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数日間は瞬く間に過ぎた。
今日は祭りの最終日、いよいよ作戦決行の日だ。
アシャは与えられた一室で手入れをすませた剣を鞘におさめながら、ゆっくり周囲を見回した。
イルファは、またどこかの家の馳走にあずかっているのか、姿がない。ベッドではレスファートが、丸くなって眠っている。
馬や荷物は神殿近くの林に隠してある。
後は宙道の出入り口を見つけて開放すればいいだけだ。
(四人…か)
アシャは眉を寄せた。
それほど多くの人間を一度に宙道に連れ込むのは初めてだ。
(もってくれればいいが)
確かに宙道には『運命』も『運命』支配下の人間も、おいそれとは踏み込めない。だが、別の厄介な人間を引き込む可能性は十分にあった。ラズーンへの反逆者、視察官の裏切り者、ギヌア・ラズーンだ。彼なら、アシャの開放した宙道を辿れないことはないだろう。
もし万が一、宙道を進む最中にギヌアの攻撃を受けでもしたら、さすがのアシャでも生き抜くのが難しくなる。
だからといって、宙道を使うのを止めようとは全く思わない。
(ユーノに、これ以上傷を負わせたくない)
ただでさえ無鉄砲で、引き止めても引き止めても、危険の中へ自分から飛び込んでいってしまう娘なのだ。なまじ強くて優しいから、仲間を守るためならと繰り返し死地へ向かってしまう。傷を受けても悲鳴も上げない助けも求めない。一人で耐えるか、そのまま逝ってしまいたがる。
(今まで生きてこれた方が不思議だな、いくらレアナ達を守るためとは言え)
溜め息をつく。
出会うまで、ユーノがどれほど危うい夜を過ごしただろうと思うだけで、今のアシャは背筋が凍りつく。
(たった十七の娘が、こんなものに縛られて)
胸のセレドの紋章ペンダントに触れた。
美しく穏やかなレアナ、しとやかで従順なミアナ皇妃、温和で陽気なセレディス皇、おしゃまで愛らしいセアラ。
確かに誰も愛すべき人々、だが、その家族を守ろうとするために、ユーノは一人で死線を彷徨い続けてきた。本来なら、幸せな恋と優しい家族、華やかな夜会と貴族達の賞讃という、少女の望みうるもっとも美しいものを手に入れられる立場にあったはずなのに。
ユーノは自分の『銀の王族』という運命に背を向けてまで、戦いの暗闇へと踏み出していく。
(……ある意味では)
誰よりも『銀の王族』にふさわしいのかもしれない。
(人の哀しみを見過ごせず、自分の傷みを振り切って人を守ろうとする)
『銀の王族』の命は、まさにそのためにこそ準備されているのだから。
セレドのような平和な国、幻の人の世界を保つ願いのためだけに。
「……」
思わず零した吐息の幼さに気づき、アシャは苦笑いした。
(まだ、惹かれていく)
ユーノの激しい優しさに。
(とめようもなく、限りなく)
目を伏せる。絞られていく胸が切なくて痛い。
(それに、ときどき、あんな瞳をする)
ラオカーンの詩を聞きながら、ユーノはどこか寂しげな頼りない色を瞳に滲ませていた。
決して手に入らぬものを強く想うような、なのに、そういう自分を嘲るような感情の波。
(何を望んで……何を諦めようとしている?)
アシャを見返した黒い瞳が、ほんの一瞬泣きそうな、すがるような色をたたえて潤んでいたように見えた。こちらの胸を締めつけて、ついつい理由を尋ねさせるような顔、なのに、やはり一瞬後には、目の錯覚だったかのように消えてしまった表情だった。
(何が足りない)
剣の腕や豊かな知識や美貌や才能ではないのは確かだ、それらをどれほど見せてもユーノは揺らぎもしない。
(俺の何が、ユーノの望みを満たさない?)
「……だから…求めてくれないのか……?……」
溜め息を重ねて首を振り、ベッドでくうくうと気持ちよさそうに眠っているレスファートをそっと揺り起こす。
ユーノをうまく連れ出せるかどうかは、レスファートの腕にかかっている。
「レス」
「う…ん」
「レス、起きろ」
「んー」
「アグナイを出るぞ」
「ん!」
がばりとレスファートは跳ね起きた。アクアマリンの目を見張ってアシャを見つめる。乱れてくしゃくしゃになったプラチナブロンドは、レスファートが数回頭を振ると、すぐにさらさらと乱れを解いて肩に滑り落ちる。
「手順はわかってるな?」
「うん! わかってる。『へま』はしないよ」
イルファあたりから聞き覚えたのか、生意気な口調で言いながら、レスファートは目をこすってベッドから降りた。
「荷物はもう向こうに用意してあるから」
「うん。きっとユーノをつれてくよ」
「頼んだぞ」
頷いて部屋から外へ走り出していくレスファートを見送り、アシャは部屋の中を改めて見直した。忘れ物はなさそうだ。
袋から伝言を書いた布を取り出し、テーブル中央の灯皿の下に挟む。
『急ぐ旅、追手を引き連れている旅です。失礼とは思いましたが、麦祭を使わせて頂きました、申し訳ありません。このお礼はいつか必ずいたします。ラズーンのもとに。 アシャ』
見る者が見れば、最後の名前の価値を見抜くだろう。そして、それは、この村にとってよい見返りをもたらすはずだ。
灯はそのままに、そっと家を出る。
「さて、イルファの奴を探してくるか」
呟いて、アシャは闇の中へ姿を消した。