11
ゆらり、とテオ二世の体が一歩前へ動いた。
「テオ」
嫣然と笑み綻ぶミルバの笑みが、より一層広がる。
テオの背後で待つアシャは目を細めて、それでもことばを呑んだ。
「ミルバ…」
さっきまで響いていた阿鼻叫喚は、次第におさまってきてはいるものの、時折、人の心をひきむしり号泣するような悲鳴が上がっている。
一歩、続いてもう一歩、テオがミルバに近づく。テオのグレイの瞳は、彼の心の煩悶を映して暗く、乱れたプラチナ・ブロンドに煙る顔の輪郭の線がずいぶんときつくなっている。
「テオ」
ミルバは玉座を降りて、いそいそとテオの側に駆け寄った。そうしながら、テオ二世の背後で黙然と事の次第を眺めているアシャに嘲笑を投げかける。
アシャはきつく歯を食いしばった。
「ミルバ」
一瞬、テオ二世は立ち止まった。右手がアシャに預けられた剣を弱々しく探りかけたが、やがて力なくだらりと垂れ下がる。
「イ・ク・ラトール(誰よりも愛しい人)」
ことばが震え、瞳が潤んだ。
テオがどれほど酷な選択に耐えているのかは、誰の目にも明らかだ。彼は自分の死と王国の滅亡か、父母と最愛の人の最も無惨な死か、どちらかを選べと言われているのだ。
「父君……母君…」
再びテオは両親に目をやった。濁って生気のない目で笑み返す父母に、優しく哀しい視線を投げる。
「あなた達はぼくを大事に育てて下さった。誰より慈しみ、誰よりも守って下さった」
低い掠れた声がテオの唇から漏れる。
「その御恩を忘れるわけではない、また、忘れることなどできない………けれど、ミルバは誰よりも愛しい人……」
そのことばを聞いたミルバの瞳が嬉しそうに輝いた。
「だから、この方法を取ったとしても、許して下さいますね……?」
テオはミルバに左手を差し伸べた。作り物の人形の笑みも、これほど虚しいものはあるまいと思えるような微笑を満面に広げ、そのテオの腕にミルバが身を投げる。
と、そのミルバの顔が強張った。
「…え…?」
のろのろとテオを見上げる。
「辺境区の紋章、イワイヅタは、親株と切り離されても育っていくんだ、ミルバ」
まっすぐ前を向いたテオのグレイの目は、窓から見える明けていく空に向けられている。
だが、彼が見ているのは別のものだった。
荒涼とした大地に建てられている、眩いまでに白い塔、イウィヅタの浮き彫りが、その壁面を見事に覆う…。
「君には話したことはなかったね」
テオは引き攣った顔で彼を見上げるミルバに視線を落とした。つうっと、その瞳から澄んだ涙が溢れて頬を伝い、ミルバの髪へと零れ落ちていく。
「古来、辺境区の王子は、そのイワイヅタの習いに従って育てられる。分かれたそのとき、既にイワイヅタが別株として己の生を全うするように、王子もこの世に生を受けたそのときから、自分の命を貫くためなら親を振り返る必要はない、そう教えられて育つ…」
テオの瞳の優しさと裏腹に口調は切なく、終わりを知ったように静かだった。
「それが、己以外に守ることのできない、辺境区の掟なんだ」
「! …あぐっ」
突然、テオの右手が鋭く動いた。
ミルバが体を強張らせ、自分の体が力を失ってずるずる崩れ落ちるのを押しとどめようとするように、テオの腕に縋る。その華奢な背中から、どす黒い煙が立ちのぼり、見る見る範囲を広げていく。耳にしたくない音ーー泥状のものが、かろうじて保っていた形をふいに崩したようなーーが玉座の両側で起こり、辺りの空気が腐臭に満ちた。
零れ落ちる涙を拭おうともせず、じっとミルバの体を支えていたテオのプラチナ・ブロンドに、その日最初の朝日が砕ける。それと同時に、ミルバの体は、まるで土くれの人形のように、テオの両腕を擦り抜けて転げ落ち、崩れ落ちていった。
「……」
体がなくなっても、ミルバを抱いていたテオの左手は丸く優しく空を抱いている。そして、その何もなくなった空間に、テオの右手もまた空に浮いている、アシャの短剣をミルバの体に深々と突き立てた形のままに。
朝日が『紅の塔』の中に差し込み、部屋を明るく照らし出していく。
テオは小刻みに体を震わせ、やがて、短剣を取り落とした。両方の掌を顔に当て、押し殺した泣き声を立て始める。
「……」
アシャは気配を乱さない静かな動きでテオに近づき、床に落ちた短剣を拾い上げた。泣き続けるテオを見つめ、厳しい顔で剣を収めながら窓辺に近寄る。
美しい朝焼けが広がっていた。
空は聖堂の大伽藍のように神々しい厳かな輝きをたたえ、生きとし生ける者全てに祝福を与えようと両手を広げているようにも見える。雲が一切れ二切れ、空の端を彷徨っている闇の子のように、頼りなく浮かんでいた。
地上に目を転じると、すでに屠られた人々の屍の赤黒い泥の流れは、土と砂に吸い込まれ始めていた。
だが、その中に『運命』らしい姿はほとんどない。『狩人』が獲物として持ち去ったのだろう。
(ミネルバらしい)
アシャは皮肉な笑みを浮かべた。
(喜々として死を弄ぶ)
いやそもそも、この世界の成り立ちこそが、命を弄んだゆえの所行の結果ではないのか?
吹き込む風に乱れる前髪に、アシャは目を細め、
「……?」
ふと、何かに呼ばれたような気がして振り向いた。
「!」
凍りつく。
『白の塔』の基底部に、いつの間にか黒い影が群がり寄っている。
閃光のように、イルファと合流した時の会話が思い浮かんだ。
『あんまりうざいから、少々脅しをかけといたぜ』
自慢げな口調。
「まさか」
「アシャ?」
まだ涙声で、それでも流れた涙だけは何とか拭き取ったテオが、アシャの変化に気づいて近寄ってきた。
「あれ、は」
同じように『白の塔』を見やって固まる。
「テオ…残してきたのは何人だった?」
こちらに全て囲い込めるはずだった。
「確か……10数名…」
「兵は!」
声が叩きつけるように強くなってしまう。
「5名です!」
恐らくはミルバも馬鹿ではなかったのだ。イルファの脅しに何が潜んでいるのかを考えていた。そして、アシャ達の攻撃が近いと察し、先手を打つべく兵を回していたのだ。
アシャ達がこちらに迫る間、手薄になるだろう本拠地を叩くべく。
体中から血の気が引いた。