1
「あつ…」
小さく呻いて、ユーノは目を覚ました。
右脇腹に鈍い痛みが澱んでいる。手を伸ばして触れてみると妙な熱っぽさが伝わってきた。
(月獣の傷か)
溜め息をついて目を閉じる。
深夜、人家のほとんどないキャサラン辺境の地。
(まずい……化膿してきたかな)
じんじんと広がってくる痛みと熱にぼんやりしながら考える。
瞼の裏に、ねじり角を額に頂いた輝く月獣の姿が浮かび上がる。闇夜に華やかな金の馬。
(優しい月獣)
緑の瞳に限りない優しさと哀しみをたたえた獣。
だからユーノは抵抗できなかった。相手が本当は脆いと知っていた。激しい攻撃はしてこないとわかっていた。けれど、ユーノの一撃で傷ついてしまうほど弱いのだと知らされた。
その月獣を相手にして、ひどく傷めつけてしまいそうで怖かった。
(私なら……慣れている、と)
心の中で誰かがそう呟いて、体から力が抜けて、突っ込んで来る角を避けられなかった。囁く声に心の奥が引き裂かれ、ずたずたにされ、どうして生まれてきてしまったのだろう、そう自らに問わせた。
(どうして…私なんか…生まれてきたんだろう?)
心の声はそう尋ね、答える術を知らずにユーノは逃げ惑った。逃げ込める場所はどこにもなかった。探して探して探し抜いて、ほんの一瞬、月獣の澄んだ冷たい金の光とは違う、日だまりの黄金が閃くのを見つけた。
(アシャ…)
アシャが振り返る。ユーノ、と豊かな響きの声が耳に届く。滲む視界、頬に流れる涙の熱さに身も心も焦がされそうだ。
手を差し伸べて駆け寄ろうとしたユーノは、寸前で立ち竦んだ。そっと両腕を引く。ゆっくり自分の体を抱き締めながら、眉をひそめた。
たぶん、アシャは彼女を受け止めてくれるだろう。抱き締めて慰めてキスしてくれるだろう。
(だから…行けない…動けない…)
唇を噛む。体をなお強く抱き締める。目を閉じる。
(それは、私のものじゃ、ない)
背後に居た月獣の気配が変わった。
振り返るユーノの目に薄紅の絹と淡いピンクの薄物をまといつかせたレアナの姿が映る。
(ああ…姉さま)
レアナは美しく微笑した。優しいレアナ。どこか儚げで、女らしくて、でも芯は強くて……傷つけたくない女性。
声が囁く、お前はレアナの犠牲になっているんだ、と。
馬鹿なことをしているぞ。アシャを好きなんだろう。なのに、みすみすレアナに渡してしまうのかい。それはただの言い訳だろう。アシャもレアナもお前の犠牲に気づきはしない。お前の傷には気づかない。
心の暗闇で、じっとその声に耐えていたユーノの視界に、心配そうなアシャの顔が飛び込んできた。
眉を寄せ、深い紫の目を曇らせ、唇を少し開いて今にも何かを話しかけてきそうな姿。
(ア…シャ…)
ユーノは眉根を緩めた。唇の両端を上げ、おどけて笑ってみせる。
(そんな顔、するなよ、アシャ。あなたを悲しませたく…ないんだ)
体をきつく包んでいた腕を解く。開いた空間には寒さだけが入り込んでくる。
(私は誰の犠牲にもなっていない)
誇りが湧き上がる。『はぐれもの』の姿を思い出した。
(お前もそうだろう? 自分で道を選んできたんだ。後悔もしないし、犠牲になったとも思わない)
時がもう一度巡ってくるとしても、やっぱりユーノは同じことをするだろう。
頬に零れ落ちてくる涙が熱い。
(あなたが、大事)
レアナが、セレドが、そして、アシャが。
(あなたを守れさえすればいい)
それがユーノにできる真実の心の証。
「くっ」
ぐうっといきなり押さえつけられたような痛みを感じて目を開けた。甘酸っぱいものが胸に一杯になっていて、目を擦った手が濡れている。
哀しいのではない。寂しいのではない。
ただ切なくて。
どこまでいっても、こういう形でしか生きられない自分が、切なくて。
「は…」
苦笑を漏らして息を吐いた。
見上げる空にはまだ満天に星が散っている。
(まだ明けそうにないな…夜中に騒ぎたくない、けど)
それでなくても皆疲れている、『運命』支配下を守り一つなく進まなくてはならない旅路に。イルファでさえ、疲れが見え出しているほどなのに。
(もう少し、我慢すれば)
夜が明けるまで耐えたい、皆の眠りを妨げたくない。
(く、そ)
無意識に右手で草を掴んでいた。傷を押さえた左手の下で、痛みが容赦なく強くなってくる。小刻みな呼吸で激痛を逃がし、強張ってくる体に空気を取り込み、力を抜く。草を離し、のろのろと額を擦った。
汗びっしょりだ。目を覚ますまでに結構痛んでいたのだろう。
「っ」
くらっ、と視界が揺れた。
(ろくなもの、食べてなかったからかな)
ユーノが身に着けていた金細工はあったが、金は人間の居る所で初めて役に立つもの、金だけあっても腹の足しにはならない。レスファートの分を優先させていた付けがとんでもないところで回ってきたようだ。
めまいに呑み込まれそうになって、ユーノは歯を食いしばった。体が硬直する。硬直したまま、闇夜の中へ転げ落ちていく。一瞬閃光のように激痛が走って、思わず口を開いた。
「…っう」
「ユーノ?」
間髪入れずにはっとしたようなアシャの声が響いた。駆け寄ってくる気配に薄目を開ける。
(そうか…今夜はアシャが火の番だった)
「どうした? 苦しいのか?」
覗き込んで来る顔が、胸の中のアシャと同じように心配そうだった。その肩に、いつの間にか白いものが乗っている。
「サマル…カンド…」
「クェア?」
「お前…どこに…っ!」
びくん、とユーノは体を跳ねさせた。貫いていった熱い稲妻に切り裂かれた気がする。
「この…っ、苦しかったら呼べと言っただろうが!」
きつく舌打ちをしたアシャが額に触れ、厳しい顔になった。
「かなり我慢してたな! 俺の名前を忘れたとは言わさん…」
「アシャ…ラズーン…?」
思わず返した答えに、ぴくりとアシャの指先が震えた。
「ラズーン支配下では、アシャ、だ」
吐き捨てる。
「は…」
掠れた笑いを漏らしてユーノは目を閉じた。
(わかって、ないな)
熱っぽさが全身を駆け巡って、意識が霞む。
(その名前は…私には封じられている……呼べないんだ……知らない…だろ)