2
(どうして)
心の中に疑問が響く。
(どうしてこんなに、憎まれる?)
心の問いに耳のすぐ側で囁きが応じた。
『生贄だ』
「え?」
そのことばが心のどこか柔らかな部分を抉り、立ち竦む。容赦なく突っ込んでくる月獣の角が、ユーノをずたずたに刺し貫こうとするように、すぐ側を走り抜ける。
『君は彼らの生贄なんだ』
「あっ!」
背後の思いもしない角度から激しく蹴りつけられてふらついた。間髪入れず、次の月獣が走り込んでくる。
(生け……贄…?)
「う、あっっ」
同時に二頭にぶつかられ、体が浮いた。跳ね飛ばされて別の水溜まりに落ち込む寸前、突き飛ばした月獣と視線が絡む。
(あ…あ)
緑の目の奥に読み取ったのは、報われない哀しみ。
(あんたさえ、居なくなれば)
背骨が竦む。
そんなことを言われたことなど、なかったはずだが。
いつ額を傷つけたのだろう、とろりとしたものが眉間を伝って流れ落ちてくる。血のぬめりで緩くなったのか、額の金の輪が、ユーノが倒れたのと逆方向に跳ね飛ぶのが闇に光る。
バシャッ!
地面に叩き付けられ朦朧とする視界に、一頭の月獣の角が広がった。体が勝手に動いてしまい、髪一筋の差で避けると同時に、足が月獣の腹を直撃する。
「ニギャッ!!」
絶叫して吹っ飛ぶ月獣、はっとした時は遅かった。仲間を叩かれ、怒り狂った月獣達が一斉にユーノめがけて突っ込んできて、息つく間もなく責め立てられる。
「う、っ、っ、っっ!」
(生贄なんだよ)
霞む頭に月獣の目が囁いてくる。
(あんたさえ死ねばいいんだ)
(私たちは、ずっと我慢してきた)
(薄暗い昼間を!)
(明るい月夜を!)
(ただ平和に暮らせればよかったんだ!!)
声はユーノの心一杯に溢れて圧倒する。辺りを埋め尽くす騒音のような声、体の内側を乗っ取られたような気がして身動き出来ない。
やがて数頭の月獣が近づいてきた。ユーノの脇の下に頭を、肩を、体をそのものを押し入れてくる。ゆっくりと頭上にユーノを担ぎ上げた月獣の集団に、続々と別の月獣が支え手に加わる。
「う…」
半分気を失っていたユーノは薄目を開けて瞬いた。
いつの間にか、自分の体が何かの標的にされるように差し上げられているのに気づく。ぬるい風に泥と血に汚れた薄物が手足に絡み付く。汚れた金細工がずるりと体を擦る。
のろのろと視線を上げると、前方に一頭の月獣が緑色の瞳を燃え立たせて首を振っていた。蹄で泥を跳ねる。意図を確かめる間もなく、走り出したその一頭が、傷ついたままのユーノの左腕をことさら狙うように、力の限り角で跳ね上げてきた。
「っっ!」
激痛に仰け反る。月獣の攻撃は止まない。ユーノを弄ぶように、また別の一頭が角で突き続ける。
「ど…うして…」
思わず尋ねた。
「どう……して……私が……生贄……に……?」
答えが来る方向を見定めようと頭を起こすと、視線の先にいた月獣が怯えたように後じさりする。
『そうとも。おまえはいつも一人で耐えてきた』
どこからか声が囁いた。
『自分が傷つくのも構わず、家族を守り、国を護ってきた。そのお前に、彼らは何を報いてくれたのかね。今この時も彼らは皇宮で楽しく暮らしているだろう。お前がこれほど苦しんで、彼らのためにこれほどの犠牲を払っているのに……』
「あ…」
ユーノは眉をひそめた。一番辛くて脆いところを、一番知りたくないやり方で知らされて、体がきしむようだった。
(違う……違う………私は……ただ……ただ……)
ドスッ。
再び月獣がユーノの身体を角で突く、ののしるように、嘲笑うように、愚かなものがここにいると、世界に知らしめるかのように。
(そうよ、ユーノ)
心の中から声が湧き始める。甘く優しい、切なげな声、案じるように、いたわるように。
(レアナ姉さまのために、アシャを諦めたでしょ。母さまを心配させないために、怪我をしても黙っていた。父さまとセレドのためにカザドを引き付け、剣を習い、傷を受けてもセアラを護り続けたわね)
ガスッ。
「っっ!」
骨の髄まで染み通るような激痛、それは心の中を貫かれているからか。
月獣の攻撃は止まない、ユーノの血に酔ってしまったとでも言いたげに。
(あなたに何が残ったの?)
声は問う、正義と善の名のもとに。
(誰があなたのために泣いてくれるの?)
「……く、っ!!」
唇を噛んで体を強張らせたユーノの腕から、キン、と鋭い音をたてて金の鎖が千切れ飛んだ。




