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「おーい、イルファ!」
ユーノは剣の柄に軽く手をかけながら、重く沈んだ闇に向かって呼びかけた。
暑くもなく寒くもない。野営の連中も眠りについているのだろう、ときおり、虫の微かなリリリン、という音が響くだけの静かな夜だ。
自分の声がひどく無作法なものに聞こえて、ユーノは少し怯んだ。
風が柔らかく木々の葉を鳴らせていく。ジェブの樹もあるのだろうか、うねるような音律が風の音の合間に聞こえてくる。ヒスパの、針のように尖った葉の先に縫い込まれた月が、仄白い光を樹間に投げていた。
(まさかどこかで殺られてるなんてことはないだろうけど)
「イールファーッ!」
声を抑えながらも呼ばわる。
ふいに、激しい羽音がして、ユーノは背後を振り返った。
月光を浴びて真っ白に輝く姿が、ユーノをめがけて木立の隙をすり抜けるように舞い降りてくる。
「サマル」
伸ばしたユーノの左腕、サマルカンド用に皮を手首から肘にかけて巻き付けた部分に、巨大なクフィラはふわりと降りた。体躯に比して信じられないほどの軽さ、覗き込むようにユーノに向かって首を傾げる額には紅の十字、肉眼で物を見るのと同時に、その十字で熱源として生き物の存在を感知していると言われるクフィラに、闇は意味がない。
「一人になるなって言うのか?」
「クェアゥ」
どこか甘い鳴き声を響かせて、サマルカンドがゆっくりと肩へと移動してくる。
「大丈夫だよ」
「クエェッ」
「わかったわかった」
冗談じゃないと言いたげな叫びにユーノは苦笑する。元の主に似ているのか、太古生物にしてはずいぶん人懐っこくておせっかいだ。
「耳元で騒ぐなよ」
笑って嗜めると、サマルカンドは首を竦めて胸毛を軽く膨らませた。いささか不満らしい。
「けれど、一体どこ行っちゃったんだか……イールファー!」
周囲を気遣いながら、もう一度呼ぶ。
再び風が渡って、ジェブの葉ずれの音がした。サマルカンドの気配に怯えて静かになっていた虫が思い出したように声を重ねるのが、木々の下を漂っていく……と。
「……しっ」
近くの茂みに人が動いてユーノは立ち止まった。肩のサマルカンドが臨戦態勢になるのを軽く抑え、ゆっくりと剣を抜き放つ。まさかこんなところでおっぱじめるとは思えないが、一瞬の遅れが命取りになる、特にこんな木立の中では。
木の陰に身を潜めて闇を透かし見たユーノは、危うく声を上げかけ、かろうじて制した。
(レアナ姉さま?!)
目の前の木の間を、薄青の衣に身を包んだ娘が、どこか虚ろな歩き方で縫って行く、その顔立ちがレアナそっくりなのだ。白く透ける肌に淡く色づいた唇、前方を見つめる瞳こそレアナより遥かに濃い焦茶色だが、全体のふわりと柔らかな感じはレアナそのものと言っていい。
思わず娘を見送って数歩踏み出し、相手が茫洋としつつも森の中を通る一本の細い道を辿っているのに気づいた。
(どこへ行く……こんな夜更けに?)
細い道は近づかなければ認識できないほど下草に覆われているが、途切れることなく湖近くのあの白い建物に続いているようだ。
少し迷って、ユーノはレアナの幻に引きずられるように娘の後をつけ始めた。
娘の足下はよく見れば素足、森の中を通るので服や指先が枝などに引っ掛かるのだが、構うことなく前へ前へと歩を進めるから、時に服の裾が鋭い音をたてて裂けたり、指が枝を折り葉を引き千切ったりしているが、娘は全く気にしていない。
(どうも妙な雰囲気だな)
高熱に浮かされて彷徨い歩いているには足下が確かすぎるし、所用があって急いでいるにしては緊張感一つない虚ろな表情が気にかかる。
やがて娘の前に現れた白い建物は、数本の支柱に囲まれた方形の造りだった。
入り口の前に花々の咲き乱れる庭園がある。その花の中で、数人の娘が木立の中を抜けていく目の前の娘を待っていたかのようにじっとこちらを見つめて立っている。
気づいてユーノは歩みを遅らせ、再び木の陰に身を隠した。
ユーノに気づくこともない娘達は、建物に辿り着いた娘と同じように一様に静かな表情のない顔だ。歓迎するでもなく拒むでもなく、けれど薄青の衣の娘はまるでそこが自分の家であるかのように、しずしずと入り口に向かって進んでいく。
(巫女達? にしては、気配が禍々しい)
まるで意思のない人形、それもあまり性質のよくないものを溜め込むために使われそうな、生きた人形…。
「マノーダ!」
いきなり、切羽詰まった男の叫び声が闇を裂いた。
はっとしたように森を抜けた娘が立ち止まるのと、側の木の間から誰かが飛び出すのがほとんど同時だった。
「マノーダ! 行っちゃいけない!!」
飛び出して来た男は、叫びながら立ち止まった娘の方へ突進していく。獲物も何も持っていない、ただただ両手を広げて駆け寄る様は無我夢中、周囲のものなど見えていない。
娘がぎごちなく振り返り、微かに唇を震わせる。虚ろな顔に仄かな熱が戻った。
「ナスト…」
娘の呟きに、男はほっとしたように駆け寄る速度を緩めた。
「気がついたんだな! マノーダ!! 」
気がついた?
ユーノは眉を寄せた。
(じゃあ、今までのあの動きは)
「マノーダ!」
喜びの声を上げて、ナストと呼ばれた男は一気に走り寄ってマノーダに抱きつこうとし、マノーダも夢から醒めたようにナストの方へ手を差し伸べて戻ろうとする。
そのとたん、庭で待っていた娘達の間に暗い気配がのたうった。先頭に居た娘の一人が斜め後の娘を振り返る。背後から頷きながら、一人の娘が月光の中へ姿を見せる。
「マノーダ……ここよ」
悲しげに囁いた声に、はっとしたマノーダが振り返った。
「アレノ姉さま!」
「こっちへきて……マノーダ」
「は…い」
呼びかけられたマノーダが一瞬くしゃりと顔を歪めたが、すぐにまた元の無表情な顔に戻り、ナストに背を向ける。
「アレノ!」
ナストが猛々しい声で叫んだ。
「マノーダを連れて行くな! 僕にはわかっているんだ! お前達は湖の神に仕える巫女なんかじゃない、お前達は……っ」
先頭の娘の背後に一段の暗い気配、それが見る見る凝り固まって伸び上がる。
(『運命』!)
ユーノは息を呑んだ。