7
夜半。
「どうした、レス?」
天幕の外でじっと湖を見つめているレスファートに、イルファが声をかけてきた。側で揺れる火、今夜はイルファが火の番、レスファートはそれに付き合うとくっついている。
「ユーノが心配なのか? アシャがついてりゃ、大丈夫だぞ」
「ううん」
覗き込む無骨な男の顔に笑み返す。
「そうじゃなくて」
首を振って、頬にかかったプラチナブロンドをそっと指で摘む。
「ユーノ……アシャ見て、笑った」
「あん?」
「ぼくらには、平気だっていって……あんなに苦しそうだったのに、大丈夫だっていって」
今にも倒れそうだ、そうわかるのに、ユーノはなおも平気だと繰り返そうとして。
「鈍感なのかね」
「ちがう、苦しかった、うんと、痛くて」
体を起こしているのも、きついほど、なのに。
レスファートを気遣って。そのいたわりがレスファートにまっすぐ届いてしまうのさえ、気づかないほど弱っていたのに。
「アシャ見て」
笑った。
「すごく、きれいだった」
今まで見たより、うんときれいな顔で。
「そうだったか?」
「うん」
湖は静まり返っている。そこでどんな死闘が繰り広げられたのか、レスファートには想像するしか術がない、けれど。
ユーノがあれほどぼろぼろになるほどの出来事だったはずなのだ。
それも幻のように呑み込む湖の深さに、レスファートはかすかに震えてイルファに身を寄せる。
「それがどうした?」
「わかんない……でも」
イルファががしりと頭を掴んで撫でてくれる。
「むねが、くるしい」
「食い過ぎか?」
「ユーノが笑って、うれしい、のに」
「うん」
ごしごしと頭を撫でる大きな手に甘えて、レスファートは眉を寄せて目を閉じる。
「くるしくて」
かなしい。
胸の中に響いた小さな声はこう続ける。
ぼくじゃ、やっぱり、だめなんだ。
「よし」
アシャはようやく溜め息まじりに体を起こした。
さっきまでひそひそと聴こえていたレスファートとイルファの話し声も聞こえなくなった。暖を取りながら火の番をしてくれるというイルファに甘えたのは、容態が急変した時に清潔な水がいると考えたからだ。
ユーノは今、全身布と包帯に包まれるような状態で、呼吸を荒げながらぐったりと横になっている。深い傷は薬剤つきのフィルムを使った。熱はあったが、傷からすれば不思議なほどの安定した回復力、いや、それだけではなく。
ふ、と天幕の外に気配が動いた。瞬きし、目を伏せて問う。
「やはり、あなたか」
『そなたの想い人と思うて助けたのではないがな』
イルファ達と反対の方向から、暗い響きのミネルバの声が戻ってきた。
『まこと、たいした娘よのう。ガジェスの爪に挟まれて息絶えたかと思うておったが、いつの間にやら水面まで浮き上がっておったわ。私がしたのは、そこから岸へ運んだまで、礼には及ぶまいよ』
「いや」
アシャは静かに首を振った。
「私にとっては百万の礼に値する」
『ほ…ほほ』
天幕の外の気配は、陰鬱な笑い声で応じた。
『まさかのう、「アシャ」から、そのようなことばを聞けるとは思わなんだ。それほど娘が愛しいか』
「……愛しい」
ふいに、思いが胸に強く激しく広がって、アシャは痛みに眉を潜めた。
『これは又、素直な』
ミネルバがからかう。苦笑して応じる。
「我ながら不思議に思っている」
『違いない』
ミネルバはしばらくくつくつと嗤っていたが、唐突に口調を改めた。
『ラズーンの二百年祭は近い。「運命」も本格的に繰り出してこよう。狩りにはよいが、そなた達には辛いな』
「視察官の名にかけて、ユーノは無事ラズーンへ送り届けてみせるさ」
『ほう』
間髪を入れずに答えたアシャにミネルバが冷たく嗤う。
『アシャの名にかければ、その後のことも誓えるだろう。さすればその娘の体も心も思うがままだぞ』
「ミネルバ」
それをあなたが言うのか、と苦ると、用心深い男だなと返された。
そのまま気配が消え、辺りは再び静かな夜に戻る。
(体も心も思うがまま)
ミネルバのことばを頭の中で繰り返しながら、床のユーノを見やる。
「体は、まあ」
呟いた自分の声の妖しさに居心地悪くなったが、心はどうだろう、とごちてみる。
「無理…かもしれない、だろ」
我ながら気弱な台詞だ、と溜め息をついたとたん、ユーノが身動きした。
「み…ず…」
「ちょっと待て」
アシャは壷から水を掬い出し、口に含んだ。熱で意識が朦朧としているユーノの唇に、そっと口づけて水を送る。
ユーノは何をされているのかわからないらしく、薄く開いた黒い瞳をぼんやり開いて、アシャを見つめ返す。瞳の潤んだ優しさに胸が高く打つ。
「ん…」
強く口を押し付けて相手の唇を開く。僅かに抵抗しようとしたユーノは、口の中に流れ込んできた水にようやく気づいたのだろう、目を閉じてこくん、と飲み下した。そのまま喉へ流れた潤いを求めて、貪るようにアシャの唇に吸い付いてくる。
(ユーノ)
これは手当て、気持ちも感情も伴わない緊急措置のようなもの、そう言い聞かせつつ、重ねた柔らかさにアシャもまた目を閉じて夢中になっていく。
(ユーノ)
いつか互いを求めあい、こんな風に唇を重ねることなどあるのだろうか。その時、ユーノは確かにアシャだと、感じつつ唇を与えてくれるのだろうか、今の自分が口づけているように。
薄く目を開け、ユーノを眺める。一番近しいものだけが見つめられる距離だ。動悸が高まる。
アシャの口から受け取れるだけの水を受け取って、ユーノは静かに口を離した。熱っぽい体をアシャの腕の中に委ねてくる。
「もういいか?」
問いに微かに首を縦に振る。そのまま、重く息を吐きながら、甦った痛みを堪えるように体を竦めるユーノを、そっと抱えて包み込む。熱を立ち上らせるユーノの体の香りが、腕の中で豊かに熟していくような気がして、とても手放せない。
(もっと欲しがってくれ)
俺を。俺の全てを。
口に出せない、状況に不似合いな渇望を胸に押し込めようと目を閉じると、脳裏に蒼白な顔で笑ったユーノの顔が過った。
(すがるような目)
今にも崩れ落ちそうな、セレド皇宮でほんの一瞬わずか数回、感情を自制し損ねた時のみ揺れた、深くて脆い眼差し。手を差し伸べずにはいられない、その目をユーノはめったに見せようとしない。
(だがもし)
それを見た者なら、その目に見つめられたなら、魅かれるに違いない、この相手を支えられるのは自分しかいない、そういう自負に煽られて。
(それでも)
ユーノを支えるのは並大抵の覚悟でも努力でも無理だ、アシャにもわかりつつあった。この気丈な魂は、容易には人の手を受け入れない、想いを、願いを受け止めようとしない。
「あんまり、無茶をしないでくれ」
無駄だとわかっているが口にした。
「俺の方がどうにかなりそうだ」
危うい境界を、自覚のないまま越えそうになる。
胸に頬を預けて、静かな寝息を紡ぎ出した相手を、力の限り抱き締めたくて、必死にこらえながら床に降ろした。




