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空は、澄み渡った蒼い天蓋の端に、薄紅を滲ませつつあった。
くすんだ緑色の短い葉を持つテップの草原にはそよとも風が吹かず、真昼の熱気を未だ立ちのぼらせている。
「ソクーラまで、あと、どのくらい?」
ぐったりしたレスファートが、のろのろとアシャを振り仰いで尋ねる。笑んだアシャが、
「もう少しだ。ここまで来たんだから、頑張ろうな」
少年を励ました。
「う…ん。でも、おしり、いたあい」
くすくす笑い出してしまったユーノは、レスファートの恨みがましい目に睨まれて、口元を引き締めた。
「ごめんね、レス、そりゃ疲れるよね、丸一日馬だったから」
力なくこっくり頷いて、レスファートはアシャの腕に身をもたせかけた。
「ソクーラは有名な商業の中心地だし、ネデブとともに織物でも名高い。食料と布地も少し買い込んで…」
「金はない」
「え?」
ユーノはぎょっとしてアシャのことばを遮ったイルファを振り向いた。
「ないって……どういうことなんだい、イルファ?」
「ないから、ない」
イルファはぼそりと応えた。相手のいかつい顔に広がる満足げな顔を眺めて、ユーノははっとする。
「イルファ……ひょっとして、出てくる時、アレノに渡していた金細工の首飾り…」
「うむ、あれはいいものだったぞ。値段にしては出来がいい」
「まさか」
茫然としたユーノにかわって、アシャが問い正す。
「値段にしてはって、あれに全部使ったのか?!」
「アレノを慰めるものとしては、あれ以外にはなかったのだ」
「おいおい…」
「イールファ……」
ユーノは深く溜め息をついた。
確かにイルファがアレノにベタ惚れだったのは知っているが、ここまでとは思っていなかった。
「ソクーラを迂回することって、できる? アシャ」
「できんことはないが」
アシャは渋い顔で眉を寄せた。
「3倍は時間がかかる」
「かかりすぎるよ」
「だが、町中で野宿を繰り返すわけにはいかないぞ」
何せ商業の盛んなところだから、それなりによそ者や不審者への警備も怠りない。宿に泊まる旅人ならまだしも、空き地や空き家を探して点々と動いていくのでは盗賊集団の下見と間違えられかねない。
「男は金のことでごたごた言わんものだ」
イルファがぶすりと言い放った。
「何とかなる」
何を揉めているのだと言いたげな表情に、思わずユーノは突っ込む。
「へええ、食い物なしで? イルファは2日に1回の飯で耐えてくれるわけ?」
「む!」
ようやくそこに気づいたようにイルファは目を見開いた。
「そうか、町中で狩りをするわけにはいかんか」
「もう少し早く気づいてほしかったよ」
ユーノは唸った。
「頼むから、飼ってあるティサやクイルなんかを狙わんでくれよ」
胸に抱え込める愛玩用の小動物の名前を上げたアシャに、
「いや、ティサは食うところがないだろう」
「論点が違う」
「クイルは手触りはふかふかしているが、肉は苦いと聞いたぞ」
「そういう問題じゃないって」
ユーノは唸った。イルファの反論をアシャと交互に封じたものの、とにかく金銭がなくては町中ではしのげない。
「どうしよう、アシャ」
「仕方ない…ソクーラの外縁を回れば、獲物も多少はあるにはある……しかし、この辺りは雪白が……」
「アシャ?」
ふいにとんでもなく奇妙な表情になってことばを切ったアシャが、珍しく口ごもりながら続ける。
「そう…だな……。金なしでも…無理して外縁を回らなくても……行けることは行ける、が…」
「どうやって?」
飲まず食わずで行ける不思議な薬でも持っているのか、それとも、と問いかけたユーノの声を、レスファートが遮った。
「ユーノ、見て!」
さきほどまでのくたびれた様子はどこへやら、馬の上で伸び上がり、斜め前方を指差して歓声を上げる。
「すごいのが来るよ!」
「すごいの?」
そちらへ目を向けたユーノは、一瞬、白い湖が草原を埋めていこうとしているのかと思った。
くすんだ緑の地平をじわじわと、白いふさふさした毛を波打たせた動物が数百頭もいるだろうか、こちらへゆっくり向かってきている。
群れのところどころに、馬に跨がった身軽そうな男達がいて、その動物を一つの方向へ誘導するように、群れの回りを走り回っている。
ミアアアア、という妙に透明な悲しげな声を一頭が上げると、残りのものも一斉に声を上げる。
その声はどこか音楽的な調和を保ってユーノの鼓膜を震わせ、心に静かな安らぎをもたらした。
「雪白だ」
声が途切れるとアシャがぽつりと言った。
「雪白?」
「ああ、牧獣だよ。あの毛から糸が紡がれ、有名なソクーラの光沢のある生地になる」
「噂には聞いていたが」
イルファが感に堪えたように呟いた。
「これほどの規模のものとは思わなかったぞ」
「この群れは小さい方だな」
アシャは押し合いへし合いしながらものんびりと歩を進めてくる白い絨毯を眺めていたが、突然ぎくりとした顔になって、そろそろと首を縮め馬を後じさりさせた。
「アシャ?」
「あー、ちょっと、その、だな」
ユーノが首を傾げるのに、さっきと同じ奇妙な表情を浮かべたアシャが微妙に顔を伏せがちになったとたん、
「アシャ!」
「え?」
群れを制御していた騎馬の男の1人が、朗々と響く声を上げて駆け寄ってくる。
「アシャではありませんか!」
「知ってる人?」
「……まあ、な」
レスファートの問いに曖昧な笑みを浮かべたアシャは、諦めたように男が馬を走らせてくるのを待った。




