木から落ちた猿
2-Aの教室から、生徒の騒ぐ声が聞こえる。
二週間の停学なんて大した期間じゃないと思いつつも、その喧騒が随分と懐かしく聞こえた。
俺は、その教室に踏み入る。すると教室の中が一瞬、水を打ったように静まり返る。
それから好奇の目。侮蔑や、恐怖を含んだ視線もあった。
共通しているのは、俺に対して良くない感情を持っていること。
程なくして生徒たちは再び談笑に戻る。俺の姿なんて、見なかったような顔をして。
そんな生徒たちを俺も同じように無視して、自分の席へと向かう。窓際の、前から二番目の席だ。
あんな事件を起こした後だ。机の上に花瓶が置かれているとか、もしくは「死ね!」などとラクガキがされていることを少し不安に思いつつも期待していたんだが、机の様子に変化はない。
ただ、欠席中に配られたプリントが無造作に机の中に突っ込まれていたのは厄介だった。
古いプリントはクシャクシャになって潰れ、机の奥に張り付いている。
どうせ話す相手もいないので、俺はそのプリントを一枚一枚、丁寧に伸ばしてからクリアファイルに収めてゆく。いくら暇とは言え、とても全てに目を通す気にはならない量だった。
そんな最中、生徒たちの声の中から「暴れ猿」という呼び名が聞こえた。
まず間違いなく、俺のことだろう。だが、あまり気にしないようにした。
猿渡雄一郎。それが俺の名前だ。苗字も名前も長くて呼びにくいせいか、クラスメイトからは「猿」とか、「雄猿」なんて呼ばれることが多かった。
それで俺自身も、周囲の受けがよかったので、自ら「猿キャラ」を演じていたことが結構多かった。
だから、それが「暴れ猿」になったところで、大した差はないんだ。たとえそれが、バカにしたような意味を含んでいるのだとしても。
机の中のプリントを一通り整理し終わる頃、朝のホームルームが始まった。
教室のドアから、『ボンド』が入ってくる。銀縁の眼鏡をかけた、壮年の女教師だ。
ボンドと言うのは、もちろんスパイ映画の主人公ではない。俺のクラスの担任、村田邦枝のあだ名である。
ボンドは生徒が何か失敗したり、問題を起こす度に、決まってこう言った。
「どうして、こうなったと思う?」
それから、続けてこう言うのだ。
「どうすれば、次は失敗しないと思う?」
おそらく本人としては、生徒に自分で解決策を考えさせたいのだろう。
だが生徒からすれば、ただネチネチと粘着質に責められているようにしか聞こえなかった。ボンドと呼ばれるようになったのは、つまりそういう事だ。
ボンドは教壇に立つと、俺の方をちらりと見て、「頑張れ」とでも言うような笑顔を見せた。
その表情の意図が読めず、俺は少し戸惑う。
俺が事件を起こした後、学校の側では当然俺を退学にさせるべきという流れで話が進んでいたらしい。
だが、それを逃れて停学処分で済んだのは、担任の彼女が強く俺を庇ったからだ、と聞いている。
俺だって退学になりたかったわけじゃないし、庇ってもらえたのだとすれば、それは嬉しく思う。
けれど先生が俺のことを庇った理由については、心当たりがなかった。
自慢じゃないが俺は出来の良い生徒じゃなかったし、部活動で活躍しているわけでもない。
素行も特別悪くはないが、目立って良くもなかった。それに先生と個人的な親交があったわけでもない。
なのに――誰よりも俺と縁を切りたがってもおかしくない立場のボンドが、周囲に逆らってまで俺を庇ったのだとすれば、その理由は何なのだろう。
本人に直接聞けばたぶん答えてくれると思ったが、わざわざ質問するのも気が引けた。
悶々としながら過ごすうちホームルームは終わり、一限の授業が始まる。
言うまでもなく、悲惨な状態だった。新学期早々、二週間も授業に出なかったのだから。
一応、自宅で申し訳程度に予習はしていたが、焼け石に水でしかなかった。
二限、三限。他の授業でも、状況は変わらない。ただでさえ俺の成績は悪かったのに、授業の進行度が大きく飛んでいるから、もはや謎の呪文を聞かされている気分だ。
全く授業について行けないまま乾いた笑いを浮かべて過ごし、最後の授業である七限目が終わった。
先が思いやられる。とにかく、そう思った。
クラスでの孤立は……まあ、しないに越したことはないとは言え、それほど気にしていない。元から友達は少ない方だったし、目立って嫌がらせをされるんでもないなら、別に構わないと思った。
だが、成績の方はどうにもならない。なにせ、もう今回の事件でイエローカードを食らっているんだ。この先のテストで赤点を連発するようなことになれば、今度こそ退学一直線だろう。
これから当分は、遅れを取り戻すために休日まで必死に勉強するしかない。
考えるだけで気が重かった。
どうせ必死に勉強して学校に残っても、何か面白いことがあるわけでもないのに。
結局、俺はこのまま無気力に過ごすしかないんだろうか。
小さい頃、俺はいつだって、クラスの中心だった。
人前で話すことが誰よりも得意で、同級生たちは俺のことを「天才ベンゼツ家」なんて呼んでいたくらいだ。
なのに、いつからだろう。クラスでも孤立しがちになって、今では授業以外じゃほとんど口を開いた覚えがない。
……そんな日常を変えるために、柄でもないテニス部なんかに見学に行ったんだが。
もう、何もかもがメチャクチャだ。
帰りのホームルームが終わると、俺はため息をつきながら帰路についた。
「2-Aの猿渡雄一郎か?」
校門を出た時、誰かが俺を呼び止めた。
まさかテニス部の連中の報復かと一瞬身構えたが、すぐに警戒を解いた。聞こえた声が、女子のものだったからだ。
俺は振り向き、声の主へと視線を向けた。
そこに立っていたのは、長いポニーテールの黒髪をなびかせ、豊満な胸に青いリボンを付けた、長身の女生徒だった。
東龍学園の女子制服のリボンは、赤・青・黄の三色が順番に切り替わっている。今は一年が黄、二年が赤、三年が青なので、その生徒は三年生だ。
何の用だろう。
わざわざ俺を呼び止めるなら、やはり例の事件の関係だろうか。だったら、ロクな用じゃなさそうだ。
しかし嘘をついてもすぐにバレるだろうし、それで余計に目を付けられても困る。俺は素直に、「そうですけど」とだけ答えた。
それを聞いた女生徒は、「そうか」と小さな声で言って、頷く。それから息を吸い込み、大きな声で言った。
「私は3-Cの、水島渚だ。私は、君のような人材を求めていた!」
凛とした力強い声が、周囲に響く。自信に満ち、強く期待を込めた目が、俺に注がれていた。
彼女が何を考えているのか、さっぱり分からない。
ただ、そう告げる彼女の瞳から――俺は、自分の学園生活を大きく変えてしまうような『何か』の存在を感じていた。




