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無言で振り返ったアシャは、同じように物陰に身を潜め、地を這うように近づいてくるテオ二世の姿を認めた。
チュニック一枚とマントという軽装、それと知っていなければ、王子には見えないに違いない。だが、肩に留めていた飾り石にも砂をかぶせて輝きを消しているところは、甘そうに見えてなかなかどうして、油断のならない遣い手なのかもしれない。
「彼からの合図は?」
緊張した声で尋ねてくるが苛立ってはいない。その落ち着きぶりに満足した。
「まだだ。だが…」
ふっとアシャは目を細めて嗤った。瞳の中に魔的なものでも漏らしてしまったのか、テオが奇妙なぎょっとした表情になるのに笑みを消す。
「見張りは入れ替わって8人、たいした数ではない」
我ながらひんやりとした声で応じると、テオが眉をしかめて緩やかに首を振った。
「総勢おそらく80名はいるでしょう。ぼくには楽な戦いだとは思えない」
「烏合の衆だ」
アシャは淡々と応じた。
「訓練されていてすぐに反応するのは、実質40人もいるかな。後はミルバの操り人形だろう」
「そのとおりです」
テオは目を伏せた。
「ミルバはぼくにまかせてください。王としての……務めがあります」
少年の顔には苦悩がある。
「……よかろう」
アシャは頷いて、再び『紅の塔』へ目をやった。
風は甘く香っている。平地の花の匂いを恋人達のために吹き寄せてやる粋な風だ。それは、重く立ち竦んだ『紅の塔』を取り巻き吹き過ぎ、中の人間達に囁くのだろう、人の心を取り戻せ、と。
ミルバ、と微かにテオが呟いた。
彼もアシャと同じ事を思ったらしい。
「ん」
ちらっ、と『紅の塔』の基底部で何かが閃いた。
遠くの高空を舞っていた白い鳥がぐるりと旋回して、大きな軌道でアシャの元へ戻ってくる。こんな夜間に飛ぶ鳥はいない。特殊な視力を持つ太古生物クフィラ、サマルカンドの合図だ。
テオ二世の片手が差し上げられ、前へ、と振られた。
夜の澱みをかきまぜていくように、先頭を切ってアシャは動く。走り出しながらさりげなく腰のあたりに触れた手に、魔法のように剣が抜き放たれている。例の金の短剣ではない、人間用の長剣だ。周囲を同時に影が追随する。だが、散開しながら『紅の塔』へ忍び寄る影は全部で10もない。
周囲に男達が従ってくるのを確認して、アシャは速度を上げた。傍目には一瞬闇に溶け入ったように見えるだろう速さ、そのまま一気に塔の基底部入り口に辿りつく。
「よう、アシャ!」
突然、静寂を破り、アシャ達の隠密行動を無にしかねない無遠慮な声が響いた。ぬっと姿を現したイルファが、陽気に笑いながら手を振っている。さすがに、うるさい、と目で制したアシャににやにやしながら、
「こいつで見張りは最後だぜ」
手に掴んでいた男の頭を、どすっ、と近くの壁に叩きつけた。ぶしゃ、と妙な声をたてた相手はずるずると壁を伝って崩れていく。その男の回りにもごろごろと、体格のいい男達が丸太のように転がっていた。
「待ち切れなくて、少々遊んでた」
イルファはふてぶてしく笑った。
「意外に普通だったぞ?」
「俺達の獲物はなしか?」
「あるぜ」
イルファは塔の上へ顎をしゃくった。
「超一級の奴が、塔の王の階に」
これだけ騒ぎを起こしても、配下一人よこしやがらねえ。よほど自信があると見える。
「自分が負けるはずはない、ってな」
ちらりと視線を投げてきたイルファに、テオが弾けるように飛び出し、塔の中へ駆け込んでいく。
「テオ二世!」
アシャの声に振り返ることもないその背中は、一つの名前を声にならない声で叫びながら、見る見る階段を駆け上がっていく。
「煽ってどうする!」
舌打ちしながらイルファを嗜め、アシャは手にしていた長剣をイルファに譲った。
「外から入れさせるなよ!」
「おうよ!」
イルファに頷いて階段に飛び込み、上がりかけて振り返る。
「…すぐに狩人が来るぞ」
「狩人?」
「来たら邪魔をするなよ? 殺られるぞ」
「……味方じゃねえのか」
「『今回』は、味方についてくれる約束だがな」
言い捨てて階段を駆け上がる。
「おいおい物騒だな。……まあ、ここにいた奴ぁ、災難だってことだな!」
(その『ここにいた奴』に自分が入りかねないことは気づいてないな)
「頼むぞ」
ひんやりと笑いながら、アシャは先を急ぐ。視界の隅で、イルファとともに、急を察して群がりよってくるだろう『運命』とその配下を迎え撃つテオの部下達が、互いを守るように身を寄せ合うのが見えた。




