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軽く唇を噛む。こんな時にと思う気持ちを裏切って、アシャの胸の奥でちり、と小さな炎が身をよじる。
(俺には…?)
だが、その感覚も一瞬だった。
背後から戦闘の気配が迫ってくる。スートとネルがかなり手こずっている。
「では、それを持って行け」
黒焦げになった大男の死体の背中にまだ突き立っている短剣を指差した。
「それなら、ミルバにも『効く』」
『効く』のことばに、テオは改めて敵を思ったのだろう。側に倒れている男の焦げた死体に視線を泳がせた。すぐに振り切るように唇を引き締める。
「……わかりました、アシャ」
険しい顔になって短剣を男の背中から引き抜いた。もうっと白い不快な臭気を立ちのぼらせるそれを、テオは片手にきつく握りしめる。
「お待たせ、しました!」「すみません!」
「行くぞ」
「はい!」
スートとネルが転がるように駆け上がってくるのを合図に、アシャとテオは紅の階段をさらに駆け上った。
途中何度か襲われたが、それに手こずるアシャではない。道を切り開き、護衛の最後の一人を倒し、ついに巨大な金属の扉の前に立った。
「ここに…っ」
はあはあと息を喘がせながら、テオが扉を睨みつける。
「二世!」
「お早くっ!」
背後から迫ってくる足音を聞きつけたのだろう、スートとネルが悲壮な叫びで迫る。アシャはテオと階段、等分に注意を配りながら、横目でテオの動静を伺う。
「ミルバ…っ」
テオが右手に短剣を握りしめたまま、微かに体を震わせながら、扉をゆっくり押し開ける。
広々とした部屋は静かだった。正面に小さな玉座があり、そこを薄布が天幕のように囲んでいる。
繰り返し見て来た『運命』の設営、ことさら聖なるものとして区別するような配置は自らの劣等感を満たすためか。
今、その一番高い玉座に座っているのは、どう見てもテオと同じぐらいの少女だった。天井から吊られている薄布に似た白いドレスを身にまとい、細身の体を玉座に包み込ませ、深く腰掛けている。
そして、少女の両側をまるで守るかのように、兵士とは別の、一見して君主とその奥方とわかる重々しい豪奢な衣装をつけた2人の男女が虚ろな顔で立っていた。
「父君……母君……」
テオの体が硬直した。
わかってはいたこと、けれど、これほどはっきりと両親が敵なのだとは気づかなかった、そういう顔だ。
「待っていたのよ、テオ」
玉座に座っていた少女は、豊かな黒髪を細くて白い指先で、丁寧に後ろに払った。にこりとあどけなく可愛らしく笑ってみせる。甲高い声は、まだほんの少女であることを強調するようだ。
だが、真紅の瞳は、百戦錬磨の剣士のように、正視できないほどの激しい殺意にぎらぎらと猛々しく輝いている。
「これ以上、ばかなことをしないで、テオ」
ミルバは声を低めた。哀しげに眉を寄せてみせる。
「私達の仲間の死に様を見たんでしょう?」
甘く柔らかな囁き声だった。
「惨いこと」
指先で不安がるように、そっと白いドレスの胸元を押さえてみせた。
「怖いわ」
苦しそうにテオの顔が歪む。
「それに……お父様やお母様を、あんな酷い目にあわせたくはないでしょう、テオ? あなたはいつもとてもいい息子だったわよね?」
テオは玉座の側の両親をそれぞれに見やった。ミルバの声に、当然のように深く頷き微笑む相手に、テオの眉が険しく寄っていく。
「辺境の…王者が…」
悲痛な呟きが唇から零れた。
「辺境区に、その人ありと讃えられた、名君が」
掠れた声はかつての日々を懐かしむ。
「その名君を支える賢妃、あなたの知恵に、幾度この地は難を逃れたことだろう」
「テオ」
「嬉しいわ、テオ」
息子に讃えられて微笑みを深める王と女王、その笑みにテオが打ちのめされた顔になる、もう後戻りはできないのか、と。
「あなたさえわかってくれたら、私達は幸せになるわ」
「ミルバ…」
「……その剣を渡してちょうだい、『誰よりも愛しい人』」
「ぼくは…」
階下で起こったどよめきが、テオの掠れた声を消していった。




