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「伝説?」
冷えてくる夜気の中、温かな火の側で、ユーノは手にしていたスープの椀から顔を上げた。炎の光がゆらゆらと揺れ、滑らかな頬に浮かんだ表情を隠す。
「過去を葬る場所、以外の?」
「ああ」
アシャは椀の中身をゆっくり飲み込み、頷いた。訝しそうに眉を寄せる相手を見る。
「聞いたことないな、そんな話」
「ぼくも」
レスファートがユーノにお代わりを頼みながら首を傾げる。
「熱いからね」
「うん」
こくんと頷いて、中身をふうふう吹き冷ましながら、レスファートはアシャに視線で続きを促す。
「もともとは、その伝説から『忘却の湖』と呼ばれるようになったんだがな」
アシャは苦笑して話し始めた。
いつの頃のことかはわからない。とにかく遥か昔、ラズーンがこの世を治め始めた頃、この湖の近くには小さな村があった。
村には血気盛んな若長と彼を愛する娘が居た。
ある日、若長は不思議な噂を聞いた。湖に得体の知れない魔物が棲みついたというのだ。
魔物は夜な夜な子どもの夢に現れ安らかな眠りを奪うばかりではなく、病む者の心を騒がせ湖に引きずり込むようで、やがて村の中でも行方知れずになる者が現れた。
村人の不安をなだめようと、若長は娘が止めるのも聞かずに湖に出かけ、真実を明らかにすると短剣を携えて飛び込み、魔物が棲むという深い藍の水底へ身を沈めて行った。
娘は心配で心配でたまらない。湖の側に立ち尽くして若長の帰りを待ったが、待てど暮らせど若長は戻らない。
「死んじゃったの?」
レスファートがごくん、と急いでスープを飲み込んで尋ねた。熱かったのだろう、はふ、と舌を出しながらアシャの返事を待っている。
アシャは、旅の夜空に昔語りをする老人のように、ゆっくり重々しく頷いてみせた。
「しばらくたって、娘が居ても立ってもいられずに、ついに湖の岸から水に足先を浸した時、わらわらと底から湧き上がった黒いものが目に留まった。驚いて娘が足を引いた瞬間、それは見る見る広がって水面を真紅に染めた」
見たとたん、娘は湖に身を躍らせた。若長の運命を嘆いて身を投じたとも、最後まで諦め切れずに探そうとしたとも伝えられるが、翌日、娘は湖の岸に打ち上げられて倒れていた。幸い命は別状なく、数日たって回復したのだが。
「娘は全てを忘れ去っていた」
レスファートは瞬きもせずに聞き入っている。
「自分が何をしようとしていたのか、若長がどうなったのかも、いやここがどこで、自分が何者かも、全て忘れてしまった娘を見て、人々は湖の神が娘の哀れな願いを聞き届けて、悲しみごと心を持ち去ったのだろうと噂した」
後に、娘は湖の神に仕える巫女として、ほとりに粗末な小屋を建て、余生をそこで過ごしたと言う。
「ふうん……」
「あ」
ユーノが何かに呼ばれたようにひょいと首を伸ばした。
「そう言えば、向こうの端の方に白い建物があったね。石造りの結構大きな建物だったけど、飾りも何もない、質素な感じの……あれがそう?」
「ああそうだ」
面白いだろう?
「伝説だと言われているのに、その伝説のままに湖の神に仕える巫女達が居て、ああやって暮らしている」
「じゃあ、ほんとの話? そこにいる人は、みんな、好きな人が死んじゃったの? ここには今も魔物がいるの?」
レスファートが、不安そうな顔になって、少し離れた入り江をひたひたと打つ波の音に改めて気づいたように、そろそろとユーノの側へすり寄る。
「そうとは限らないんじゃないかな」
ユーノが残りのスープを勢いよく口に流し込み、ごちそうさま、と唇を舐めた。
「自分で神さまに仕えたくて来た人もいるんじゃない?」
「じゃあ、その神さまが好きなの?」
「うーん、そうともいえるかも……」
(だといいんだがな)
レスファートに首を傾げてみせるユーノの横顔に、アシャは気取られないように椀を傾けた。
実はサマルカンドがもたらした情報では、この辺りにもぼつぼつラズーン支配下を離れ始めている地域があるらしい。湖周囲は野営に一番いいし、ユーノがここへ立ち寄ることを強く望んでいたこともある、見た感じではそういう気配もなかったから天幕を張ったが、注意するに越したことはない。
『たとえ……絶対届かないとしても』
ふいとアシャの耳の奥に、ユーノの柔らかな声が響いた。
湖のほとりで、まっすぐ水面を見つめながら、風に紛れるように呟いた声。
呼びかけたアシャの声にも全く気づかないほどの深い物思い、振り返った黒い瞳がどぎまぎと揺れながら微かに潤んでいたのを見逃すアシャでもない。
(誰を想っていた?)
アシャの声も聞こえぬほど強く、誰の面影を追っていたのか。
焼け付いた胸を冷やすもの、そう考えて唇に目を留めたのも、聞こえなかった部分でその相手の名前を呼んだのではないかと苛立ったせいで。
我ながら何をやっている、自分に突っ込みつつ迫ったのはあっさり買わされてしまったが。
(まあ約束は取り付けたのだし)
ユーノのことだ、そうそう違えることもないだろう。それはそれでこの先の楽しみにすればいい。
(問題はどのあたりまで支配下を離れているか、だな)
それによって、ガズラをどのように通っていくか考えなくてはならない。
(できるだけ安全に)
できるだけユーノが危険なことに巻き込まれないような道を。
頭の中で次々とラズーンへの道を幾通りも組み合わせ始めたアシャに、
「イルファは?」
レスファートが口を動かしつつ尋ねてきた。
「あ? ああ、薪を集めに行ったはずだが」
「にしては遅いよね」
ちょっと見てくる、レスファートを頼む。
言い捨てて、はやユーノは剣を手に火の側を離れていく。
気にはなったが、周囲にこれだけ人間が野営している、めったなこともあるまいと目を戻すと、レスファートが再び空になった椀を片手に鍋の方へ手を伸ばしていた。
「お代わりか」
「うん、昼間イルファとやりあって、お腹へった」
「ふうん? ………ところで何杯目だ?」
よそってやって差し出された小さな両手に乗せながら問う。
「4杯目?」
「そんなに食べたのか?」
珍しい、と眉を上げると、相手は澄ました顔で椀にさじを突っ込みながら続けた。
「食べられるときに食べとかなくちゃ」