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部屋と同様の石板を床に張り敷いた浴槽があった。周囲に薄物一枚を身に纏った四、五人の半裸姿の娘達が控えている。まろやかな肩や胸、腰などが湯気の立ちこめる中に淡く透けていて、夢のように美しい。
「お召し物を」
ミノの手が背後からチュニックにかかって、ユーノはぎょっとした。
「え、あ」
「お脱ぎ下さい。お手伝いいたします」
「いや、その」
うろたえるユーノにお構いなしで、ミノは丁寧に、けれど断固としてユーノの体から衣服を剥ぎにかかる。
「ちょっと」
慌ててユーノは身を引いた。
「え…?」
ミノは困ったようにユーノを見上げる。宮殿へ招かれた客に供されるもてなしの一つ、それをなぜユーノが拒むのかわからないと幼い顔立ちが訴えている。
「何か失礼なことをいたしましたでしょうか」
不安そうに唇を開いた。
「ミノはお叱りを受けるべきでしょうか」
「いや、そうじゃなくて、実は」
(ええい)
言いよどんで、ユーノは思い切った。
「ボクの体には山ほどの傷があってね」
何でもないことのように笑ってみせながら、袖を捲り上げてみせる。肌に食い込むように白く引き攣れた無数の傷跡に気づいて、ミノが目を見張る。
「あまり人に見られたくないんだ。湯浴みなら一人で入りたい。いいかな」
「あ、はい!」
ミノは急いで手を叩いて娘達を下がらせた。まだほんの少女のようには見えても、そこは宮殿の客人の世話を任せられる地位にいるもの、娘達がすぐに頭を下げて姿を消す。
「これでよろしゅうございますか」
ミノもお手伝いはさせて頂けないのでございますね、と念押しすることも忘れなかった。
「うん、すまないね」
「とんでもない」
深々と頭を下げながら、
「お召し物は頂いて汚れを落として参ります。お着替えはご用意いたしております」
「あ、でも」
「どうぞ」
それぐらいはさせて下さいませ。
訴えるような視線で見つめられて、ユーノは頷いた。ほっとしたようにミノが部屋の隅の木箱を示す。
「お召し物はそちらに。姿見はそこにございます。御用がありましたら、いつでもお呼びくださいませ」
「ありがとう」
「…では、失礼いたします」
ミノは部屋の片隅の薄い垂れ幕を示した後、もう一度深く頭を下げて深緑の垂れ幕をかきわけ、出ていった。
「ふ、う」
(どうなることかと思った)
それを見送って溜め息をつき、ユーノはチュニックを一気に脱ぎ捨てた。旅の汚れか、埃が舞い上がり、ばらばらと足下に泥が落ちる。
(ひどい格好だったな)
もう一度溜め息をつき、下着も脱ぎ落とし、まとめてミノが示した木箱に入れた。
浴槽に近づくと、ぷんと微かに香料の匂いがした。見ると、湯の中に花びらが数片浮いている。
「いい匂い…」
確かにセレドでも香料を入れた湯を用意することはあるが、これほど香り高いものではない。
そのまま入って湯を汚してしまうのは忍びなくて、手近に置かれていた容器に湯を汲み、数回浴びて軽く汚れを落としてから浴槽に滑り込んだ。
「ん……」
中心に向かって深くなっている浴槽、湯はじんわりと体を胸下あたりまで包んでくる。ぱりぱりと細かな痺れが走るような感覚に身を委ね、しばらくじっとして体の隅々まで滑らかな感触が覆うのを味わった。湯に慣れるとそっと中央へ動き、肌にまとわりつく花びらの明るさに見とれていると、緊張し、しこっていた疲れがゆっくりと流れ出して溶けていくようだ。
(気持ちいいな)
そっと湯を掬って、頭から被った。ざぶりと閉じた瞼の上から流れ落ちる湯に一瞬外気を遮断された息苦しさ、続いて熱が汚れを洗い落とす爽快感に息を吐く。
「は…ぁ」
両手で髪の毛をかきあげ、撫で下ろし、濡れて首筋に張り付く髪を摘んだ。
(もっと短く切ってしまおうかな)
男にしては少し長過ぎるかもしれない。今のままでももちろん、ユーノを女性だと考える者はほとんどいないのだが。
(何も……考えずに)
ユーノは目を閉じた。
髪から首筋、肩から胸へと撫で下ろす自分の指先が、幾度も波打つ皮膚に触れる。そのたびに、ちくりちくりと、傷だけではない痛さが胸を刺す。
(何も考えずに)
普通の娘であれば。揺れる故国にも、父母の後で身をひそめていられる娘であれば。剣など使えない娘であれば。
(せめて花でも似合え、ば)
目を開き、漂う花びらを湯ごと掌で掬い上げる。花びらには触れないように、それでもその湯で自分を飾るように、そっと頭から被ってみる。
花びらはすぐに流れ落ちた。
髪に残っているかと探ったが、普段はあれほど跳ね返って始末に困る髪なのに、濡れている今は花びら一枚もとどめていないらしい。
「ふ…」
(救いようがない)
苦笑し、両目を両方の掌で押さえる。現実の視界が消えるのと入れ替わりに、自分を抱き締めたアシャの温もりが甦る。
髪に触れたのは、もしかして、唇、だったのだろうか……?
でも。
なぜ…?
「…………っ!」
首を一つ強く振って、ユーノはもう一度ざぶざぶと顔と髪を洗い、体を擦り、湯から上がった。
香料にあてられたのか、動悸がして息苦しい。
雫を滴らせながら薄い垂れ幕を上げ、用意されていた布で体を拭っていると、姿見が視界に入った。一瞬ためらったが、全身を映す鏡など、セレドでは見たことがない。
そろそろと全裸のままで正面に歩み寄った。
「……」
まるで白い紐を埋め込んでいるような、全身を覆う傷の痕。鞭打たれた罪人を見たことがあるが、それでもここまで酷く全身に刻印されたような傷はなかった。柔らかな膨らみを、滑らかな曲線を過り、縛り、時に押し開き、不格好に寄せたように見える傷痕は、一つ一つに覚えがある。皇宮の陰で、郊外の草原で、廃墟の暗がりで、そして誰一人援護のないまま走り抜けた闇の道で、必死に生き延びてきた証の記憶だ。
「ん?」
じっと傷を目で追っていたユーノはふと眉をひそめた。
(ガジェスの時の傷がない?)
痛みに疼いていた腹の辺りを探り、目を凝らして覗き込み、腰を捻って繰り返し眺め、ようやく、他の傷とは全く違って一本の細い糸のようになっている傷痕に気づいた。
「なんで…? ……っ」
はっとして、ゼランに裂かれたはずの傷も探り、体をねじ曲げて眺めてみる。確かに指先には微かに触れた、だが、腰あたりまでまっすぐに伸びているはずの傷は、それと知らねばわからない状態になっているようだ。
(アシャ……何を……した…?)
あれだけの傷を、ほとんど痕を残さずに治す医術など聞いたことがない。
(これも、ラズーンの技術、なのか?)
視察官の技というものは、これほど格段に諸国と差のあるものなのか。
(こんなに綺麗に治るならきっと、他の傷も…ううん、この先どんな傷を受けてもきっと)
「っ」
迷路を探るように少し興奮して治った傷を撫でていたユーノは、突然指を止めた。
鏡の中に立つ自分の、胸や肩、腰や脚に焼き付けられているような、ひきつれた傷痕を見つめる。
アシャの手によって治療された傷の目立たなさは、他の無数の荒々しい傷跡に呑み込まれてわからない。
「一本や、二本、わからなく、なったって…」
胸が絞られた。
唇を噛む。両手を鏡に当て、その間に頭を落とし、ごつん、とぶつけてみる。
(何の意味がある、これだけみっともない、体の中で)
吐きかけたことばを呑み込んだ。唇を開き、そっと笑う。
「アシャ……あなたって……時々ひどく、残酷だ」
掠れた声で呟いた。




