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そうだ、お前は知らない。
アシャは濁る胸で考える。
世界はもう既に滅んでいるのだ、何度も何度も、見えないところで。繰り返されている幻の現実を、人々は世界だと勘違いしている。幻を守るために幻を差し出す、その虚しい戯れ言の真実、継ぐべきものなどもうどこにもないと知って、自分もまた、いや自分こそが幻の象徴だと知って、アシャは全てを放棄したのに。
けれど出会った幻は確かに熱く生きていて。
この胸を轟かせるほどに激しく輝かしく命の限り走っていて。
ユーノ、という鮮烈な幻を、今これほどまでに守りたいと願う、この気持ちもまた幻ならば。
「幻でも、いい、と、思う、のは」
間違いか?
自分の声がこれほど切なく聴こえたのは初めてだ。
「ああ、なるほど」
そうして気づく、自分が何を求めていたのかを。
「幻でもいいと」
ずっとそう確かめたかったのか、俺は。
「アシャ」
ユーノの休む部屋に唐突に入ってきたアシャを、レスファートがむくれ顔で迎えた。自分一人でユーノを独占できると思ったのに、ハイラカがついているのが面白くないらしい。
「子どもはいいな」
思わず口を突いた本音に、レスファートがますますむくれる。ぽん、とその頭に手を置いて、アシャはベッドに近づいた。
ユーノは疲れ切った表情で眠っている。呼吸は少し穏やかになったようだ。
汗で張り付いた髪の毛を払いのけるように指先で額を拭ってやりながら、アシャは視線で示した。
「もし、目が覚めて苦しがるようなら、その袋の薬を飲ませてくれ。一度に二粒だ。起きようとするようなら、泣きついてでも寝かせておけ」
「うん、わかった」
レスファートがベッドの足下の方でこくりと頷く。
「ん…」
気配に本能が反応したのか、ユーノが身動きした。が、目を覚ますには至らずに、そのまま熱っぽい寝息をたて続ける。
アシャは無言で自分の首から、セレドの紋章ペンダントを外し、ユーノの首にかけた。金鎖の先の紋章をそっと胸元へ押し入れて、触れた肌の熱さに動きを止める。視線を動かすと、無防備な表情で眠り続けている顔がある。
(目を覚ませばきっと)
お前は俺を拒むのだろう。
押さえ難い何かに揺さぶられて、アシャはそっとユーノの頬に唇を触れた。柔らかくて甘い果実の温もりに満足した次の一瞬、
「え!」
「っ」
ふいに間抜けた声が響いて慌てて顔を上げ、窓際に立ってこちらを見守っていたらしいハイラカと視線がぶつかる。
「あ、あの、僕こっちを向いていますからどうぞ!」
奇妙なうろたえた顔になって向きを変える相手に、ハイラカがそこに居るのをわかっていたはずなのに無意識に無視してしまった自分に気づいて衝撃を受ける。
ただ一人レスファートが、そんなアシャとハイラカの固まった空気にきょとんとし、とことことやってきてベッドの端に膝をついた。
「ずるい、アシャ、ぼくも!」
ひょいと身を乗り出して、ちゅ、とユーノの頬に口づける。
「あ、ああ、親愛のね、ええそうですよね僕何を考えて」
ハイラカが顔を赤らめながら急いで向き直って笑いかけてきたのに、そこは経験値と年齢差、動揺を押し殺してしたたかに、にっこり笑い返す。
「ああそうだ……違うものに見えたか?」
「いえあのその、いや僕はただその」
アシャの返答にハイラカがもごもごしながら、より一層赤くなったのに警戒心が強まる。
(こいつ、ひょっとして)
いや、一応ユーノを『弟』として認識しているはずだから。
(まさか、そっち側なのか)
それならば安心だな、とくらくらしてくる頭の芯で考え、思考の破綻具合になおくらくらしながら、後を頼む、と素知らぬ顔で部屋を出たが、
「どうしたんだ、アシャ」
イルファが珍しく生真面目に声をかけてきた。
「何がだ」
「顔が赤いぞ」
「気のせいだ」
「そうか? いや、俺は今いろいろなことに鋭くなっているのだ、お前は確かに顔が赤いぞ」
「人の顔色などほっとけ」
お前は今愛しいアレノのことだけ考えていればいんだ、そう突っ込もうとして、そうだ、こいつがそもそも宝探しなど言い出すからややこしくなってくるんだと相手をねめつける。
「……今度は目が冷たい気が」
「……ほっとけと言ってるだろう」
それより、計画を練ろう。
なお首を傾げるイルファを外に誘った。




