意馬心猿
次の日、俺は部長に渡されたディベートの教則本を読みながら、頭を抱えていた。
たかが討論、要するに相手に言い勝てばいいだけだろうと考えていたんだが、実際のディベートはかなり細かく、ルールが決まっていたのだ。
「――つまるところ、"裁判"のようなものだと考えるのが分かりやすいだろうな」
部長は昨日、そう言っていた。その例えは、確かに分かりやすい。
たとえば自分が弁護士だとすれば、当たり前だが自分は必ず弁護側になる。「こいつは弁護したくないから、今日だけ検察側になろう」なんて事は不可能だ。
それから、証拠の無い憶測や主観の発言は信用度が大きく落ちるし、もし口論で検事を言い負かしたところで、裁判官が納得しなければ勝つことはできない。
これと同じことが、ディベートにも言えるのである。
ディベートは参加者が自分の主張を話すものではなく、主催者に定められたテーマと立場で行う。
時には自分が絶対に否定したいことについて、肯定する弁論を行わなければならない場合もあるのだ。
そして勝敗を判断するのは肯定側でも否定側でもない『ジャッジ』であり、弁論は相手を言い負かすためではなく、ジャッジを納得させるために行う。
こうして見ると、本当に裁判とそっくりだ。そもそも、裁判も一つのディベートだと扱うような分類も実際にあるらしい。
ただ、裁判と違う点として、相手の発言中に「意義あり」と口を挟むことはできない。
互いの発言のタイミングはそれぞれ決まっており、「立論」「質疑」「第一反駁」「第二反駁」を、おおむね交互に行う。
相手の発言中に何か反論したいことが出た場合は、次の自分の発言機会に行う。勝手に口を挟むと減点の対象となる。
それから、ディベートには重要なルールがある。「新しい議論」「遅すぎた反駁」の2つだ。
有り体に言うと、新しい議論とは「立論で言わなかったことを反駁の際になって付け足すのはダメ」というルールで、遅すぎた反駁は「第一反駁で反論しなかったことに、第二反駁で反論してはダメ」というルールになっている。
なぜこんなルールがあるのかと言うと、後出しジャンケン的な議論を防ぐためだ。
最後の反駁になって、いきなり「今まで言ってなかったけど、俺たちはこう主張する」なんて言われたら、相手は反論の機会を得られなくなってしまう。
こうした点を見ても、とにかく言い負けないようにと騒ぎ立てる口喧嘩とは全く似ても似つかない、競技としてしっかりと整備された議論であることが分かる。
……まあ、だから全てのルールを覚えるのには苦労するわけだが。
ただ一つ救いだったのは、俺に時間はたっぷりあった事だ。
どうせ授業は聞いても分からないし、ほとんどの教師が俺を『いないもの』として扱っていたおかげで、授業中にも堂々とディベートの研究ができた。
このペースで勉強できれば、来週の勝負までにはバッチリ――
「こら、授業中に本読まないの」
そう思っていた矢先、読んでいた本を取り上げられた。取り上げたのは現代社会の教師の……ボンドだ。
さすがに担任の彼女は俺の存在を無視しないかもしれないと、俺も少しは警戒していた。
だから、できるだけ本を隠すようにしていたのだが、ボンドは俺の挙動を見逃さなかったらしい。
「どうして駄目なのか、分かる?」
「授業が分からなくなるって言うなら、一緒ですよ。聞いてても分かんないし」
いつものように質問するボンドに、俺は口をとがらせる。
「他の人の気が散るからよ」
「誰も俺のことなんか見てないでしょう」
「私は見ています」
言い返そうと思えば、まだ言い返せる気がしたが、俺は口をつぐんだ。
これ以上言い争っても仕方ないし、実際、授業を聞いていなかった俺の方が悪いことは分かっている。
俺が観念したのを察してか、ボンドは柔らかな口調で「後で頑張りなさい」とだけ言って、授業を再開した。
やはり他の教師たちと違って、ボンドは妙に俺に友好的だ。
この様子を見ていると、俺を庇ったという話も信憑性を増してくる。理由は相変わらず分からないが。
ただ単に、問題児だからこそ優しく面倒を見てやるべきと考えているだけだろうか。
それとも、他に何か理由が?
疑問を抱えながら、俺は授業が終わるのをボーっと待っていた。
「お疲れさま。よく来てくれたな」
授業を終え、部室へ向かった俺を、部長は優しい声で迎えた。
それから、鹿野島先輩も「やー」と気の抜けた挨拶をする。俺は軽く頭を下げて、挨拶を返した。
今日、部室にいるのはその二人だけだ。
「あの二人は? 二年と一年の」
「天王寺と三上なら、二年の教室だ」
部長が答える。天王寺はスケバン……二年生の方だから、『三上』は真勇と呼ばれていた一年の方か。
「敵の前で作戦会議はできないんだってさー」
鹿野島先輩が楽しそうに言う。そういう事か。
しかし、天王寺はともかく、巻き込まれただけの三上が部室を締め出されているのは可哀想だな。
一応、責任の一端が俺にあるだけに、ちょっと心が痛む。
「それで、猿渡君。渡した本は、どこまで読んできた?」
「これなら、二冊とも読み終わりましたけど」
「おお、素晴らしいな!」
部長が手を叩き、感激したような声を上げる。
授業をサボって読んでいただけに、素直に感心されるのは何だか複雑な心境だ。
「よし。それなら、そんな猿渡君にご褒美をあげよう」
そう言うと、部長は隣の席に置いていたコンビニの袋を手に取った。
取り出したのは……カップ麺だ。
「待ち時間4分のノンフライ麺だよー」
鹿野島先輩がそう言いながら、部屋の隅の電気ケトルにスイッチを入れた。
「あの……これは?」
「見ての通り、カップ麺だ。君は、お腹が空いていないか?」
「いや、まあ……減ってますけど。なんで急にカップ麺を」
「ふふふ、なぜだと思うかな?」
含みのある言い方で、部長が問う。しかし、何の意図があるのか分からない。
まあ、ちょうど腹は減っていたし、貰えて困るものじゃない。考えるのは後でいいだろう。
電気ケトルが音を鳴らし、お湯が沸いたことを告げる。
自分でお湯を注ぎに行こうかと思ったが、それより前に鹿野島先輩がカップ麺を手に取り、お湯を注いだ。
そして、俺の席にカップ麺を置きながら、イタズラっぽく言った。
「はい。おいしく食べられるかどうかは、ゆー君次第ー」
「は?」
疑問符を浮かべる俺の前で、部長がストップウォッチのスイッチを入れた。
「君には今から、タイマー無しで4分間を計測してもらう」
「……なんで?」
「ディベートでは、発言の時間が定められている。タイマーの使用は許可されているが、あまり頻繁にタイマーに目を移すのは弁論に差し障る。ある程度は体で計測できるようになっておくことが望ましいだろう。つまり、そういう訓練だ」
解説する部長の声は、少し楽しそうだ。なるほど、これはそういうゲームか。
「上等ッスね。完璧に当ててやりますよ」
そのために、わざわざカップ麺を用意したなんてバカバカしいと思いつつも、俺は気合を入れた。
こんな小さな勝負でも、やるからには全力で勝ちに行ってやる。
「おー、大きく出たねー」
期待を向ける鹿野島先輩の声。部長も似たような視線を俺に向ける。
たかが4分を測るだけだ。黙って時間を数えることに集中しようとする。
部長がスイッチを入れてから、勝負の説明をして……今までに経過したのは30秒くらいだろう。
残り3分30秒、誤差なく計測してやる。
「ねえねえゆー君。渚ちゃんのことさー、どう思うー?」
突然、脈絡のない質問を投げかける鹿野島先輩。
喋ると時間が分からなくなりそうだったので困ったが、無視するわけにもいかない。
「どうって、何ですか」
「だからさー、かわいいとかー、カッコいいとかー?」
「はあ……」
妙な質問に疑問を抱きながらも、一応、部長へと目を向ける。
きりりとした目つきながらも、ぱっちりと開かれた目と、まっすぐな眉。
ぴんと伸びた鼻筋と、艶やかでしっとりとした唇。鋭くも、女性らしい柔らかさを残す顎のライン。乱れのない、さらりと長い黒髪。
じっくりと見る機会が無かったので気にしていなかったが、改めて見ると、かなりの美人だ。
それから……ただでさえ大きな胸が、いつも腕組みをしているせいで余計に強調されているのが、嫌でも目を引いた。
「まあ、その……美人だとは、思いますけど……」
胸から目を逸らしながら、なんとか当たり障りのないことを言った。思わず顔が赤くなり、部長の顔を見ることができなくなる。
思えば、女子の顔をまじまじと見つめたことなんて、何年ぶりだろうか。
もう長いこと、男子ともあまり話していなかったが、女子と話すことは、もっと少なかった。ましてや、こんな……恥ずかしい話は。
「へぇー……?」
そんな俺の様子に気付いてか、鹿野島先輩は挑発的な声を出しながら立ち上がり、俺へと近付いてくる。
そして俺の背後へ立つと、俺の肩に手を回し、体を密着させてきた。その行動に、俺は思わずビクリと体を震わせ、身体を固くする。
先輩の体温が俺の背に伝わり、少し甘い香りが俺の鼻孔をくすぐる。
束ねられた先輩の髪が首筋を撫でるムズムズとした感覚すらも心地良く、心臓の鼓動がどんどん早まる。
「じゃあさー、あたしはー……?」
俺の耳元で、先輩が囁く。蠱惑的な響きを持った声に、頭がぼうっとする。
顔が熱く、きっと耳まで真っ赤になっているだろうと思いながらも、それを恥ずかしく感じることもない。
「先輩、は……」
柔らかで、華奢な体の重みが、俺の背に預けられている。
凛として力強い部長とは違う、軽く柔らかな体。
彼女の顔を、思い浮かべる。いつも眠そうで、やる気のない表情。
けれど、その目は大きく、彩る睫毛はしなやかで長い。少し丸みを帯びた鼻が柔らかな雰囲気を形作り、ぷくりとした唇は扇情的。
今、覗き込むことができないのが惜しくて仕方ないほどに、彼女もまた、相当な美少女だった。
そんな彼女が、俺の背に体を預けている。俺の顔はもう、湯気が出そうなほどに熱を持っていた。
湯気……?
「ストーップ!!」
俺は誘惑を振り切るように、部長に向けて叫ぶ。
部長が、ストップウォッチを止めた。そして、俺に割り箸を差し出す。
俺はカップ麺の蓋を乱暴に剥がし、その中身をかき混ぜて、すすり込んだ。
「さて、猿渡君。味の感想はどうかな?」
「……伸びてるッス」
「5分38秒だ。まだまだだな」
部長は呆れたように告げながらも、その顔は少しニヤついていた。
ふやけた麺をすすりながら、俺は悔しさを噛み締める。
「あはははー、ゆー君ってわかりやすいねー」
いつの間にか席に戻り、ケラケラと笑いながら俺を眺める鹿野島先輩。
俺はすっかり、彼女の罠にはめられていた。
「ズルいっすよ。妨害してくるなんて」
「だってさー、ディベートの試合だって、黙って4分測るわけじゃないしー。集中力は切らさないようにしなきゃー」
「むぅ……」
今回は俺の、完敗だった。だらしなく伸びたカップ麺が、締まらない俺の心を代弁しているようだ。
……いつか絶対、見返してやる。俺はそう誓いながら、カップ麺のスープを飲み干した。




