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先ほどからの追い立てが効を奏したのか、雪白の群れはゆっくりと進路を変えつつあった。が、右手のテップの草原にもっていくためには間に合わない。
(どうする?)
むせかえる熱気、獣の体臭が大気に強くこもり、暴走は勢いを増している。大地を蹴る雪白達の重い蹄の音、荒い呼吸音が天も地も揺るがせている。
ふと一瞬、前方に道が開いた。とっさにそこへヒストを進める。
「はぁっ!」
声を上げて人馬一体となって駆け込んでいく、その勢いに恐れをなしたように雪白達に動揺が走った。より一層ヒストを駆り立てて、ユーノはじわじわと強引に向きを変えていく。右側の雪白が少し右へ流れ始めた。引きずられるように、残りの雪白達も向きを変え始める。
(まだまだっ!)
汗が流れてくるのを片目をつぶって振り払い、なおもユーノはヒストを右に寄せた。寄られた雪白がうろたえたように逃げる。
なおも寄せる。じわりと寄せる。
逃げる。雪白がじりじり逃げる。
テップの草原までヒストの走力がもってくれればいい。そうユーノは思った。緊張に強張っていく心をなだめる。
(落ち着け、まだ生死の境というわけじゃない)
「ユーノッ!」
アシャの声が背後から響いて来た。微かな甘さを感じて心が緩みそうになるのを堪える。まだ雪白の催眠効果が残っているのだろう、鳴き続ける雪白の調べに心を奪われるまいとして、ことさら前方を見据えた。
テップの草原はもう少しだ。左手に小川、あの右側へ雪白達を回り込ませていけば、後は自然と草原に向かうだろう。
ユーノは目を細めた。乱れる呼吸を整える。
群れの左へ完全に出てしまってから、雪白の群れを凌駕する速度で行く手を遮るように、かなり無茶な回り込みをする。怯えた雪白が押し合いへし合いしながら、急速に進路を変え始める。
もう少し、そう思いつつ、群れに目をやって、
「え?」
一頭の一際巨大で美しい毛並みの雪白の背中に、ぐったりと身を任せている青年をみつけてぎょっとした。揺れているのに加えて、雪白の毛に見え隠れするのでよくわからないが、まだ年若く、かなり整った目鼻立ちだ。
容貌と印象にアシャを、続いてイシュタを思い出した。共通した、奇妙な端正さ。
(視察官、か? ここにも『銀の王族』が?)
そちらについ、注意が逸れた。
「っっ!」
ヒストの嘶きに我に返った時は遅かった。すぐ目の前に小川の岸が迫っている。
(まに、あわ、ない!)
ユーノは必死に馬首を巡らせた。テップの草原の方へヒストを向けたが、不意のことでさすがに体がついていかず、体重の軽さが災いして空に浮く。
「く…っ」
手綱を握ったままではヒストを巻き込む。とっさに手を開く。
「ユーノ!!」
間近にアシャの声が流れ、ユーノはそのまま小川へ勢いよく放り出された。
バッシャーン!!
激しい水音が響いた。
流れの浅さにしては奇跡的な運の良さで、片腕を岩に擦った程度で水の中から起き上がる。
「ぷ、ふっ」
詰めていた息を吐いて、ユーノは濡れた髪をかきあげた。忘却の湖での闘いを体が無意識に思い出したのか、それとも冷えた夜気のせいか、細かく震える体を抱き締める。
(涙も消えた、な)
ほっとして苦笑しながら顔を上げ、ようやく一息ついたと言いたげにテップの草原へ三々五々散っていく雪白達を見やる。
(さっきの人は…)
体を擦りつつきょろきょろしていると、荒々しい蹄の音が響いた。
「ユーノっ!」
すぐ近くで止まった馬から人影が飛び降り、荒々しい苛立った様子で駆け寄ってくる。
「……やあ、アシャ」
相手は怖い顔でユーノをねめつけた。止める間もなくユーノの手首を掴み、水の中から一気に彼女を引き上げる。
「やあアシャ、じゃない」
苦くて重い声で唸る。
「無茶はしないと言ったはずだな」
険しい響きの罵倒、けれどそれがひどく温かく感じられて、ユーノは思わずアシャを見つめた。
「寒いのか?」
ユーノが震えているのに気づいたのだろう、アシャは手早く長衣を脱いでユーノの体を包む。
「怪我は?」
「大丈夫。少し擦ったぐらい」
「見せてみろ」
ユーノの片腕を捻るようにして傷を調べたアシャが、ほう、とどこか悩ましい溜め息を漏らす。
「本当に…」
傷から掬い上げるようにユーノを見抜いた紫の瞳が、暗闇で不思議に明るく輝いて見えた。揺らめく炎のような光が長い睫毛で数回遮られる、それについ引き寄せられるように見上げてしまう。
(幻術のようだ)
ただ数回の瞬きで、これほど人の心を吸い寄せる瞳。
「俺を、殺すつもりか」
低く震える声が響いたのが、夢うつつのように聞こえた。
「どれだけ人を心配させたら気が済む」
ぶつりと切れた沈黙がひりひりと痛い。
「え、だって」
ソクーラの貴婦人はアシャの大事な人だ。その人の宮殿はやはりアシャの守りたいものだ。あそこにはレスファート達も居る。大事なものを守るために自分のできることをして何が悪い。なぜ責められる。
「だって…」
それこそがユーノの居る意味、ではないのか。それこそが仲間である、ということではないのか。
ましてや、ユーノの想いは、きっとこういう形でしか全うすることはできない、だから。
「俺は」
アシャが覗き込む。紫の瞳が薄赤く激しく燃えているように見える。
「俺は、お前を」




