5
ふ、と。
突然、ユーノの頭の中が空白になった。
静かで透明な空間。
遮るもののない渺々と白い世界。
沈黙と、静謐。
次の一瞬。
「……っっっ」
いきなりすべての意識と感覚がその空白になった部分に注ぎ込まれ叩き込まれ、呑み込まれ、圧倒される。
自分の顔が表情を消したのがわかった。脚がゆっくりと振り上がっていく。動かしているつもりがない。吸い寄せられる、あるべき場所へ、あるべき瞬間へ。しかも、それに目の前の『運命』が全く気づかない。視界に入っているはずなのに。これほど間近にいるのに気づかないはずがない、なのにやはり、その腹部へ爪先が滑らかに突き刺さるまで、ついに『運命』は気づかない。
「、っぐえっ!」
声を吐いた『運命』の顔は驚愕に歪んでいる。思いもかけない衝撃に手から黒剣が抜け落ちると同時に、ユーノの短剣は動いている。まるでそれを予想していたかのように、落ちてくる剣の切っ先をこちらの剣の切っ先一カ所で払いのけるという離れ業、続く一動作で翻した刃を相手の胸に突き立てる、それさえも、まるで予め描かれた軌道を辿るように整然と。
「ぎぇあああああっ!」
『運命』は耳を裂くような悲鳴を上げた。
「…え……?」
瞬きしてユーノは我に返った。既に短剣を引き抜き、次の攻撃の構えに入っている自分、なのに『運命』はまだ、仰け反り崩れ落ちていっている最中だ。
(なに……?)
「っっ…」
彼方に茫然としたテオの顔が見えた。表情が語っている、何が起きたのかわからない、と。
明らかに追い詰められていた、明らかに生き残るのは不可能だった、明らかに全てはもう遅かった、なのに。
なのに。
「!!!」
周囲を囲んでいた『運命』が顔を強張らせ引き攣らせて一斉に引いた。その動きのただ中に、ようやく、今倒した『運命』の体がどさりと落ち、短剣に刺された部分から異臭を放つどす黒い煙を吹き上げる。
(生き残った…?)
なぜ。
ユーノもまた呆然とする。
(なぜ、生き残った?)
なぜ、あの攻撃に対応出来た? なぜ、あんな露骨な反撃を『運命』は避けられなかった?
(まるで、見えなかったみたいに)
でもあれほど近くにいたのに、そんなことがありえるのか?
(それとも)
見えていても防げなかったのか?
(そういえば)
アシャに教えてもらっていた時、どうしても対応出来ない攻撃があった。速さではない、鋭さではない、時には、それが来るとはっきり見えていても、どうしても防げなかった。あれをユーノは自分が竦んだのだと感じたけれど、アシャは奇妙な笑みを浮かべて、それには同意しなかった。
(今のと同じ?)
反撃不可能な攻撃。
そんなものがあるのだろうか。
「っ!」
ぼんやりとした視線を囲む『運命』に向けると、その方向の『運命』が体を引く。別方向へ視線を転じると、そこでもまた。ぎらつく真紅の瞳が見据えて怯えているのは、短剣ではなく。
(私…?)
なぜ。
「ユーノっ!」
ばらついて混乱していたユーノの意識を、外から呼ばわるアシャの声が引き戻した。
(アシャ…)
バルコニーにもたれかかりながら、のろのろと見下ろす。さっきよりもっと隙だらけの格好、なのに不思議と囲む『運命』の配置も、動きも、息づかいさえも全て読み取れた。今飛びかかられても、おそらくは一撃たりと外さない、そう『わかる』。
(なぜ)
これは、何だ?
強くなってきた朝風に髪が乱れて視界を遮る、迷いながら戸惑いながら瞬きを繰り返し、けれど、下でアシャが両手を広げて待っている、その光景だけがはっきりと見えた。
「あ…しゃ…」
無意識に、微笑む。
(もう、大丈夫なんだ)
「ユーノ!」
アシャの声が遠くなる。崩れたバルコニー、のめり込むように揺らいだ体が軽くなる。
(もう)
甘い、吐息。
もう、戦わなくていい。
その思いを最後に意識が砕けた




