10
「これが酸素発生剤」
アシャは木陰でイルファの分厚い掌にぽとりとカプセルを落とした。
「何だこれは」
不思議な形と色だな。
イルファが差し上げたカプセルは半分は紺色、半分は透明な、子どもの小指ぐらいの小さなものだ。
「水が固まったようにも見えるのに触れられる」
イルファが珍しげに掌で転がすのに、落とすなよ、と釘を刺す。
「呑む込むんじゃなくて、奥歯で挟んで軽く噛む。そうしたらそこから空気が出てくるから、びっくりして吐くな。そのまま口を閉じて息を鼻から出すようにすると、水中でも呼吸ができるようになる」
「……難しそうだな……これ一個か?」
「五個、渡しておく」
アシャは残りをイルファの手に載せた。
「うまく使えば、それでほぼ一日はもつ」
「へええ」
こんな小さなものがなあ、とイルファは感嘆の声を上げたが、ふと気づいたように眉を寄せた。
「どうしてお前、こんなものを持ってる?」
「旅先で手に入れた」
「普通売ってるか、こんなもの」
俺は見たことがないぞ。
「人からもらったのさ」
「……何を代償に」
「……何を考えてる」
「いや、さぞかし高かったろうな、と」
じろじろと無遠慮に視線を動かすイルファに苦笑する。
「医術師の代金だ、おかしな想像をするな」
「お前のことだからなあ」
「どういう意味だ」
「いや、この俺が惑うほどだぞ」
「……」
いやお前なら誰にだって惑うだろう。
呆れてアシャは神殿の方へ視線をやる。相変わらず白く美しく陽光の中で輝いているが、『運命』のわらわらとした禍々しい気配だけははっきりと感じられる。
「それじゃ、俺は行ってくる!」
おお麗しきアレノよ、俺の真実を見てくれ!
声高に宣言すると、腰布一枚のがっしりした半裸姿で湖に歩み寄った。
アレノの首飾りが沈んでいるのは端の方だろうから、それほど深く潜らなくてもすむはずだ。ざぶざぶと水の中に入っていったイルファは、口にカプセルを含んでから意外に軽く身を躍らせた。派手な水飛沫と共に大きな音が響き渡る。
それを見届けた後で、アシャは動き出した。
木陰からゆっくりと神殿に向かって歩いていく。髪に風が柔らかく吹き過ぎる。太陽の光は木の葉に躍り、風に舞う葉に跳ねている。イルファが飛び込んだ後、再び静まり返った湖は、幾つかの波紋と同心円を表面に散らしているのみ、森閑と濃い藍色の水をたたえて、あくまで平和な光景だ。
(この静けさの中に『運命』は息づいている)
ラズーンを頂点とするこの世界が、大いなる破滅に対する危うい賭けであるのと同様、当たり前の日常は今にも切れそうな細い絆で保たれている。
神殿にかなり近づいても、『運命』はまだ動く様子がなかった。中に入ってくるのを待ち構えているのかもしれない。
アシャは落ち着き払ったまま、神殿の中に入っていった。
一歩、また一歩。
支柱の影にも邪悪な気配はない。
神殿の中には、歩いていくアシャの足音だけが床を這うように広がっていく。人の気配はもちろん、『運命』の気配さえない。
(そうあっさりと引き下がるとも思えないが)
ましてや宿敵であるアシャを見過ごして遁走するほど、『運命』も穏やかな集団ではない。
回廊を一つ一つ巡っていく、と、ふいにひどく澱んだ、濁った空気が吹き付けてきた。
角を曲がって立ち止まる。
「…」
目の前の廊下一面に、黒く焦げた屍体が転がっていた。数体は既にどろどろの赤黒くぬめる液体となって溶け崩れ、吐き気を催す腐臭が辺りの空気を汚している。殺すまでもないと手刀で倒しただけの者もいたはずだが、用が済めば行かしておく必要はないということなのだろう、泥人形よろしく打ち捨てられている。
アシャはそれらの状態を一瞥しただけで先へ進んだ。
どれもこれも既に抜け殻と化し、累々と横たわった屍体の遥か向こうに、一層暗い冥界の気配がある。
「どこで俺を待つ?」
低い呟きに応じるように、廊下の先でひらりと白いものが動いて奥へと誘った。閃いたのは水盤がある広間、見えない何かが一点に凝縮していくような圧力感。
「そこか」
アシャは薄く笑って歩を進めた。回廊は入り組み、先に来た時より組み変わって複雑になっているような感さえあるが、視察官を迷わせることなど不可能だ。視察官は一度通った場所や一度関わった人間を忘れないように訓練されている。揺れ動く時空の中で、それは彼らに必須の能力だ。
似たような角を、そっくりな通路を、惑わせるように現れるつい立てや仕切りを擦り抜け、アシャはやがて例の水盤がある黒と白の広間に辿り着いた。
「お待ちかねか」
入り口の扉は大きく開け放たれている。正面には、変わらずどす黒い水がたぷたぷと奇妙な揺れかたをしている水盤しかなく、人影はない。まっすぐ歩みよって扉を潜る。
ど、ぉん!
背後で唐突に音をたてて扉が閉まった。水盤の水が激しく揺れ出し波立ち、同時に広間を囲むように黒い光が走る。ゆっくり短剣を抜くアシャの前で、水が裂け、ぬめる体から飛沫を散らして、ガジェスが一匹、また一匹と姿を現す。
「御丁寧なことだ。視察官一人にこれほどの手勢を繰り出すとは」




