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深緑の布に金糸と銀糸の縫い取りのある長衣をはおり、アシャの着替えは済んだ。首元と袖口から覗いている銀の下衣に苦笑する。
(相変わらず派手な好みだ)
休養と湯浴みですっかり生き返った気がしたが、容貌によく映える装いを少々疎ましく感じた。第一、この衣の重さでは剣もろくに振り回せない。
長剣は長衣の中で腰に吊っている。ソクーラの『貴婦人』に謁見するのに無礼だとは思ったが、『運命』に追われ、カザドにも狙われ、しかも無鉄砲な主人を抱える身としては仕方がない。
衣の他にも深緑の飾り紐と銀の鎖を編んだ髪留めが用意されていた。『貴婦人』らしい心配り、それとなくアシャを忘れてはいないと示されているようで溜め息が出る。
伸びて目にかかる髪を半分だけ上へ跳ね上げ、髪留めで頭を巻いてとめておく。
姿見の中に映っているのは、どう見ても宮殿の中しか知らぬ優男だ。薄く笑んだ唇が艶やかだが、殺気立った紫の瞳はそれを裏切る鋭さ、それらが妖しい釣り合いを保っていてただ者には見えない。
小さく舌打ちして、アシャは片手で目を覆った。
いつの間に、こんな、本性を晒すような目を見せていたのだろう。ユーノを守ろうとする旅が、ついつい内側の炎を煽り立てていたのか。
たおやかで柔らかな外見を否定する中身を見せていたことより、それを見せていると自覚がなかったほうがまずかった。溜め息をついて、気を緩め、殺気を消し去り、緊張を押し込める。
人々の中でアシャが自分の派手派手しい見かけと折り合いをつけるための処世術、それを見抜いた人間はそれほどはいなかったが、『貴婦人』は感づいていた。
『行くのですね、アシャ』
穏やかな日々に唐突に持ち出した別れのことばに、メーネはたじろがなかった。静かな確認は、アシャの成り立ちを推し量る賢明さがあった。
『遠い所へ』
自分から離れるということだけではなく、生きていく場所もお互いの側ではないのだとわかった上のことば、それを背中にアシャはこの国を離れた。
金がなくなったと聞いた時、メーネのところへ来れば、金も食べ物も休める場所も手に入るとは思いついたが、『貴婦人』の気持ちを考えると頼る気にはなれなかった。離れていた年月の間に、彼女の気持ちが変わってくれればと思っていたが、この衣類の整え方を見る限り、それは叶わないことだったらしい。
『アシャ』
甘い声音を耳に、瞬きをして手を外し、もう一度姿見の中を覗き込む。
瞳の炎は消えていた。女性的な顔立ちに優しい微笑を浮かべた男が立っている。悪意も害意もないが、かといって他の感情が見えるわけでもない。
「よし」
くるりと姿見に背を向け、垂れ幕を上げ部屋に戻り、そのまま部屋から出た。
同じ長衣だったとしたら、ユーノはきっと手こずっているだろう。手伝ってやらなくてはな、と正直なもので気持ちが弾む。
比較的長居していた宮殿だから、ユーノがいる場所もすぐ見当がついた。
「確かにこの辺りにも客室があったな」
部屋の配置も変わっていない。世界の変動はソクーラにはほとんど届いていないようだ。
「ここら辺りか」
立ち止まったアシャは低く声をかけた。
「ユーノ?」
「はい?」
まるで待ち構えていたように扉が開いて、見覚えのない幼い少女が顔を出した。アシャに気づき、一瞬で真っ赤な顔になって、そのままぼんやりと見惚れてしまう。
アシャは微かに咳払いした。我に返った娘がますます赤くなり、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません!」
「構わないよ。ユーノはここだろうか?」
「は、はい。ただいま湯浴みを終えられ、お支度中でございます」
「そうか。入るよ」
「は、い」
何か言いたげな視線を背中に感じながら、アシャは垂れ幕の外から声をかけた。
「ユーノ? 着替えは済んだか?」
「アシャ…助かった」
ほっとしたような声が応じた。
「ちょっと来てくれよ、この上着ったら」
(やっぱりな)
アシャはにやにや笑って垂れ幕の端から滑り込んだ。
「アシャ」
姿見の中から彼を見つけたらしいユーノが振り返った。
淡いクリーム色の衣が細身の体に巻き付いている。しなやかな生地が胸の膨らみも滑らかな腰から脚への曲線も浮き彫りにしていることにも気づかない様子で、手にした濃紺の長衣の始末に困りきった、そういう顔で近寄って来る。
「どうにかしてよ。これ、どうやって着るんだい?」
「これはな」
ふわりと甘い薫りが漂ってどきりとした。思わず口を噤んで、その香りを吸い込む。ユーノの髪の匂いだろう、しっかり拭き切れなかった髪が、細いうなじに絡み付いている。
「アシャ?」
「あ、ああ、つまり」
沸き起こりかけた衝動と、ユーノの首から無理矢理目を逸らせる。
「ここに隠しボタンがあるんだ。ここを外してから前を開けると、ほら、な?」
「あ、そうか」
「腕を出せ」
「うん」
細い腕が長衣に差し込まれた。濃紺の長衣の裾には銀の縁取り、金色の花が模様に組み合わされている。ただでさえ細身の体がどっしりとした長衣に包まれて、一層華奢で脆そうに見えた。思わず相手を覗き込み、動きを止める。
「お前…泣いてたのか?」
みるみる赤くなる、そのユーノの黒い瞳がまだ濡れているように見える。睫毛も濡れたままのようだ。ほんの一瞬、切ない表情がユーノの顔を掠めた、と見る間に、相手はアシャの手を振り払うように垂れ幕の辺りまで逃れていた。
「なんでボクが泣かなきゃならないんだよ?」
怒ったような口調で言い放ち、軽く下唇を噛む。その後、妙に静かな声で、
「それとも、アシャにはボクが泣くようなわけでも思いつくってわけ?」
そう言われると、思いつかない。
「…いや」
「だろ?」
肩を竦めて見せて、ユーノはにっこり笑った。
「レスを迎えに行ってくるよ。イルファもね」
引き止める間もなく、ユーノの姿は消えていた。