9
街がいきなり目を覚ましたようだった。
のろのろと家屋から這い出して来る亡者のような顔つきの、様々な年齢の無数の人間が、イルファ達にゆっくりと迫りつつあった。
「おい……こいつぁ…」
イルファは一渡り周囲を見回して目を細めた。べろり、といささか獰猛な仕草で唇を舐める。
「ちょっとすげえな」
「すげえ、ではすまん…」
すぐ側に居たテオの配下の1人、ゲルトが震え声で呟いた。
「こんなのに勝てるわけはない。やはり無茶な策だったのだ。王子は客人に誑かされたに違いない」
「アシャの悪口は聞きたかねえな」
イルファはじろりとゲルトをねめつけ、さりげなく剣の向きを変えて見せた。
「アシャは言ってたんだ、押さえはいらねえ、とっておきの『狩人』が来るからってな」
「で、でも、その『狩人』はどこに来てるんだ」
同じくテオ配下、キートが引き攣った緊張した声で囁いた。
じわじわと包囲を縮めてくる人の輪の中から、誰か一人でも飛びかかってくれば最後、それを皮切りに、わっと総勢が襲いかかってくるのは目に見えている。
「見渡す限り敵だぞ」
キートの声が泣きそうになっている。
「今はな」
イルファはあしらった。
「どこにも味方はいないじゃないか」
「まだな」
「いつ味方が現れる?」
「そのうちな」
「どこにだ?」
「ええい、うるせえっ!」
イルファは切れた。
「他力本願しかできねえ奴が、ごたごた抜かすんじゃねえ! そのうち、てめえの目ン中にまで味方って奴を突っ込んでやるから、ちったあ黙れっ!」
「仲間割れをしてる時じゃない」
黙っていたケジェが体を固めた。
「来るぞ!」
ケジェの声が消えるか消えないかで、人垣は瞬時に崩れた。狭い湾に押し寄せてくる大きな波のように、イルファ達めがけて押し寄せて来る。
「でえいっ!」
イルファの剣がうなりを上げて、空を切った。数人が旋風に巻き込まれて吹き飛んでいく。だが、それも数回功を奏しただけ、圧倒的な数の不利はイルファだけでは手に余る。
「あっ!」
ケジェが片腕を押さえてよろめいた。キートが悲鳴まじりに叫び声を上げながら剣を振り回している。
「うわあああっ、なんだっ、なんだっ、これっ!」
剣が当たって致命傷を負った敵が、次々とずるずるとした液体状のわけのわからぬ代物となって崩れ落ちるのに、誰もが次第に恐慌を来たし始めていた。
「人間じゃないのか? 人間じゃないのか! 人間じゃないのかあっ?!」
叫びながら、その声でますます怯え追い詰められて、キートは両目を開き切ったままだ。ゲルトが傷を負って、基底部の入り口に転がり込んだ。必死に無言で入り口を護り耐え抜いていたトラプが、やはり無言でがくりと膝をつく。
「んなろくそおっ!」
さすがのイルファにも焦りがでてきた。いくらイルファが『丈夫』でも、五体バラバラに切り刻まれては『復活』できない。
「仕方ねえっ!」
イルファは喚いた、
「こうなったら、俺は愛に死んでやるっ!」
キートがイルファのことばに、さらに我を失った顔で暴れ出す。
もう構わない、どこからでも何でもこい。
そう身構えたイルファだが、そのとたん、ふいと、雪崩落ちるように襲いかかってくる人波の彼方に、何か妙にゆったりと揺れ動く白いものがあるのに気がついた。
「あん? 何だ、ありゃ」
飛びかかってきた1人を殴りつけて放り出しながら、イルファはもっとよく見ようと首を伸ばした。そのイルファに誘われて、ケジェが片手を庇いながら同じ方向に目をやり………呟いた。
「何だ……あれは?」
それは、白い馬だった。
王侯貴族の持つ、よく手入れされた毛並みと見事な体格の美しい馬だった。
だが、その顔には中央に大きな目がたった一つしかない。
まるで宝玉のような眩いほどの金色の瞳。
豊かなたてがみを乱し、風に白い炎のように尾を舞わせながら、人波を石くれのように蹴散らして、みるみるこちらへ駆け寄ってくる。
乗っているのは、どう見ても、薄水色のドレスを着た女性だった。泡を吹きながら猛々しく走り寄ってくる馬を軽々と制し、この世のものとは思えぬどこか淡い幻のように、けれども確かに敵を冷酷に散らしながら、彼女はどんどん近づいてくる。
「ぐくぅあっ!」
「ぎゃっ!」
「ひいいっ!」
怒号と悲鳴が女性の進行に従って辺りを圧倒し始めた。
イルファ達を襲っていた敵も、一体何事が起きたのかと背後を慌ただしく振り返る。
響き出した音には、聞くに堪えない、何かを踏みつけ踏みにじりへし折る音も混じっていた。絶叫と胸が悪くなる粘液質の、あるいは液体状のものが次々とぶちまかれていく音。
それらを全く気に止めた様子もなく、馬を進め続ける女性の長い髪を、風がふわりと吹き払った。星明かりがその顔をためらうように照らし出す。
「ぐ」
「むぅ」
イルファ達の喉から妙な呻きが上がった。
無理もなかった。
艶やかな髪に取り巻かれた女性の顔には、あるべき肉がなかった。卵形の美しい輪郭の中にあったのは骸骨以外の何ものでもなかった。ぽっかり開いた眼窩からは今にもウジ虫が零れそうだし、白々とした骨の肌に剥き出された牙のように並ぶ歯が、星明かりにぞっとするような光を放っている。柔らかさなど微塵もない顔の造作には、残酷な冷笑しか感じられない。目と鼻があるべき位置に開いた穴に潜んだ闇からは死の臭いがした。そして、人間を踏みにじり引き潰すように暗黒の彼方から一つ目の馬に乗って駆けて来る姿は、それでも胸を喰い尽くすような圧倒的な美があった。
『目を閉じなさい』
突然、辺りに威圧的な声が響いた。中空にいきなり弾けた火花のように、耳を貫き脳髄を痛めつける荒々しい力を思わせる声だ。
『私の今宵の相手はそなた達ではない。もっとも、目を焦がされ、その身を私に差し出そうというなら、あえて拒みはせぬが?』
死の国から吹く風も、これほどのおぞましさと陰惨さを含まないだろうという声音だった。
「う、うあ」
慌ててキートが目を閉じる。イルファも急いで目を閉じた。
理屈ではない、剣士としての直感が、対抗出来る敵ではないと教えたのだ。
それでも、視界を閉ざす寸前、イルファは女性の手から次々と金の光球が放たれ、敵を呑み込み打ち倒し、消し去るのを見た。女性と面と向き合った者達が絶叫して目を押さえたかと思うや否や、ある者は溶け、ある者はいきなり炎を上げて燃え上がり、崩れ落ちていく様も。




