5
(!)
ふいに頭を貫いていった痛みにアシャは眉をしかめた。
アシャの短剣が持ち主を失い、主を探して呼んでいる。どこかに置き去られ捨てられているのだ。
(まさか、ユーノ)
ぞくりと身を震わせて、アシャは泳ぐ速度をなお早めた。
あの短剣は視察官の持ち物だ。力を増幅し、命の均衡を破る働きを強めている。それが、『ラズーン』の力で限りなく巧みな制御を保っている『運命』の体に効果的なのは、回復よりも速く組織を分解していくからだ。危険極まりない代物、だからこそ視察官一人一人に条件づけられ、万が一奪われるようなことがあったとしても、視察官が許可しない相手であったなら、短剣は必ず元の主に所在を知らせる。
その短剣が今、誰の管理下にもないとアシャに所在を訴えている。
(ユーノがあれを手放すはずがない)
武人ならば、誰でも獲物へのこだわりは持っている。ましてや、ユーノがあの短剣を祖末に扱うはずもない。
それでは? それはどういうことなのだ?
アシャは必死に痛みの方向へと水中を進んだ。痛みはますます強くなり、距離が縮まっているはずなのに、前方にはユーノどころか、あの巨大なガジェスの影も形もない。
(ユーノ!)
堪え切れず、胸の中で強く呼んだ。
(どこにいる!)
水は静かだ。戦闘の気配は残っていない。ユーノは無事に切り抜けたのか、それで短剣を手放す羽目になったのか。それならいい、それの方がずっといい。だが危機感は募るばかり、短剣の伝えてくる強い痛みが悲壮感を掻き立てる。
(どこにいるんだ!)
これほど苛立ったことはない。これほど不安だったことはない。
数々の戦闘を指揮してきても、これほど自分の無力を感じたことがない。
(生きていてくれ)
死なないでくれ。あんな形で、俺を置き去りに、1人で逝ってしまわないでくれ。
(探すしかできない)
他には何も、そう、祈るだけ。
(滑稽だ)
みっともないにもほどがある、だが。
(ユーノ!)
胸が願いを叫び続ける。
やがて前方の深みにぼうっとした黒い塊が見えてきた。岩に引っ掛かったせいで、それ以上沈まずにすんでいる、その不安定な姿勢でぐたりとした塊の端にきらきら光るものがある。
「っ!」
見間違えるはずもない、身を翻して塊に近づき、息絶えたガジェスと気づく。
巨大な怪物の眼には既に薄い被膜がかかっていた。アシャが泳ぎ寄っても身動き一つせず、とっくの昔に事切れているとわかる。致命傷は眉間に突き立った短剣、額を左右に断ち割るかのように深々と刺さった正確な一撃、ガジェスの唯一の急所がここだと知っていたとしか思えないほどの見事な攻撃。だが、それを遂げたはずのユーノの姿がどこにもない。
(どこに…)
周囲を見回し、泳ぎ回り、岩陰や絡まる水草の間に傷ついた姿を見つけられないかと探したが見つからなかった。もちろん、遥か上空、水面近くに至るまで、人影はない。
(ひょっとして)
ガジェスの顔を踏みつけて短剣を抜いた。固まり切っていない血がゆらゆらと立ち上り、冷えた水をより冷やし,汚していく。よく見ると二対あるはずの手の一対がない。切り落とされた傷口、一緒にいた『運命』の姿もない。
(殺られたか、相打ちか)
ガジェスの体に立って、端から底を覗き込む。暗く澱み光を拒む水底へ、ガジェスの体から零れ落ちた重い血が岩を染めながら流れ落ちていくのが見える。やはりユーノの姿はない。だが、なお底へと目を凝らすとそこに。
「…」
さながら枯れ枝に絡まれたように、ガジェスの手に引き裂かれて残る、見覚えのある衣の切れ端を、アシャはぼんやりと眺めた。
(この、底か)
潜るなら、酸素発生剤がいる。
のろのろと向きを変える。
息苦しさに焼け付く胸がどうでもよくなった。
(何と言う失態、アシャともあろう視察官が)
手にした短剣の輝きを眺める。
(レスファートに、何と言う?)
脚の下にあるガジェスの硬直した体を見下ろす。
(ラズーンにどう申し開きを?)
貴重な『銀の王族』を太古生物に殺されてしまいました、ええ私はついておりました、ラズーンのアシャが、視察官屈指の私が。
(貴重な)
相手を。
(かけがえのない)
世界にとって、ラズーンにとって。
(ユーノを)
俺は失った。
「っっっっっ!」
ふいに込み上げた激しい怒りに我を忘れた。
短剣を逆手に持ち、一気に足下へ突き立てガジェスを貫き、アシャはそのまま激情を解放する。
「っっっっっぁあ!」
口から溢れ出す空気と絶叫、ガジェスの体が膨れ上がり圧力を高め。
「あああああ!!!!」
爆発するように飛び散る。
水が泡立ち、周囲が一気に血潮に濁り、視界を闇が閉ざし、怒りが思考を沸騰させる。
(俺は、俺は、俺は)
一体何をしている。
(付き人じゃないのか、主じゃないのか!)
選んで側に侍って、なのになんだこの無様な結果は。
何度も仲間の死に立ち会った。作戦の失敗、思わぬ突発事態、無茶をする部下、異常な状況、急激な展開と緊急退避。
それでもその経過は、その時選べる最善の道だったと今でも言い切れる。己の根本的に虚しい命でも、それもまた世界の在り方の一つなのだと受け入れてきたと同じように。
だが。
(ユーノ!)
鼓膜を破る自分の悲鳴を聞いている。
(ユーノ!)
吹き零れる涙が湖の水を増やすほどに思える。
(ユーノぉ!)
嘆きが幼いのに気づいている、それはレスファートの声と同じ、逆らい難い運命に向かう自分の小ささへの怒りだ。
周囲から吹き飛んだ屍体と岩と水草がばらばらと振り落ちてきた。アシャの周囲を真っ黒な雨のように満たし、より深い水底へ落ちて落ちて落ちていき……。
やがて、水が冷ややかに澄んでいく、まるで何事も起こらなかったかのように。