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「私は…犠牲にはなっていない」
小さな震える声が同意を拒む。
『生贄だよ。自分の幸せのために人はお前を踏み台にしているのさ』
月獣達が声に同意するように、またもユーノにじんわりと迫っていく。己を憐れめ、自己憐憫の甘い切なさに浸ってしまえと言わんばかりにユーノに角を近づける。
『哀れなユーノ。誰がお前の哀しみを知る。誰が想いをわかってくれる』
さすがに胸を突かれたように、一瞬ユーノがことばを失った。瞳が暗く陰り、想いが内へ沈んでいく。だが、唇は引き締め、弱音を吐くまいとする。
(俺が、居る)
そのユーノの姿に、アシャの胸の奥に幼い頃の自分が重なる。
(あそこに、俺が)
誰もアシャの気持ちなどわからない。アシャと同じ立場の、同じ成り立ちのものなど、この世界には存在しない。
心を閉ざした、自分の姿。
氷のアシャ、そう呼ばれた、自分の姿。
黙ったユーノの本音を無理に引き出そうとするように、甘く優しい声音がなおも誘った。
『一人で歩こうと決心したお前を誰がわかってくれるのか? 誰がお前に報いてくれる?』
俯くユーノを月獣達が取り囲み、じわじわと輪を狭めていく。
輪の外で、アシャもまた動けなくなっていた。
(そうだ、ユーノ、お前はいつもいつも一人で耐えてしまう)
そうだ、俺はいつも一人で耐えてしまう。
(だからそこまで傷ついて)
だから生きる場所が見つからなくて。
(だからいつかどこかで惨めに死んでしまうかもしれない)
俺が見捨てた世界と同様に俺もまた世界に見捨てられるのだろう、ぼろ屑のように。
(だからこんなところで一人で)
たった、一人で、ただ生きるだけしかない、虚しい命を。
息が苦しくなる。
『夜の暗さに涙することも許されぬユーノよ、その孤独は辛かろう? その犠牲は苦しかろう?』
世界の重さに嘆くことも許されない自分、その孤独、その犠牲、誰が今までわかってくれただろう、いたわってくれただろう、どれほどの美姫も、そこには誰も近づかない、近づけない、背負う重さが違いすぎる、想像さえできない、だから。
(俺は永久に一人だ)
ああ、これほどに。
(俺は、一人が、辛かった)
だから、ラズーンを捨てた、世界を捨てた、自分を抱きとめてくれない世界を全て拒んだ。
(けれど、ユーノは)
世界を拒まなかった。世界を受け止め続けた。自分そっくりなのに、自分と違う強さを持っていた。
(だから、見ていられなくて)
だから、魅かれて。
(そうか、俺は)
見捨ててしまった自分の声に呼び寄せられていたのか。
「……ってない」
ふいにユーノが小さく呟いた。唇を噛み、それからゆっくりと目を上げ、声のする方へ向き直る。
月獣の角に包囲されたまま、眩く光る刃の中心で、傷だらけでまともに衣服も身につけていないずたずたの姿のままで、それでもはっきりと言い放った。
「私は犠牲になんかなっていない」
声が震えている。心の中の激しい嵐を押さえ込んだように、もう一度はっきりと。
「私は、誰の犠牲にも、なっていない」
『ユーノよ…』
「全て私が選んだ。他の誰でもない私が、そうしようと、選んできたんだ」
「っ…」
アシャの背筋を悪寒が駆け上がる。
それは違うはずだ。ユーノが望んでセレドに産まれたわけではない。守られること、愛されることを当然としていた周囲の中で守ること、愛することしか求められなかったのが、望んだ状況のはずはない。
けれど、今、アシャの目の前で立つユーノの泥と血で汚れた顔には、まるで一条の光が当たったような誇りが浮かんでいた。
泣き出しそうにひそめられた眉やきつく噛んだ唇はまぎれもなく少女のもので、ほんの少し自制が弱まれば、ギヌアや月獣の誘う自己憐憫の夢に引きずり込まれそうなのがありありとわかる。だが、その瞳が、握りしめたこぶしが、崩れそうなのを耐えて立ち上がった体が、屈服するのを断固として拒む。
「私が、自分でそう決めた」
ついに、頬に煌めく涙が零れ落ちる。
「私は、他の、誰の犠牲にもなっていない。レアナ姉さまの犠牲にも、母さまや父さまやセアラや…セレドの犠牲にもなってない!」
黒い瞳がまっすぐに月獣達を射抜く。
月が再び雲間に現れ、辺り一面に白銀の光を降り注ぐ。ユーノの体にまとわりついている金細工が、泥に汚れながらもきらきらと光を撥ね、淡く黄金に輝いている月獣達よりも鮮やかに、アシャの目を焼く。
一頭の月獣が頭を垂れた。そのまま後じさりする。別の一頭が続いて引き、もう一頭が続く。
黄金の群れを率いる唯一の光が出現したように、月獣が次々と頭を低くして、ユーノの側から離れていく。
そして、まっすぐに、アシャからユーノへ道が開いた。
(光が、重い)
降り注ぐ月光も、周囲を照らす月獣も、その中央に傷だらけの半裸で輝くユーノも眩くて。
(立っていられない)
月獣の気持ちがよくわかる。
これほどの誇りを見せつけられては、自分の卑小さに気づかずにはいられない。逃げ去りたい、なのに惹き付けられていく、容赦なく、とてつもない力で間近へ来いと呼ばれている、抵抗できない、渇望に、その光を浴びたいと願う欲望に。
一歩、また一歩とよろめくように近づいていくアシャに、ユーノが初めて気づいたように瞬きした。まさか、と言いたげな表情、驚いたように見開かれる瞳に自分が映っている、そう感じた瞬間に鳥肌が立つような興奮と歓喜が競り上がって、アシャは歯を食いしばる。
(これは、何だ)
狂いたい。
(この感覚は)
打ちのめされる。
(俺が、消える)
跪いて、その足元に項垂れ、全ての許しを乞い、全ての願いを伝え、全ての祈りを満たしてほしい。
「アシャ?」
不審そうに声をかけられて、それが限界だった。かろうじて辿り着いたユーノの前で、天が落ちてきたように、跪き、頭を垂れ、深く深く礼をとる。
「アシャ!」
「礼を、受けてくれ」
囁くのが精一杯だった。
「恭順を、受け取ってくれ」
(俺はお前に属するもの)
「側に居ることを、許してくれ」
(俺の運命を全て捧げる)
「お前と、共に行かせてくれ」
頭を地につけて、祈りが届くことを、ただ、願った。