。僕は、そいつの髪をメチャクチャに切ってやった。そいつが泣いても、お構いなしにさ。そいつはしばらく、学校に来なくなった」

「その髪、染めてるんじゃない……よな」

「地毛だよ。誰に似たのかなんて知らないけど。父親はどう見ても日本人だし、母親なんて見たこともない」

「聞いたことはないのか?」

「アイツは何も答えない」

 彼女が、さっきの試合で様子が変わっていた理由が分かった気がした。

 親に相手にされず、一人で黙って食事をしてばかりの時を過ごしてきた子供。

 それは他でもない、彼女自身のことだったんだろう。

「――僕が水泳部で、調子づいてきた頃さ。中学で同じクラスだったそいつが、同級生に昔のことを吹き込んできた。最初はシザーマンとか羅生門とか呼ぶやつがいたくらいだったけど、水泳部の中では特にエスカレートして、ものを隠すとか、暴力とかになった。後は知っての通りさ。あの人は僕をかばって……結局、部を出ることになった。全部、僕のせいさ」

 実際には、それも少し違うはずなんだが。それは言わないことにした。


「先輩に、独善的だとか偽善者だとか言ったのは、どうしてだ?」

 麗沙は目を伏せ、しばらく考え込んでから、答えた。

「僕はただ、あの人を安心させたかった。だから、あの人のいない所で頑張って、あの人よりも強くなって、こう言いたかった。『もう、あなたに守ってもらわなくても大丈夫だ。二度と迷惑はかけない』って。……けど、本当はそれも違ったんだろう。本当は……僕は、あの人の期待に応えて、あの人に褒めてほしかった。子供が、親の期待に応えようとするみたいにさ」

 一瞬、麗沙が俺と目を合わせる。

 青緑色の、綺麗な瞳をしていた。

「……あの人が楽しそうにオマエの話をしたとき、だ。捨てられた、と思った。僕がずっとあの人に執着していたのと違って、あの人は僕に、大して期待なんかしてなかった。だから僕より、退学になりかけた暴力男と仲良くするほうが大事なんだ。……一度そう思ったら、何もかもが憎く思えた。オマエも、自分自身も……あの人でさえも」

「やっぱり、本心から先輩を偽善者とか……間違ってると思ったわけじゃないってことか」

「当然だ。けど、その時は……口をついてそう出てた。……ただ一言、僕のことも見ていてほしいって、言えればよかっただけなのに」

 麗沙はもう一度、紙袋に視線を移す。

「これは、いい加減ちゃんと謝ろうと思って、あの人に渡そうと思ったものさ。結局、渡せなかったけれど」

「……悪かったな。邪魔して」

「いいんだ。オマエが謝ることじゃない。……それにもう、こんなものは必要ないだろうから」

「必要ないって、どういうことだよ」

 すると麗沙は紙袋を俺に差し出して、まっすぐに俺の目を見た。


「――あの時は、まだ違ったかもしれない。けど、今はもう間違いない。あの人には、僕なんか必要ない。オマエがいればいいんだ。……捨てる気がないなら、オマエからあの人に渡せばいい。その方が、喜ぶはずだ」

 きっと、笑顔を作っていたつもりなのだろう。

 麗沙は少し涙を浮かばせ、強張った顔で、無理矢理に口角を持ち上げていた。

 俺が知る中で、何よりも痛々しくて……不愉快な顔だった。


「……ふざけんなよ。どいつもこいつも、勝手に自己完結しやがって」


 きょとんとした顔をする麗沙の手を掴んで、俺は紙袋を彼女に無理矢理握り込ませる。

「先輩は、ずっとお前のこと待ってるんだよ。お前に本気で嫌われたと思い込んで、自分から仲直りすることもできずに、ずっと待ってる。それが何だ? 必要ない? バカにしてんのか!?」

「っ、けど、オマエがいれば……」

「ここ一年近く連絡も取ってないお前に先輩の何が分かる! 俺が待ってるって言ってんだから待ってんだよ! 違ったら切腹でも首吊りでもしてやる! 分かったらさっさとお前が渡して、全部話してこい!!」

 怒りに任せて、手を強く握りながら、怒鳴りつける。

 泣きそうになった麗沙の顔を見て、少し冷静になった。



「……強く握られると、痛い」

 遠慮するような小声で麗沙が言った。

「あ、ああ、悪い」

 我に返り、慌てて手を離すと、麗沙は苦笑して立ち上がった。

 数歩ほど歩いて、俺に背を向けたまま口を開く。

「猿渡……雄一郎」

「何だよ」

「……今までは、状況でオマエを嫌ってた。オマエがどんな人間かも、何も知らないまま。けど今、オマエがどんな奴なのかよく分かった」

 振り向いて俺に目を合わせる。

「やっぱり私は、オマエが嫌いだ。来年の公式大会でコテンパンにしてやるから、覚悟していろよ」


 その時、初めて。

 麗沙が俺の前で笑った。

 腕白な少年のように溌剌とした、無邪気な笑顔だった。

「ああ、上等だ」

 去ってゆく麗沙の背を見送りながら、俺は独り言のように呟いた。



 その日の夜。

 俺のスマホに二通のメッセージが届いた。

 内容はどちらも「ありがとう」とだけ書かれたものだ。

 一つは渚先輩からで、もう一つは知らないIDからだった。

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