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(ああ、また雪白が鳴いている)
与えられた一室、横になるとそのまま吸い込まれていきそうになるベッドで、ユーノはうつ伏せに身を沈ませ、ぼんやりと考えている。
四肢から力を抜き切ろうとしても、心のどこかに緊張が残っていて、もし誰かがいきなり部屋に入ってこようとすれば、瞬時に側にある剣に手が伸びるだろうとわかっている。
『剣を、ですか?』
ミノの不審そうな声が耳に戻ってくる。
『ここは安全ですのに』
幼い顔立ちに微かに浮かんだ怒りは、客人が見せた主人への警戒に対するもの、敬愛する主の支配下で安らげないと伝えられるのは、主を貶められるのと同じだと伝えている。
(ごめんね、ミノ)
ユーノは心の中で謝った。
どうしようもないのだ。今まで剣を体から離して眠りについたことなど、ほとんどない。そうしていなければ、次の日の朝日は見られないと知っていたからだ。
ミアアアア……と、高く澄んだ雪白の声が響く、重く静まり返った闇を刺し貫いていくように。
思い出すともなしに、幼い頃のことが甦る。
いつものように、カザドが攻めてきた翌日のことだった。連夜の闘いに疲れ果てて、いつベッドに転がり込んだのかの覚えもなかった。
目を覚ましたのは額に当てられた白い手のせい、まばゆく日差しがちらつく中に、母の姿が浮かんでいた。
「どうしたの? うなされていましたよ」
薄紅の唇で微笑んだ母が、心配そうに問いかけた。
「母さま…」
日の光が目に痛いほど、なぜかふいにほっとして、ユーノは微かに囁いた。
「怖い夢でも見たのね、ほら、こんなに汗をかいて」
母の白く美しい指先が額と頬を辿っていく。柔らかに広がる花の香り、出入りの商人が運ぶ香水は母の面差しによく似合う。
陶然と甘さに酔いながら、ユーノは無意識に手を伸ばしていた。
母の胸へ、何もかもが許されているのだと言いたげな、懐かしくも温かい腕の中へと。
「ユーノ…」
母は囁いて、体を起こしたユーノを支えようとするように、そっと彼女の方へ手を伸ばした。
「何かあるなら話してちょうだいね。私はあなたの母さまでしょう?」
怖い夢。
そうなんだ。ひどく怖い夢に毎日うなされているんだ。明日は母さま達の顔がみれなくなるんじゃないかという、竦むような孤独な夢に。
今なら打ち明けることができそうな気がして、幼いユーノは安堵に泣きそうになりながら母の腕に触れた。
もう大丈夫だ、母はきっとユーノを庇ってくれるだろう。ユーノのことばを信じ、守ってくれるだろう。背後に忍び寄る影を心配せずに、ようやく幸せな眠りにひたれるようになるだろう。
「母さ…」
掠れた声を絞り出す、期待に震えながら。
けれど。
「母さま!」
いきなり開いた扉から、泣きながらレアナが飛び込んできて、ユーノはびくっと手を引いた。
レアナは白い寝衣の裾を乱して、振り返った母の腕の中へまっすぐに飛び込む。
(あ…)
ずきり、とユーノの胸に痛みが走った。
「あらあら、どうしたの、レアナ」
「母さま! 母さま!」
泣きじゃくりながら、レアナは母をしっかり見つめて訴える。
「怖い夢を見たの! とっても怖い夢を見たの! 怪物が出てきて、私を食べようとするの!!」
「まあ、かわいそうに。でも、大丈夫よ、母さまが守ってあげますからね」
「だって……だって……」
レアナは泣き続けながら母の胸にしがみついている。そして母もまた、レアナを強く抱き締めている。
その2人をじっと見つめていたユーノは、ほんの少し、首を傾げる。
額に髪が乱れ落ちる、さらさらと、小さな、レアナの泣き声に消されてしまう、聞こえない音をたてて。
(母さま)
声にならない声が胸の内にひたひた満ちる。
(母さま。私、本当に、怪物に食べられちゃうかも知れない)
言いたかった。
しがみつき、泣きじゃくり、地団駄踏みながら、夜ごと襲う恐怖と不安を訴えたかった。
母はきっと驚くだろう。いろいろと尋ねてくれるだろう。ユーノも抱き締めてくれるかも知れない。今、レアナにしているように髪を撫で、キスをくれ、優しく慰めてくれるかも知れない、だが。
(言って……どうなる?)
誰がどうすればいい、という単純な話ではないのだ。
カザドがセレドを密かに狙って攻撃を繰り返しているとわかれば、この平和な光景はたちまち崩れ、国はあっという間に戦乱に巻き込まれていくだろう。戦うことを随分昔に忘れてしまった民は、蹂躙されもがいたあげくにのたうち倒れていくのだろう。
それはいつか起きてしまうことかも知れない。
けれど、今目の前にある、この穏やかな光景を壊す権利は、ユーノにはないような気がした。
たとえ、その中に、ユーノが永久に入れないとしても、守ることはできる、大事な人を、大事なものを。
胸の内を吹き抜けていく風に、カラカラと何かが鳴る。それは冷たく、物悲しい音だった。
「母さま」
ユーノは静かに声を掛けた。
さきほどのユーノへの気遣いを忘れたように訝しげに振り向く母に、眠たそうに装って笑って見せる。
「私、まだ眠いや。もう少し寝るよ」
「そう? ……じゃあ、レアナ、こちらへいらっしゃい。ユーノはまだ眠いんですって」
母さまの側であなたも少しおやすみなさい。
柔らかな声で言い聞かせながら、まだしがみつくレアナを伴って、ゆっくり扉の外へ消えていく。
扉が閉まると、ユーノは微笑みを消した。汗まみれになって湿っている寝床の中へ再び伏せる。この間受けたばかりの傷が、引っ掛けたのだろうか、ずきずき痛んだ。体を丸め、掛け物を深く頭まで被り、傷めた足首を抱え込む。
そうしてしばらくしていると、微かな安堵感が広がってきた。痛みも薄れ、そっと手を離す。そのまま、自分の腕で胸を抱き、体をより深く曲げて、小さく丸くなっていく。寝床の中で、これ以上小さくなれないほど体を竦めたとき、ようやく一筋、頬を涙が伝った。
「ふ……うっ…」
(怖いよ)
零れる涙がことばを解放する。
(怖いの……母さま……父さま……姉さま…)
どこへも届かぬとわかっているから上げられる悲鳴だった。
誰も聞かぬとわかっているから吐き出せた弱音だった。
「ふくっ」
声が漏れそうになって、顎を胸に強く押し付け、顔を伏せ、声を飲み込み。
ユーノは静かに泣き続けた……。
(あの時はまだ怪我が治っていたからましだった)
思い出して苦く笑う。
(一度なんか、まともにばれそうになったっけ……)




