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(…甘い……息…)
ユーノはぼんやりまどろみながら考えている。
(誰……? ……頬に……微かに……でも……ひどく近くに……そっと…)
抱きとめられている、そんな温もりを感じて眉をひそめる。
そんなことがあるはずはない。だが、打ち消す心を揺らすように温もりは静かに熱を増していく。
その温もりにもし名前をつけるとしたら。
(ア…シャ…)
そっと呼んで、夢の中、ユーノは慌てて口を両手で押さえる。同時にずきりと両腕と腹に灼熱感が走り、体を強張らせた。
(あ……つ……っ…)
口を覆った手をそろそろと降ろし、体の両側へ力を抜いて投げ出してじっとする。だが、痛みは絶え間なくユーノの神経に牙をたててくる。
(ん、…ん……っ)
唇を噛む。呻くことさえ焼けた金属の棒を押し当てられたような痛みに繋がり、呼吸を喘がせた。
(でも……寝てるわけには…いかない…)
熱いうねりの同心円が幾重にも体を浸していって、意識を陽炎のようにぼやけさせる。遠い場所から逃げようのない圧迫感を伴っためまいが、緩やかにけれど確実に、繰り返しユーノの感覚を砕いていく。
(気を……失い……そうだ…)
痛みに閉ざされた闇の中で、ユーノはなおも抵抗を続ける。眠っていても体のどこかは起きていてくれるはずだ。だが、今迫ってくる闇はユーノの全てを眠り込ませてしまうような危うさに満ちている。
(違う…こと……考えなくちゃ……何か……違う……こと…)
空間が大きく揺れた。感覚全てが揺さぶられる。歯を食い縛る。底のない泥沼に呑み込まれていく意識は、脆く頼りなく、確保する先から崩れていく。
(違う……こと…)
汗が額を滑り落ちていく感覚が僅かに戻る。
(汗…かいて、る………あ、うっ!)
ふいに激痛に意識が吹き飛ばされた。ガジェスの爪のように心に食い込んで、切れ切れになるまで引き裂いていく炎の感覚だ。体のどこにも力が入らない。溶けていく平面にぐったりと身を任せながら、暴走していく痛みを感じるのが精一杯だ。心のどこかが絶叫している。頬に熱いものが流れていく。閃光のように、溝虫のように、意識をぼろぼろに食い千切っていく苦痛、苦痛、苦痛…。
「はっ…」
激しく息を吐いて、堪えきれずにユーノを目を開けた。引きむしらんばかりに掴んでいた掛け物に気づいて、指の力を緩めようとしたが、再び襲って来た痛みに息を呑んで掴み直す。閉じた目の奥で光の玉が無数に砕けた。
「あ……あ…っ」
思わず漏らした声は人の気配を感じなかったため、しかしそれに対して穏やかな声が応じた。
「大丈夫かい?」
「…っ!」
いつもよりは数瞬、遅れた。だが痛みを凌ぐ危機感に攫われて、近くに置かれていた剣を掴んで引き寄せ、跳ね起きる。
「!!」
「だ…れ…っ」
目の前にユーノと同い年ぐらいに見える少年が居た。息を弾ませながら誰何したユーノに、淡い色の髪の下で、人なつこそうな青い瞳を瞬いた。体を固くしつつ、
「僕、ハイラカって言うんだけど…」
ためらいながら、心配そうに首を傾げる。
「ねえ、大丈夫かい、君。かなり苦しそうだけど」
(ハイラカ…)
剣の柄を握りしめたまま、どこかで聞いた名前だ、とユーノは考えた。
「僕、何もしないよ」
ハイラカが静かに続けた。
「剣って、扱ったことがないんだ」
ユーノの目に、机の上に置かれた焼き物の水入れと器、枕元に落ちた濡れ手拭いが映る。
「…ひょっとして…君が……世話を……?」
「ああ」
ハイラカは柔らかに微笑した。
「呻き声が聞こえたから……覗いたら、あんまり君が苦しそうだったから…つい、ね」
そのまま近寄ってきて、ぐいと手を突き出す。
「改めて。僕はハイラカ・コジャン。よろしく」
人を信じ切った無防備な態度、つられてユーノも剣を手から離した。差し出されたハイラカの手を握る。
「ひどい傷らしいね……熱がある。寝てた方がいいよ」
「う…ん」
ユーノはのろのろと横になった。ハイラカは当たり前のように手拭いを拾い、水に浸して絞り直し、ユーノの額に載せてくれる。
「あり…がとう…」
「君の名前は?」
「……ユーノ…」
「ユーノ、か。いい名前だね、まっすぐで強そう」
ハイラカのことばに苦笑する。
「君も旅をしてるんだってね。僕はこれからラズーンに行くところなんだけど、君は?」
「あ…」
にっこり笑った相手の顔に、ユーノはダノマでのことを思い出した。そう言えば、ダノマからラズーンへ向かって旅立った者の名前もハイラカと言ったはずだ。
(じゃあ、この人も『銀の王族』…)
「あ、無理に言わなくてもいいよ?」
ユーノの沈黙をハイラカは別の意味に解釈した。
「僕にはラズーンから遣いが来たんだ。若者達を何年かに一度、勉学のためにラズーンに招待しているんだそうだ。今まで聞いたことがなかったけれど、なるほどそうやって、中央の進んだ知識や技術を地方に伝えているんだね。僕がどうして選ばれたのかは知らない。でも幸運だったな。きっとすばらしい所なんだろう。使者の方はとても丁寧だったよ」
ハイラカはあけっぴろげな生き生きとした表情で笑った。
(この世の幸福を約束された『銀の王族』…)
いつか聞いたことばがユーノの胸に蘇る。
今ではユーノも、ラズーンが『銀の王族』と呼ばれる人間達を集めていることを知っている。ハイラカが教えられたように、若者達の研鑽のためというには厳密すぎる選定基準のことも。そして、それに視察官という役職が絡んでいることも。
(でも、一体何のために)
『銀の王族』とは一体何なんだろう?