ネコミミ少女は発情なんかしないんだからねっ
最近、朝目覚めると、ぼくのお腹の上にはものすごい熱が溜まっている。
へそでお茶を沸かせそうなくらいの高熱だ。
おかげで寝汗も凄くて、毎日寝間着がびしょぬれになってしまう。
すぐにでも洗濯機に放り込んでシャワーを浴びたいのが本音なのだけど、ぼくはじっとがまんする。
「んにゅ……すう……」
ぼくのお腹の上に丸まってぬくぬくと眠りこけている、小さな猫耳娘を起こさないように。
***
彼女がぼくの家にやってきたのは、五年ほど前のことだ。
台風の中、あまりの風の強さに傘をさすことすら諦めていたぼくは、よたよたと道を歩く雨合羽の女の子を見つけた。
こんな暴風雨の中でたった一人、何をしているだろうか。
ともすれば空に舞い上がってしまいそうな小さな幼女の行く末が気になって、ぼくはびしょぬれになりながら後ろからその子を見守っていた。
すると間もなく、ぼくに気付いたらしい幼女がこちらを振り返り、こう言った。
「かっぱ、いりますか?」
幼女は、自分の雨合羽を脱いでぼくに渡してきた。
その下にはぼろきれのような布一枚しか着ておらず、頭の猫耳は寒さでふるふると震えていた。
*
しばらくして、ぼくはまた彼女を見つけた。
夏の嵐は過ぎ去り、秋のもみじも地面に散って、木枯らしが吹き始めた冬の朝のことだった。
幼女は道端に倒れていた。
肌は冷たく、かさかさに乾燥していて、獣耳は伏せていた。
ひび割れた唇からは小さな、本当に小さな呼気が漏れているだけで、医者でなくたって文字通り死にかけていることが分かる。
ぼくは心底不思議に思い、彼女に尋ねた。
「きみは、死ぬのかい?」
幼女はうっすらと目を開け、くすんだ緑色の目でぼくを見た。
誰か分かって、笑おうとしたのだろうか、彼女の頬がぴくりと動く。
「かぜは……ひきま、せん、でした、か?」
「おかげさまで。でも、きみは死にそうだ」
「……そう、です、ね」
一言話すごとに、骨と皮だけになった体から魂が抜けていくかのようだった。
それは、文字通りにそうなのだろう。
しゃべると意外に体力を使う。
彼女は今、命を削って話しているのだ。
「ふむ」
最期に話すのが世間話というのもどうかと思い、ぼくは幼女に聞く。
「何か、思い残したことはないのかい?」
「……」
幼女は胡乱げに瞬きをし、目を落とした。
視線の先の、冷たく凍り付いたコンクリの道路に、何かに踏み潰されてぺしゃんこになった虫の死骸が張り付いている。
不意に何かが腹の底から込み上げてきたように彼女の顔が強張り、声に力がこもる。
「……、おこた」
「? こたつのことかい」
「あった、かで、ふわふわで…………おかあさんの、おしるこ……また、たべた、かっ」
ふ、と糸が切れたように幼女の瞳から光が消え、それきり動かなくなった。
***
さわさわと、頬のあたりにむず痒い感触を覚え、ぼくは目を開けた。
「はわっ……!」
視界に映った何かが慌てた声を上げ、ぼくのお腹の上をのしのしと這い回る。
どうやら、ぼくはまたしばらく眠ってしまっていたらしい。
瞼にのしかかる眠気を払い、下腹部の方に逃げた少女を見やる。
「すぴー、すぴー」
少女はぼくのお腹の上でわざとらしく寝息を立てていた。
不意に、無性にいじわるをしたくなったぼくは、少女の脇腹をふにっとつついてみる。
「ひにゃん!?」
「きみはいつも寝たふりをするよね。なぜなのかな?」
「にゃ、にゃあんっ! や、やめてください、くすぐった……うにゃー!」
お腹をまさぐったり、脇の下をこしょこしょしたり、首回りを撫で回したり。
ぼくの指の動きに合わせて、少女の体がびくびくと跳ねる。
自慢じゃないけど、ぼくは彼女の弱いところなら知り尽くしている。
「弱点はどこかな? ここかなー?」
「あっ、あ! みみはだめ、ダメですっ……だっ、めぇ……」
「ここか。それそれー」
「ぅ、ぅん……あっ、ん、や、やぁー……」
「それー……」
「にゃ、にゃぁーん……♪」
猫耳をいじり始めると、少女の声が次第にとろけていき、すりすりとぼくの手に顔を寄せてきた。
安心しきった表情で全身を弛緩させている彼女を見ていると、なんだか不思議な感じがする。
なんだこの可愛い生き物。
このまま永久にもふもふしていたいくらいだ。
「……はっ!? ぎにゃー!」
「痛い」
夢の時間は過ぎ去るのも早い。
我に返った少女は、がり、とぼくの指に噛みついた。
結構痛い。寝ぼけて甘噛みされたことはあるけど、今回は割と本気の噛みつきだ。
それほど嫌だったのだろうか。
ぼくはしゅんとなって反省する。
傷は例の力で一瞬で治ってしまったけれど。
文字通り火が出そうなほど顔を真っ赤にした少女は、仁王立ちになってぼくを見下ろしている。
どうでもいいけれど、今日のぱんつはりんご柄のようだ。
「か、かんちがいしないでください。はつじょーなんかしてないんですからね!?」
「発情って……きみ、まだ十歳くらいだろうに」
「ね、年齢なんて関係な……んにゅ―――!」
「痛い、痛い」
げしげしとぼくの頭を踏みつけた後、少女はこたつの中に逃げ込んでしまう。
こたつをめくると、少女はこちらに背中を向け、もふもふの尻尾に顔を埋めていた。
これが反抗期というやつなのだろうか。
その後、おしるこやねこじゃらしで気を引こうとしたけれど、彼女は日がな一日こたつに引きこもったまま出てこなかった。
***
生命活動が停止した幼女の体を、ぼくは家に引き取った。
ぼくの貧弱な膂力でも片手で担げるほど、彼女の体は軽かった。
けど、そう、ひとつ大事なことを言い忘れていたか。
ぼくは医者だ。
正確には「元」医者。
そして、ぼくは医者の中でも少し特殊で、治療に知識も技術も必要としない。
触れるだけで、人の病や、傷や、死さえもなかったことにすることができるからだ。
だからぼくは、普通と違って、医師免許なんて持っていない。いわゆる裏の世界の医者。
諸々の事情があって、今は社会的に存在を抹消されていたりする。
曰く、ぼくがいるだけで医療の世界そのものが崩壊しかねないのだそうだ。
これから先、人の蘇生は二度と行わないという条件で、ぼくは処分を保留とされ、この地図にない小さな孤島に追いやられた。
追いやられたとはいっても、利用価値があると思われているのか、生活するには十分な物資が供給されているので、不自由はしていないけれど。
この島には、そうした人の世界を追い出された異端の者たちがたくさん流れ着いているのだ。
彼女も、そうした「異物」の一人だったのだろう。
「……にゃう」
「ん、起きたかい」
キッチンで小鍋をコトコト煮込んでいると、毛布にくるまったモコモコの物体が部屋に入ってきた。
毛布をめくると、湿気で膨らんだ金髪がぼさっと広がり、夢現の幼女が顔を出す。
頬には赤みが差し、エメラルドの瞳が眠たげにこちらを見上げている。むにむにと頬をつつくと、くすぐったそうにごろごろと喉を鳴らした。
体調は良さそうだ。
ぼくの力は便利なことに、蘇生するにあたって、生命活動に不足した栄養や組織を補填、不要な障害物があれば除去してくれる。
そして、その副作用みたいなものだろうか、その死者の死因――「何が不足していたのか」がうっすらとぼくにフィードバックされる。
幼女の死因は、細菌性腸炎。
お腹の中に、一匹の魚の骨と、発泡スチロールのかけらと、化粧品のクリームがひとかたまり残っていた。
ここから海まで程近い。漂流物のゴミを食べてしまったのだろうか。
彼女は、ひとりになっても生きようとしていたのだ。
「こっちへおいで。ごはんにしよう」
「……ご、はん?」
「そう、朝ごはん。デザートにりんごもあるよ」
右手に鍋を握り、左手に幼女の手を引いて、ぼくは居間に戻る。
この家は、ぼくのためにお偉いさん方が建てたものだ。
水道も電気も通っているし、定期的に補給される物資で衣食住には困らない。
ただ、いくつかある部屋はすべて小さめに造ってもらっている。ぼくがそう希望したのだ。
居間もこたつとテレビを置いただけで、ほとんどのスペースが埋まってしまっている。
「おこた……ふにゃあー」
幼女はふらふらと吸い寄せられるようにこたつに足を入れ、とろけた吐息と共に脱力した。
ぼくは、こたつの上に置いたお椀に鍋の中身を掬って盛りつける。
ほこほこと湯気を上げるおしるこを、幼女はぬくぬく温まりながらぼんやりと見つめ―――やがて目の焦点が合った。
「……おしるこ?」
「そう。食べたいって言ってたから」
こたつに、おしるこ。
いくら冬とはいえ、汗をかいてしまいそうなラインナップである。
どういう反応をするかなと眺めていると、彼女はおしるこを見つめたまま動かなかった。
まるでだるまさんが転んだを仕掛けられた猫のように、じっとおしるこを視線を注いでいる。
「……えーっと」
何だかぼくの方がそわそわしてきた。
そんなに観察されると、こう、いろいろ気になってしまう。
もう少しきれいによそってあげればよかっただろうか。
「あー、久しぶりに作ったから、おいしくできたか分からないけど……」
「これ、たべても、いいんですか?」
「うぇ? あ、うん。どうぞ」
考えてみれば人と話をするのは久しぶりで、ぼくは思わずどもってしまった。
しかし、幼女もおしるこを食べるのは久しぶりなのか。
よりにもよって熱々のおもちに「はぐ!」と大口を開けてぱくついた。
案の定、幼女は「あひゅ!?」と悲鳴を上げて口からおもちを退避させ、こたつの中で足をじたばたさせながら悶絶する。
「……っ! ……っ!」
「で、出来立ては熱いから! ちょっと待ってて……はいお茶」
遅すぎる注意を申し訳なく思いつつ、ぼくは慌てて冷蔵庫のほうじ茶を持ってきた。
いきなりそんな勢いで食べ始めるとは思わなかったのだ。
猫舌ならなお辛かろう。
あまりの衝撃に、幼女の猫耳が「!?」とばかりにひん曲がっている。
「ごきゅごきゅ……ぷう! っふ、ふーっ、ふーっ」
「ゆっくり食べなよ。たくさんあるから」
ほうじ茶を一気に飲み干した幼女は、涙目のままおもちに息を吹きかけ始める。
そんなに慌てなくとも、おもちは逃げたりしないというのに。
ぼくの注意も聞かず、幼女はまぐっとおもちにかぶりつき、
「あぐ、はふっ、もきゅもきゅ、むぐっ……んんーっ!?」
「ほら、言わんこっちゃない」
今度はおもちが喉に詰まったらしい。
尻尾をばったんばったんさせる幼女に、ぼくは二杯目のほうじ茶を注ぐ。
「ごきゅごきゅ、ぶは! ふーっ、ふーっ、はぐはぐはぐ!」
「だから、まだたくさん……」
「もきゅもきゅ、もきゅっ」
一心不乱におしるこを頬張る幼女の顔を見て、ぼくは口を閉じた。
ぽろぽろと、幼女の目からは大粒の涙がこぼれていた。
それは、口の中の火傷が痛んだからだろうか。
懐かしい母の味を思い出したからだろうか。
やっとまともな食べ物にありつけた安心感からだろうか。
ぼくは心底気になった。
そして、気になったことに対して、ぼくは質問せずにはいられないたちだ。
けれど。
その涙は、とても透き通った色をしていて―――素手で触れてはいけないような気がして。
「ぐす。おかわり、ですっ」
「……どうぞ」
鍋が空になるまで、ぼくは幼女の涙を黙って眺め続けていた。