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(間に合うか?)
ユーノはヒストの走りにぴたりと体を同調させて、馬を駆り立て続けた。
近づくに従って、雪白の群れの大きさが実感として迫ってきた。
昼間見た群れの10倍はある。それに、さすがに王の雪白というだけあって、雪白自体の大きさもかなりのものだ。白い毛に空気を含ませて大地を蹴立てて走っているところは、巨大な白い渦に巻き込まれていくような恐怖を感じさせる。
(一体何に怯えたんだろう)
突風や雨風はない。突然の光、稲妻の気配もない。
(こんな夜に、逃げ回りたくなるほどの恐怖を何に感じた?)
雪白以外は穏やかに静まり返った夜だ。
(とにかく鎮めなくちゃ)
ユーノは何とか先頭の雪白に追いつこうとしてヒストを駆り続けた。
白い奔流は次第に流れの形が変わってきて、背後から回ってきた雪白がヒストのもう片側へ迫り始めている。うかうかしていると、群れの中へ完全に取り囲まれて、死の激走をしなくてはならなくなる。
「はいっ!」
ユーノはヒストの速度を上げた。
見る見る呑み込まれかけた雪白の群れから抜け出していく。
獲物を逃がしたと言いたげに、ミアアアア…と唐突に一頭の雪白が声を上げる。周囲の雪白も次々と鳴き始め、その声は群れ全体に広がった。
物悲しく澄んだ声が辺りの空気を震わせていく。
(何て……音…)
雪白の声に呼び覚まされるように、ユーノの胸に憂いが満ちた。哀しみが、切なさが、かきたてられて、心の傷に染み通っていく。
哀しい…哀しい……己の存在がこれほどまでに哀しい。
(どうして……生まれてきたんだろう)
ぼんやりとそう思った。
(どうして……女なんかに生まれてきてしまったんだろう…)
本当は、魂だけは男のもので、それがたまたま女の体に宿っただけのことなのだろうか。
そうでないとしたら、何のために男にもなりきれず、女にもなりきれず、こんなに中途半端な心と体を抱えて、生きていかなくてはならないのだろう。
想いを抑えて、押さえ込んで押し潰して……そうしてユーノには何が残るというのだろう。
(ア…)
寂しさに思わず心の中で名前を呼ぼうとし、ユーノは微笑して首を振った。
その名はレアナが口にするのにふさわしい名だ。レアナが求めるのにふさわしい男性だ。幾度も幾度もそう言い聞かせてきたではないか。夢の中でさえ求めるのにためらって、唇を固く引き締めたではないか。
それは違うのだ、と。
それは自分に向けられている好意ではないのだ、と。
ユーノはレアナの身代わりで、だからアシャを守るのは当然で、それでもそうして守ったアシャの想いが、ユーノを擦り抜け、遥か故国、セレドのレアナへ向かうのもまた当然のことだ、と。
(どうして男に生まれてこなかった?)
ゼランも言ったではないか、「皇子でないのが惜しい」と。父も言ったではないか、「おまえが男であったならば」。母はいつも困ったような表情で言った、「姫の服装は嫌いなのですか」。
(うん、母さま)
ユーノはいつもそう応えた。
うん、母さま。私、生まれ間違ったみたいだね。
そうね、と母は美しく微笑み、溜め息まじりにユーノのドレス姿を見つめる、「もっとよい仕立てを選ばなくてはなりませんね」……。
(仕立ての問題じゃない、よね?)
周囲の者の目を見ればわかる、どこまで飾っても少女の華やかさにはほど遠い、と。
(それでも)
夜中にそっと、美しい衣を抱き締めてみたことがある、と、誰に言えよう?
「っ」
つう、と頬を伝った熱いものに我に返った。
いつの間にか、かなり宮殿へと近づいている。
周囲では、あの切なくも美しい雪白の声が響き続けている。どうやらその声には、ある種の催眠効果があるようだ。人の心の哀しみを引きずり出し、そこに浸らせ眠らせてしまう力が。
(くそっ!)
ユーノは首を振って涙を払った。
メーネがいる宮殿は目の前だ。テラスに、真っ白い貴婦人の姿が身じろぎもせずに立っている。
(なぜ逃げない?)
理由はすぐにわかった。その姿が見送っているのは、前方斜め横から全力疾走してくる馬上、深緑の長衣の騎士に他ならない。
(アシャ!)
ユーノはきつく唇を噛み締め、手綱を握り直した。
アシャに泣き顔など見せるわけにはいかない。