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一方、ユーノは。
(体が、凍りつきそうだ)
視界はほとんどきかなかった。どす黒く濁った水は、深く重く四肢を縛り体を押さえ込みにかかってくる。深く、なお深く潜っていく、その少し先にあの怪物が居ると気配が知らせる。体のあちこちの傷に水の冷たさがぎりぎりと食い込んで、疲れ切った感覚を呼ぶ甘い眠りに引き込まれずにすんだ。
潜り始めてすぐ、水の抵抗を考えて長剣をおさめ、アシャの短剣だけを手にしていた。手を先に伸ばすと、濁った泥のような水の中で短剣は淡い光を放っている。
(不思議な剣だ)
剣の輝きにアシャの黄金の髪を思い出して安堵し、続いて、水に飛び込む寸前に見たアシャとマノーダの姿を脳裏に甦らせて、胸が痛んだ。
旅を終わらせた暁には見るのだろう。アシャとレアナが寄り添う、同じような光景を。
(幸せに、なって)
苦しい息をなお封じ込めるように唇を噛む。
(他の、誰よりも)
レアナと結ばれれば幸福なのだ。セレドで何度もそう聞いた。レアナを妻にすることは、男にとって至福の喜び、永遠の幸福を意味するのだと。ましてや、アシャがレアナを望み、レアナもまたアシャを望むのなら、そこに傷みのあろうはずもない。
(アシャ)
初めて自分の姿を忘れるほど心を奪われた人。
その幸福以外に何も望まない。
(どうか、どうか)
自分ができることなら、命かけて貫くから。
(幸せに)
固く眼を閉じ祈りを込め、振り切るように、強く唇を噛みしめて、再び眼を開く。
水盤からは微かな流れがあるようで、四肢をゆったりと広げて両手を動かすと、薄闇のような水の中をそれほど苦労することもなく運ばれてきた。自力で泳ぐよりはうんと速く深く潜ることができた様子、それでもかなり息苦しさが増してきたころ、ふいに周囲の雰囲気が静まったのに体を立て直す。
(水が、動かなくなった)
同時にわずかながら周囲に空間が広がり、視界が戻ってくる。
(ひょっとして、ここは)
藍色に霞む水の色に覚えがある。
(忘却の湖?)
水盤の底が湖の中に続いているのだ、そう思った瞬間、前方に黒々とした塊が動いた。はっとする間もなく、『それ』が物凄い勢いで突進してくる。
(っ!)
思いきりぶつかられて、口から漏れた空気が銀の玉となって頭の上の方へ飛び散ったのが見えた。かろうじて腕を交差して受け止めたつもり、それでも水中であることを越えた衝撃に飛ばされ、くるくると体が舞う。乱れる視界の片隅で、突進してきた『もの』の背中にしがみつく、黒い人影を見た気がした。
(『運命』!)
目を見開いたユーノは、叩きつけられる寸前で岩を蹴りつけて向きを変えた。通り過ぎた怪物が滑らかに身を翻し、再び真正面から突っ込んでくる。濁った水の中でも光る眼が、自分をしっかり凝視しているのを感じて、ぞくりとしたのを叱咤する。
(しっかりしろ!)
狙われるのが初めてってわけじゃない、怯えてる間に屠られるぞ。
(く、そ!)
怪物の背に掴まった『運命』の髪が、水流にわらわらと巻き上がっている。怪物とともに押し寄せてくる水圧に胸が押し潰されそうだ。背後へ押し流されて岩と岩の間に埋め込まれそうになるのを、岩を蹴り直して必死に逃げる。何とか進路から外れたものの、暴れ狂う水流に飛ばされ、どことも知れない場所へ放り出される。
(くう、き)
水面を求めて見回した目と、怪物の金色の目が合った。互いに相手の意志を読み取り、同時に動き出す、ユーノは上へ、怪物はなおその上から行く手を遮ろうとして。必死に岩場をすり抜けて逃げる、急速に明るくなってくる水は、水面が近いことを知らせている。焼け付く胸に僅かでもいい、新しい空気を取り込みたい。
(もう、すこし、もう)
手を伸ばす、指先が一瞬水の皮膜を突き破りそうになる、瞬間、足首を握られた。
(っっ!)
振り向いた視界、いつの間に怪物の背中から離れていたのか、『運命』の冷たい笑いが間近にある。
「っぐ!」
とっさに蹴ろうとしたもう片足を掴まれ、両足をしっかり握られて、突然巨大な岩塊になったように重さを増した相手に、一気に水底へ引きずりこまれる。
「っぁ」
ごぶっ。
ユーノの唇から残り少ない空気が溢れて、彼方の高みへ逃げ去る。




