10
時は少し遡る。
「遅いですね」
ナストの不安そうな声に、そうだね、と応じてユーノは湖の方向を眺めた。
「やっぱり無理なんじゃ…」
「大丈夫だって……でも、ちょっと見てくるね」
「はい…」
ナストに笑ってユーノは湖に向かう。
「アシャーっ?」
呼んでみたが返事はない。
「どこへ行ったんだろ」
きょろきょろ周囲を見回していると、ふいに慌てた様子でばたばたと走ってくる娘に出くわした。顔は真っ赤、それでも気になる様子で何度も湖の方を振り返っている。
「っ!」
振り向いた矢先、ユーノと視線があって、娘はなおも赤くなった。
「?」
「あ、あの、私、あの、『ラズーン』の神が降りられたのかと」
慌ただしく呟いて急ぎ足に立ち去っていく。
「『ラズーン』の神……?……ああ」
ひょっとしてそれは、とユーノは思い当たった。
初めてアシャを見たとき、あの煌めく瞳を見たとき、ユーノも思った、『ラズーン』の性別のない神とはこういう存在なのではないかと。
娘の駆けてきた方向に向かっていくと、岸辺に向かって胸近くまで細長い草が茂っている。微かに道がついているのは何度もここを通う者がいるということ、ひょっとすると湖に何かを捨て去る決まった場所になっているのかもしれない。
ゆっくり草をかき分け、どうにかこうにか湖の端に顔を出せる、そうほっとして踏み出そうとしたとたん、ざぶりと水を跳ねて起き上がった姿があった。
金色の髪に水滴が光を放って砕け散る。きららかな日差しを集めて眩い飛沫を艶やかな肩から零れ落とす。整った体つきはまるで特別に作られた彫像のようだ。水に体温を奪われたのか、微かに緊張していた肌が陽光を浴びてみるみるふわりと緩む気配は甘やかで美しい。一瞬何かを考えるように俯いていたが、
「ちっ」
鋭い舌打ちをしてどんどん岸辺へ歩いてくる、その姿は一糸まとわぬ全裸で。
「わ…」
まずい、と思ったのに、体がじんと痺れて動けなくなった。
濡れた髪が雫を滴らせて揺れる。瞬きしている睫毛からも水滴は落ちる。微かに開いた口は何かを呟いているが、次第に赤みを取り戻していく唇は蕾から花開く鮮やかな花弁を思わせる。無駄がないのにしっかりと存在感のある胸板、そのまま引き絞られるような曲線を辿れば張りつめた腹と大胆に動く脚があって。
「……っっ」
体が熱くなってユーノは唇を噛んで必死に顔を背けた。ここにいちゃいけない、そう意識ではわかっているのに、体が震えて言うことを聞かない。
(バカっ、動けっ)
泣きそうになって何とか力が抜けた体を引き起こして逃げようとした矢先、
「誰だ!」「っ!」
舌打ちよりもきつい声が飛んできたと思う間もなく、立ち上がりかけた右手を掴まれ、振りほどく間もなく一気に引き出され押し倒された。
「っ、あ!」
どすっ、と体の上に重くて熱い衝撃、目を見開いて見上げればそこに呆気にとられたアシャの顔がある。
右手を掴まれているだけではない、いつの間にか喉もとに突きつけられた短剣、しかも左手と体はアシャの膝と脚で目一杯地面に張りつけられていて。
(動けない)
アシャがこちらの気配に始めから気づいていたとは思えない。少なくとも湖の中では裸で、最も無防備だったはずなのに、今自由を奪われ命の瀬戸際に断たされているのは、明らかにユーノだ。
(普通の反応速度じゃない)
だが、ぞくりと震えてしまったのはそれだけではない、まだ半分濡れたままのアシャが体に巻き付けているのは上着一枚、前も碌にあわせていないと気づいたからだ。
「ユーノ…」
「ユーノ、じゃないだろっ!」
自分の格好のきわどさに自覚がないらしく、きょとんとした顔のアシャに怒鳴った。
「どけっっ!」
「え?」
「どけったらどけっっ! あんまり遅いんで見に来てやったら、なんだよいきなりこれはっっ!」
こうなったら強気に出たものが勝ちだ。とにかくこの居たたまれない状況を何とかしなくてはならない。
「あ、ああ、悪い、てっきり俺は」
アシャが苦笑しながら剣を外して体を起こしかけ。
「……」
そのままユーノを地面に張りつけたまま見下ろしてきた。
「……何やってんだ、さっさとどけよ、重いだろ、アシャ…っ!」
「水浴びしてたんだよな…だから」
「だからっ」
「すまん、お前まで濡れたみたいだ」
呟きつつ、剣だけを片付け、再びゆっくり体を降ろしてくる。
「アシャ…」
「ほら…」
ぽた、とアシャの髪から滴った雫が、ユーノの唇に落ちたのは、故意かそれとも偶然か。
「唇も」
濡れたから。
「拭わないと、な」
「あ…」
囁く声は低くて優しい。睫毛を伏せて近づいてくる顔、柔らかな熱がじんわりと体を包んでくるのに飲み込まれそうになる。アシャが軽く口を開く。強張った唇に落ちた水滴を吸い取ろうとするように顔を寄せる、次の瞬間、ばさりと合わせていただけの上着がはだけた。
「わあっ」「っ」
悲鳴を上げたのはユーノ、一瞬怯んだアシャの下で体を捻り顔を腕で覆って叫ぶ。
「バカっ,変態っ、露出狂っ!」
「悪いっ」
力の限り詰られて、思わずアシャがユーノの上から飛び退いた。
「さっさと服着ろよっ、品性とか恥じらいっていうのはないのかよっっ!」
引っ掴んだドレスを手に、アシャが近くの木立へ飛び込むまで、ユーノは轟く胸を抱えて必死に踞る。
(熱い、苦しい、息が、詰まりそう)
「ばかっ!」
ばかばかばかばかばか!!
叫び続けて熱を逃がさないと、体が揺れた一瞬にめまいがしそうになる。
「……おい……」
やがて溜め息まじりの声が背後で響いた。
「悪かったって……。そのあたりで許してくれ」
「…ったく、いいかげんにしろよな、大体自覚ってもの…が……」
振り向いて、ユーノはまたことばを失った。
『ラズーン』におわす神は性別を持たないという。
あの娘がそれと見まがったのも不思議はない、薄緑の薄物仕立ての衣をまとい、金髪を羽飾りでまとめ、今の騒ぎのせいだろうか、戸惑ったような表情で苦笑しているアシャの姿は、どこから見ても艶やかな女性だ。表情の中に閃く鋭さが微笑をあやうげに見せる。細めた紫の瞳は揺らめいてユーノの視線を捕らえてしまう。
「どうだ、これで?」
低く掠れた声も女性が誘惑して耳をくすぐる響きに聞こえる、まこと、神々はこの男に性別を越えることを願ったとしか思えない。
「あいかわらず」
綺麗な男だ。
綺麗で艶やかで華やかで。
その相手の側に自分を並べて切なくなった。
似合うわけがない、今も、そしてこれからも。
アシャに似合うのはきっと。
きっと、この姿の側でもやはり同じぐらい光を放つだろう女性で。
セレドに居ても世界にその噂が響く、皇女レアナ、その人ぐらいで。
「……女っぽいよな!」
服の汚れを払い、くすくす笑って保証した。
「大丈夫、どこからどう見ても女に見える! ナストがきっと驚くよ」
アシャなら脱がされかけても女で通るかも。
「………ふぅん」
てっきり噛みついてくるかと思った相手が目を細めて腕を組んだ。
「なるほど」
「なるほど?」
「じゃあ、今なら不自然じゃないな?」
「は?」
「俺は女だし、お前は男だろ?」
「え?」
「ちょうどいい」
薄笑いを浮かべてずいずいとアシャが近寄ってきた。
「『しゃべり鳥』(ライノ)の時のキスを返してもらうか」
「え…っ」
思わぬ突っ込みにユーノは凍った。