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「ユーノの女装だと?」
アシャはぼやきつつ、湖の側で衣服を脱ぎ捨てる。
そんなもの、どうして他の男に見せてやらなくちゃならない。
離れたところから、今もまた湖に何かを投げ捨てようとした娘が、アシャに気づいてはっとした顔でそれを胸元に抱え込んだ。そのまま棒を飲み込んだように立ち竦んだ相手を振り向き、にっこり笑ってやると見る見る真っ赤になるのも道理、アシャは既に下着一つの半裸だ。そちらを眺めたまま下着に手をかけ、なおも笑みを深めながら首を傾げてみせると、娘はきゃ、と小さな声を上げて慌てて走り去っていく。
ドレスを派手に蹴散らしていく後ろ姿を微笑のまま見送って、相手が木立の向こうへ消えるとアシャは一気に下着も脱ぎ落とした。がしがしと乱暴に頭をかきむしりながら、一転して笑みを消し、そのまま湖の中へ入っていく。
足先を浸した水は痺れるほど冷たい。構わずに踏み込み、少し先の岩棚からざぶりと前方に倒れ込むように水に体を沈める。急速に体温が奪われる、目を閉じたまま息を止めて沈み込む、まるで石像になったように。まもなく、とん、と軽く当たった水底は、手を伸ばしたあたりでもう一段深くなる。
薄く目を開けて固まった腕を伸ばし、岩棚を掴んで下を覗き込むと、水は色を深めながら底へ底へと緩やかに流れ落ちていく。じっとしているつもりなのに、じわじわと底の砂とともに引き攫われていきそうな感覚、冷えて透明な水が重さを増して水底で流れを作っているのが水面からは見えないから、知らずに水遊びをしようとした者が時に引き込まれて還れなくなる。
ゆらめく金髪、見かけよりは筋肉のついた腕に煌めく陽光、ゆっくり瞬きしていると物憂い疲れが体を覆う。
少し迷ったが、そのままぐいと身を翻して戻り、凍えた手足を無理矢理引き起こして立ち上がった。
「……」
ざぶざぶっと体を滑って零れ落ちる水、光を跳ねる肩に濡れた髪が張り付いている。数々の闘いを繰り返してきた割りにはあまり傷が残っていない滑らかな胸から腹を、数々の美女が愛しんでくれたものだが。
「あいつは……無理だな」
ユーノが触れてくれるまでにはどれぐらいの時間が必要なのだろう。
それとも、そんな機会など永遠に来ないのだろうか。
自分の体をじっくり見下ろしながら、そこに寄り添うユーノを思い浮かべてみる。見上げてくる顔は上気しているだろう、呼吸を喘がせて甘い瞳になっているだろう、だが、そこから先の想像がどうにも繋がらない。
所詮この体も、所謂『ラズーン』においては。
「……ちっ」
アシャは小さく舌打ちして向きを変えた。太陽を浴びて体を乾かしながら、岸辺へと歩く。
ユーノとの先を思いつけない理由はわかっている。今まで出会ったどんな女性とも違う振る舞いをするだろう、そう思うからだ。
ユーノはアシャの美貌に揺らがない。アシャの視線に蕩けない。アシャの囁きに身を委ねてこない。
普通なら甘やかに優しく誘えば堕ちるところを、逆に詰られ攻撃されかねない。距離をとって別れをほのめかせば切り捨てられかねない。友人のままで付き合おうとすれば、本当にそれだけで終わってしまいかねない。
風に吹かれて熱を奪われていくのに、それに歯向かうように体が熱を帯びていく。
欲しい。
もっと近い場所で強い絆で深い関係を結びたい。
だが、しかし。
アシャはゆっくり俯いた。
それは、為していいことだろうか。
「為していいこと、か」
女性との関係をこんな風に考えたのは初めてかもしれない、とアシャは思った。
自分の容姿に魅かれてくる女は後を断たない。それを時には利用もしたし、支えられてきたこともある。けれど、そこに一生をかけて繋がっていたいという願いを重ねなかったのは、それらがアシャの外見によるものだとわかっているからだ。そして、アシャの外見は普通の人間と同じではない、成り立つところからが既に違う。ある意味では魅かれても当然、計算ずくの幻に憧れているだけだとわかっているからだ。
今まで納得はしなくても諦観はしていたつもりだったが、ユーノと向き合ってその存在を欲しいと思う今、急に自分の拠って立つ意味が気になる。
「そうか…」
ユーノはおそらく特殊な『銀の王族』で、それはこの二百年祭のために準備された存在なのだ。ユーノがその苦痛を受け取るのは『ラズーン』の切なる祈りを満たすためで、その祈りとアシャは直結している。言わば、ユーノの苦難はアシャの存在を支えるものでもある。
だからこそ、ユーノを苦しませたくないと思う気持ちはアシャに自分の存在の意味を疑わせ問いかけさせる。捨て去ったはずの場所や忘れたはずの地位を甦らせる。世界を担う男が、世界を支える小さな一片である少女に、確かにその価値があるものなのかと問われている。
「だから俺はこれほど…」
ユーノの苦痛が苦しく、それに価しないかもしれないと自分で自分を追い詰めてしまうのか。
「なるほどな」
では、このユーノへの思いは本当に彼女を望んでのものだろうか、それとも自分の価値を脅かされないために負い目を軽くしようとしている、それだけのものだろうか。
「……」
ゆっくり濡れた髪をかきあげた瞬間、ふ、と側の茂みでうろたえて引く気配がした。
「誰だ!」
誰何と同時に岸辺に放置した衣服と短剣を掴み、羽織りながら飛びかかる。
さっきの少女かそれとも好き者のうっとうしい野郎どもか。
苛立った気持ちそのままに、茂みの中へ消え去ろうとする相手の手首を握って、一気に引き倒してのしかかり。
「っ、あ!」
「…え…?」
体の下に倒れていたのは大きく目を見開いたユーノだった。