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「確かにはじめは、湖の神に仕えたいという巫女志願の娘だけが出向いていたんです」
ナストはユーノ達の天幕の外、焚き火の側に腰を降ろし、熱いスープで一息入れた後ようよう話し出した。
彼はこの近くの村に住んでいる。マノーダと呼んだ娘とは許嫁同士だ、と前置きしてから話を進める。
「ところが、マノーダの姉であるアレノが巫女に志願した頃から、あの神殿について妙な噂が立つようになりました。巫女達は湖の神ではなく、何か別のものに仕えている、と。そして、月の明るい夜には何人かの巫女が湖に入っていって、そのまま戻らなくなるとも。当然、巫女の志願者は著しく減りました……ところが」
ナストは茶色の瞳を落ち着かなげに彷徨わせた。
「ある夜から、村の娘が夜中に1人2人と姿を消すようになったんです。親も恋人も夫も兄弟も、何もかもを捨てて出ていってしまい、それっきり二度と帰ってきません。1人の男がたまたま家を出ていく娘を見つけて後を追い、神殿へ入っていくこと、そこに見覚えのある行方不明になった娘達も居ることを突き止めました」
眉を不安そうに顰める。
「なぜなのかはわかりませんが、神殿の夢を数回見て4、5日すると、その娘が姿を消すんです。娘本人が巫女志願など全く考えていなくても、家を出て行く時は一様に湖の神にお仕えするのが自分の使命だと言い張り、止める家族を恐ろしいほどの力で振り切って出て行ってしまうものまでいます」
「何かの術かな?」
ユーノのことばにアシャは沈黙を守る。
「僕はマノーダから神殿の夢を見たと打ち明けられて、それから毎晩、彼女を見張っていたんですが、今夜に限ってつい眠ってしまっていて…」
気がつけば彼女は既に家から出て行ってしまっていました、とナストは悔しそうに唇を噛んだ。
「それで、慌てて神殿へ駆けつけた、と」
「はい」
「その娘を助けるにしても、明日だな……今夜はあっちも警戒しているし、守りも固いだろう」
アシャの声にナストは俯く。自分でもそうするしかないとわかっているようだ。それでも今すぐに神殿に飛び込みたいのを、必死に堪えているのは握りしめたこぶしの白さでよくわかる。
「とにかく、今夜はボクらの天幕で休んだら? 明日になったら、もう一度考えようよ」
「……すみません」
ナストはのろのろと俯いたまま立ち上がり、勧められた天幕の寝床へと姿を消した。
「……で?」
アシャはナストの後ろ姿をじっと見守るユーノを促す。
「でって……なに?」
「言いたいことはわかってるな?」
「……わかってる」
旅は厳しい。こんなところで他人に手を貸しているほどの時間も手間もない。
「でも……」
脳裏を過るマノーダの横顔に懐かしい顔が重なっているのだろう、ユーノは思い詰めた表情で唇をつぐむ。
「ユーノ、俺は」
もうお前を危険に晒したくない、わざわざこんなところで危ない目に好んで突っ込まなくても十分に危険は満ちあふれている、そうアシャが説得しようとした矢先、
「美しかった…」
イルファはほわぁああと深い吐息とともに呟いた。
「は?」
「イルファ?」
「んー? 何だ?」
にっこり、とイルファは微笑んで振り返った。剣士そのもの、山賊とも間違えられる無精髭の伸びたいかつい野獣顔が溶けそうな笑みを浮かべているのは、とびきり甘そうな焼き菓子が魔物の姿に酷似して作られているようだ。手を出したくはないが、恐いもの見たさというのもある。
「…どうした?」
一瞬身を引いたユーノがおそるおそる尋ねる。
「見た」
「見た?」
「至上の美を」
「……しじょうの、び」
イルファはどうしたんだろう、そう言いたげにユーノがアシャを振り返った。
「おい…」
何となく察しがついたアシャが軽くいなそうとする。
「夜というのはいろいろなものが美しく見える時間でもあってだな」
「時間なんか関係ない」
イルファが『甘く優しく』笑みを深める。
「俺は天上に駆け上がったのかと思ったよ」
「おもった、よ…」
イルファのことばじゃないよね、うん。
ユーノが引き攣りながら、もう一歩踏み込む。
「で、何が」
「あの中に居たじゃないか、金色の髪の天空の聖女が」
恋は虫を叫ばせる、だったかな、それとも平原竜を歌わせる、だったかな。
アシャが溜め息まじりにあれやこれやの格言を思い出そうとしている間に、相変わらず理由がわからないと言う顔でユーノが問いを繰り返す。
「天空の聖女? 確かにあそこは神殿だけど、そんな美女居たかなあ……金髪なんだね?」
「違うぞ、儚い織物のような艶やかな黄金の…」
「わかったわかった」
果てしなく賛辞を並べようとするイルファをアシャは制する。が、その努力を無にするように、ユーノが瞬きして尋ねた。
「ひょっとして、それって、後から出てきた人?」
「そうだ、後から至高の微笑で現れた…」
「なんだ、アレノじゃないか」
謎がわかってほっとするユーノの肩をがばりと身を起こしたイルファが鷲掴みにする。
「アレノ! アレノというのか、あの人は!」
「何言ってんだよ、今話してたろ、マノーダのお姉さんで」
「美しい人は名前も素晴しいのだなあ…」
「聞いてないな」
ふわふわとした様子で立ち上がるイルファをユーノは茫然と見上げる。がっちりした筋肉質の体がそのまま宙に漂っていきそうな頼りなさで、イルファは天幕の方へゆらゆら歩く。
「おい、イルファ、今夜の火の番は」
「火の番? おお、そうとも、アレノのことを思う俺の魂の火は今やごうごうと燃え盛って闇を焼き焦がしつつ世界を圧倒していくのだ、いざ神々もご照覧あれ…」
「い…いるふぁ…」
神々は笑い死にそうになっているんじゃないだろうか、と呟いたユーノに苦笑するアシャを、相手が振り返る。
「どうしちゃったんだろう、イルファ」
夕方の肉がまずかったのかな。
「違うさ」
「違う?」
でもあれは明らかにおかしいよ、いつものイルファじゃない。
不安そうに眉を寄せるユーノに、こいつもたいがい鈍感だ、とアシャは呆れた。
「一目惚れというやつだ」
「ひとめぼれ…?」
「見た瞬間に恋に落ちた」
「そんなことって……あ」
まさかイルファが、そういう顔で苦笑しかけたユーノが何を思い出したのか、ふと瞳を伏せる。
「金の……髪…か」
零れた声があやふやで頼りない。
「そう…か」
一人深く納得するような響き。
(おい、待て)
じりっと胸の内に不愉快に響いたその声にアシャは自分の眉が引き攣ったのを感じる。
(ひょっとして、こいつが気にかけているのは金髪の野郎か?)
まさかユーノもそいつに一目惚れしたとか、そういうことじゃないだろうな。
(……俺だって、一応は金髪だぞ)
無言でつい反論する。
(それなりに、まあ今まで結構褒められたこともある程度には、金髪だぞ)
瞬間、我に返ってうんざりした。
「…ちっ」
何を煮え詰まったことを考えている。
気持ちを切り替え、声をかける。
「ユーノ」
「ん?」
「できれば関わり合いにならないほうがいい。ここには」
「『運命』が居る?」
「遭遇したのか」
脅しがさらりと流されたばかりか、状況がもっと切羽詰まってると気づいて、アシャは顔を引き締めた。
「さっき見た。巫女達の背後に居るのは『運命』だよ」
「そうか…」
ならば今更逃げようとしても無理だな。
ぐったりしながらアシャは溜め息をつく。
接触してしまったのなら、もう『運命』側にアシャの動きも知れ渡っているだろう。逃げを打って背中から襲われるよりは、隙を見て倒す方法を考える方がまだましだ。