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「う…ぁあ…」
ナストが口を押さえて壁際に走り、しかしそこでもまた、転がった死体が同様に得体の知れない腐臭漂う液体になっていく様にぶつかって、真っ青になって飛び退いて戻ってくる。
「く…」
思わず口元を袖口で覆い、周囲を見渡せば、倒した敵、先ほどまで傷みに呻いていたはずの命ある肉体が、まるで最後の繋ぎを引き抜かれたように次々崩れ落ちている。
「ひどい……ひどい、よぉっ!」
レスファートがもがきながら喚いた。
「ひどいひどいひどいっ!」
こんなのあんまりだ、敵だけど、あんまりだ! みんなみんなこわがってる、心の底でこわがってる!!
「とけるって! とけたくないって! 助けてって…っっ!」
レスファートの悲鳴に、心を切り離せ、と少年を抱え込みつつ、ふと、それらの液化していく死体の上にもやもやと固まっていく黒い煙のようなものをユーノは見咎めた。
「あれは…」
ユーノの呟きに、それ、がゆらりと向きを変えた。
「……お前……」
相手もユーノを認めたのだろう、じりじりと次第に人の形を取っていく。
「ナスト…」
「は…はぃ」
頼りなく応じ、ぐぅ、と喉を鳴らしつつ近寄ってきたナストに、ユーノはそっとレスファートを押しやった。少年を追うように、黒い塊が揺れるのに両者の間に立ちはだかる。
レスファートは格好の獲物になってしまうかもしれない。心を開き、共感しやすい、『運命』の好む依代の器として。
「ユーノ…」
「レスを連れて……神殿の奥へ……アシャに合流して…」
囁くように命じる。
「で…でも」
「いいね」
ぴしりと決めつけた。
イルファは当てにならない。こいつをここで足止めしなくては、次はレスファートがあの融け崩れた死体になるかもしれない。
「し…しかし、あなたは…」
「ボクはこいつを引き止める」
面白い。
黒い塊は薄く嗤ったようにユーノに向き直った。密度を高めつつ、じりじりと距離を詰めてくる。
「ユーノ! だめ! こいつ、強いよ!」
「だろう、な」
冷えた声で応えて、ユーノは剣を抜いた。不意打ちは効かない。こけおどしは意味がない。
「行くんだ、ナスト」
「は、はい」
「ユーノ!」
「レス、アシャを見つけるんだよ!」
そうしなければ、ここから出られないかもしれない。
胸の内で吐いた声をレスファートが聴き取ってくれているといいが。
動き出したナストとレスファートに、そうはさせまいとするように人の影のような形になった黒い塊が動いた。真っ黒な剣が影の内側からいきなり抜き放たれてナストに打ちかかる。寸前、間に体を滑り込ませたユーノが、ナストの肩を削りかけた切っ先をかろうじて受け止める。
ガキッ、と鈍く重い音が響き渡り、衝撃を堪えるように影が止まる。
「へえ、実体なんだ?」
ユーノは相手を睨みつけて嗤った。それから振り返らないまま、
「走れっ、ナストっ!」
「や、ゆ、ゆーの!」
「ごめんよっ!」
ナストが真っ青な顔をして、レスファートを抱え込みながら視界の端を駆ける。
「ユーノ、ユーノ、ユーノぉ!!!」
身もがきしながら叫ぶレスファートに応える余裕はユーノにはなかった。じわじわと剣を押し返されていく。
「姿を……見せろよ…」
そいつは実体じゃないんだろ…?
堪えながら呻くユーノに、黒い影は嘲笑するように再び揺らめいた。剣を構えた手から波に似た揺らめきが伝わっていき、黒い鉄粉が剥がれ落ちていくように、いつか見たことのある姿が現れる。
漆黒の髪が肩から背中に流れている。真紅の瞳はこちらの心を侵すような禍々しさに満ちている。瞳に劣らず赤い唇が、にんまりと笑む。黒づくめの服をぎっちり身にまとっている、のに、その内側には虚ろな空間が感じられ、開いてみても肉体はないかもしれない。
ぎち、と合わせた剣が音をたてた。噛み合った部分から黒い剣がユーノの剣に齧りついてくるようだ。ほてる頬を、弾む息に熱気を吹き上げる体を、粘りつく汗が滑り落ちていく。
「く、ぅ」
剣を両手で支え直してなお、ユーノは押される。
『運命』は眼を細め、満足そうに剣もろともユーノの上にのしかかってくる。




