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「レス!」
アシャは『紅の塔』と『白の塔』のほぼ中間でへたっているサマルカンドと、それと絡み合うようにもがいて暴れているレスファートを見つけた。
「運んだのか、サマル。よし、よくやった…」
アシャの褒めことばは、レスファートの体に巻き付いている、目を射るような紅の布に途切れる。
「はやくほどいて、アシャ! ユーノがあぶないの!」
じたばたするレスファートの体から、ようようシーツの切れ端らしい布を取り去る。それは赤と朱と紅のまだらに染め分けられ、ところどころにねっとりとした血の塊さえこびりつかせている凄惨なものだった。
「ユーノの…ほうたいなの…」
馬に乗せられたレスファートが、馬の腹を蹴りつけるアシャに泣き出しながら訴えた。
「きずに…してあげた…ばっか…なのに……すぐに……だめになっちゃ……」
しゃくりあげる少年を、アシャは片手で強く抱きかかえてやった。怯えたように体を震わせながら、レスファートがしがみついてくる。
「ユーノは今どこにいる?」
「バ、バルコニー…っ」
掠れたレスファートの声に、より顔をしかめて唇を噛む。
(月獣の傷さえ癒えていないのに)
胸をかきむしられるような痛みが感覚全てを支配していく。
(俺がまだ治しきっていないのに)
これほどの無力感を味わったことなどない。
(今また一人で、敵刃に晒されて……こんなに血を流して)
ぎり、と無意識に噛み締めた歯が嫌な音をたてる。
(俺が、ようやく、血を止めてやったのに)
引き裂かれた傷を一つ一つ手当して。
(ようやく、動くときに顔を歪めなくなって)
なのに、また。
(そして、また、俺は側にいない)
「アシャぁ」
縋るようなレスファートの声に我に返る。
「しゃべるな、レス、舌を噛むぞ」
それでなくても、後の者が追いつけないほど馬の速度を上げている。
それでも、レスファートは必死にことばを続けた。
「ユーノ…だいじょうぶ……だよね……?」
「当たり前だ」
(それを、俺に確かめるのか)
大丈夫でなくてどうする。自分が辿りつけない間に、ユーノを失ってしまったなら。
生きている間に紡ぐ全ての祈りの力を、今この一瞬に集められるならば、今のアシャは何を引き換えにするだろう。
(命か、世界か)
レスファートを抱えた体を出来る限り馬の背に伏せて、アシャはひたすらに『白の塔』を目指した。必死に追いついて来た左右のイルファとテオも強張った顔、三騎の蹄が大地を削り、砂埃を舞い上がらせる。目の前の『白の塔』が引き寄せられるように、みるみる間近に迫ってくる。
「サマル、ユーノを!」
「クェアッ!」
クフィラが白い翼を剣の刃のように閃かせて、バルコニーへと空を翔た。
「イルファ! テオ! 基底部へ!」
「おうよ!」
「はいっ!」
二人が残りの配下を引き連れて『白の塔』基底部の入り口に突っ込んでいく。
それを横目に、アシャは少し離れた所で馬を止め、片手を真上に上げた。
これほど頭の回りがよくて次の手を的確に打ってくるなら、もう一つ先まで打たれている可能性がある。そちらを止めておかなくてはならない。
「アシャ?」
「…黙って」
「う…ん」
不審げなレスファートを制し、アシャは目を閉じた。
額に乱れ落ちてくる髪から、吹き付けてくる荒々しい風から、ユーノを襲っているだろう刃も、この一瞬は頭から閉め出し、気持ちを整え研ぎすます。一歩間違えば、この場を違う空間に落ち込ませてしまう。
「視察官の任として、この地を止める、アシャの名のもとに」
「アシャ…? あ…っ」
アシャの片手から溢れた金色の光に、レスファートが小さく声を上げて目を閉じた。光は目に見えぬほどの薄い膜の波動となって、アシャ達を取り巻いて揺れ、やがて、二つの塔を含む辺り一体を覆う黄金の天蓋となる。明け方の空を遮り燃え上がらせる金の布に、ようよう薄目を開けたレスファートが目を見張る。
「アシャ……これ……なに……?」
「今にわかる」
曖昧な笑みでレスファートを逸らそうとしたが、相手が揺らがない瞳で凝視しているのに苦笑した。
「…外からの敵を封じた。もっとも、中のものを外に出さない力もあるが」
自分が『運命』に破れることはあり得ない。最悪ただ一人生き残るなら、それはアシャに決まっている。
だが。
(ただ一人、なら)
そこにユーノの命がないと納得することなど、きっとできない。
万が一、アシャが『暴走』したのなら、『太皇』率いる『泉の狩人』が駆けつけるか、野戦部隊が包囲するまで、致命的な破壊を封じなくてはならない。
(自ら放ったオーラに包まれて消滅する)
それも構わないと、既に自分の中では結論が出ていることだが。
(世界を永遠の闇で支配するぐらいなら)
あの渺々と寒い草原の遺跡でそう決めた。
(所詮、産まれるはずのなかった命に、幸福な未来など望めるはずもなかったのだと)
「でも、アシャ」
殺伐とした想いに沈みかけたアシャを、レスファートが呼び戻した。
「ぼくたち、どうして出ればいいの?」
きょとんとした表情はアシャの絶望を透かし見た気配はなかった。最愛のユーノの危機に見事駆けつけた、だからきっと間に合うはず、だからきっと皆で、この二つの塔から再び旅を始めるのだ、そう信じて疑わない瞳に虚を突かれた。
「あれは、なくなるの?」
黄金の天蓋がしずしずと広がり落ちてくる様子を指差す。
「…そのときは」
「うん?」
「封印を解く」
「ふういん?」
なおも問い続けようとしたレスファートの声は、響き渡ったイルファのどら声にかき消される。
「だめだぞ、アシャ!」
基底部でのやりあいに手こずりながら、珍しく弱音を吐く。
「こいつら、どこにいやがったんだ! 手練ばかりで、とても上まで辿りつけねえ!」
アシャが見やれば、イルファだからこそ報告できる余裕がある状態、テオは押し寄せる相手に呑まれまいと必死だ。
同時に、下からの迎撃が伝わったのだろう、バルコニーでの剣戟が激しさを増し、思わずはっとする。
「ユーノ!」
ほっそりとした人影が一人、バルコニーの端に追い詰められていた。円柱の間から見える下半身が妙に赤黒いばかりか、攻撃を避け、躱し、受け止めるたびにバルコニーに叩きつけられる、その手すりにべったりとした黒い汚れがなすり付けられていく。
「ユーノッ!」
背筋を駆け上がる悪寒、あれは血、ではないのか。
バルコニーの人影にアシャの叫びが届いたのだろうか、ふっと一瞬肩越しに振り向きかけた、その隙に打ち込んだ相手の剣を受け止めたのは短剣、金色の光が殺気立った横顔を照らす。
(間違いない!)
「イルファ!」
バルコニーを凝視したまま、馬を寄せていく。
「何としてでも敵を減らせ!」
「その、つもり、だが、な!」
手近の四人をぶっ飛ばし、再び基底部の入り口に突進しながら、イルファが叫ぶ。
「テオ、行くぜえ!」
「お、おう…っ!」
掠れた声が必死に応じる。