3
「!!」
干涸びて互いの組織を張り付かせたような胸の痛み、顔を歪めてユーノは『運命』を睨み降ろした。アシャの短剣を抜き放ち、体を潜り込ませてねじ曲げる、だがその意図を察した『運命』もまた、黒剣を手に体を伸ばし、水中とは思えない素早さでユーノの片腕を薙ぐ。
「ぐ!」
激痛に視界が眩んだ。
もわり、と黒い煙のように、ユーノの腕から水中に血が広がる。剣を放しかけたユーノを見つめる『運命』の眼、真紅の輝きが残忍な喜びをたたえて笑み綻ぶ。力をなくしたユーノを引き寄せる腕、勝利を確信したその時、『運命』に僅かな隙ができる。引き寄せられるのに乗じて咄嗟に短剣を構え直し、はっとして身を引く『運命』の肩を掴む。そのまま自ら水底へ突っ込むようにのしかかって、相手の胸に短剣を突き立てる。
「ぎゅ!」
『運命』がもがいてユーノの足首を放した。白く黒く不気味な泡を吹き出す傷口を押さえて沈む『運命』を蹴り、ユーノは一気に水面へ浮上する。
「ぶっ、はっ、は、はあっっ」
セレドには海はない。水練の必要性もなかったが、それでも敵に水面下に体を沈められることはあった。もし川底深くに追い込まれたら、そう考えて密かに呼吸訓練をしていたのが役立った。
荒い呼吸を繰り返しつつ、傷と冷水に痺れて無感覚になる右腕から、短剣を左腕に持ち代える。あんな一撃で終わる相手ではないだろう、そう思って転じた目に、水面下から急速に迫ってくる影がある。
(来たな)
こちらが助かったと安堵しているところを不意打ちするつもり、そう踏んで、思い切り息を吸い込み逆襲しようと潜ったとたん、目の前一杯に怪物の顔が広がった。
(速い!)
「っっ!」
反射的に短剣の柄を右手で支え、怪物にまっすぐ突き立てた。一瞬短剣が黄金に光り、怪物が激しくもがき暴れる。水が波打ち、ユーノの傷という傷をこじあける。
「あぁっ!」
跳ね飛ばされた、次にはもう水中深くに引きずり込まれていた。必死に吸い込んだ空気が圧力で口から零れる。かろうじて抜いた短剣が、左手の先で微かに輝いている。
ほんのわずか、意識が肉体を離れたのだろう。我に返った時には、背後から首を絞めつけられていた、抵抗しようとする右腕の傷を強く捻られ、激痛に悲鳴を絞り出して息を吐く。体が硬直し、視界が真っ黒になり、頭の中が闇に沈む、けれど気を失わない何かが、ユーノの左腕を動かしていた。ゆっくりゆっくり水流を巻き起こさない、気配を消した緩慢な動き、だが、ある一点を越えたとたん、ためらいなく『運命』の脾腹へ貫き通さんばかりに、短剣の切っ先を突き入れる。
「ごぶぁあああ!」
重苦しい絶叫を放って、『運命』がユーノの体を放そうとした、が、今度はユーノが放さない。食い込ませた短剣に渾身の力を込め、傷ついた右腕で相手を抱え込みながら、なおも深く突き込んでいく。
「がぶっがばぁ!!」
白く濁った煙じみたものが『運命』の傷口から広がり、焦げ痕のような裂け目がみるみる大きくなっていった。顔をひきつらせ、痙攣し、大きく口を開けて空気の奔流を吐き出しながら、『運命』はもがく、もがく、もがき続け、ふいにくたりと力が抜けた。抱えていたユーノの腕からも短剣からも、得体の知れない物体のように崩れて抜け落ちていく。
「っ…」
そのぞろりとした感触に無意識にユーノは震えた。
(人、じゃ、ない?)
あれはあれはまるで、なにか、生きている人形、のような。
(あれは、一体)
何、なんだろう?
(あんなものが、世界に居る、なんて)
ぞくぞくするのは水中だからではない、恐怖や傷みだけでもない、命の根源を否定されるような不安のせいだ。
(なぜ、あんなものが、存在するんだろう?)
ふいに湧き上がったその問いに、アシャの姿が重なるのは、この手にした短剣がアシャのもの、だからだろうか。
そのまま、岸から捨てられた金銀財宝があちらこちらに点在する水底へ、『運命』の体は土人形のように2つ、3つ、5つと砕け、やがて数え切れない無数の破片となって融け落ちていく。
(とにかく、やった、んだ…)
それを見下ろしながら、ユーノは襲ってきためまいをこらえた。体力も気力も限界だった。のろのろと上へ向けて水を掻き始める。少しでも速く水面に辿りつかなくてはならないと思うのに、それがひどく難しいことのように思えた。揺らめく視界、揺らめく髪、ふわりと顔を包む、その瞬間。
(!)
本能が警報を鳴らした。




