雨に唄えば?
兄が消えた。昨日まで隣の部屋にいたはずの兄が、部屋にあった大量のLP・CDと共に消えた。
棚に収まりきらず床に平積みされていたものまできれいさっぱりだ。
それだけでなく私がどんなにお願いしても触らせてくれなかった深い夜の闇のように黒いギター・ブラックファルコンも、買ったばかりだったダブルカセットラジオ(しかもオートリバース付)も、目に付くものはほとんどなくなっている。
私は昨日の晩に借りたCDを返したかったのだがこうなってはどうしようもない。
仕方なく数少ない残されたものの一つであるデスクに腰掛け、ポケットからタバコとジッポを取り出す。その時、机の上に一枚のLPが置いてあるのに気が付いた。
ビートルズの『Abbey Road』安直だがイギリスのENIビルに行ったのかと考えたが、仮にイギリスに行ったとして部屋をここまでする必要があったのか。
わからないが今、私にできることはこれを聴くこと。
そうして兄の部屋に残されたものその二、ターンテーブルとスピーカに、まずは『Abbey Road』をセットする。規則正しく回り始めたビニールに針をゆっくりとおろすとボツボツっとなってしばらく小さなノイズだけが鳴っていたが、冬の朝方の澄んだ空気のようなジョージのギターが鳴り始めた。
そして彼は太陽が昇ってきたと歌う。
ここで私は自分のミスに一つ気が付いたがそのまま聴き続けた。
途切れることなく次々と曲が流れてくるため全体が一つの曲に思える。
この流れは『The End』で終わるが最後に『Her Majesty』でアルバムは鳴りやむ。
『The End』がメンバー全員で録った最後の曲だとされているがアルバムの最後はポール一人。
帰って来いと歌った彼は自らバンドを解散させた。
一度しまったタバコを取りだしたが箱はくしゃくしゃにつぶれ、中身はなくなっていた。
近所のタバコ屋までは少し距離がある。
ベスパのキーは下駄箱の上のキートレイにいつも入れてあるはずが見当たらない。
いやいや兄は自分の400ccもあるクルーザーがあるにも関わらず私の1500ccの原付なんか持っていかないだろ。
ガレージのシャッターを開けるとそこには黒く輝く鋼の塊のみが鎮座していた。
私のベスパは松田優作が探偵物語で乗っていたp150xでバイトをして貯めたお金で初めて買ったもの。
手入れも毎週欠かさずやってきた愛車であり体の一部。
それを奴はこんなでかくてうるさいだけでまともに動かない鉄くずと引き換えに持っていきやがって。
仕方なく、私はタバコ屋にこのくず鉄で走り出した。
『さ〜すらおぅ〜この世界中を〜』
バイクに乗るときはいつも口ずさんでしまう。
だからこんな屑鉄でもバイクには変わりないのだろう。
体全体で風を感じられる。
この時だけは嫌なことも忘れて風になれるきがする。
『なにもそんなぁむずかしいこと〜ひきあいにだされても〜』
バカみたいな大声で歌いながら行き慣れた道をたどる。
角をまがればそこにあるのは目的地・我が聖地石田のタバコ屋。
私はカウンターに向けて三百円を全力で投げ入れる、と同時にラッキーストライクがカウンターから私めがけて豪速で向かってくる。
もちろんこのモーションから捕球(捕煙草?)することはできないためタバコは私の額にその勢いを伝え、地面に落ちる。
一方、婆さんはすでにレジに三百円をしまっていた。これが年の功か。
私は角が潰れてしまったタバコを拾い上げ、早速ひとつ口にくわえる。
婆さんが兄の姿を見たらしい。明け方、葬式に行くような全身真っ黒なスーツで、真っ白なベスパに真っ赤なラジカセを括り付けて音楽を鳴らしながら、私と同じタバコを買っていった。婆さんが行き先を尋ねると兄は嬉しそうに笑って、こう言った。
「虹をみにいくのさ。色がぼやけて混じりあったハイブリッド・レインボウさ」
兄は一度、私を連れてハイブリッド・レインボウを見に行こうとしたことがあった。
あの日は長い雨が続く九月の日。一日中バイクを走らせ、足跡もない山道を登って、たどり着いたのは名も知れない山の頂上。
そこには青い芥子の花が一面に咲き乱れていた。風もなかったが花びらは優しく揺れて呼吸しているようにみえた。
一方、兄は花には目もくれず空を見つめていた。私も兄と同じ方向に顔を上げてみたが、空に雲がまばらに浮かんでいるだけでハイブリッド・レインボウはおろか、ただの虹さえなかった。
私は訝しげに兄を見つめていると兄はそのまま
「Never knows best.ベストな方法なんて誰も知らないよ。」
それだけ言うと私の頭に手をおいて髪をわしゃわしゃとした。そこからはあまり覚えていない。
家の前に見たことがない原付が止まっている。近づいて見てみると富士のラビットだとわかった。
この辺りでは全くみかけないものだ。
いったい誰のものなのだと考えつつ、家に入り、私の部屋に戻ると女性が私の椅子に座っていた。彼女はドアの前に立ち止まっている私を見つめ、抱えている青いベースの三弦を中指で弾く。
低く、うなるような音がひとつ部屋に響く。
「あなた一体何者なんです」
座っている彼女から視線をまっすぐ向けたまま私は問う。
「まず人に名前を尋ねるときは自分から名乗るものではないかね、お嬢ちゃん」
ベースの四弦Eの音が鳴る。
「人の家、ましてや私の部屋にかってに入っていながらその態度は人としてどうなのですか」
彼女は両の頬を膨らませ、私の椅子でくるくる回り始めた。
「私はただ彼に奪われたモノを取り戻しに来ただけ。それさえ見つけたら帰るつもりだったのだけども、これがどうもこうも見つからないどころか彼の部屋には私のモノはおろか、まともにものがありはしないじゃない」
彼女は回転を止め、頬に溜めていた空気を私の顔に向けて吹きかけ、口をとがらせる。
「兄は虹を見にいったそうですよ。」
彼女などもうみていない。着ていたコートをポールにかけながら私は言った。
「ハイブリッド・レインボウ」
彼女がいままでの気の抜けた猫のような声から突然、低く真面目なトーンになった。私は窓の外に顔を向けた。窓の外は薄暗く、風が強くなってきた。しばらくすれば一雨降るだろう。
「雨、降りそうですね」
「雨があがったらみえるかもね。虹」
彼女は私にニヒルな笑みを向けている。
「みえませんよ、そんなもの。みえなかったんだから」
「彼にはみえて少女にはみえなかった、ねぇ」
彼女はその表情を変えないまま言った。私は彼女のつくる表情が不快でたまらなかった。
「なにがいいたいんですか。はっきりいってくれませんか。兄に用があるなら探しに行けばいいじゃないですか」
声を荒げていた。彼女の人を弄ぶような態度が癪に障った。しかし彼女は表情を変えることはなく私に言う。
「へぇ、怒ることできるんだ」
私は彼女の言葉にハッとさせられた。人に感情を向けたのはいつぶりだろう。
いつもは感情を表には出すことはなかった。感情を他人に向けることで起こりうる問題は多種多様でこれらを避けるには感情を出さないことが最善と考えていた。
誰にでも自分の感情を向けて周りにぶつかっていく子供みたいな兄とは私は違う。
「そうだね。彼とお嬢ちゃんでは全く違う。正反対みたい。でも兄は嫌いじゃない、でしょ」
彼女は部屋の壁に掛けられている私のギター・ホワイトファルコンをみつめていた。それは兄が私にかってくれたギター。選んだのは私で兄のものとは真反対の真っ白なギター。毎日、指が切れるほど練習したが兄のようにうまく弾くことができずにいつしかオブジェと化してしまった。兄は私にできないことを平然とやってのけ、私はその姿に何を感じていたか、嫌悪とは全く違う感情。今でもその感情は私の中にある。おそらく兄が消えてもこの感情を完全に消し去ることはできないだろう。
「消せないなら、のり越えちゃえばいいんじゃない」
兄を超えることなんかできるのか。今までの人生の中で兄に一度もすべてにおいて上回ったことなどないのに。
「ゲットバック歌ってみる?」
私は兄に帰ってきて欲しいわけではない。歌ったところで戻ってこない。
「ならお別れするしかないね。お兄ちゃんにさよならしたら、その感情にもお別れできるかもね」
おそらく兄はこの家にはもう戻ってこない。兄の姿を見ることもなく、兄に抱く感情も続くことはなくなるだろうけど、それだけでは完全に別れるには自分で別れを告げること。
「なら、その答えが正しいのか確かめに行こうか」
Let’s see, if that true or not.
彼女はそういうと、キーを指先で回しながら部屋を出て行った。私はうっすらと埃がかぶるギターを手に取り、それぞれの弦を確かめる。どの弦も錆びついてボロボロだ。新しく張り替えなければ。
「いつまで待たせるんだよ。雨降ってるんだから、もうちょい気を使ってくれよ」
彼女には悪いことをしたと思ったが別れを告げるには正装でなければ。
「正装にしては、なかなかイカした格好してんじゃん」
真っ白なモッズスーツにホワイトファルコン。ほんとは私のベスパがあれば完璧なのだが。
「準備ができたなら、後ろ乗りな。時間がないから飛ばしていくからしっかりつかまんな」
私は彼女からヘルメットを受け取り、ラビットの後ろに座る。エンジンの振動が小気味よく伝わる。
と思っていると体がおいていかれるような強い衝撃に変わった。
わずか数秒で原付で出していいスピードをはるかに超え、さらには乗用車の法定速度もぶっちぎっていた。
今までで一番、風に近づいた。
「笑え笑え。楽しかったら笑うんだよ」
彼女の声が風の音の中から聞こえる。私の口元はすでに緩み我慢するのに精いっぱいだったがもういい。
私は力を抜いて彼女ににっこりと笑顔を向け、彼女も私に笑いかける。
心の底から楽しかった。
体に雨粒がぶつかり、音を立てる。風もごうごうと音を立てるがどの音も衝撃も感じるすべてが楽しい。
昔に来た時よりも物凄い速さで目的地の山に着いた。山道には足跡とタイヤ痕が残されており、それは上まで続いている。
兄はこの上にいる。これで兄ともお別れだ。
私が彼女に別れとお礼を伝えたかったがどうもそういう柄ではなかったもので口ごもっていると、彼女は察してくれたのか少し眉間に皺を寄せ、
「私はただ彼に奪われたものを取り返しに来ただけ。お嬢ちゃんを連れてきたのはそのついで」
彼女はすこし笑って
「それに、お嬢ちゃんの決めたことで私は何もしていない。誰かのおかげじゃないぜ、風の強い日を選んで走ってきたのは、君自身だぜ」
「そういえば兄に奪われたものって一体何なんですか」
頂上に向かう道中、私は彼女の事を全く聞いていないことに気が付き、軽い気持ちで尋ねた。彼女は私の問いを聞いて一瞬迷ったように見えたがすぐに話してくれた。
「私も彼も同じものを探しさまようコレクターのひとり。彼は私の大切なコレクションの真っ赤なラジヲを奪ったのさ。ただのラジカセなんかじゃないのはわかるよな。これのほかにゴールドのマリア、ブラックタンバリン、ムーンダスト、そしてアンジェリカの思い出。この六つすべてのエキゾチック・オブジェクトを揃えれば全コレクター垂涎の力が手に入る。しかし、ただ揃えるだけじゃだめ。その六つで音を奏で、ハイブリッド・レインボウの下である唄を唄わなければならない。そうすれば亜空間チャネルが虹の下に通じて、その先にある宇宙に最も近い力を手にできる。だけど失敗すれば亜空間チャネルに閉じ込められ、ロストマンになっちまうかもしれない」
私は話についていけず、ポカンとしていたが彼女は私に構うことなく続ける。
「私もオブジェクトをコレクションして力を手に入れるはずだった。途中までは彼といい勝負していたはずだったんだが、どこでここまで差がついたのか」
理解できていない頭で彼女に問う
「その力で何をするんですか」
彼女はにっこり笑って
「意味や理由なんて後から出てくるものなのさ。まずは行動。とにかくさ、バット振んにゃきゃ話になんないよってこと」
ますます私はわからなくなったが気が付けば頂上だ。
雨と風はとうに止んでいる。
あたりには青い芥子が一面に咲き、風もないのにその花弁を揺らしている。その中に一人、真っ黒なスーツの男が唄っている。
私は一歩づつ踏み出していく。
今日は新しい私の誕生日なんだ。あとから記念写真を取り直そう。
「君のせいでまた彼を見失ったじゃないか」
彼女はそう言いながらラビットにキーを差し込んだ。夕焼けに照らされて彼女のシルエットはオレンジのスライドみたいだった。私は兄に返しそびれたCDを持つ手で服に付いた青い花弁を払い落とす。
「CD返しそびれたんでしょ。一緒に行く?」
私はギターを抱えたまま、ただ立ち尽くし、彼女がラビットにまたがる姿を見ていることしかできなかった。
「やっぱだめー」
私に向いていた視線はゴーグルをつけたことで分からなくなってしまったが彼女の目は正面の空を見つめている。
「君はもう、大人だから」
さよならジュンちゃんと彼女は言って空へとラビットを走らせて行った。残されたのは白いベスパとCD、それにギター。
「やっぱり見えないじゃん」
ひとまず青い芥子の絨毯に倒れこみ、雨上がりに見える幻でも眺めよう。すごいことなんてない。なにも特別なんかじゃない、ただの虹。私にはそれで十分。