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水族館

 7月に入り、夏が本格的に牙を剥き始める。

 よく晴れた日曜日の、朝の8時過ぎ。俺はベッドに寝転がりスマホを握ったまま、部室に行くかどうか悩んでいた。

 部活はそれなりに楽しんでいるし、部員たちと過ごすのは退屈しない。

 休日でも、部活に出ること自体は嫌ではないのだ。実際、今までの休日も大抵部室で過ごしていた。

 だが、長らく引きこもりがちな生活をしていた俺にとって、この暑さは本当に堪える。

 部室にはエアコンがあるが、学校に行くまでの30分そこそこの道のりすら、この暑さの中では億劫に感じた。


 せめて部活には行かずとも、ディベートの勉強くらいはしておこう。

 俺はそう考えてスマホのチャットアプリを立ち上げると、以前部長から送られてきたURLを押す。

 ディベートの大会を主催している団体のホームページだ。そこには過去の試合の動画が掲載されている。

 とりあえず俺は、去年の決勝戦の動画を開く。肯定側は王麟学院、否定側は知らない高校だ。


 試合に一通り目を通した感想は……正直言って、よく分からなかった。

 話し声がはっきりしているとか、言葉に詰まることが少ないとか、その程度のことは分かる。

 だが、弁論としての完成度が高いかどうかは、判断が付かないのだ。

 俺が思いつかなかった反駁をすることもあるが、逆に俺が思いついたことを言わない場合もある。

 なら、素人の俺が思いついたことより、彼らの選択した反駁の方が有効ということなのだろうか?

 けれど、俺の思い付いた反駁が劣っているとか、間違っているとも思えない。

 結局俺は「実際の試合経験を積まないと分からない」と毒にも薬にもならない結論を出した。


 その時突然、画面にメッセージの通知が表示される。

 [どっか行こう]

 送られてきたメッセージは、それだけだった。

 部のグループチャットではなく、個人チャットで送られてきている。その送信者は……鹿野島先輩だった。

 個人チャットでメッセージを受けるのは初めてだったので、少し驚いた。

 天王寺からは毎週のようにゲーセンに誘われていたが……あいつ、個人チャットで言えばいいのに、わざわざ部のグループチャットで俺一人だけ誘うからな。


 それで、このメッセージだが……これって遊びに誘われてるのか?

 相手が相手だし、メッセージも簡潔すぎて意図がはっきりしない。

 10分近く悩んだ後、俺は返信した。

 [どっかって、どこですか]

 [どこでも]

 やはり、はっきりしない返答だ。このままでは埒が明かないし、何か候補を挙げるしかないんだろう。

 俺は少し考えてから、思いついた候補地を送る。

 [じゃあ、アクアパレスの水族館で]

 [何時?]

 [昼食の後に出るとして、13時くらいでしょうか]

 [もっと早いほうがいい]

 [行ってから昼食にします?]

 [うん]

 [なら10時で]

 [わかった]

 そのまま数分待つ。次のメッセージもスタンプも来ないのを確認して、俺はスマホをポケットに突っ込んだ。


 様々な感情がどっと押し寄せて、エアコンの効いた自室内だというのに、ダラダラと汗が流れ出す。

 一応、部員と二人でどこかへ出かけたことは何度かあるが……こうしてプライベートで待ち合わせをして遊びに行くのは、これが初めてだ。

 デート……のつもりではないと思うが。とにかく、言動には気を遣わなければならないだろう。

 ああだこうだと考えながら少し時間を潰し、9時を少し過ぎた頃、俺は家を出た。


 水族館を選んだことに、特に深い意味はない。

 映画館なら一人で行けばいいし、動物園にはエアコンが無い。そんな消極的な理由だ。

 件の水族館は、学校の最寄り駅から電車で30分ほどの場所にある。比較的新しくオープンした場所だから、先輩もまだ来たことがない……と、いいんだがな。

 炎天下の道を急ぎ足で抜け、電車に揺られ、水族館へと辿り着く。

 大して長い道のりではなかったが、到着した頃には俺の背中は汗でぐっしょりと濡れていた。


 待ち合わせの時間には15分ほど早かったが、日差しから逃げるように、俺は館内へと駆け込む。

 それから、先輩にメッセージを送ろうかとスマホを手にしたところで、細い指に背中を突かれた。

 いきなりの事に、俺は大げさなほどビクリとして飛び上がる。

「あははは、いい反応だねー」

「いきなり不意打ちすんの、やめてくださいよ」

 背中を突いた犯人は、他でもない鹿野島先輩だった。部活の時と同じように、ケラケラと笑う。

 一つ普段と違ったのは、その服装だ。今日は制服ではなく、ゆったりとしたトップスと……。

「それ、何て言うんでしたっけ?オーバーオールみたいな……」

「んー、サロペット?」

「ああ、それだ」

 ……そんな服装だった。

 あまり派手でおしゃれという風ではないが、彼女らしい服装と言えば、そんな気がする。

「ゆー君、いつも制服?」

「……他に着るもん無いんで」

「あはは、潔いねー」

 どうでもいい話をしながら入館料を支払い、奥へと進む。

「それで、どこから見ます?」

「んーと、シーモンキー?」

「……何でしたっけ、それ」

「エビみたいなやつ?」

「居るんですかね、水族館に」

「いないんじゃない?」

 俺はズッコケる。デタラメに言ってみただけかよ。

「じゃあねー、マグロ」

「微妙なチョイスっすね」

「あとねー、エビ、タコ、アナゴに玉子……」

「寿司屋に来てんじゃないっすよ」

 俺のツッコミに、また彼女は「あははははー」と気が抜けるような笑い声を出す。

 この人のノリは、相変わらずだ。まあ、面白いと言えば面白いんだが。

「ゆー君、律儀に突っ込んでくれるから楽しいんだよねー」

「見逃すと『遅すぎた反駁』になりますからね」

「おー、立派立派」

 上手いことを言った気になって、俺は胸を張る。


 ……ともかく、特に優先して見に行くものもないので、俺たちは入り口から順番に見て回ることにした。

 色とりどりのサンゴや熱帯魚に彩られた水槽を眺め、マンタやサメの泳ぐ大型水槽に感嘆の声をあげる。それから……。

「あ、ほら、アザラシ」

 でっぷりと太ったアザラシの水槽を指差し、先輩が足を止める。

 アザラシは気の抜けるような顔をしたままゆっくりと泳ぎ、水槽のガラスにぶつかってグニャリと潰れる。

 そして反動で跳ね返り、ガラスから離れると、また思い出したように泳いでは水槽にぶつかる。そんな動きを繰り返していた。

「……何がしたいんすかね、こいつ」

「あはは、わかんない」

 何だかよく分からないが、ユーモラスな光景だ。

「そういえばさ、アザラシとかアシカとか、色々いるでしょ? あれってさ、何が違うのか分かんなくならない?」

「アシカとオットセイの違いは今でも全然分からないっすね。アザラシは何となく違うの、分かる気がするんですが」

 気になって、俺はスマホで「アシカ オットセイ 違い」と入れて検索する。

「えーと……セイウチは牙があるから、すぐ分かりますね。アザラシはアシカとかと違って起き上がれないみたいです」

「ふーん?」

 先輩は俺に身を寄せて、俺のスマホの画面を覗き込む。

 スマホを持つ俺の肘に、先輩の腕が当たった。暖かく柔らかな感触。かすかに、甘い香りがした。

「あ、アシカとオットセイはよく分かんないっすね、オットセイの方が毛深くて耳が大きいみたいですが」

 急に恥ずかしさを感じた俺は急ぎ足で解説して、先輩から一歩離れる。

 だが、俺の不自然な様子に気付いたか、先輩がニヤニヤと笑いながら再び身を寄せてくる。俺はそれを素早く躱す。

「そういや昔、アザラシのカレー食ったことありますよ」

「え、ほんと? おいしかった?」

 流れを変えるべく、俺はとっておきの話を振る。先輩は、しっかり食いついてきた。

「あんまり旨くはないっすね。食感は肉だけど生臭くて、魚食ってるみたいな……変な味でした」

「へぇー」

 先輩は動き止め、俺の話に頷いた。その時、彼女のお腹が、ぐぅと音を立てる。

「……あ」

「そういや、昼メシ食わずに来てたんですよね。なんか食いましょうか」

「そーだねー」

 時刻は、そろそろ12時を回りそうになっている。

 俺たちは、館内のレストランへと向かった。

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